なんてことをしてしまったんだろう…私は。  
無理矢理だった行為のその先を求めて、想いをぶちまけてしまった。  
そして…強引にねだった私に、敦賀さんはやさしかった。  
敦賀さんの体温を直に感じて…あんなにも幸せに思うなんて。  
初めて名前を…呼ばれて、もう何もわからなくなった。  
見つめられて、奥までとろけそうなキスから始まって。  
今も残る唇から敦賀さんと繋がった場所までの感触。  
敦賀さんが、私に、してくれてる、と…思ったら。もう…。  
 
けれど、今思うと…やっぱりとんでもないことをしてしまった…。  
敦賀さんは…なんで私を抱いたんだろう。  
自分の気持ちも、はっきり説明はできないけど、  
敦賀さんの気持ちはもっとわからないよ…。  
終わった後、時間が迫っていた敦賀さんは  
ぐったりしていた私の後始末をしてくれて、ツナギを着せて、  
ごめんね、と、キスをひとつ残して慌ただしく出て行ってしまった。  
私は見送ることしかできなかった。  
そして、あっさりと身体が離れていくのが…寂しくて、苦しくて。  
 
どうすればいいんだろう?  
あれから敦賀さんには逢っていない。  
…逢いたい。でも、逢いたくないと思う私もいる。  
ゆるゆると堕ちていくようなことにはなりたくないのに。  
それでも、敦賀さんのそばに…いたい。  
なんてわがままで…自分勝手なんだろう。  
拒絶されたくなくて、結論を先延ばしにしようとしているだけ…。  
 
身体の下で、息をつく彼女を見て、初めて冷静になった。  
彼女と身体を繋げた喜びよりも  
…後戻りできない道へ迷い込んだようなときの焦燥感、絶望感、  
そんなものがじわじわと心を侵食していた。  
 
駆り立てられた欲情、突き動かされてしたことを悔いて…口から出た謝罪。  
だからといって、許されるわけもない。  
君に…本当に酷いことをしてしまった。  
自分の欲望から、駆け引きに持ち込んで強引に君を手に入れた。  
あんなことを口に出させるなんて  
…女の子にしてみればどんなに恥辱的だったことだろう。  
君にさせたことを思えば…自分の満足感なんて…。  
 
どうせ気持ちまでは手に入らない、なんでそんなことを思ったんだろう。  
大切にしたいと思うなら、自分の想いを伝えることから始めるしかないのに。  
そういう存在を作るまいとしていた、その隙にするりと入り込んできた  
素直で真面目で努力家の後輩…思い出の中の女の子―…。  
あんなことをした後で…君はまだ俺に向かって微笑ってくれるだろうか。  
君のことが誰よりも大切で、愛おしい、ただそう思っただけなのに。  
 
どうかしてたんだ。…いや、今でもどうかしてる…。  
俺が施した行為に見たことも無いほど乱れる君が  
…目の前をちらついて離れない…。  
 
「あ、キョーコちゃんだ、キョーコちゃ〜ん」  
事務所内を社さんと2人で並んで歩いていると、  
つきあたりの廊下を横切る彼女を見つけた。社さんが彼女に近寄っていく。  
「あ、こ、こんにちは」  
彼女は一瞬ひるんだ様子を見せながらも、こちらに向かって深々と頭を下げる。  
ひるんだ、というよりは怯えた顔。まるで…あの時のような。  
 
「やあ…元気だった?」  
自分の口をついて出る白々しい挨拶じみた言葉に吐き気すら感じた。  
…彼女が気にするかもしれない。  
無理をして表情を作ってみた。いつもどおり。それすら中途半端に思える。  
にこやかに屈託なく笑う君は…平気なのか…?  
 
「はい、おかげさまで。敦賀さんもお忙しそうですね」  
「そうだね…毎日こんなもんだから、あんまりそうも思わないけど」  
「いやー、お前は十分に忙しいよ、それよりキョーコちゃん、  
 キョーコちゃんもぼちぼち仕事きてるんだって?」  
「あ、や、そんな大したことじゃないんですけどね、でもすごく嬉しいです」  
「DARK MOONからまた新しい仕事がくるかもね〜」  
 
今さら先輩面して何かを言うこともできない。  
あの日の俺のように、そ知らぬ顔をしている彼女を見るたびに  
自分のしたことの残酷さを思い知らされるようで…自業自得だというのに。  
社さんと彼女の会話をぼんやり眺めて時が過ぎるのを待った。  
 
