「整備班の報告で、篠田の散香に油圧系統の不具合があるらしい。  
 だから、今日は代わりに君に飛んでもらう。たしか土岐野とだ」  
「分かりました」  
「行っていい」  
「はい」  
優一が形式的に軽い会釈をして、司令室を出て行く。  
遠のく足音を聞きながら、  
水素は煙草の箱を取った。1本取り出して火を点ける。  
 
ああ、ということは―――。  
水素は思った。  
 
・・・・・・  
 
司令塔の屋上で、優一と土岐田の散華が偵察に飛んだのを見送ると、  
隣接した宿舎に向かう。  
二階の廊下の突き当たり、角部屋。  
その、誰もいないと分かっている部屋のドアを開ける。  
 
優一を含めて、これまで”彼”とこの部屋で顔を合わせたことはない。  
しかし、水素にとっては、  
ふだん以上に”彼”を濃密に感じる時間だった。  
 
網代張の板床に、窓枠に綺麗に切り取られた淡い日差しが差している。  
水素がドアを開けた際に部屋の空気が攪拌され、  
斜めに落ちる光の柱のなかを、  
細かく舞った埃がちりちりと光を放っている。  
 
漂う煙草の匂い。  
複数のそれのなかに”彼”のものを認めると、  
水素は胸深くまで吸い込んだ。  
 
部屋には、ベッドのほかに、  
使っている痕跡がないデスクが置かれているだけだ。  
デスクに人差し指を伸ばす。埃が付着する。  
子供は、勉強が嫌いなものだ。  
 
水素は向き直り、二段ベッドの下段に視線を結んだ。  
どちらで寝ているか、なんて、訊いたことはない。  
だいたい、訊くまでもない。  
匂いで分かる。  
煙草だけではなく、覚えのある、”彼”自身の匂いだ。  
懐かしくて、新しい、”彼”の匂い―――。  
 
眼鏡を外す。ここでは、くだらない見栄を張る必要はない。  
 
ベッドの傍らに敷かれたラグに膝を突くと、  
心地よく乾いたシーツに手を伸ばした。  
ぴんと先まで広げた手のひらを滑らせ、皺の波を作る。  
 
寝る前にどんなことを考えていた?  
どんな夢を見た?  
目覚めたときの気分はどうだった?  
 
そんなことを思い浮かべながら、  
体を傾け、頬をシーツに寄せる。  
それから、形のいい鼻筋をこすりつけ、  
肺の奥まで匂いを満たした。  
伏せられた睫毛が震える。  
このまま留めておけたらいいのに、と思いながら、  
名残惜しそうに、ゆっくりと吐き出す。  
 
鼻腔を満たすのは、”彼”の匂い。  
中枢神経を満たすのは、”彼”のさまざまな体温の記憶。  
理性だけで拒むには、あまりに大きな誘惑だった。  
 
―――ぁ、ああ……いい、いいよ……。  
 
水素の口から漏れる、吐息交じりの声。  
過度の湿度を伴った、うわ言のような、それ。  
 
いつしか、手がスカートのなかに潜り、局所に触れていた。  
ショーツ越しに、スリットを指の腹がゆっくりと往復する。  
さして待たず、指が添えられた場所に、  
うっすらと染みが浮かんでくる。  
さらに、浅く爪を立て、スリットの始まるあたりに引っ掛けてみた。  
その小さな膨らみは、すでに熱く充血し、腫脹している。  
ひときわ大きな吐息を漏らす。  
 
―――だめ、そこ、だめ……ぁ……。  
 
ここで、この行為に耽るのは、何度目だろう。  
いつからこんなことを始めたのだろう。  
もう、そんなことは覚えていない。  
 
当初は、他人の部屋に無断で踏み入る後ろめたさを感じていただろう。  
行為そのものにも、罪悪感を感じていただろう。  
今はもう、すっかり麻痺してしまっているのかもしれない。  
 
ただ、確かなのは、  
知ってしまった果実の味の記憶が、  
水素に渇望を教えたということだ。  
 
優一とは、すでに体の関係はあった。  
例えば、今夜付き合うように言えば、嫌な顔ひとつせずに従うだろう。  
 
しかし、それでは足らなかった。  
肉体的な充実感や、手で触れられる体温はあっても、  
まるで足りなかった。  
それは、優一に対する失望ではない。  
こうした間接的な交感のほうが、”彼”の実存に近づける気がした。  
つまりは水素の問題だった。  
 
指先が、染み出した湿り気をはっきりと覚える。  
持て余した快感が、すでに、ふだんの理性を痺れさせる。  
コントロールは失われ、あとは達するのを待つだけだった。  
スカートがめくれ上がり、  
中央に細長い染みを浮かべた、ベージュのショーツが  
すっかり露わになっているが、気に留める余裕があるわけがない。  
 
浅く不規則な息遣いだけが部屋に響く。  
乾いた煙草の匂いに、水素の汗が気化し、入り混じっていく。  
シーツが握り締められた。幾筋もの皺が引き寄せられ、細かく走る。  
下肢は脱力し、水素の両脚はぺたんと床に着いていた。  
 
小さく身を捩らせるだけで、ブラジャーの内地に擦れ、  
乏しい胸の膨らみの頂点の尖りが硬くなっているのが分かる。  
 
―――あ、ぁ、イく、イく…っ!  
 
加速していく快感。  
めまいにも似た、甘く激しい奔流は圧倒的で、  
抗う術を水素は持たない。  
辛うじてしがみ付いていた理性から、完全に切り離されてしまう。  
 
―――ん…っ、あ……あ………あ……。  
 
静かに達した水素の肩が、瀕死の蝶の羽ばたきのように震えた。  
空を飛んでいるときに匹敵する、生を実感する瞬間―――。  
 
ただ、やり切れないのは、達した刹那、  
銀色に染まった視界のなかに、薄日が差したように浮かぶのが、  
いちばん最初の”彼”の顔だということだ。  
優一に似た、しかし、いくぶん年を重ねた顔。  
 
脱力感に満ちたまま、シーツに頬を埋めている水素の虚ろな瞳に、  
窓の外の空がぼんやりと映った。  
いつしか灰色に曇り始めている。じきに雨になりそうだ。  
”彼”は今日、どの空を飛んでいるだろう。  
 
・・・・・・  
 
どれぐらい、その甘美な余韻に浸っていたのだろうか。  
差し込む日差しはいつしか翳り、  
辛うじて部屋の間取りが分かる程度にまで暗くなっている。  
 
遠くに犬の鳴き声が聞こえた。  
ということは、滑走路からはすでに、  
降りてくる2機を遥かに視認できるはずだ。  
そんなに長い時間、ここにいたのだろうか。  
 
立ち上がると、スカートに付いた埃を払う。  
そして、胸ポケットにしまっていた眼鏡を掛け、  
水素はドアへと向かった。  
その顔はすでに、司令官のそれに変わっている。  
 
こうして、独りよがりの逢瀬は終わる。  
 
いつまで、こんなことを繰り返していくのだろう。  
”彼”を完全に手に入れるまでか。  
階段を下りながら、思い巡らしてみる。  
まず問題は、時間は無限にあるかもしれないのに、  
そんなことは到底叶いそうにないということだった。  
 
エントランスが見えてくると、  
どこか虚しさを伴って、雨の音がかすかに鼓膜を震わせ始めた。  
 

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