監督の気まずそうな表情でカイン・ヒールのその日の撮影が終わるんだとわかる。  
密かに覚悟を決めて兄さんへ極上機嫌(あくまで雪花的に)の笑顔を向けておく。  
 
カットを告げる合図でスタジオのスタッフの98%が表情を歪める。  
『今日も素敵だったわ 兄さん』  
私がカインにハグしたあとは、100%。  
ヒール兄妹が彼らを拒むように、彼らも私たちを拒もうとする。  
 
眼を閉じる前に、柔らかな髪と伏せたまつげがライトに照らされてほんのり光るのが見えた。  
BJの衣装のままこういうことをするのは落ち着かない。  
けれども、かすかにするタバコの臭いが彼は兄さんだと思い出させてくれる。  
外国の兄妹でも普通しない強烈なキス。  
キスに足や腰の力を抜けさせる作用があるってことを、私は実地で知った。兄さんは、本当に加減しないんだから。  
 
公衆の面前で横抱き(お姫様だっこという甘ったるい表現はしたくない)にされても、雪花はおかまいなしに甘える。  
その甘えかたは破廉恥なんてものじゃない。  
公害のごとく危ないカンケイを強調してみせる。  
猫みたいに頬や首筋に何度も頬をすり寄せる妹に、その顔中を撫でまわして応える兄。  
 
確かに二重の牽制にはなるわよね。  
いえ、あの一件(村雨とのダイブ事件のこと)で兄さんが日本語を話せる設定なのはばれてるから新たな牽制かしら。  
とにかく、私だったらこんなヤンマガ兄妹とお近づきになりたくないもの。  
 
ホテルに戻っても演技は続ける。  
この病的なラブラブ兄妹は、絡みついたり、縺れついたりもしている設定だったらしい。  
 
敦賀さんは、私がショータローへの復讐のためにこの世界に入ったことを嫌っている。  
おまけに、アイツ自体が嫌いなんだと思う。  
芝居に徹するべきこの場所でそんなヤツのために取り乱して、私は雪花を忘れてしまった。  
今から思えば、直後に最上キョーコのままで謝罪したのも間違いで、そのあとに相棒(バディ)を続行したいと頼みこんで出された課題がこれだった。  
背景にあっても敦賀さんがこの設定を出さなかったのは、きっと私に経験がなかったから。  
 
『…っ、たまには、兄さんも、脱いで…たらあ…っ』  
何も身に着けない状態で、自分でも見えない場所を脚を広げて晒す。  
それがいまでもからだの血がぼこぼこ煮え立ちそうなくらい恥ずかしい。  
こんな場所を触られるのも、最初は泣いてしまったほど思いもよらない出来事だった。  
触られるとそこからじわじわと痺れるような感じがして、たいして動いてもいないはずなのに、息があがったり全身汗だくになったりする。  
すべてが未知の感覚で、正直いまだに慣れることができない。  
 
慣れたのはからだだけ。  
そこ以外を触られても、すぐにそこから熱いものが伝っていくようになって、シーツを汚さないようタオルを敷くようになった。  
それを嬉しがって、口にすらするなんて。  
恥ずかしくて戸惑う私を心底たのしむような表情をするなんて。  
カイン兄さんは、相当変わり者の設定だ。  
 
 
雪花として導き出したワードに対して、この人は口の端を歪めながら、準備が済んだ場所に容赦なく突き入れてきた。  
カインの言葉の裏に忠告をこめながら。  
 
『裸で抱き合うと、長く愉しめなくなるから嫌だ』  
――君はまだ演技者として未熟なんだから、敦賀蓮(おれ)に近い姿になったらすぐ素が出てしまうだろう?  
 