「それじゃ、失礼します」  
気がつくと、彼女がそう言って離れていく。  
呼び止めようとして…やっぱりできない。  
明らかに様子のおかしい俺を、社さんがじっと見つめていた。  
「お前…なんかおかしくないか?」  
「な、何がですか」  
「お前というよりも…キョーコちゃんもだけど、ほとんど話なんかしてなかっただろう」  
「そんなことないですよ、だいたい向こうもこっちも移動中じゃないですか」  
ごまかせるとは思えないけれど、動揺を悟られまいと笑顔を作る。  
話をしなかったんじゃなくて、できなかったんです…。  
 
「早く行かないと遅れますよ」  
なおも訝しがる社さんを促して、再び歩き出す。  
今は…何を言おうとしても多分ダメなんだろう。  
自分でも自分の感情を説明できないくらいだ。  
ただ、何もなかったことにはしたくない。  
許してもらえる…そんな日が来るかどうかもわからないけれど。  
 
同じドラマに出演しているとはいえ、  
現場でドラマに関係ないことをおおっぴらには話せない。  
あくまで、役者としての…嘉月と未緒としての話題くらいしか…。  
それ以外で偶然に出逢うことなんてなくて。  
だからすごくビックリしてしまった。  
声を掛けられて、あのタイミングで逢うとは思わなくて。  
逢いたい…と思っていたから、余計に。  
 
でも…敦賀さんの…様子がおかしかった。  
それは多分私もお互い様だけど…でも。  
挨拶をしても、まともに目も見てもらえなかった。  
敦賀さんが気にしてるといけないと思って、  
無理に笑ってみたりしたけど  
それすら見透かされてた気がする。…だから?  
どうしよう…罰があたったのかな…。  
胸の奥がぎゅうっと締め付けられて、涙がこみあげてくる。  
 
…あんなふうに、無関心を装われるのが一番辛い。  
恋人同士でもないのに、忘れられない…なんて、  
まるで身体目当てみたいなこと。  
呆れてたんだろうな、敦賀さん。  
もう、普通に話したり、できないのかな。  
これからまだまだ教わりたいこともたくさんあったのに。  
…なかったことにされたとしても…そばにいられるんだったら。それでもいい。  
それが敦賀さんの信頼を失うようなことをした私への罰なら…。  
 
さっきの態度は自分でも本当に酷かったと思う。  
でも…あんなことをした後で知らん顔で  
話しかけるなんてできるわけがない。  
それは、とうに実証済みじゃないか。わかってたことだ。  
俺は…自分の罪と引き換えに、  
彼女と言葉を交わす資格を奪われたのかもしれない。  
 
社さんが声を掛け、俺たちの姿を認めた瞬間の彼女の表情は、  
明らかに怯えたものだった。  
 
ドラマ撮りもスケジュールが必ずしも合うわけじゃない。  
同じ日に撮影があったとしても、現場では人目も憚られて話すこともできない。  
彼女の顔を少しでも見たくて…時間を縫って撮影現場に寄ったこともあった。  
君はいつも微笑んでいて、その光に触れたくて…。  
でも、俺の存在が彼女にあんな表情をさせるなら。  
…もういっそ顔を合わせなければいい…とすら思えた。  
こんな状態でカメラの前に出て、仕事ができるんだろうか。  
自分に愛想を尽かしてしまいたい。…そんな気分だ。本当に。  
ふ…とっくに尽かしてしまっているだろう?  
彼女の手を取ったときに。…いや、最初に触れたときに―…。  
 
「キョーコちゃーん、6番テーブルにこれ持っていって〜」  
「はーいっ」  
久しぶりに仕事が早く終わった日。  
いつもいつも手伝えるわけじゃないのでせめてこんな日くらいは、と思って  
私はお店に出ることにした。  
さすがにまだ芸能人だと気づかれたことはないけど…  
そのうちお手伝いできなくなるかもしれない。  
それまでは…行くあてのなかった私を嫌な顔ひとつせずここに住まわせてくれた  
大将と女将さんのためにも、なんとか役に立ちたい。  
 
敦賀さん達と別れたあと、ラブミー部に依頼された仕事を終えて帰宅したら。  
「あら、元気ないねえ、お仕事で何かあったのかい?」  
さすがに女将さんは鋭い。どうしてわかってしまうんだろう。  
悩みをそのまま打ち明けることはできないけれど…。  
…かいつまんで話してみようか。そう思って、話を聞いてもらった。  
 
