爽やかな木漏れ日の中、透けるような髪がきらきら光って揺れた。  
あまりにも偶然すぎる偶然に、二人はしばらく見つめ合ったまま動くことができなかった。  
たった数日前―――現場まで押しかけてきたキョーコの憎むべき相手。  
ただし、文字通り"毒にも薬にもならないような用件"で。  
 
「キョーコ……」  
静寂を破ったのは尚だった。  
「……レコーディング?」  
呼ばれた自分の名前を遮るかのように、抑揚のない声でキョーコが聞いた。  
「あ、ああ……」  
「なんでこんなところまで来てあんたの顔見なきゃいけないのよ……」  
心底嫌そうなキョーコのため息に、かっとなった尚が言い返す。  
「なっ!それはこっちの台詞だ!お前こそ何でこんなとこにいんだよ!  
……ハッ、まさかお前、俺の後をつけて……」  
「なんでそうなるのよ!バッカじゃない!ドラマの撮影に決まってんでしょ!」  
 
むうぅぅぅ……ものすごい形相で睨み合う二人に思い切り引いていた百瀬が、恐る恐る声をかける。  
「あの……最上さん、そろそろ行かないと……」  
「もっ、百瀬さん!ごめんなさいっ」  
やっと我に返ったキョーコが、最後に尚をことさら強く睨みつけて言い放つ。  
「次の曲はもちろん、パクリ連中が青ざめるようなすごいものができるんでしょうね?」  
「おっおぉ……」  
鬼のようなキョーコの表情に一瞬怯んだものの、すぐに不敵な笑みを浮かべて尚が答える。  
「当たり前だ」  
 
去り際にキョーコが見せた母親のような笑顔を、尚は見過ごさなかった。  
 
頑張りなさいよ。あんたの良さは、私がよく知ってるんだから。  
 
その笑顔は、甘い棘のように尚の心を疼かせた。  
 
撮影は順調に進んだ。初日以来、キョーコと尚が会うこともなかった。  
当たり前だ。お互い仕事で来ているのだし、軽井沢にはいくつもの宿泊施設がある。  
偶然なんて、あの一度きりで二度めはない。キョーコは自分にそう言い聞かせていた。  
 
尚が撮影現場に押し掛けてきた日から、何かが変わってしまった。キョーコはそれに戸惑っている。  
できれば尚と顔を合わせたくないのは、尚が憎いからではない。  
いや、憎いことは憎い。過去の自分に対する仕打ちを、忘れることなどできない。  
けれど……―――。  
 
少し肌寒い夜の森を、キョーコは歩いていた。  
昼間、近くに大きな湖があるとスタッフに聞いたからだ。  
撮影は順調、明日には蓮も現場入りする。  
尚への気持ちの変化、蓮と久々に顔を合わせること。  
色々なことがもやもやとキョーコの心にのしかかって、どうしても気分が晴れない。  
せめて夜の湖でも見て、水面に落ちる月の光や白鳥がプリンセスに変わる瞬間などを見て気持ちを晴らそうとこうして出てきたのだ。  
 
「う、わぁ……」  
目の前に広がった光景に、思わず声が漏れた。  
黒い森のシルエットが空と湖を分け、両面に月が浮かぶ。  
おとぎ話のような光景に、キョーコは胸ときめいた。  
白鳥がいないことは残念だが……しかし十分な景色だ。  
 
時々、風が水面に落ちた月を揺らし、木々を揺らした。  
その音がなんとも心地よくて、キョーコはうっとりとその場に立ち尽くした。  
 
なんて綺麗……嫌なことなんて全部忘れそう。  
 
……ジャリ。  
………ジャリ。  
 
あまりにもぼんやりしすぎたため、キョーコがその気配に気づいたのは本当に傍まで迫られてからだった。  
落ち葉を踏み分け、近づいてくる足音……真っ暗な森。  
キョーコの背筋がひやりと凍る。  
しまった、仮にも私は女の子だった。へっ、変質者?!に、逃げなきゃーーー!!  
逃亡用の怨キョを大量に放出しようとした、その時だ。  
 
