彼女は知らないだろう。  
雨が降りはじめるのと同時に、オレが恋に落ちていたことを――。  
 
何ものにも、簡単には揺るがない。  
そんな空気を纏っていた彼女の瞳から、涙がこぼれ落ちた。それは恐らく、ある男のための涙。  
哀しげな表情に誘われ、思わずその手を取っていた。  
 
――雨のせいで、余計蒸し暑さが増す土曜の午後。  
突如として訪れた偶然に翻弄されながらも、彼女を抱く。  
暑さや雨に濡れた不快さも忘れ、オレは目の前の身体に夢中になっていた。  
くびれた腰を抱いていた左手が突然彼女に掴まれる。  
上目使いの、誘うような瞳。  
戸惑っている隙に、彼女の手中にある左手が柔らかな胸に押し付けられる。  
手の平からこぼれ落ちそうなくらい大きな胸の感触が、脳を刺激した。  
「……もっと、強くしてよ」  
何か、吹っ切れたような面持ち。目の前の女は、つい先程まで泣いていた彼女ではない。  
首筋を伝う彼女の唇に身体が熱を覚え、わずかに残されていたオレの理性は完全に焼失した。  
強く抱いて欲しいと望むなら、それに応えるだけだ。  
絶え間なく強弱を繰り返す二つの呼吸音。  
愛撫にこらえ切れずに、小さく開いた唇からもれる喘ぎ。  
求め合う音が、激しい雨音と雷鳴に掻き消されていく。  
彼女の身体に深く呑み込まれた欲望の化身は、留まることを知らず昂ぶり続けた。  
うだるような暑さと、身体を覆う熱に朦朧としながらも、猥欲は止まらず全身を駆け巡る。  
細い腕を掴んで胸元に抱き寄せ、果てるまで水着の跡が残る肌を貪った。  
これ以上のめり込んではいけない。  
だけど、もう遅い――。  
 
心は、すでに彼女に奪われていた。  
 
オレの髪の感触が気に入ったらしく、彼女の指が繰り返し髪間を滑る。  
「……なんか、あんたの全部がキレイすぎてムカついてきたわ」  
だいぶ気を許してくれたのだろうか。  
ついさっきまで『藤真さん』だったのが、いつの間にか『あんた』になっている。  
「おまえだって、キレイだろ」  
目を細め微笑む彼女が可愛くて、頬や額、瞼に唇を落とす。  
くすぐったいじゃない、と笑いながら彼女もオレの額に軽く唇を寄せた。  
行為の合間も身体が離れることは無い。  
じゃれあったり、それに飽きると求め合ったり。  
時間など、気にならなかった。  
 
まだ彼女はオレの腕の中にいる。  
日が暮れ、深夜を過ぎても彼女は帰らなかった。  
もう、何度抱き合ったかもわからない――。  
 
 
 
 
疲れ果て、オレ達はいつの間にか眠っていた。  
 
カーテンの隙間からもれる一筋の朝の光。  
顔を照らす明るさに目を開け、枕元の時計を見た。  
午前5時。一晩中降り続いた雨はすっかり上がったようだ。  
 
耳元で規則正しく繰り返される小さな寝息。  
オレの腕枕で気持ち良さそうに彼女が眠っている。  
密着する肌の温かさに、昨日の出来事が夢ではなかったと感じた。  
「ん……」  
彼女が小さな吐息と共に寝返りをうち、背を向けた。温もりは消え去り、残るのは柔らかな肌の余韻だけだ。  
このままそばにいると、後戻り出来なくなるような気がした。  
 
『付き合ってくれないか?』  
その答えは、結局返ってこなかった。  
傷付いた彼女を慰めたに過ぎない――。そう自分に言い聞かせ、起こさないように腕を外しベッドを降りた。  
程よく肉付く胴や腰周りとは対称的に、華奢な四肢。  
なだらかな曲線を描いて横たわる身体に、また、触れてしまいそうになる。  
目の前の彼女へ向かう欲を、オレは必死に押し殺した。  
 
窓際に掛けたままの彼女の服に触ると、まだかすかに湿っていた。  
雨の匂いが残る服を手に取り部屋を出る。  
日曜ということもあり、家族はまだ寝ているようだ。  
少し、安堵した。  
もし彼女のことを聞かれても、どう説明したらよいのかわからない。  
女を部屋に入れたことはあるが、泊めたのは初めてだった。  
彼女の服を軽く手洗いして乾燥機に入れ、簡単に朝食をとる。  
雨と汗でベトついた体をシャワーで流し、乾いた服をたたんで部屋へ戻った。  
 