尊敬する人に…嫌われたかもしれないんです。  
 
私が、悪いんです。信用を損なうようなことをしちゃって…。  
話をしたいんだけど…どうしても…身構えてしまって。  
それは多分相手の人も同じじゃないかなって…  
嫌われたなら、それも仕方ないと思えるんですけど…  
本当は前みたいな関係に戻りたいんです…ダメかもしれないけど。  
どっちにしても、このまま、っていうのは耐えられそうにもなくて。  
 
肝心なところを伏せて話しているから、これじゃあ何が言いたいのか  
私にもよくわからなくなってしまった。  
でも、女将さんは、たどたどしく話す私の言葉をちゃんと聞いてくれた。  
「そんなことがあったんだねぇ…でもねえ、キョーコちゃん」  
そしてゆっくりと諭すように話し始めた。  
 
話を逸らしたはずなのに、今日は社さんの追撃がいつもより厳しい。  
バラエティのトーク番組の撮り、始終上の空で、表情が硬かっただろうこと。  
他の出演者やスタッフには気づかれていないと思っていたが、  
この人にはとうとう隠し通せなかった。  
ここに来る前に、彼女に逢ってしまったから、なんだろう。  
カメラの前に出れば、いつもどおりに、  
なんていうのは今の俺の前ではただの幻想に成り下がってしまった。  
 
「今日のお前はダメだ。カメラの前に出ても「敦賀蓮」になりきれてないじゃないか」  
そんなことは…と言いかけて、やめた。まったく彼の言うとおりだったからだ。  
「さっきも変だったよな?…お前とキョーコちゃん、一体何があった?」  
「…あの子は関係ありませんよ」  
「嘘つけ」  
 
スタジオの壁を背にして、社さんと向かい合う。  
この人はやっぱり俺よりも大人だ。  
俺が、自分では処理しきれないことを表に溢れさせた瞬間に敏感に感じ取ってしまう。  
確かに俺をマネージメントしているからこそできることだ。  
だけど、全てを話すことなんかできるわけがないじゃないか。  
自分で乗り越えなくちゃならない。  
社さんにも、彼女と同じくらい軽蔑されたくない。…幻滅されたくない。  
「言いたくなかったらそれもいいけど…  
 蓮、お前自分が今どんな表情してるかわかってるか?」  
「…ええ」  
 
苦し紛れに呟く。わかってる。そんなことは自分が一番。  
「なら、もう何も言わないよ。自分でわかってるなら、なんとかできるだろ?お前は」  
社さんの声がとても遠くに聞こえる。それ以上はもう聞いてこようとしなかった。  
突き放された…んじゃないだろう?  
理由を話すことができないのだから、もうこれ以上追求されたくなかった。  
なのに、なんでこんなに身体中から血の気が引いていくんだ?  
見捨てられたような気分になる?  
誰でもいいから、誰かに何か言って欲しいからじゃないのか?  
 
そうだ。  
 
言って欲しかった。  
 
悔やんでいるのなら、やりなおせばいいと、…肯定して欲しかった。  
結果を知りたいのなら、前に踏み出さなきゃならない。  
そしてその後がどうなろうと、俺に選択権はないんだ。よく、わかってる。  
 
やりなおさせて欲しいなんて…本当はそんなことを言う資格すら  
俺にはもうない。  
彼女に…許してでももらえないかぎり。  
 
「キョーコちゃんは、その人のことが好きなんだねえ…」  
女将さんは、私の話を黙って聞いていたけれど、そのうちゆっくりと  
私に言い聞かせるように話し始めた。  
私は…「尊敬する人」を、男の人だとも女の人だとも言わなかった。  
女将さんも性別を関係なしに考えていてくれてるんだとは…思う。けど。  
好き…?  
「どうでもよかったらそんなに悩みやしないよ、そうだろ?」  
好き…。  
「キョーコちゃんが、嫌われたと思い込んでいるだけじゃないのかい?」  
そう…だけど、そうなっても仕方ないことを私は…。  
「ねえ、キョーコちゃん、自分で考えてるだけじゃあどうにもならないこともあるんだよ」  
「女将さん…でも、もう話なんて聞いてもらえないかもしれない…」  
「がんばったぶんだけ、神様は結果をくれる。  
 それが、キョーコちゃんの望むものでなくてもね」  
そうだ、私はずるい。  
あのままうやむやにして、見た目だけでも元通りになりたいと思ってる。  
それが…間違ってることもよくわかってる。敦賀さんを失うのが…怖くて…。  
「大丈夫、キョーコちゃんがそんなに信頼している人なら  
 キョーコちゃんが思ってるようなことにはならないよ」  
 