「キョーコ……?」  
よく知った声。知りすぎた声。  
偶然は、一度ではなかった。  
 
「ショー……タロー」  
「やっぱり……お前」  
なんだか少し、ほっとしたような尚の表情に、キョーコは違和感を覚えた。  
「やっぱり……?」  
尚の言葉を繰り返してその意図を尋ねると、尚は焦ったように早口で言い訳を始めた。  
「いっ、いや……お前湖とか好きそうだから、もしかしたらここに来んじゃねーかと思って、  
でも夜だし一応お前だって女なんだから危ねえと思ったらなんか毎晩気になって……」  
「毎晩?」  
呆れたような目で自分を見るキョーコに、尚は墓穴を掘ったと気づく。  
「う、ウルセェ!言葉のアヤだよ!お前のことなんか俺が気にするわけねぇだろ!」  
少し苦しい言い訳だったが、それでもキョーコはふっと自嘲気味に笑い受け入れた。  
 
「そうでしょうね。あんたが、私のことなんか気にするわけない」  
「………ッ!」  
もうなんと続けたらいいから尚は分からなかった。  
いいえ気になります。あなたのことばかり考えて夜も眠れません。  
まさかそんな事実をプライドの高い彼が明かすわけもなく、  
そもそも、どうして近頃こんなにキョーコのことが気になるのか尚自身分からず苛ついていたからだ。  
 
「……お前、まだ俺のこと憎んでんのか……?」  
やっと絞り出した言葉はそんな分かりきったことだった。  
キョーコは尚へ復讐するために、芸能界にまで入ったのだ。  
しかし予想に反し、キョーコからはしばらく返事が返ってこない。  
キョーコは俯いたまま、自分の足下を睨みつけていた。  
「……オイ、キョー……」  
無視されたことに対する苛立ちで、少し乱暴にキョーコの肩を掴もうとする。  
しかしその手は、キョーコの冷たい手によって払いのけられた。  
「……んでない」  
「え?」  
「私、もうあんたのこと憎んでない」  
 
ざわっ……  
 
風が、どこかへ連れてゆこうとするかのように強く吹き荒れた。  
 
「憎んで……ない?」  
「……ううん、今でもあんたのことは許せないし、大っ嫌いには変わりないけど、  
でもなんか……どうでもよくなっちゃった」  
 
………今、何つった?  
 
どうでもよくなった。  
尚の身体に、その言葉は重石のように深く沈んでいった。  
言葉が、出て、こない。  
 
「私、今演技の勉強がすごく楽しいの。  
学校へ行くのも、友達と遊ぶのもね。  
あんたに裏切られたとき、あんたが全てだった私は一気にからっぽになって、  
あんたに復讐することしか考えられなかったけど……  
今の私はそうじゃない。"最上キョーコ"として生きるためのものがたくさんある」  
一瞬、キョーコの頭の片隅に蓮の顔が浮かんだ。それをすぐにかき消す。  
いけない、それだけはまだ、認めることはできない。  
やっと復讐を乗り越え、キョーコ自身の生き方を見つけられそうだというのに、  
再び恋に落ち同じ目に遭うのは怖かった。今はまだ……。  
 
「だからもう、あんたに復讐するのはやめるわ。  
よかったわね」  
 
キョーコはどこか視点の定まっていない尚をまっすぐに見据え、気弱に微笑んでそう言うと、その場を去ろうとした。  
 
かつて私の全てだった人。ううん、きっと、今までずっと私の全てだった人。  
心から愛し、心から憎んだ。それをやっと、終わりにできる。終わりにできてよかったと思う。  
尚がこの前、ほんの少しだけど優しくしてくれて、  
今まで見えなかったものが冴え渡るように見えてきた。  
今も昔も、結局尚に捕らわれているバカな自分。  
復讐なんて馬鹿馬鹿しい、今なら、敦賀さんの言葉の意味が分かる。  
 
ぐ………っ。  
 
突然腕を掴まれ、驚きでキョーコの身が強張る。  
熱い、大きな掌が、痛いほどにキョーコの腕を掴んで離さない。  
「ちょ……っ!ショータロー?離してよ!」  
 
「……んでだよ」  
低く、森に飲まれそうなほどか細い声で、尚が呟いた。  
「ショー……」  
「どうでもいいってなんだよ!」  
吐き捨てるように尚が怒鳴る。突然のことにキョーコはすっかり硬直してしまった。  
てっきり、せいせいすると言われ自分たちの関係は終わるのだと思っていた。  
それが、こんな、噛みつかれそうな勢いで怒鳴られるとは。  
 
