「君の全部を俺にくれないか…」
気がつくとそう口走っていた。同時に手を伸ばし、彼女の腕を掴む。
あまりに唐突で、思いがけない出来事なのだろう、
彼女の表情はこわばったまま、どこか呆然として、
俺と、自分を掴んでいる俺の手を交互に見やっている。
苦しい。胸の奥で、なにかが焼け焦げる。
「………ほしいんだ…」
『敦賀蓮』の仮面に亀裂が入り、本来の自分が顔を出す。
そう思った瞬間、彼女の表情が変わった。
「いやっ」
俺の手を振りほどこうと身をよじる動きに、思わず頭に血が上った。
逃がさない。
手に力を込めて引き寄せ、抱きしめると、彼女はいっそう激しくもがいた。
「やめて下さい、敦賀さん…!」
バランスを崩し、バスの床に倒れこむ。深く抱きしめ、押し倒した格好だ。
腕の中の細くてか細い、柔らかな体。
倒れたはずみにそらせた白い喉に思わず唇を寄せると、彼女は泣き声をあげた。
「うそですよね、冗談がひどすぎますっ、こんなのってひどいですっ」
必死な訴えを無視してきつく吸う。俺の独占欲をあらわすあざやかな所有印がうかぶ。
目から火を噴きそうに熱い。
俺の行為を、冗談か悪ふざけと流してしまいたい女。
俺のどこかに、それに乗ってこの手を離してしまえば…と思う気持ちも確かにある。
頭の片隅で『敦賀蓮』が必死の形相を浮かべて俺を引き戻そうとしている。
だが…。
「冗談なんかじゃない」
耳元で囁くと、彼女の全身が震えた。信じられないものを見るような目。
「冗談で、こんなことはできない」
潤んだ瞳を真っ向から覗き込み、おとがいをとって深くくちづけた。
反射的にあらがう体をおさえつけて、動きを封じる。
必死に抵抗しているのだろうに、何の痛痒も感じない。
簡単に押さえ込むことが出来るその非力さが、俺の良くない部分を刺激する。
柔らかなくちびるをついばむように、うながすように。
どれだけ繰り返したか…遂に彼女の息があがって、かすかにひらかれた口のなかに
容赦なく無理矢理舌を押し込んだ。
思わず漏れた短いあえぎの耳を打つ甘さに頭が痺れた。
反らせた背を抱きこむように腕をまわすと、全身がすっぽり入ってしまう。
調子に乗って膝を割り、脚を絡めると、体と体がハマってしまったようにしっくりとなじむ。
「----------------!!!」
首をふって逃げようとする顎をきつく掴んで、
初めてであろう深いくちづけを繰り返す。
他に誰もいないバスの中に、お互いの吐息だけがひびいた。
重なった頬に冷たいものが触れる。
ふと顔をあげると、彼女の大きな瞳から涙がぼろぼろと溢れていた。
「……ひどいことをしていると、自分でも思う」
彼女の目を覗き込む。そこになぜか怒りの色はなかった。
ただ、驚き、いぶかしみ、自分の身に起こっている事を理解できないでいるかのような。
「きみはなにも悪くないのに…」
不破への敗北感、それはいい。 俺を本当に苛んでいるのは……---。
俺の存在のあまりにもの小ささ。
この子の中にある、俺の存在の。
そこに誰もいないのならば、耐えられた。昨日までの関係なら、まだ余裕があった。
大体俺は、ここでこんなふうに大事な存在は作らないはずで。
作れないはずで…。
しかし、馬の骨は、名乗りをあげたのだ。
そしていまのところ、俺に勝ち目はどうやら、ない。
体と心がバラバラだ。気持ちだってひとつにならない。
自分の事ながら反吐が出そうだ。
「悪くないから………---------めちゃめちゃにしてしまいたい」
俺がいるのに、俺に気付きもしないで、ただ真っ直ぐに不破を追う君を。
そして俺は唐突に気付くのだ。言葉や行動とは裏腹に、
既に自分が『敦賀蓮』に戻っていることを。
なんて事だ、この期に及んで。
一瞬の激情は去ってしまった。
それほどにこの子の涙は痛くて、詰りも怒りもせずに
俺を見上げるいたいけな姿がいじらしくて。
この子にこれ以上一体何ができるだろう。
傷つけてしまう。それはきっと取り返しがつかない。出来ない。
なんて事だ。これは何だ。 心よりも先に体ごと白旗があがるなんて。
俺は彼女から手を離して、体を起こした。
触れてしまったのに。後輩としてではなく、ひとりの女として。
もう遅いのに。
『冗談だよ』といつものように誤魔化すには、
あまりにも生々しい欲望をぶつけてしまった。
「----------------------…」
「………………………………」
彼女は身を起こすと、胸元をかき合わせるような仕草をして、俺を見た。
かすかに震えてさえいる。
そういえば、彼女はつい昨日、ストーカーに遭遇してひどい目に遭ったばかりなのだ。
自己嫌悪がこみ上げる。忘れていた、自分のことばかりで。
「………行って 」
体をよこにどけて、道をあける。
床に座りこんで低くつぶやくと、彼女ははじめ戸惑うように、
そしてふいにはじかれたように立ち上がって、出口へと駆けていった。
その気配を遠くにきいて……暫時。
窓の外から日の光が差し込む。どこかで鳥が鳴いた。
「………すみませんでした」
彼女が飛び出していった出口付近にいるもうひとつの気配に、
ため息とともにつぶやく。
その人は、バスの中に入ってこようとはしなかった。
「おかげで正気に戻れました……」
あの子の涙を見たのと前後して、かすかにバスの車体を叩く音がした。
さぞ驚き、あわて、困惑したことだろう。
それでも、俺があれ以上の行為に及んでいたら彼はきっと止めに入ったはずだ。
「…敦賀君………」
外から届く、遠慮がちな声は、やはり緒方監督のものだった。
「気分がすぐれないって聞いたから、スケジュールを調整したんだ
午後からは、百瀬さんのシーンを先に撮るから。
敦賀君は一時間くらい後に入ってくれていいから」
「…お世話をおかけします…」
なおも何かを言いかけ、のみこみ、じゃああとで、と言って去っていく気配。
ひとり、残されて…。
そういえば、あそこまでしておいて、
俺は結局あの子に「好きだ」とすら言ってないんじゃないか?
なんとなく呆然とした。
敦賀蓮、おまえはわりと、最悪だ。