好きな男がいる女に惚れるなんて、どうかしてるな……。  
 
思わず溜め息がこぼれた。  
気持ち良さそうに眠る綺麗な寝顔を、ただぼんやりと眺める。  
目が覚めたら、きっとすぐに帰ってしまうだろう。  
最後に、もう一度だけ――。  
 
オレは、まだ眠っている彼女の頬に口づけた。  
 
 
***  
 
 
 
かすかに開いた瞼に、ぼんやりと見えてくる慣れない部屋の壁。  
隣にいたはずの男が消えている事に気付き、彩子は不安になった。  
眠い目をこすり、その姿を探そうと体の向きを変える。  
すぐに視界に入った藤真は濡れた髪を拭きながら、静かに彩子を見つめていた。  
「やだ、起こしてくれればいいじゃない」  
「もう少ししたら起こそうと思ってたんだ。なんか食べるか?」  
「あまり食欲ないし、遠慮しとくわ」  
「そうか。雨、止んだぞ」  
藤真は立ち上がり、ゆっくりカーテンを開けた。体を起こす彩子の瞳に、晴れ渡る空が映る。  
目覚めたばかりで明るさに目が慣れていないせいか、空の青さがやたら眩しく感じた。  
「そんな恰好でいられると、また押し倒したくなる」  
からかうように言い、下着姿の彩子の膝上に服を置く。  
「ちゃんと洗ったから」  
「……どうも。そんなに気使わなくてもいいのに」  
「着替える前にシャワー浴びれば?」  
「でも……」  
「心配するな。まだ誰も起きていないから」  
彩子を浴室へ案内すると、藤真は部屋に戻っていった。  
 
ついさっき藤真が使ったためか、暖かさが浴室に残る。  
ほんのりと漂うシャンプーの匂いは、藤真の匂い。  
衝動的に抱かれたことに後悔はなかった。  
浴室を出て体を拭き、きれいにたたまれた服を広げる。その瞬間、柔軟剤がふわりと香った。  
「結構、マメじゃないのよ」  
早朝に女の服を洗う藤真を想像し、彩子は小さく笑った。  
静かな家の中、足音を消し階段を登る。部屋へ戻ると藤真はすでに着替えていた。  
「おまえ、少し顔色が悪いな」  
「ちょっと疲れちゃって……」  
「だろうな。オレもだよ」  
意味深な笑顔を浮かべる藤真に、後ろから彩子が抱きついた。  
「日曜なのに早いわね。何時に起きたの?」  
「起きたのは5時くらいかな。オレ、これから練習あるんだけど、どうする?」  
「練習、終わるまで待っててもいい?自分でもよくわかんないけど、もう少し一緒にいたい……」  
 
そんな言葉と、帰ろうとしない彩子に、藤真は困惑していた。  
気の強そうな彩子の弱気な言動。背中から伝わる彩子の温もりを、腕の中で感じたくなる。  
藤真は愛おしさを抑えきれず振り向くと、彩子を強く抱きしめた。  
「このまま部屋にいてもいいけど、どうする?」  
「あたし、ちょっと行きたいところあるから」  
――温かく包んでくれるこの腕を、信じてみるのもいいかもしれない。  
藤真の腕の中、揺らいでいた彩子の気持ちは固まりかけていた。  
 
 
 
 
身支度を済ませ外へ出た二人を、朝のすがすがしい空気が包む。  
昨夜の雨が嘘のような青空。  
家を後にして少し歩くと、昨日のカフェが見えてきた。  
昨日、そこにいた二人は、こんなことになるなど思いもしなかった。  
今朝までの出来事が、彩子の頭を駆け巡る。  
傷付いた心は確かにまだ疼くが、その痛みは少しだけ小さくなっていた。  
「2時前には終わるけど、行きたいところあるか?」  
「天気もいいし、海がいいわ!」  
「じゃあ、駅で待ち合わせしようか。またな」  
彩子は、学校へ向かう藤真の後姿が見えなくなるまで見送った。  
 
水溜まりに映る自分の顔が、昨日とは少し違って見える。  
――忘れるなんて、意外と簡単なのかもしれない。  
今は、そう思えた。  
藤真に手を引かれて歩いた道。  
どこをどう歩き、何を話したのか、ぼんやりとしか覚えていない。  
鮮明に思い出せるのは、藤真に抱かれた感触だけだった。  
優美な外見からは思いもしなかった逞しさや男らしさ。  
何も言わなくても気持ちを察し、我儘を言った自分を嫌な顔一つせず受け止めてくれた。  
心が大きく傾き始めているのがわかる。それは、依存かもしれない。  
だが、今の彩子にその心を止める理由は見つけられなかった。  
 