「人と人との関わり合いで大切なことは、言葉だけじゃないかもしれない。  
 自分の言いたいことを全てわかってもらうことはできなくても、  
 その思いと距離を埋めるために…気持ちを形にする、そういう言葉も必要だよ」  
 
仕事が全部終わった後、私は、  
お店が始まる前に女将さんと交わした会話を反芻するように  
何度も何度も考えていた。  
 
女将さんが言った…好きなんだねえ、という言葉。  
私は…ショータローに捨てられて、復讐を誓って以来  
人を好きになることはないと決めていた。  
そういう気分ではないことも確かだったし、そこから先のことが…怖かったから。  
好きになって…また裏切られるのは嫌。  
誰かに好かれたいとも思わなかった。  
だから…敦賀さんへの気持ちも、そんなんじゃないと…思っていた。  
なのに、どうして…好きなんて…。  
好き…なのかな?私が?…敦賀さんを?  
…わからない。  
わからないけど…嫌われたくない…そばに…いたい。  
 
言葉。  
今さら、どう繋げばいいんだろう…。  
事実の前にはどんなに着飾った言葉も意味を持たないような気がする。  
だけど…私の気持ちを…思っていることを伝えるためには  
相手に届くように、形にしなくちゃいけないんだ。無理矢理にでも。  
 
カバンから携帯を取り出した。  
あの日から何度こうやって手に取っただろう。  
ボタンを繋いでいけばディスプレイに浮かぶ貴方の名前。  
こんな気持ちで向かい合うのは…多分初めてだ。  
敦賀さんが私の前に立ってくれたとして。  
何て言えばいい?  
わからない。  
思っていることを言えばいい。  
そこから先のことは、今考えても仕方のないこと。  
 
ごめんなさい、敦賀さん。  
貴方の気持ちを…聞かせて。  
 
通話ボタンに置いた指に、そっと力を入れた。  
遠くて遠くて、諦めてしまいそうだった…でも、やっぱり失いたくない。  
貴方を。  
 
携帯電話のディスプレイを見つめた。  
慣れた指先でボタンを辿ると表示される彼女の名前。電話番号。  
無機質なそのディスプレイ上の文字列ですらも愛おしい。  
なんて言ったら、彼女はどう思うだろうか。  
 
大切な人は作らない。  
そんな風に思っていた自分を今なら嘲ることができる。  
できると思っていたんだろう?お前は。  
確実に育っていく想いを自覚していたのに。  
 
自分の気持ちを無理に押さえつけた結果がこれだ。  
膨らんだ想いが制御不能になった。  
 
…最初に思い立ってからもう何十分経過しただろうか。  
手のひらの携帯を見つめて重苦しく息を吐いた。  
いつもならそんなにためらいなく押せる通話ボタンが、今日はやけに遠い。  
正体不明の感情にじりじりと追い詰められ、瞬きも忘れて唇が乾く。  
こんな自分は誰にも見せられない。  
みっともなく取り乱したりのたうちまわる姿。  
漆黒の闇ですら覆ってはくれない、醜い姿を…。  
「ああ、もう…っ」  
手のひらで開かれていた携帯電話を、思わず助手席に放り投げた。  
大きく息をついて、シートに深くもたれかかった。目を閉じる。  
 
「キョーコちゃん…」  
 
幼いあの日。  
 
彼女のことをそう呼んだ、同じ呼び方で彼女の名前を象った。  
言葉は空気に紛れてその姿を瞬時に消してしまう。  
そんな形のないものにすら、その存在を思い出して…。  
ずいぶん遠くまで来てしまった…と。  
 
このままでいいのか―?  
 
あのまま何事もなかったかのように、  
いつもと変わらない先輩・後輩として。  
いられたら、お前はそれでいいのか?  
 
いいわけないだろう…。  
弁解することもできない。だけど、留まっていたって先へは進まない。  
どう転んだとしても、ここで躓いているよりは進んだほうがいいんだ。  
機会は自分で作るしかない。  
だけど、もう少し…もう少しだけ。  
 
不意に、闇を縫って電子音が響く。  
音の方向を確かめると、助手席にある開かれたままの携帯電話、  
そのディスプレイが存在を訴えるように光を放っていた。  
ほんのわずかに残された期待が、身体を駆け巡る。  
その温度に目の前がくらむような感覚を覚えた。  
 
