12月にもなると、街の中がクリスマス一色になるのは日本でも同じだ。  
だが、こちらでのそれは、神聖な意味を含んでいた。  
いつものように、隣りの家からピアノの音が聴こえてくる。最近聴こえてくるのは、すべてクリスマスキャロルだ。  
たぶん我が家は子供でもできない限り、クリスマスを祝うなんてことはないだろう。  
子供――。  
彩子は、窓辺で紅茶を飲みながら、小さく笑った。  
そんな普通の家族みたいなことは、しばらくは望めそうもない。  
なんせ自分が夫に選んだのは、バスケ以外のものには興味を示さない万年無関心男なのだ。  
 
「先輩、そこのTシャツとって」  
流川が髪を拭きながらバスルームから出てくる。  
彩子は、ソファに置かれている黒いTシャツを手に取った。  
それは何年も前、流川の誕生日に彩子が贈ったもので、もうだいぶよれている。  
呆れ顔でそれを流川に渡した彩子は、奥の使われていない部屋を指差した。  
「新しいのがたくさんあるじゃない」  
その部屋には贈り物がたくさん保管されている。すべて、流川のファンからのものだ。  
「これがいい。着心地いーから」  
ファンからの贈り物など、流川はまったく興味がない。  
 
シカゴ中心地のコンドミニアム。チームが用意してくれた最上階の一室が今の二人の家だ。  
家具はすべて備え付けられており、二人の私物は必要最小限のものだけだった。  
無駄に部屋数の多いこの家は、自分たちの家というよりも他人の別荘で暮らしている気分になる。  
 
広いリビングにあるソファで、流川が小さな寝息を立てはじめた。  
Tシャツのまま眠りについた流川に、彩子が毛布をかける。  
部屋の中は暖かいが、動かずにじっとしていると冷えを感じる。シカゴの冬は厳しい。  
「……先輩、か」  
付き合って数年、結婚してから一年経つというのに、未だに彩子は「先輩」と呼ばれている。  
確かに自分は先輩ではあるが、それは過去の話。今は、妻なのだ。  
彩子はすぐに、そんなのは些細なことだ、と思い直した。  
別に、その呼び方が気に入らないわけではない。  
流川のなにげない言葉にも気が滅入ってしまうようになったのは、つい最近のことだ。  
 
この一年、住み慣れない土地で、とても新婚とは言えないような日々を送ってきた。  
中学高校と、なにかと手のかかっていた後輩は、思い描いていた通りの未来をあっさり手に入れ、  
まだ2年目にしてNBAのスタープレイヤーだ。  
夢にみた場所でプレイする流川を見ていると、ハラハラしながらも喜びと興奮で胸がいっぱいになった。  
本当に、心から嬉しかったのだ。  
だが、満ち足りた気持ちは、それほど長くは続かなかった。  
 
 
それは、瞬く間に有名になった男の妻ならば、一度は抱える悩みなのかもしれない。  
流川が活躍するのは嬉しい。  
だが、それと同時に、手の届かない場所へ行ってしまったような錯覚にとらわれるようになった。  
気にしすぎだということを、頭ではわかっている。  
けれども、いちばん近くにいるはずなのに、ものすごく遠く感じるのだ。  
自分は必要とされているのだろうか。自分がいなくなっても、全然平気なんじゃないだろうか。  
そんな思いを誰かに打ち明けたところで、それは贅沢な悩みだと言われるに違いない。  
 
流川のスケジュールは非常にハードで、家にいるのはホームでゲームがある時だけだ。  
オフでも練習をかかさず、家では寝てばかり。  
そのせいか、肌を合わせることも以前より少なくなってきた。  
彩子が自分から求めることはほとんどない。そうしたくても、疲れている姿を見ると、どうしても気が引けてしまう。  
流川が次のゲームに疲れを残さないよう努めるのが、自分の役目だと承知しているからだ。  
 
『何年もずっと待ち望んでた生活、なんだけどね……』  
 
毛布にくるまり眠っている流川の顔は、憎たらしいくらい気持ち良さそうだ。  
彩子はしばらく流川の寝顔を眺めていたが、日が落ちて部屋の中が暗くなると、重い腰を上げ夕食の支度を始めた。  
 