ふと部活のことを思い出した彩子は気が滅入った。  
『晴子ちゃんがいるから大丈夫よね……』  
後ろめたさを感じながらも晴子に電話し、行けないことを告げる。  
「彩子さん、どこか具合悪いの?」  
妹のように可愛がっている晴子の心配そうな声に心が痛む。  
「そうじゃないんだけど……。大丈夫よ、心配しないで!」  
晴子には本当のことを言ってしまいたい。そんな衝動に駆られたが、結局言えなかった。  
顔に掛かった髪を払い上げ、目的の場所を探しながら歩き出す。  
「ストレートなんて中学以来……」  
ようやく固まった決意を胸に、彩子はつぶやいた。  
 
 
***  
 
 
 
練習が終わった後、オレたちは海に来ていた。  
波の音が静かに響く砂浜に座り、他愛も無い会話をかわす。  
海からの風が少し冷たくなってきたような気がして、彼女の肩を抱いた。  
日に照らされ、綺麗に輪を描く彼女の髪――。  
「その髪……どうしたんだ?」  
「なによ。昨日自分が言ったこと、もう忘れちゃったわけ?」  
しかめっ面でオレの顔をのぞく彼女の髪がサラリと揺れた。  
 
『ストレートにしてみたら?きっと似合うよ』  
忘れてはいない。昨日、オレの髪をしきりに褒める彼女に何気なく言った台詞だ。  
 
「期待……してもいいのかな」  
「なにが?」  
試すような瞳。駆け引きの主導権は、すでに向こうにある。  
オレは彼女の肩にかかる髪をすくい上げ、目の前でパラパラと落として見せた。  
「これが答えだって思っていいのか?」  
「そう思うんなら、それでいいんじゃない」  
「手ごわいな……」  
生意気な言動すらも可愛く思えた。  
このまま彼女を帰したら、きっと後悔するだろう。  
気にかかることは多々あるが、そんなことは後から考えればいい――。  
「曖昧なのは嫌いだ。もう一度聞く。オレと付き合ってくれないか?」  
「……いいわよ」  
オレの髪を指で玩ぶ彼女の笑顔は、余裕で満ちあふれている。  
子供扱いされているような気がして少しムッとした。  
「これからは、彩子って呼ぶからな」  
「わざわざ宣言しなくたっていいわよ。呼び方なんて好きにしてよ」  
オレを見つめる彩子の瞳に夕日が映え、朱く染まった。  
唇を重ねるだけで、舌を絡ませることはしない。そのまま、互いの頬や額にキスをした。  
何度も、何度も――。  
 
その後、海を離れ、見慣れない街並みの中を彩子と歩いていた。  
恐らく週末しか会うことができないだろう。  
できる限り一緒にいたかったオレは、残りの時間を彩子の家で過ごすことにした。  
「彩子の家って湘北から近いのか?」  
「近いけど、どうして?」  
「誰かに見られたらまずいんじゃないのか……」  
「別に、誰に見られたってかまわない。余計なこと気にしないの!」  
軽く笑い飛ばしオレに腕を絡ませる彩子は、昨日と打って変わって声も表情も明るい。  
 
たった一日の間に、目まぐるしく変化していく関係。  
一度はあきらめると決めた女が、オレのものになった。  
 
 
 
 
 
 
――彩子と付き合い始めてから3ヶ月が過ぎ、あと半月で今年も終わろうとしている。  
 
少しずつでも好きになってくれればいい。  
……はじめは、そう思っていた。  
一緒にいる時間が積み重なるほど欲が深くなり、自分の想いと同じくらい彩子の気持ちも欲しくなる。  
こんなのは初めてだ。  
女と付き合ったことは何度かあったが、自分の気持ちの方が強いことはなかった。  
 
冷たくなった手を軽くこすりながら時計を見た。  
ここに着いてからもう1時間半が過ぎようとしている。  
見つからないよう、体育館の窓から見えない場所に座った。  
妙に懐かしく感じるボールの音。選抜予選敗退後、後任の監督が来ると同時にオレは引退していた。  
大学の推薦も決まり、それを彩子に報告しに来たのだが、突然ここに足が向いたのはそれだけではない。  
言いようの無い不安に後押しされたせいもあった。  
 
ボールの音が途切れ、談笑が聞こえてくる。  
やっと練習が終わったようだ。  
立ち上がり、体育館の窓越しに彩子の姿を目で追う。  
ふと視線が合った彩子の顔は、喜びよりも戸惑いに満ちていた。  
手招きしたオレに困ったような顔をしながら、彩子が体育館から出て来る。  
そんな顔、するなよ――。  
 