まさか…。  
 
携帯を持つ手が震えてるのが自分でもよくわかる。  
発信ボタンを押してしばらくすると、呼び出し音が鳴り始めた。  
怖い…。  
本当はスゴク怖い。  
 
拒絶されるのが怖い。  
なんで私とあんなことをしたのか知りたいと思ったくせに、その理由を聞くのも怖い。  
 
ただ、このまま…敦賀さんとお話することもなくなってしまうほうが  
…もっと怖かった。  
 
それだけが、今の私を支えていると言ってもよかった。  
 
これで、ダメになってしまうのなら、それも仕方のないこと。  
覚悟はできているでしょう?  
できることをしてから、考えよう。そうだよね…。  
 
ずいぶん呼び出し音を聞いている気がする。  
やっぱりお仕事中だったのかな…。  
留守電にしてるなら、もっと早く切り替わるのに。  
 
…着信表示見て、…出ない…とか。  
嫌な予想ばかりが頭に浮かぶ。  
いや…っ。  
 
どうしよう…本当に、嫌われたかもしれない。  
あと3回、いや5回鳴らして出なかったら…今日はあきらめようかな…。  
心臓がドキドキしすぎて少し気持ち悪くなってしまった。  
それでもまだ、出て欲しいような出て欲しくないような  
中途半端な気持ちが自分の中でせめぎあっている。  
 
ううん。  
もう覚悟を決めたんでしょ?!  
しっかりしなさい、キョーコ。  
 
いつもの強がり、もとい自分を奮い立たせるために言い聞かせる言葉も  
なんだか空しく響いてる。  
あまりの緊張に、ぐらぐらと揺れ出しそうな身体と自分自身をを支えるように、  
空いている左手を、ぎゅっと握り締めた。爪の先が白くなるほど。  
 
その時。  
永遠に続くかのように鳴り続けた機械音を遮って  
耳慣れた…声が流れ込んできた。  
 
「はい」  
 
敦賀さん…!  
 
呼び出し音3周目にかかっただろうか。  
のろのろと助手席の携帯に手を伸ばした。暗闇に映し出される液晶画面。  
 
着信中…最上キョーコ。  
 
やっぱり…!  
 
その文字を見たとたん、  
身体な中の血液が沸騰するような感覚に支配された。  
彼女が…電話をくれた。  
それだけで、なんとも言えない気持ちがあふれてくる。  
先を越された…な。顔がほころぶのがわかる。  
これで自分のしたことが帳消しになるわけではないけれど  
次のステップへのチケットをもらったような気分になった。  
俺はどこまでもずるいんだな…君にばかり行動させておいて結果に一喜一憂してる。  
 
今度もまた…君にきっかけをもらった。  
だから…もう、俺も逃げない。覚悟は、出来てるんだ。  
心の準備を済ませ、かすかに震える指先で着信ボタンを押した。  
落ち着け…落ち着け。  
なるべく普段と変わらないように、声を絞り出した。  
 
「はい」  
 
少し空けて、俺の周りに立ちこめていた鬱屈とした空気を破るように  
彼女から発せられた言葉が届く。  
 
「つ、敦賀さん、お忙しいところ、ごめんなさい…も、最上です…今、いいですか?」  
 
ダイレクトに響くその声に…ゆっくりと視界が滲んでいった。  
 
電話の向こうに、敦賀さんがいる。  
ドラマの現場みたいに、誰か他の人がいるわけじゃない。  
一対一で繋がってる。邪魔も…入らない。  
 
何より…私からの着信だとわかって出てくれた。  
それだけでもう…何もいらない…。  
嬉しくて…鼻の奥がつーんとして…涙が出てきてしまった。  
や、やだ、どうしよう、自分から電話をかけておいて  
話さなくちゃいけないことがたくさんあるのに…言葉に詰まってしまう。  
まだ、私と向き合ってくれるんだ、という嬉しさが  
冷え切っていた心をゆっくりと溶かしてくれるような気がして。  
それが涙になって…止まらない。  
 
泣いちゃってることがばれないように…そっと鼻をすすると  
敦賀さんのほうから、口を開いてくれた。  
 
「最上さん…今どこ?」  
 
だけど、いきなり自分の所在を聞かれて、  
一瞬思考がストップしてしまった。  
え、どどどどこって。  
 
「えっと、だるまや、です。さっきバイト上がって…それで。  
 も、もしかして、お仕事中でしたか?ごめんなさいっ」  
「…そうじゃなくて…実は、そこの近くにいるんだ」  
「へっ…?」  
 
い、今なんて言ったの?  
 