そう。私はまだ最後まで雪花でいられたためしがない。  
いまだに相棒でいてくれるのは、退かなかった覚悟だけは買ってくれているということなのだろう。  
演技させられるどころか演じることすらも満足にできなくなる自分が情けなくて――  
 
「いあっ…!」  
いきなり腰から抱き上げられて、反射的に抵抗するような声をあげてしまった。  
痛くはないけど気持ちよくもない。未開の場所にあたっている。  
本当に……からだはすっかり慣れている。  
 
『泣くな――そんな表情をする余裕なんて無くしてやるから』  
すでに呼吸を乱す私に、カイン兄さんらしく悠然と告げながら、私のなかの未開の地からなじみのある場所にさっと移動してのけた。  
それだけでからだの奥がきゅうっとなってしまう。  
なんて、恥ずかしい、いやらしい。  
こんな反応を見抜かれていないはずはないけれど、ここで目を背けるわけにもいかない。  
 
『服のことなんか気にならなくなるくらい?』  
再び視線があわさるように振り返りながら誘いかける。  
『ああ』  
 
そして、宣言どおり一気に押し流された。  
 
これは、人間同士が演じるベッドシーンより、動物の成長ドキュメンタリーに出てくる行為に近い。  
今日みたいに両膝をついて後ろから突き上げられているときはなおさらそう感じる。  
 
違うのは、私自身が演じていることで、映像からでは絶対にわからないような生々しさが迫ってくること。  
こすりあげられるたびにびりびりとはしる衝撃。  
ローテンションを取り繕う余裕なんてすでにない。絶対に雪花にあるまじきへんな顔をしているのに、愛おしげにみつめられて、なおさらいたたまれない気分になる。  
空気まで巻き込む激しさで肉を擦れさせる音。粘ついた液体で濡れているから痛いとは感じないけれども、こんな音が出てくるのは恥ずかしい。  
 
拘束が強まったと思ったとたんに、口づけられる。  
口内に入れられた舌をまさぐると、アルコールの残り香がツンと鼻にしみる。  
ただでさえ、息があがっているのにうまく呼吸できなくなる。  
そこからさらに、ぜはぜはと喘ぐ段階すら過ぎて、咳が混じるくらいに舌を交わしあう。  
獣じみているなんて、動物がキスなんてするはずもないんだから、おかしな言いかただけど。  
呼吸することより、距離をつめあうことを優先してキスを続ける。  
 
マトモな人間のすることじゃないだろう。 でも、とても彼ららしい。  
膝を立たせることすらできなくなってくるほどに激しい行為。ただただ、ぐちゃぐちゃに繋がりあって縺れあって。  
 
熱い。上から握られた指も、重なる唇も、布を隔ててのしかかられている体躯さえも。  
この人の吐息も鼓動も皮膚ごしに感じる。近すぎる距離。  
 
『もっと…欲しがって…』  
声に目を向けると熱に浮かされたような瞳とかちあう。  
甘くかすれたテノールが不可解な課題を囁いてくる。  
 
こんなにすきまなく兄さんの存在に満たされてこれ以上何を求めろというのだろう。  
こんなにもカインらしい愛の演技を前にして私はどうすればよいのだろう。  
 
 
こうして絡みあっていると、衣装に染み付いたタバコの匂いに違う香りが混じってくる。  
かすかな苦味と酸味を帯びた体臭。暴力的なまでに私を揺さぶる甘さを秘めた匂い。  
ああ、この人自身の香り、だ。  
 
「あっ、も…もう、だめぇ…」  
だめ、だ。また、雪花でいられなくなってしまう。  
 
確かに肌を直接重ねることなんてできそうにない。  
この人の存在は、こんなにも暴力的に私を侵す。  
 
「怖い…こわいの…っ! なに、も…っ! わからっ…わかんなくなっちゃウウッ!!」  
『ああ…それでもいい』  
翻弄される私のからだを兄さんが繋ぎ止める。  
 
「ごめ…っ、ごめんなさい…ア、わた…私イッ…甘えてばっか…アアッ!!」  
『いくらでも甘えてかまわない』  
 
ごめん。ごめんなさい。  
甘えているのは雪花じゃないの。  
 
抱きついて。これ以上はないくらいに密着してても足りないとばかりに深い接合を求めてしがみついて。  
なかに放たれるのを感じながら、いつものセリフをきく。  
 
『愛してる…愛してる…!』  
カインとして、言わなければならないセリフなのだろう。  
同じワードをかえすべきだ。雪花だったら、可愛らしく笑いながら言うべきだ。  
 