「驚いた?」  
「驚くわよ!来るんなら、そう言ってくれればいいのに」  
「そんなに怒るなよ。もう終わった?」  
「終わったけど、これから片付けとかあるし30分くらいかかるかも……」  
開け放たれている体育館の戸の向こうに、宮城の姿が見えた。  
ボールを拾いにこちらへ来る宮城は、なんだか不機嫌そうに見える。  
「……アヤちゃん。先に帰ってもいーよ」  
「リョータ……でも、まだ片付けが……」  
「どうせもう終わるし、気にしないで。早く着替えてきなよ」  
それだけ言うと、宮城は部員の元へ戻って行った。  
 
宮城がこんな優しい話し方をするなんて思わなかった。  
たぶん、それは彩子にだけ……。  
一度も視線を交わさなかった二人の不自然さに、オレは不安になった。  
だけど彩子には絶対に悟られたくない。  
全てを曝け出してしまうと、彩子がどこかに消えてしまうような気がした。  
 
 
 
 
片付けを済ませた部員が次々と外へ出て来る。  
彩子を待つオレに、気まずそうに会釈をしながら一人一人去って行った。  
『宮城は、彩子をどう思っているんだろう……』  
体育館の出口からもれる明かりを見つめる。  
強くなってきた風に身震いし腕に掛けていたコートを羽織ると、体育館の明かりが消えるのが見えた。  
 
宮城が女を連れて体育館から出てくる。  
「……オレに、何か用?」  
「別に……」  
宮城の隣にいる女と目が合ったオレは、彩子のことを切り出せなかった。  
「オレ、アヤちゃんとは何もねえから安心しな……」  
すれ違いざまに耳に入った宮城の小さな声は、かすかに震えていた。  
その声に彩子への想いが透けて見え、じわりと罪の意識が湧き上がる。  
それは、彩子を渡したくないという気持ちと混ざり合い、オレを憂鬱にした。  
「悪いな……宮城」  
その声が、宮城に届いたかどうかはわからなかった。  
 
宮城が去ってしばらくすると、歩いてくる彩子が目に入った。  
少しも急ごうとせず、あからさまに不機嫌な顔をしている。  
「いきなり来たりするなんて、どうしたのよ?」  
「急に会いたくなったんだ。明日休みだし、どこか泊まらないか?」  
「え?」  
「たまにはいいだろ。ちょっと話したいこともあるし」  
「いいけど、あたしたち制服じゃない」  
互いのコートから覗くブレザーを、彩子が交互に指差した。  
「気になるなら、こうすればわからないだろ」  
彩子のコートのボタンを閉めようと襟元に手を伸ばす。  
わずかに指が首筋に当たり、彩子の体がビクっと震えた。  
「こんなに冷たくなって……。いつからここにいたのよ?」  
「5時くらいからかな」  
「もう2時間以上たつじゃない。本当にバカね!」  
彩子は冷えたオレの両手を取ると、手の甲に唇を寄せた。  
やわらかい唇が接する部分から、オレの全身に熱が巡っていく。  
伏せられた目蓋から伸びる長い睫毛が寒さに震えるのを見て、無性に彩子を抱きしめたくなった。  
「……好きだ、彩子」  
「そんなに強く抱くと、痛いじゃないのよ」  
「悪い……」  
彩子を抱く腕に、無意識のうちに力が入っていた。  
 
オレは、彩子に『好き』と言われたことがない。それを口にできない理由は、なんとなく想像できた。  
時折、彩子が見せる虚ろな表情に宮城の影がちらつくのは確かだ。  
彩子と付き合った当初には無かった、この息苦しい感情。  
複雑に交差する感情を上手く消化できるほど、オレは大人ではない――。  
 
歩き出したオレと彩子の手は、自然と繋がっていた。  
泊まるといっても、当てはない。ホテルの場所もロクにわからずに、ぶらぶらと歩き続ける。  
「歩いてるうちに、体あったまったみたいね!」  
さっきまで冷たかったオレの手は、すっかり温まっていた。  
握り合う手をぶんぶんと振りながら彩子が笑っている。  
その笑顔の裏に隠されているであろう宮城への想いに、心がきしんだ。  
 
 
 
 
最初に目についたホテルに入ると、週末ということもあって空室は一室のみだ。  
選択の余地も無く、一つだけ灯りが点るパネルのボタンを押した。  
「こういうところ、初めてだ」  
「あたしだってそうよ」  
初めて目にする類の内装に好奇心が湧き、まるで冒険しているかのような気分になる。  
オレは彩子と顔を見合わせて笑った。  
 