 
食欲をそそる匂いで、流川は目を覚ました。すでに食事の用意がされている。  
少し寒いと感じた流川は、目の前にたたんで置いてあるセーターを着てダイニングへ向かった。  
「いま起こそうと思ってたとこ。ちょうどよかったわ」  
そう言いながら彩子が味噌汁を盛る。  
こちらに来てから、彩子が作るのはほとんど和食だ。  
今日のメシもウマい、と流川は思った。彩子の料理はどれも美味しい。  
残さず食べることが流川の感謝の表れであり、以前のようにわざわざそれを口にすることはなくなっていた。  
流川はいつも通り、彩子と他愛のない話をしながら食事を終えた。  
 
「明日からNYだけど、来るか?」  
食器を片付けている彩子を横目で見ながら、流川が言った。彩子はアウェイのゲームをまだ観たことがない。  
「珍しいわね、あんたがそんなこと言うなんて」  
「まあ、たまには」  
「……嬉しいけど、やめとくわ」  
昔の自分なら飛び上がるほど喜び、迷わずついて行ったに違いない。  
だが今は、とてもそんな気分にはなれない。  
そう思うと、罪悪感のようなものが彩子の心に渦巻いた。  
最後の皿を拭き終わり、リビングへ戻る。流川の視線を感じてはいるが、目を合わせずにソファへ腰掛けた。  
そんな態度が不満だった流川は、少し不機嫌そうに彩子の腕を掴んだ。  
 
「先輩……。最近、オレのこと避けてねえ?」  
「そんなことないわよ」  
「イヤ、絶対そーだ。避けてる」  
流川の手を振り払おうとした彩子だが、強く掴まれ、女の力ではどうにもできない。  
振り払うどころか、もう片方の腕も掴まれ、そのままソファに押し倒された。  
彩子は流川の目を見ることができず、顔のすぐ横で押さえつけられている手首を黙って見つめた。  
もともと曇っていた心に、さらに厚く黒い雲がたちこめていく。  
今、望んでいることは、NYに行くことや、こんなふうに抱かれることじゃない。  
もっと心と身体を充たす、あたたかい何かだ。  
彩子は、それを素直に告げることができない自分がもどかしかった。  
 
腕を掴んでいる手も、鎖骨に触れる唇も、どういうわけか流川の身体すべてが冷たく感じる。  
彩子は、強引に唇を重ねようとした流川を、全身に力を込めて突き飛ばした。  
「……いてーよ、なにすんだ」  
ソファから床に落とされた流川は、少しすねたような顔で彩子を見ている。  
 
この、胸を圧迫されるような思い。それをどう伝えようか、彩子は言葉を探しあぐねていた。  
けれども、どんなに考えを巡らせても適当な言葉は見つからない。  
力でねじふせようとした流川に、例えようのない憤りがどんどん込み上げてくる。  
唇を噛んで耐えてみたが、ずっと内に溜め込んでいたものは抑えがきかないほど膨大なものとなっていた。  
「先輩、先輩って……あたしはあんたのなんなのよ!」  
結局、そう言うのが精一杯だった。  
「……あんた、なんにもわかってない!」  
そう付け足すと、彩子は寝室へと消えて行った。  
怒りのまま閉められたドアが、大きく激しい音を立てる。  
それとほぼ同時に鍵をかける音がすると、流川はますます不機嫌になった。  
 
仕方なくリビングのソファで眠ろうとするが、なかなか寝付けない。  
突然向けられた彩子の怒りを、流川はどう受け止めていいのかわからなかった。  
「……鍵までかけるかよ」  
あんな彩子を見たのは初めてだ。  
小さないさかいは今までも何度かあったが、それはすべて流川が勝手にすねてるだけで、  
彩子はいつもそれを余裕たっぷりにあしらっていたのだ。  
さっきみたく少し強引に抱こうとしても拒まれたことはないし、こうして別々に眠るなんてこともなかった。  
いくら考えてみても、思い当たることなど流川には見当たらない。  
「どーしろってんだ」  
流川は不満げにつぶやくと、ソファに置きっぱなしになっていた毛布をかぶり、むりやり目を閉じた。  
 
 
 
