「君の全部を俺にくれないか…」
確かに、そう聞こえた。
その意味を考えるより先に、敦賀さんの手が私の腕を取り、
気付くと抱きすくめられていた。
(えっ?……えっ… えええ!????)
声にならない驚愕。
…というか、人間って多分、本当に驚いた時、全部「止まって」しまうものなんだと気付いた。
なんて、冷静に分析している場合とかじゃなくて…。
思考停止したまま、敦賀さんを見る。
きっと今私はすごく情けない顔をしている。
目が合った瞬間、思わず鼓動がブレた。
(夜の帝王------------!!!)
いっそなまめかしいと言ってもいいほどの美しい顔に、真っ直ぐに見つめられている。
「………ほしいんだ…」
低い声、掴まれた腕の、強い力。
敦賀さんが何を言って、何を求めているのか、わからない。
わからないけれど……-----。
「いやっ」
殆ど反射的に、気付くと身をよじっていた。
強い力で引き寄せられ、抱きすくめられた。
もがくと、もっともっと強く抱きしめられた。
知らない男の人みたいで、こわい。
「やめて下さい、敦賀さん…!」
どうして?どうして?わけがわからないからどうしていいかわからない。
腕の中から逃れようと体をひねると、バランスを崩したところに床に組み伏せられた。
大きなからだ、強い力、敦賀さんの匂い。すごく近い…。
首筋に敦賀さんの吐息を感じた瞬間、そこにくちびるを押し当てられた。
イヤだ、 いや………。
「うそですよね、冗談がひどすぎますっ、こんなのってひどいですっ」
きつく吸われる。その感触に、心臓が暴走をはじめた。
自分の中で、得体の知れないものが、ぞわり…と動いた気がした。
熱い…… 熱くて…------。
「冗談なんかじゃない」
耳元で囁かれて、また頭の奥が変な感じにブレた。
少し体を起こした敦賀さんの、上からふってくる強い視線。
普段の敦賀さんとは全く違う誰か。
夜の帝王だけど、いつもみたいな冗談でも、演技でもない。
視線で焼き殺されてしまいそうに熱くて…
--------私の中に深くとじこめたものを揺さぶるような、怖い目。
「冗談で、こんなことはできない」
敦賀さんの指が、いつか私の唇をいやらしくなぞった指が、ふと顎あたりにそえられて…
気付くと唇で唇をふさがれていた。
(--------------------!!!!)
頭が真っ白になった。そして、キスされているんだ、と気付いた。
敦賀さんが、私にキスをしている。 いつかみたいな寸止めではなく-----。
私が、敦賀さんにキスをされている。 いつかみたいな、冗談ではなく-----。
体が勝手に動いた。いやだ、はなして。こんなことをされたら駄目だ、駄目だよー。
男性というものを、ふいに正面からまともにぶつけられて、私はパニックをおこしていた。
ビーグルの変態に追われた時の怖さと少し似ていた。
よく考えたらあれは昨日のことなんだ。
昨日が変態で、今日が敦賀さん。私の人生、何がどう間違って…------。
でも、気付いてる。私はいま、ショータローのこと呼んでない。
昨日よりもあきらかに、たぶんものすごくどうしていいかわからないこの状態で、
あの時感じた絶望とは違う気持ちを抱いていて、私は自分のそれがものすごく怖くなった。
息苦しくてわずかに口をひらくと、それを待っていたかのように敦賀さんの舌が入ってきた。
(うそーーーーーーーー!!!????)
はじめてなのに、したことないのに。
もがいて、ぶんぶん首を振って、なんとか逃げようと足掻いているのに、
どういうわけか気付くとがっちり敦賀さんに抱きしめられていた。
全身に敦賀さんを感じる。何といつのまにか足まで絡んでいるではないか。
ふれ合っているところから、全身が熱く痺れて…
唇から口内にまで与えられる刺激の甘さにめまいがした。
頭の奥がぼうっとする。
慣れたキス、慣れたしぐさ。
なぜだかふいに、すごく悲しくなった。
叫びだしそうになる。
かれにとってこの行為ははじめてじゃない。
こんなに激しく、噛み付かれて、食べられてしまうのじゃないかと思うくらい乱暴なのに、
重なる唇の柔らかさと吐息の甘さと、
敦賀さんの重さと、きつく苦しいくらいに抱きすくめられるこの熱さを…------。
知ってるのは私だけじゃない。
自分でびっくりした。涙が出てきた。
(なんで????)
それは、こんなにひどいことをされているのだから、
涙のひとつも出てきてしかるべき、と思うけれども。
この涙はきっとそうじゃない、 だからすごく ------ 苦しくて、イヤだ。
ふと、敦賀さんが顔をあげた。
唇をはなすときに、 ちゅ となんだかとても恥ずかしくなる音がした。
上から私を見下ろす敦賀さんの目が、熱にうかされたように潤んでいて、
やっぱりなんだかすごくなまめかしくて、また涙が出た。
「……ひどいことをしていると、自分でも思う」
覗き込んでくる敦賀さんの目。
全てを見透かされそうで怖い、綺麗な目。
お願いします、これ以上入ってこないで-------。
それはほんとに私にとって “ひどいこと” なのに。
恋なんかじゃない、違うのに。
そんな敦賀さんで、私の苦手な『夜の帝王』で、こんなふうに。
「きみはなにも悪くないのに…」
彼はすごく傷ついてるみたいだった。
どうしてなんだろう…。
そして私は、『どうしてですか』と聞けないでいる。
それを聞いてしまったら…
全てが取り返しのつかないふうに変わってしまう、そんな気がして。
「悪くないから………---------めちゃめちゃにしてしまいたい」
そんな物騒な言葉を囁かれているのに、
ふと気付くとあの嵐のような恐ろしさがきれいに消えていた。
重なり合っていた熱がどこかさめていく、
ただふれ合っている部分だけがあたたかくて…。
(ああ、いつもの敦賀さんだ---------)
『いつもの敦賀さん』と、こんなとんでもない格好で
抱き合っているのはかなりの異常事態だけれども、
それでもさっきみたいな、わけのわからない情動に
気持ちが振り回されてしまう恐怖よりも良かった。
「----------------------…」
「………………………………」
敦賀さんが体を起こした。私は、重なっていた体温が失せて、
何だか急に寒くなった気がして、
半ば無意識に胸元をかき合わせていた。
なんだろう…この、喪失感?
そう思った瞬間に、またさっきの恐怖の尻尾を感じて、思わず身震いする。
抱きしめられているあいだに、私の体の中に何かの種が撒かれて、
それが小さく芽吹いてしまった気がする。
それが根をはり、育って、私を内側から変えてしまうような、不吉な予感。
「………行って 」
敦賀さんの疲れたような声。
そうだった、この人は気分が悪くて…休んでいて…。
それなのに、何がどうして、いま、こんなことになってしまったのかわからない。
わからないことを確かめる余裕もなく、
私はただその不吉な予感から逃げるために、立ち上がった。