「出てこれる…かな?」  
 
なんで?  
…なんでこんなところの近くに今…敦賀さんがいるんだろう。  
もしかして、敦賀さんも…?  
ううん。  
そんなのわかんないじゃない。  
でも…私は、直接逢えるなら…そのほうがいい。  
敦賀さんがどうして近くまで来てるのかはわからないけど  
…逢おう。  
電話はきっかけに過ぎない。  
やっぱりちゃんと逢って…それからなんだ。  
 
「…はい…、敦賀さんは…ここの近くっていうと…」  
「いつもの、ところに車停めてるから」  
 
いつものところ。  
車で送ってもらう時、  
ここからは少し離れたところで降ろしてくれる。  
街路樹が上手く目隠しになってくれて、街灯もちょっと少なめの、場所。  
 
「すぐ…すぐ行きますからっ、待っててくださいっ」  
 
こんなことになるとは思ってなくて私はまだ着替えていなかった。  
仕事着のまま。  
でも、着替えてる暇なんてない。  
心があの場所へ駆け出してしまってる。  
身体もつられて、部屋から飛び出していた。  
 
階段をばたばたと駆け下りて、お店へ出ると  
大将と女将さんがその音にビックリした様子で私のほうを見た。  
 
「キョ、キョーコちゃん、どうしたんだい?着替えもしないで」  
「大将、女将さんっ、すみません、ちょっと出てきますっ」  
きっと怒られる。こんな時間だもの。でも…女将さんならわかってくれるかも。  
そう思って女将さんを見た。  
「お願いしますっ」  
「キョーコちゃん、もしかして」  
「っ、はいっ」  
 
女将さんは、察してくれたみたいだった。  
「あんまり遅くならないようにね…」  
そう言うと、私の背中をぱーんと叩く。  
「しっかりね、キョーコちゃん」  
「っあ、ありがとうございますっ。大将、ごめんなさいっ、すぐ帰りますから」  
あっけにとられている大将にもひとこと謝って、私は勢いよくお店の戸を開けた。  
「お、おい…」  
「あんたはいいから」  
私を呼び止めようとする大将を、女将さんがなだめすかしてる声が聞こえる。  
女将さん…ありがとうございます…。  
 
お店を出て、少し走ると、あの場所へと近づく。  
敦賀さんの…車、と、そばに立っている長身の人影。  
さらに近寄って、私と敦賀さんとの間が2メートルくらいになったとき。  
 
「ごめんね…急に呼び出したりして」  
 
「…っ」  
いつもと変わらない、優しい声でそう言われて、  
私はもう、あふれてくる涙を抑えることができなかった。  
涙で視界が滲んでいく中を、敦賀さんに向かって再び駆け出した。  
 
「敦賀さんっ…」  
 
飛び込んでいった私を、敦賀さんの腕がしっかりと抱きとめてくれた。  
力が込められていく。私も自分の腕を敦賀さんの身体に回して…力を込めた。  
 
「ごめんなさい…っ」  
 
彼女が…こちらへ向かってくるのが暗がりの中ではっきりと見えた。  
 
電話をくれた。  
 
俺でも…散々悩んだのに、彼女はもっといろいろ考えただろう。  
彼女のことを好きになったと自覚してから  
無意識な言動に振り回されていると思っていたけれど  
俺も…彼女のことを振り回していたのかもしれない。  
 
そう思うと…自分なんかよりも遥かにまっすぐで、  
思ったことを行動に移せる彼女の強さがうらやましくなる。  
そういうところも、変わっていない。  
まいったな…本当に。  
 
きっと、出逢えば好きになってしまう。  
 
最初から…幼い日に出逢ったあの日から、  
もう、決まっていたのかもしれない。  
 
次第に近づいてくる彼女を見ていた。  
ふと、2メートルくらいのところで立ち止まった。  
街灯に照らされて、ぼんやりと浮き上がる姿。  
昼間に見たような、怯えた表情はしていない。  
…よかった。  
 
無理矢理呼び出したからなのか、彼女は着物姿だった。  
多分、下宿先の居酒屋で仕事をしてそのままだったんだろう。  
走ってきたせいで、肩で息をしている。  
 
「ごめんね…急に呼び出したりして」  
 
そう声をかけると、彼女の顔が、少し歪んだように見えた。  
泣いて…いるのか?  
 