翌朝――。  
流川は目が覚めても体を起こさず、ソファに横たわっていた。  
昨日のこともあってか、どうも寝覚めが悪い。  
彩子は朝食の用意をしている。それは、いつもの朝の光景だった。  
「早くしないと遅れるわよー!」  
怒りがおさまっているかどうかはわからないが、普段の彩子と変わらないように見える。  
流川もできる限り平静を装い、ダイニングの椅子に座った。  
「……ウマい」  
味噌汁をすすった流川は、思わずそう口にした。  
機嫌をとるつもりはなかったが、心のどこかで彩子の気持ちを和らげたかったのかもしれない。  
「ありがと」  
彩子のその声は、どんなに良いほうへ解釈してみても、嬉しそうには聞こえなかった。  
 
食事を終えた流川は、身支度を済ませ玄関へ向かった。  
靴を履いて振り返ると、そこには笑顔の彩子がいる。これも、いつもと変わらない。  
それなのに、無性に後ろ髪を引かれるような気分になるのは何故だろう。  
不安を消し去りたくて肩を抱きよせようとしたその瞬間、彩子にバッグを押し付けられた。  
「いってらっしゃい。がんばってね!」  
「……うす」  
彩子の肩を抱こうとした手は行き場を無くし、流川はごまかすように頭をかいた。  
 
重い音と共に玄関のドアが閉まると、彩子は急いでキッチンへ戻った。  
いつも通り笑顔で流川を見送れたことに安堵しながら、食器を片付ける。  
それが終わると簡単に掃除を済ませ、寝室へ向かった。  
ウォークインクローゼットに隠していたものを引っ張り出す。それは、昨夜のうちにパッキングを済ませたスーツケースだ。  
「忘れ物はないわよね。戸締りもオッケー……」  
家の鍵を閉め、大きなスーツケースを引きながら地下の駐車場へ向かう。  
今日は、車に乗り込むまで五人に話しかけられた。ここの住人は、ほぼ全員彩子を知っている。  
人目を引く容姿のせいもあってか、この辺りでは彩子もちょっとした有名人だ。  
だが、それはもちろん、流川の妻としてだった。  
 
空港への道を走りながら、彩子は懐かしい場所を思った。  
ほんの一年ちょっと前、幸せになることだけを心に描いて後にした日本。  
そこに帰れば、本来の自分を取り戻せるような気がした。  
 
 
 
***  
 
 
 
一週間後、帰ってきた流川を待っていたのは、暗くて寒い部屋だけだった。  
彩子の姿はなく、いつも持っていたバッグや携帯、財布もない。そればかりではなく、車もない。  
そのへんに買い物に行ったにしては部屋の中が冷えきっているし、妙に片付いている。  
胸騒ぎがした。  
まさかと思いながら寝室を調べると、彩子のスーツケースがなくなっている。  
「どこ行ったんだよ……」  
リビングへ戻ろうとしたその時、流川はベッドの上にメモを見つけた。  
 
『 すぐに戻るから心配しないで。 彩子 』  
 
それは確かに彩子の筆跡だ。心配しないでと言われても、心配せずにはいられない。  
気にさわることはしていないつもりだった。この前のケンカだって、出て行くほどのことでもないような気がする。  
「……ざけんな!」  
流川は、苛つきをぶつけるかのように、彩子のメモを握った拳で壁を強く殴りつけた。  
手が痺れるように痛む。だが、そんな痛みよりも、彩子がいなくなったことのほうが辛かった。  
 
下着の場所も、タオルの場所もわからない。洗濯機や電子レンジの使い方ですら、いちいち戸惑う。  
家の中のことは、彩子がいないと何もわからなかった。  
起こしてくれる人もいない。もちろん、食事も用意されることはない。  
とくに何もしていないのに、部屋は散らかる一方だ。  
そして――、何よりも流川を打ちのめしたのは、彩子の体温が感じられないことだ。  
二人で眠るのも広すぎるベッド。その上に一人で横になっていると、本当にいないんだと痛感させられる。  
猫のように身体をまるめ、彩子の胸もとへ顔をうずめて眠っていた日々を思い出すと、暖かいはずの部屋も肌寒く感じた。  
彩子の移り香がシーツや枕からやわらかく鼻先をかすめるのに、温もる身体はここにはないのだ。  
この家は、彩子がいないと全く安らぎのない空間だった。  
 