外は冬だというのに、この部屋はまるで南国のコテージのようだ。  
家具はすべて籐で統一されている。  
ベッドの隣のソファーに腰掛けると、壁一面に細長く広がる鏡にオレ達の姿が映った。  
その鏡が意味するものは容易に想像できる。  
「なるほど……」  
なんとなく感心していると、バン!と背中を叩かれた。  
「なに考えてんのよ、まったく!」  
「いて……少しは手加減しろよ」  
彩子が溜め息をつきながら、オレの脱いだコートとブレザーをクローゼットにかける。  
リゾート地のような部屋で、制服姿のオレたちはなんだか滑稽に見えた。  
「さっき、話があるって言ってなかった?」  
「ああ……すっかり忘れてた」  
言われるまで本当に忘れていた。  
待ちきれないような顔で彩子がオレの隣りに座る。  
「で、なんなのよ?」  
「オレ、卒業したら東京行くから。大学の推薦、決まったんだ」  
「そう…。離れちゃうわね……」  
「仕方ないだろ……」  
本当は仕方ないなんて思えない。彩子を残して行くなんて、不安でたまらなかった。  
彩子は、となりで黙って俯いている。  
その顔を覗き込むと、瞳に溜まる涙が見えた。  
「ずいぶん余裕じゃない。いつもそうやって平気な顔ばかり……」  
 
思いもしなかった彩子の反応に、どうしていいのかわからなくなった。  
宮城のことで哀しそうな顔をしたかと思えば、オレのことでも涙を見せる。  
怒ったり、笑ったり、泣いたり……本当に忙しい女だ。  
彩子の気持ちがわからない。  
もしかしたら、彩子自身も自分の気持ちがわからないのかもしれない。  
 
だけど、今だけは、オレのために涙を流す彩子を信じたい――。  
 
彩子を抱きしめ、そのままソファーに倒れ込む。  
涙を唇で吸い取りキスをすると、彩子がオレの頬に手を添えた。  
「ごめんなさい……」  
唇が離れた瞬間、もれた声。  
何に対しての謝罪なのだろう。泣いたことか、それとも――。  
 
それ以上、考えたくはなかった。  
 
***  
 
 
 
彩子の泣き顔を、藤真はもう見たくなかった。  
泣きやむのを待って再度彩子の顔をのぞき込む。  
落ち着いているのを確かめると、藤真は安心したように大きく息をついた。  
 
「早く、彩子の裸が見たい」  
藤真はそう言いながら腰元のベルトを指差し、脱がせてと彩子に目配せをした。  
「……せっかちね」  
無邪気な笑顔につられて、彩子も笑みを浮かべる。  
二人は、ふざけながら制服を脱がし合い、ソファに倒れこんだ。  
たおやかに横たわる白い肌。初めて抱きあった日にあった水着の跡は、とうに消えていた。  
 
奪い尽くしたはずだった。それでも、まだ満足できない。  
何度肌を重ねても、藤真は彩子の身体に飽きる気がしなかった。  
愛情が伴っていれば尚更だ。  
両手で胸を中央に寄せ、その桃色の尖端を舌でなぶる。  
乳房を這う舌に、彩子は恍惚とした表情を浮かべた。  
右手の薬指をくわえ、行き場のない左手は藤真の髪をくしけずる。  
「あぁ……ん……」  
わずかに開いた唇からこぼれる、とぎれとぎれの細い声。  
男の舌と指の動きは、女に休みを与えない。  
これから得られるであろう快楽に思いを馳せ、彩子の身体が震え上がった。  
「…は………あぁ………」  
男がもたらす感触に上気し、揺れる身体。  
女の腰がよじれるたびにギシリとソファが音を立てる。  
藤真は彩子から身を離し、細い足首を掴み上げた。  
淡い間接照明の灯りの下で晒された秘部は、充血し淫らな蜜で潤っている。  
「濡れてるよ……」  
言わなくてもわかることをわざと言葉にし、不敵な笑みを浮かべる。  
からかうような表情が憎らしくなり、彩子は藤真を軽く睨んだ。  
身体を起こし、自分の脚の間にある藤真の顔を静かに見据える。  
「もっと、濡らしてよ」  
彩子は欲しがる心を隠そうともせず、自分の目の前にひざまずいている藤真の肩に脚を投げ出す。  
明け透けな女の態度に、藤真の欲心が牙を剥いた。  
「欲張りだな……」  
彩子の脚の間に顔をうずめ、人差し指と薬指で秘弁を開く。  
赤く固くなった芽に吸い付くと、彩子の太腿がビクンと跳ねた。  
女の反応に味を占めた男は、ぬるい蜜で顎が濡れるのも気にせずに舌を這わせる。  
焦らすことなどしない。藤真の本能が、それを許さなかった。  
誰にも気を使わずに済む、昼も夜もないこの部屋。  
喘ぐ声が、いつもより艶づいて聞こえた。  
「気持ちいいか?」  
舌を止め、顔を上げた藤真を彩子が苦しげに見つめる。  
我慢できないと言わんばかりに、無造作に投げ出していた脚を男の首に巻き付けた。  
「いかせてよ……」  
彩子は甘い声で催促すると、両手で藤真の頭を優しく挟み、悦頂を欲しがる場所へと導いた。  
 