「っ…」  
 
声にならない、そんな感じで、またこちらに向かって駆け出した。  
 
数秒後、彼女が俺の胸に飛び込んでくる。  
反射的に、彼女の身体に腕を回した。華奢な身体。  
そこから伝わってくる体温があたたかくて…、愛おしくて、  
離したくなくて…、力を込めて抱きしめた。  
 
彼女の腕も、俺の身体に回されて、ゆっくりと力が込められていく。  
…強く、抱きしめ合う。  
 
今まで知らずにいた。  
こんなことだけで、身体を繋げるよりも、  
相手をより近くに感じられるということを。  
 
また君に…教えられた。  
 
強く抱きしめられて…また涙があふれてきた。  
敦賀さんの体温が、とてもあたたかくて。  
抱き合うだけでこんなに…近くに敦賀さんを感じられる。  
奥から響く敦賀さんの心臓の鼓動も、こんなにすぐそばにある。  
ドキドキしてる。  
私も…とてもドキドキ…しちゃってる。  
だけど、気持ちがほぐれていくのがわかる。  
こんな…外で、誰かに見られてもおかしくないようなところで  
抱き合ってるのに…見られたら大変なことになるのに  
穏やかな…気持ちに、なっていく。  
 
「…敦賀さん…私、敦賀さんに謝らなくちゃって…」  
 
今なら言える。  
そう思って、身体を少し離して、敦賀さんを見上げた。  
暗くてよく見えないけれど…多分、いつもと変わらない、  
深くて…優しい色。  
 
少しして、敦賀さんが、私の目からこぼれた涙を  
唇でそっとぬぐった。  
そして、言葉を繋げようとした私の唇に、そっと指を乗せる。  
 
「…俺に、言わせて?」  
 
少し2人で身体を寄せ合ってから。  
 
「…敦賀さん…私、敦賀さんに謝らなくちゃって…」  
 
彼女が俺を見上げて、そう言った。  
…君が、何を謝らないといけないことがあるんだろう。  
謝らなくちゃいけないのは…俺のほうだ。  
 
その瞳から涙がこぼれる。  
また泣かせてしまった。  
無理矢理行為に及んだときも…泣いていた。  
2回目の時にも、彼女が俺に懸命に縋りついて…泣いていた。  
 
泣かせてばかりだ。  
泣き虫な彼女の涙を減らしてあげたいと…いつも思っていたのに。  
 
ごめん…もう…泣かせないから。  
謝るかわりに、涙を唇でぬぐう。彼女が少し驚いた顔で俺を見ている。  
なおも、言葉を続けようとしたので、その唇にそっと指を置いた。  
 
「…俺に、言わせて?」  
 
だけど、いつまでもここでこうしていたら、誰かに見られるかもしれない。  
 
「車に…入ろうか」  
 
俺はともかく、彼女は…まだこれからだから…。  
「俺は構わないけど…君は困るだろ?これからまだまだ売り出していかなきゃいけないのに」  
そういって彼女を促すと、彼女は歩きながらこちらを見上げて笑う。  
「…困るのは、敦賀さんのほうでしょう?こんなに暗いんだもの、  
 私なんか、誰かわからないです、きっと」  
 
そんなことないさ。  
謙遜して言う彼女に、そっと呟く。  
君は、自分がどんなに人の目を惹きつけるかわかってないんだ。  
普通にしている時は、確かにそうかもしれないけれど、  
仕事に打ち込んでいる時の君は…本当に…。  
 
「その着物…すごく似合ってるよ…仕事着なんだろうけど」  
 
彼女を助手席に乗せて、自分は運転席に座る。  
身体を少しだけ斜めにして彼女の方を向くと、彼女も同じようにこちらに身体を向けた。  
 
「そ、そうですか?いかにも居酒屋って感じですけど…でも…こういうのは  
 慣れてるんです…ショータローの…旅館を手伝ってたこともあるから」  
 
そう言って少しうつむいてしまった。  
 
「あ、で、でも今ではそれもよかったかなあ、って思えるんですよ?  
 今のところにお世話になるのに、少しはショータローの家で身につけたことが  
 役に立ちましたから」  
 
悲しそうな表情をして、無理に笑う。  
自分の不用意な発言からそんな顔をさせてしまったことを少し後悔した。  
彼女の心に刻まれた傷。  
ショータローという名前も、久しぶりに聞いた。  
 
どうやって話を切り出せばいいのか…わからない。  
 
「ごめん、もうやめよう、その話は」  
 
肝心な時の、自分の気の回らなさに呆れてしまう。  
これが…今まで自分が真剣だと思っていた付き合いの  
過去の恋人達とだったらどうしただろうか。  
適当に上手いこと言って終わりだっただろうな…。  
 
