【03:20:02】  
 
―――夜の空気に、自転車の走る音だけが響いている。  
重い瞼を持ち上げて見る遠くの空はぼんやりと明るい。  
慣性の法則に任せきりの走行は目的地に到着したことで軋む音を立てながら漸く  
おさまり、彩子はのろのろとした動作でサドルを降りると空気漏れみたいな溜息を吐いた。  
別に自転車を借りた相手が流川だったから、彼の習性が染って、というわけではなく。  
彩子は今、猛烈に眠りたかった。  
 
 
近所のファミレスにドリンクバーで粘ること数時間。  
すなわち、どういうわけだかあたしを一方的に慕ってくれているクラスメイトが、  
延々と別れたばかりの男を罵倒するのに費やした時間だ。  
放って帰ろうかとも考えたが、付き合いだしてからの状況の逐一を  
知っている身としては最後まで見届けるべきだろうかと妙な責任感で頑張ってしまった。  
最終的にクラスメイトは彩子に泣きながら抱きつき、  
「やっぱ彩子は最高だよぉ。さすが親友だね!」と勝手な認定に納得して帰ったのだし、  
彼女の気持ちが満足したならそれで良いのかもしれない。  
 
【03:28:18】  
 
扉を開けば、勝手知ったる我が家である。  
室内灯も点けずに階段を上り、自室からバスタオルとTシャツだけ取って浴室へ向かった。  
 
シャワー栓を捻り、湯の温度を調整しながら再度思い返す。  
湯気の充満するシャワ-ルーム。  
いつまでも彩子を振り返るクラスメイトに手を振り返しながら、  
“女同士の友情ってこういうものなのかな”とぼんやり考えていたこと。  
眠気も相俟って、柔らかな髪を洗いながら、彩子は取り留めなく考え馳せる。  
今まで男と一緒に過ごす時間が長かった所為か、  
自分はどうも、ああいう雰囲気に馴染めない気がする。  
女の子同士で、女の子特有の話題について話すのは嫌いじゃない。  
一緒に遊ぶのだって別にかまわない。  
でも、好きで付き合っていた男の悪口に相槌を打つの人を親友と呼ぶなら、  
そんなの鹿威しになってもらえば良いのだ。  
こんな風に考える自分はきっと、がさつな女なんだろうと彩子は思う。でも。  
(うちの部の野郎共の方が、ずっと気持ちの良い人間ばっかだわ)  
彼らと彩子の間にあるのは友情ではなくチームシップなのかもしれないけど。  
彼らのファンの一部から、この外見も手伝って「遊んでる女」と噂されているの  
も知っているけれど。  
それでも。  
「あたしの高校生活全部、友情より、あいつらの為に捧げたい」  
心に決めたのはずっと以前のことだったのに、  
呟いてみると、やっと今決心出来た気がする。  
なんだかほっとしたら、くすぐったい気持ちになった。  
ぶり返して来た眠気がピークを超えて、  
彩子のテンションを高くしているのかもしれない。  
 
夜明け前のシャワールーム。  
流れる水音と控えめな笑い声が満ちていた。  
 
【03:35:44】  
 
遠くから、降り始めたばかりのまばらな雨音が聞こえる。  
その音から逃れるように、寝返りをひとつ。  
ひんやりとした空気が少し揺れた。  
 
糊の効いたシーツと、木製ベッドの感触。自分の部屋では無いそれら。  
(ああ、そうだ)  
 
 
(これは、夢のなかだ)  
 
 
今思えば中学の時から、彩子は流川の特別だった。  
 
『あんた、バスケはチームプレイだって知ってる?』  
同じバスケ部でもチーム同士の交流は殆ど無い女子部員に、  
ある日突然そう指摘されたのを流川は覚えている。  
チームメイトと打ち解けようとしない流川に、  
当時、女子チームのスモールフォワードを任されていた彩子が声を掛けたのだ。  
流川がじっと黙っていると、その間彩子も沈黙していた。  
知ってる、と仕方なく無愛想に返せば、ならいいのよ、とこちらも素っ気無かった。  
 
それだけだった。  
 
何事も無かったように自分の練習場へ戻る彩子の背中を、流川は見送っていた。  
 
 
それだけ、だった。  
 
 
出会いの記憶は鮮明なのに、その後親しくなった経緯はぼんやりと霞がかっている。  
いつの間にか、校内ですれ違う時に会釈をするようになり。  
練習前の準備運動で言葉を交わすようになり。  
流川の生活に、あまりに自然でささやかに馴染んだ彩子。  
おかげで流川は高校で偶然彩子に再会するまで自分の気持ちに気付かなかった。  
 
そうしてまた、一緒に帰るような先輩後輩の仲になり。  
夢の中ではあるが、彩子の手料理を食べ彩子の家のベッドで眠っている。  
 
(センパイと、手ェつないだ)  
 
妙にリアリティがあったな、とまだ半覚醒もしていない頭で思う。  
 
 
 
だんだんと雨足が強くなるのを、流川は夢うつつに聞いていた。  
 
 
【03:47:03】  
 
パジャマ代わりにしているXLサイズのTシャツを頭から被り、  
髪をドライヤーで乾かす頃には、彩子の眠気は再び頂点に達していた。  
 
 
 
ねむいねむいねむいねむい。頭の中はその単語しか思いつかない。  
 
 
 
覚束ない足元があちこちに小指をぶつけても、いちいち叫ぶ気力も出ず。  
何度かしゃがみ込む羽目になりながら、やっとのことで彩子は自室へと帰って行った。  
 
 
【03:47:50】  
 
(なんか、うるせえ)  
 
ゴッ、とくぐもった音が時折聞こえる。  
随分と時間をかけながら、その気配は流川の部屋の左へと消えていった。  
夢の中の彩子の家を思い出す。確か、左奥は彩子の自室になっていたはずだ。  
 
(……どろぼー)  
 
もしかしたら、という可能性が流川の働いていない脳裏によぎる。  
現実で無いとは言え、彩子の部屋に泥棒を入れるわけには行かない。  
 
夢だからこそ出来る、嘘みたいな寝起きの良さで流川は立ち上がった。  
 
 
【03:47:54】  
 
ふらふら、ふらふらと、吸い寄せられるようにベッドへ近付く。  
極楽の手前まで来て、彩子は何かを思い出し足を止めた。  
 
(…………ぱんつ)  
 
そういえば履いていなかった。  
 
シャワーに行く前から忘れたのか、  
それともシャワーの後忘れたのかさえ彩子にはわからない。  
 
タンスから取り出して履くべきか、それともこのままベッドへ飛び込むべきか。  
(ただでさえガサツな女なんだから、これくらいの慎みは持たないと)と理性が言い、  
(どうせ気楽な一人暮らし。誰が見るわけでもないんだからかまわない)と睡眠欲が囁く。  
 
 
しばらく硬直した後、彩子はふらふらと、洋箪笥へ向かった。  
 
 
【03:47:58】  
 
掃除の行き届いたフローリングはベタつくこともなく、  
流川は音も立てずに裸足で廊下を渡った。  
 
彩子の部屋の前に到着する。  
例の達筆で、「彩子」と書かれた扉。  
 
(…わかりやすい)  
 
さすが夢だ、と妙な感心をしながらドアノブに手をかける。  
 
 
 
開けた途端、箪笥を物色する人影と目が合った。  
 
 

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