 
 
 
裸になった後は、まるで従僕のように女に尽くす。  
そうしたところで彩子の心が完全に自分のものになるなど、藤真は少しも思っていなかった。  
こんなことで繋ぎとめられるなら、どんなに楽だろう。  
 
舌を動かすたび、彩子の身体は小動物のように小刻みに震える。  
男の愛撫に素直に応える身体。  
だが、心は、そうはいかないらしい。  
藤真は無性に苛々した。  
「……ちゃんと、オレを見ろよ」  
眉をひそめながら呟き、彩子の身体から舌を離し指を抜く。  
立ち上がり女の身体を持ち上げると、後ろ向きでソファに手をつかせた。  
髪を二分している白いうなじにキスをした唇は、そのまま背筋をスッと滑り降りる。  
「……は………あぁ………」  
切ない吐息をもらす彩子の腰は藤真に掴まれ、身体に熱いものが押し込まれた。  
身体の奥深くまで突き刺さる振動に、彩子の脚が震える。  
「今、おまえを抱いてるのはオレだ。よく見ろよ……」  
耳元で囁く男の声も、彩子には遠くに聞こえた。  
とめどない快感が背後から襲い掛かる。  
彩子は、落ちそうになる膝を支えるのが精一杯だった。  
 
藤真の指に顎をクイっと持ち上げられた彩子の視界に、鏡が入る。  
それは、繋がる二人をくっきりと映し出していた。  
「……こんなの見なくても、わかってるわよ」  
彩子は鏡ごしに藤真を見つめた。  
氷のように冷たい瞳の藤真に見つめ返され、思わず顔を伏せる。  
そんな彩子の仕草が、藤真の動きを一層烈しくした。  
くびれた腰に置かれていた藤真の両手が、別々の方向へと滑る。  
片方は濡れる赤い芽を擦り、もう片方は揺れ動く乳房を強く掴んだ。  
肌を叩き付ける音は、徐々に加速する。  
狂おしいくらいの快感が、激流のように彩子の全身を突き抜けた。  
「あ…っ……、もぅ……いく……」  
藤真に知り尽くされた身体は、いつも簡単に達してしまう。  
昇りつめ、彩子は力無く床に崩れ落ちた。  
「……大丈夫か?」  
心配そうに肩を抱く藤真の手は、先程とは違って優しい。  
 
――たぶん、ずっと無理をさせていた。  
だけど藤真という支えを失ったら、あたしは壊れてしまうかもしれない。  
 
今まで自分を甘えさせてくれていた男の弱さに気付いても尚、彩子は依存する心を棄てられなかった。  
 
 
 
 
暖房が効き過ぎる室内は、息苦しいほどに暑い。  
彩子を満足させただけで溜まったものを出しもせず、藤真はソファに身を投げていた。  
床に座り込む彩子の息が整うと、抱き上げてベッドに運ぶ。  
冷蔵庫から適当にドリンクを取り出し、朦朧としている彩子に渡した。  
「……飲めよ」  
脱力感に震える手が無言でそれを受け取る。  
彩子が口に含むのを見守ると、藤真は背中を向けベッドに腰かけた。  
 
彩子の存在が大きくなる程に余裕を失う。  
言葉にできない思いを、どれだけ飲み込んできたのだろう……。  
 
藤真は渇いた喉に水分を流しこみ、深く溜め息をついた。  
「……まだでしょ?」  
突然、彩子が後ろから藤真の下半身に触れた。  
脚の付け根から流れるように指が滑る。  
細い指先が裏筋を伝って丸みを帯びた尖端に触れると、不完全燃焼のまま萎えたものはたちまち固くなる。  
藤真は彩子の手首を掴むと、そのままベッドへ倒れ込んだ。  
心地良くなれる触れ方で触れ合い、感じる姿勢へ身体は自然と動く。  
馴染んだ肌は、互いの高まる場所を覚えていた。  
会話は、無い。  
両手を握り合い、汗にまみれながら、ただ肌を合わせる。  
身体を重ねることでしか一つになれないことを、二人は知っていた。  
 
焦点の定まらない彩子の瞳。  
藤真は、それが自分ではなく宮城に向けられているような気がした。  
いつまで待てば、彩子の心から宮城が消えるのか――。  
そんな思いに駆られた藤真は、彩子を上に乗せると蹴散らすように激しく突き上げた。  
「オレにだって、感情はあるんだよ……!」  
彩子の肌に触れることができるのは、今は確かに自分だけ。  
それなのに、藤真の胸には形容しがたい虚しさが込み上げてくる。  
「あ……あぁっ……」  
乱れ狂う、しなやかな四肢。  
女の脚で波打つシーツの衣擦れが、男の独占欲を増大させた。  
終わりのない嵐のような衝動でベッドの籐がきしむ。  
ギシ、と繰り返しうなる不快な音が止むと、彩子は藤真の胸に倒れ込んだ。  
 