でも、この禁句を口にしても雪花になれなかったら?  
芽吹きかけている感情を、この人に見抜かれるかもしれない。  
 
『最初からだな…』  
呆れた様子で呟いているのに、そんなときの私は絶望どころか悔しさでさえ感じることもできないまま、繋がったところからの刺激に呑まれている。  
 
ここまでしてくれる敦賀さんに対して本当に不義理な話だけど、後輩として謝ること自体が演技の特訓から逸れることになるから、私は雪花であろうとする。  
 
 
“so sweet...(可愛い……)”  
他の女(ひと)だったら魂まで引っこ抜かれそうなほど神々しい笑みを浮かべて兄さんが触れてくる。  
額や頬、顔中に優しくキスをしてくる。小さな子供をいたわるように私のからだじゅうを撫でさする。  
 
“I'm losing control... I'll wanna get it on with the remains of you.(どうしようもない…君を壊すことになっても抱いていたい)”  
何度も肌に吸い付いて、普段のローテーションぶりからは想像もつかないほど熱い声で愛の言葉を囁いてくる。  
 
『ア…兄、さん…』  
そう口にするのが精一杯の抵抗で、私は一度抜けてしまった雪花を取り戻すことができない。  
そう。これが精一杯。  
もしも、日本語で愛を囁かれたなら、私は、決して呼んではならない名前を口にしてしまうだろう。  
 
“Let me hear your beautiful song. Be my only singing bird.(啼いて。もっと、俺だけを感じて)”  
そのうちに、本当に、何もわからなくなってしまう。  
英語どころか言葉にすらならない奇声しか出せなくなって、私はいつもせっかくの敦賀さんの好意を無にしてしまう。  
 
この撮影が始まったころ、敦賀さんはものすごく不安定だった。  
それはふとしたことで敦賀さんが消えてしまうのではないかと思うほどに。  
けれども、今は堂々とBJを演じていて、私の役目は食事のサポートだけに戻った。  
 
それなのに、雪花が抜けても、私の頭からあの人が抜けない。  
ふとしたことで、あの人の存在がフラッシュバックする。  
 
 
独りで眠るオフの夜中に、つまらないコール音が記憶を喚び起こした。  
私を小バカにする声。制御できない私を解き放たせる声。  
 
――どうせ他の女と同じような事になる  
「違う! 私はあの人と愚かなバカップルがするようなことをしてるわけじゃない! まして、楽しんでなんかない!」  
「あの兄妹の普通が病んでおかしいだけなのよ!!」  
 
鳴りやまないコール音。できることなら電源をオフにしてしまいたい。  
 
アイツに似合わない陰気さで吐き捨てられた言葉が最悪のタイミングでよぎる。  
――おまえがあんな男を利用できるはずねえだろ。してると思いあがって骨の髄までしゃぶられてんのがオチだ  
 
「違う!絶対に違う!!」  
真っ白になるころに見せる神々しい笑顔も、挫けそうなときに優しく抱き締めてくれる腕も、兄さんのもの。  
だって、カイン・ヒールのベースは敦賀さんなんだもの。  
未熟な私に演技の指導をしてくれてるだけ。  
それ以外の意味なんてない…あるはずがない!!  
 
独りで寝る夜が、怖いと思うようになった。  
私のなかにいる愚かな私が、あり得ない妄想で結論を導き出そうとするから。  
愚かな私は、あの人と二人で過ごす夜の意味を歪めようとする。  
 
カインが雪花を求めている演技だけじゃない。  
敦賀さんが、私を求めている。  
 
そんな愚かな夢を抱かせようとする独りの夜が、怖くて。  
そう、だから、独りの夜はいつも。  
あの人との夜を待ちわびる。  
 

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