……ピルルルル……  
 
あまりにも場違いな音が突然、鳴り響いた。  
暗闇の中、キョーコのワンピースのポケットに、緑の明かりが浮かび上がる。  
 
きっと……敦賀さんだ。  
ロケに入ってから、毎晩、現場で変わったことはないかと電話をくれている。  
 
その場を打開するきっかけを見つけ、ほっとして電話に出ようとすると、素早く尚がそれを取り上げた。  
「ちょ……何するの!」  
非通知設定。その表示に、尚は黙って通話ボタンを押す。  
 
―――……最上さん?俺だけど……  
監督から最上さんが帰ってこないって連絡が……  
 
ヒュウッ……ボチャン。  
 
突然のことに、なにが起こったのかキョーコが理解するまで時間がかかった。  
携帯を奪われ、あまつさえ勝手に通話ボタンを押され、更には湖に投げ捨てられる。  
正気の沙汰ではない。  
 
「なっ、何してんのよ!敦賀さんが心配するじゃない!!」  
「……あいつか」  
え?  
湖に沈んだ携帯を見つめ、ぶりぶりと怒っているキョーコが尚を見やるその前に、  
尚は強引にキョーコを引き寄せ、その唇を奪った。  
 
激しくぶつかるようなキス。だけど柔らかい感触。  
キョーコは目を見開き、自分の目前に迫った尚の長いまつげを見ていた。  
「ん……む」  
無理矢理舌をねじ込まれて、やっと逃げなきゃという思考がキョーコに生まれたが、もう遅かった。  
傍の木に身体を押し付けられ、ざらついた熱い舌がキョーコの舌を探すように口の中を動き回る。  
身体を引き離そうと腕に込めた力が弱くなっていく。  
「ふ……ぅん……んんっ」  
やっと唇が離れても、キョーコの身体はすっかり尚に委ねられていた。  
初めての感覚。そして整いすぎた美しい顔が、自分と同じ熱い吐息を漏らしているという事実。  
キョーコのある部分に、熱が集まってゆく。  
「お前は俺のもんだ……あいつなんかに渡さねぇ」  
「な、何を……い……やぁっ」  
キョーコがやっと絞り出せた声はそれだけだった。  
尚の舌が首筋を這い、二つの膨らみを力強く握った。  
「そうだって……言ってくれよ。なぁ……」  
乱暴な愛撫とは裏腹に、泣き出しそうなほど切ない声で、尚は何度もキョーコの名前を呼んだ。  
 
ワンピースの肩紐を外し、露わになった胸を揉みしだきながら、その頂上を吸い上げる。  
「やぁ……んっ……ショー……タロ、やめ……はぁっ」  
キョーコは耳まで真っ赤にしながら、弱々しい抵抗を繰り返したが、  
本能のままに貪る尚の前でそれは何の意味もなさなかった。  
するりと太股からワンピースを捲り上げ、ショーツを下ろす。  
潤ったそこに指を這わすと、キョーコは今までにない快感に身をよじらせた。  
「あ……ああっ!はぁぁっ!!」  
「キョーコ……」  
「!……ひっ……いやぁぁぁぁぁ!!!!」  
突然、快楽とは別の、裂けるような痛みにキョーコは悲鳴を上げた。  
自分の中に何かが入ってくる。  
熱くて固い、何かが。  
「やめて!んっ!ショー!やめてぇぇぇ!!」  
「キョーコ……」  
泣き叫ぶ合間に、尚の顔を見て、キョーコははっとなった。  
 
なんて泣きそうな顔で抱くのよ……。  
 
「ふっ!あっ!んんんっ!!」  
それ以上抵抗することもできずに、キョーコはただ痛みを堪えていた。  
痛みが快楽に変わるまで、そう時間はかからなかった。  
 
 
 
……ツーーーー……  
 
突然切れてしまった携帯。それきり何度かけても繋がらない。  
嫌な予感がする。  
蓮は携帯を片手に、どうするべきかを思いあぐねていた。  
 
あの子にもしものことがあったら、俺は……!  
 
それからも何度か啓文と連絡を取るうち、蓮はキョーコが戻ってきたという報告を聞く。  
それなのに、胸騒ぎは治まらない。  
明日……あの子に会ったら……。  
 
 
   おわり  
 

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