 
『……あのまま、眠っていたのか?』  
藤真は、生温いものに身体の中心を覆われる感覚で目を覚ました。  
流れ落ちたままの白い体液を丁寧に舐めとる彩子を、重たく開いた目で見つめる。  
「おまえがわからない。そんなことまでするなよ……」  
もう、冷静でいられそうもない。  
藤真の心は、不安定に揺れ動いていた。  
何度も交わり、肉体は満たされた。だが、心は少しも満たされない。  
それは、初めて彩子を抱いた日から何も変わっていなかった。  
時間が経てば、自分だけを見てくれるようになるかもしれない。  
そう思っていた藤真は、なかなか心のすべてを開かない彩子に苛立っていた。  
そして、三ヶ月前、あのまま彩子を帰さなかった自分にも――。  
 
日を追うごとに、藤真を蝕んできた彩子に対する猜疑心。  
常につきまとう影を互いに誤魔化しあう毎日に、藤真は疲れ始めていた。  
 
 
 
***  
 
 
 
オレは映画館で彩子を待っていた。  
前から彩子が観たいと言っていたこの映画は、今日が公開日らしい。  
クリスマスということもあり、かなり混雑している。  
時計を見ると開演まであと20分。オレは人混みを避けて隅へと移動した。  
場内へと次々と消えていく人影のほとんどが恋人同士だ。  
幸せそうに笑っていても、他人にはわからない悩みがあるのかもしれない。  
ゆっくりと場内へ進む列を眺めていると、その中に宮城と女を見つけた。  
入ってすぐ、一番後ろの席に座り、パンフレットを見ながら何か話している。  
……別に、気付かれても困ることはない。  
けれど、彩子が二人を見てしまったら、きっとまたあの顔をするだろう。  
心の奥に何かが引っかかっているような顔を――。  
そんな彩子を、オレはもう見たくなかった。  
 
「遅れちゃったー!」  
彩子は肩で息をしながら顔の前で手を合わせ、ゴメンね、と頭を下げた。  
「今、予告始まったところだ。ぎりぎり間に合いそうだな」  
すでに購入していたチケットを彩子に渡し、場内へと急ぐ。  
入り口から中を見渡すと、ほとんどの席が埋まり空席はないように思えた。  
まだ予告のせいもあり、所々で話し声がしている。  
「暗いから足元に気をつけろよ」  
彩子の手を握って中へ入り、端の方に空席を見つけた。  
……が、オレは、躊躇した。  
その席は、宮城が座っている席から5列ほど前。かといって他に空席は見当たらない。  
彩子の視界に宮城が入らないよう、肩を抱きながら席に着いた。  
宮城は多分、オレ達に気付いているだろう。  
「ちょうど始まるな……」  
「あー、間に合って良かったあ!」  
ひじ掛けに置かれた彩子の手を握ると、その手は応えるように握り返してきた。  
嫌われてはいないし、彩子なりにオレを思ってくれているのはわかる。  
『好き』という感情の種類が違うことに、オレは気付いていた。  
たぶん、彩子のオレに対するそれは、兄弟に甘えるようなもの。  
心に開いた穴を埋めようとしているだけ――。  
 
1時間ほどが過ぎ、映画は息を呑む展開が続いていた。  
夜空の場面で場内が暗くなる。  
宮城の視線を背中に感じ、鬱屈した感情がオレを襲った。  
好きになるほど苦しくなり、些細なことにも傷つく。  
――何かの拍子に引き金が引かれてしまえば、きっと簡単に壊れるに違いない。  
 
そんな思いを胸に、彩子の肩を抱き、キスをした。  
彩子は少しだけ驚いたような表情を見せたが、再び映画に集中している。  
このままオレが何も言わなければ、それはいつものキスと同じだろう。  
迫り来る別れの予感の中、もう見ることができなくなるかもしれない横顔を見つめた。  
 
 
 
 
映画館を後にし、イルミネーションの下を二人で歩く。  
彩子は映画に満足したらしく、やけにご機嫌だ。  
「さっきのキス、映画のキスシーンと同じタイミングだったけど、狙ってた?」  
「まさか……。そんなわけないだろ」  
「偶然って、あんのねぇ」  
微笑む彩子の顔を見ていると、決意が鈍る。  
けれど、このまま付き合っても、オレの望んでいる未来は訪れないような気がした。  
これは、最後の賭け――。  
 