本当に俺は…。  
 
「…敦賀さん?」  
 
顔を覗き込まれるようにして、我に返る。  
 
「いや…、何でもないよ、ごめんね」  
「…お疲れですよね?…ごめんなさい、私が電話なんかかけたから…」  
「違うよ、君のせいじゃない。むしろ…君には感謝してるんだ…」  
「え?」  
 
「電話をくれたこと。…まさか君が電話をかけてきてくれるなんて思わなかったから」  
「どう…いう…」  
 
「今日…事務所で逢った時、俺を見て…怯えてたろ…?」  
「っ違いますっ…怯えてなんか…私っ…逢いたいって思ってたんです…  
 そんなタイミングで逢えるはずないって…ビックリして」  
「最上さん…」  
「敦賀さんこそ…全然笑ってくれなくて…私があんなこと言ったから…  
 私とあんなことしてしまったから…もう嫌われたんだって思って…っ」  
「違う…っ、俺が君に無理矢理…君を手に入れたくてあんなことを…」  
 
「敦賀さ…ん?」  
 
「嫌われるのは…俺のほうだ。君にあんなことを言わせてまで…  
 本当に…ごめん、何回謝っても足りないけど…本当に…ごめん、君を…傷つけた」  
「違うんですっ…」  
「違わないよ…俺が…なんであんなことをしたと思う?」  
 
「わ…私…初めて敦賀さんに…されたとき、怖くて…怖かったけど…嫌じゃなくて  
 なんでだろう?って…ずっと思ってたんです…  
 でも、あんなに悩んでも…答えは出てこなくて…敦賀さんは、何もなかったみたいに  
 笑ってて…敦賀さんは…別に私としたことなんて…どうでも良かったんだって」  
 
「最上さん…っ、違う、どうでも良いわけないだろう…っ?何でそんなことっ」  
 
「…バカみたいですよね…忘れられないなんて、恋人でもないのに、  
 …敦賀さんが他の誰かとあんなことしてるのかも、って思ったら  
 それは嫌だって…自分が醜くなるくらい…本当に…  
 敦賀さんが…あの時…だ、抱いてくれて、う、嬉しかったんです…  
 おかしいでしょう…?私は…誰のことも好きになったりしない、って  
 決めてたんですっ、だって!人を好きになったりしなければ、  
 裏切られることもないもの…もうあんな思いをするのは嫌…っ」  
 
「最上…さ…ん」  
 
「でも、失いたくない…っ、後輩としての立場も、一緒に過ごす時間も…  
 敦賀さんのそばに…いたい…って…思うんです…っ  
 これが好きってことなら…私は、敦賀さんのことが…好きなんです…  
 ごめんなさいっ…ただの後輩なのにこんなこと言ってしまって…  
 敦賀さんが…好き……おねがい…嫌いにならないで…ください…」  
 
「最上さんっ…いいから…もう…いいから…っ」  
 
彼女の、まるで一生分の告白のようなものを聞いて、  
たまらず、抱き寄せてしまった。  
触れると火傷しそうなくらいに痛くて…熱い想い。  
さっき抱きしめたときよりも、身体が熱く感じる。  
 
彼女が…自分を好きだと言う。  
人を好きにならないと…言っていた…彼女が。  
 
「ごめんっ…君にばっかり言わせて…」  
 
「つ…るがさん…?」  
 
「嫌いになんて…なれるわけないだろう…?  
 こんなに…君のことが、大切で、愛しくて、どうしようもない…」  
 
君のことが…好きで好きで…仕方がないんだ…。  
なりふりかまわずに動いて、君を…。  
 
「あんなことをするつもりじゃなかったと…今さら言ってもどうしようもない。  
 ごめん、本当に、ごめん。  
 もし…許してくれるなら…また、初めから、やり直させてもらえるかな…」  
 
身体を離して彼女を見つめた。  
信じられないといった顔。  
だけどすぐに、はりつめた表情が少しずつ和らいでいく。  
 
「っ…は、はいっ…こちらこそ…よろしくお願いします…ってなんかヘンですね…っ」  
 
そして、はにかむように、俺を見て笑った。  
その笑顔に今まで…心に抱えてきたものが、すうっと溶けていくようで…、くすぐったい。  
俺は自分を許せないけれど…彼女があの笑顔で許してくれるなら。  
 
どちらともなく…、顔を近づけて、キスをしていた。  
触れるだけの、小さなキス。  
唇を離し、顔を見合わせてまた小さく笑い合う。  
 
それは確かに…新しい始まりの合図のように、  
心に小さな灯りを、もたらしてくれた。  
 
ありがとう…。  
 
君を…ずっと…。  
 

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