「偶然っていえば、映画館に宮城がいたの知ってたか?オレ達のすぐ後ろに」  
「……どうして、教えてくれなかったのよ」  
 
もしかしたら、いつものように笑い飛ばしてくれるかもしれない。  
胸の奥のわずかな期待は、脆くも崩れ去った。  
見る見るうちに彩子の顔は色を失い、曇っていく。  
とりつくろう言葉など、もはや必要なかった。  
どうせ別れるなら、傷つけて、泣かせて、嫌われてしまったほうが、きっと楽になれる。  
彩子も、そしてオレも――。  
 
「あいつの前でキスして、おまえがどういう反応するか見てみたかったんだよ」  
 
その言葉に嘘はなかった。  
だが、こんなことを好んで言いたいわけがない。  
彩子の顔は悲しみと怒りが入り混じり、今にも泣き出しそうだ。  
目を合わすことができず、オレは彩子から視線を外した。  
 
――長い、沈黙。  
バチン、という音が響き、瞬時に周囲の視線がオレたちに集中した。  
「最低……!」  
それだけ言うと、彩子はオレに背を向け、ゆっくりと歩き出した。  
追いかけたい気持ちを押し殺し、離れていく後ろ姿を目に焼き付ける。  
「最低は、どっちだよ!いつまでも他の男を思ってる女なんて、いらねえよ……!」  
我を忘れて叫んだオレの声に、愛しい背中が振り返った。  
「ごめんね……」  
彩子の悲痛な面持ちと、消え入りそうな声。  
それは、オレの心を深くえぐった。  
 
 
どのくらい、そこにいただろう……。  
ガードレールに腰をかけ、鳴り続けるキャロルを一人で聴いていた。  
12月の冷たい風が、ジンとする頬をすり抜けていく。  
「いてえよ、彩子………」  
街を彩るイルミネーションが、滲んで見えた。  
きれいな別れなんてない。これで、良かったんだ――。  
 
 
 
 
 
 
 
彩子とはあれきり会っていない。  
連絡がないということは、きっとそれなりに幸せなんだろう。  
オレは、自分が思っていたほど器用ではなかった。  
癒える事のない孤独な日々が待っていることなど、あの時のオレには知る術もない。  
もう半年以上が経ち、夏になろうとしているのに、オレは苦い別れを引きずったままだった。  
 
彩子のことを考えてしまうのは、きっとこの海に来ているせいだ。  
昨日降っていた雨は止み、爽やかな空が広がる。  
水平線と空の境目に棚引く雲に、あの頃を思い出していた。  
オレと彩子が始まった、この砂浜――。  
大学のバスケ部の合宿でここに来てから、もう1週間が経っていた。  
「藤真……。おまえのそのヒゲ、どーにかなんねーの?髪もボサボサだしよ」  
「女が寄ってくるのを避けるためだ」  
「なにい?!」  
「冗談だよ。何怒ってんだ、三井」  
偶然、三井も同じ大学だった。  
オレの気持ちを察しているのか、三井が高校の話題を出すことはない。  
おそらく三井に聞けば彩子の近況くらいわかるだろう。  
気にはなるが知りたくないという気持ちもどこかにあり、わざわざ聞くことはしなかった。  
 
休憩をしていると、見覚えのある制服がオレの視界に入った。  
見間違うわけがない。  
海岸線の道路を彩子が歩いてくる。  
隣りで彩子と手をつないでいるのは、宮城だ。  
二人を見つめるオレの肩を、三井が軽く叩いた。  
「あいつら、最初から素直になってりゃいーものを寄り道ばかりしやがって」  
言葉とは裏腹に、二人を見る三井の眼差しは穏やかで優しい。  
「……寄り道、か」  
彩子にとっては確かにそうかもしれない。  
だけどオレは違う。自分を見失うくらい女に惚れたのは初めてだった。  
 
100人近い集団の中にいるオレたちに、二人が気付くことはないだろう。  
オレは少しずつ近づいてくる姿を目で追った。  
宮城の隣りにいる彩子の笑顔は、オレが見たどんな笑顔よりも明るく綺麗だ。  
楽しそうに歩く二人を見ても不思議と心は落ち着いている。  
「……合コンでもするか、藤真」  
「あまり気乗りしないけど、たまにはいいかもな」  
 
雨上がりの青空の下、宮城に微笑む彩子は、まるで太陽に向かってまっすぐ伸びる向日葵。  
波に消される砂浜の足跡のように、彩子を手放した後悔が流れていく。  
あの時の自分の選択は、間違ってはいない――。  
ようやく、心からそう思える気がした。  
 
 
 
End  
 
 
 

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