何度も電話してみるが、今日も彩子の携帯はずっと留守電だ。大嫌いなメールを打ってみても、返事は来ない。  
「なんでだよ……」  
途方に暮れていると、隣の家からピアノの音がかすかに聴こえてきた。  
聖しこの夜だ。この曲くらいは流川も知っている。  
流川は、今までさほど気にも留めていなかったツリーをしばらく眺めていた。  
腰程の高さでそんなに大きくもないそれを、楽しそうに飾り付けていた彩子の姿が脳裏によぎる。  
クリスマスというものに興味はない。  
けれども、クリスマスキャロルを聴きながらツリーを一人で見るのは、想像以上に寂しくむなしい。  
ふと、流川は思った。  
もしかしたら彩子は、毎日そう感じていたのではないのだろうかと。  
 
少し前から彩子の様子がおかしいことに、鈍い流川でもなんとなく気付いてはいる。  
女は難しい。珍しく気を遣いNYへ誘ってみたのだが、逆効果だったらしい。  
特別なにかをしてやったことはないが、彩子が自分に気の利いたことを望んでいるとはどうしても思えなかった。  
流川は散らかっている部屋をぐるりと見渡し、深く溜め息をついた。  
彩子が自分にしてくれていたことすべてを、あたりまえのように感じ、甘えきっていた。  
それだけは、確かだった。  
 
 
 
***  
 
 
 
二週間ほどで戻るつもりだった彩子だが、すでにそれ以上たち、帰るに帰れなくなっていた。  
衝動的に出てきてしまったものの、冷静になってみると本当につまらない、幼稚な動機だ。  
寂しい。  
そう感じたときに素直に伝えられていれば、こんなに悩む必要もなかっただろう。  
素直になれず強がって我慢して、その挙句あてつけるような家出。  
「……これじゃあ、まるで子供じゃない」  
彩子は、そんな自分がたまらなく嫌になった。  
流川からの電話はもう数え切れないほどになり、携帯の着信記録を埋め尽くしている。  
今まで打とうともしなかったメールも、短い文ながらポツポツ届いた。  
たぶん探してる。きっと心配してる。  
そう思っても、時間が経つほど連絡は取りづらくなる。  
 
「彩子さん、帰らなくてもいいの?流川君、心配してると思うなあ……」  
「いいの、いいの!ほら、晴子ちゃんも飲んで!桜木花道、あんたもよ!」  
「イヤ、オレはウーロン茶でいいっすよ」  
 
この二人と一緒にいると、なぜか嫌なことをあまり考えなくて済む。  
日本に来てから散々二人を飲みに付き合わせてきた彩子だったが、一週間続くとさすがに気が引けてきた。  
彼らは、今の自分と違って暇ではない。  
それに気付いてからは、毎晩一人、ホテルのバーで飲んでいる。  
一度は外に出てみたが、クリスマスの装飾やら仲睦まじい恋人が目に入って、余計気落ちした。  
今日またこうやって外で飲んでいるのは、突然訪ねてきた二人に強引に連れ出されたからだ。  
 
「あ、モスコミュールお願い!あと、これ下げてね!」  
店員を呼び止めた彩子が、カラになった数本のグラスを指差す。  
晴子はそのグラスを一箇所にまとめると、「お願いします」と頭を下げた。  
「ご飯も食べないでそんなに飲んで……。なにがあったの?彩子さん」  
「なにもないわ」  
「それならどうして家出なんてしたんすか?」  
「……なにもないからよ」  
そう答えた彩子の顔を、桜木は不思議そうに見つめている。  
 
なにもない平穏な日々。刺激を常に求めているわけではない。けれど――。  
もっと話したい。もっと触れたい、抱かれたい。そう思えば思うほど、すべてが逆の方へ向かうのは何故なのだろう。  
「なんか全然アヤコさんらしくないっす」  
「そうなのよねぇ……」  
彩子はかわいい後輩たちに気を遣わせていることを申し訳なく思った。  
それにしても、まさかこの種の話で桜木に慰められるとは。  
高校の頃、ヤキモキしながら見守っていた二人の方がよっぽど上手くやっている。  
そんなことを思いながらグラスに残っている酒を飲み干すと、桜木の携帯が鳴った。  
「うるせー!そんなに怒んな、今から出るからよ!」  
桜木は出るなりたたみかけるように言うと、そのまま切ってしまった。  
「いや〜、ゴリがいろいろとうるさいんすよ。そろそろ帰らねーと」  
赤木先輩からの電話か、と思いながら腕時計を見ると、もう零時をまわっていた。  
 
 
 
店を出て晴子たちと別れた彩子は、まっすぐ滞在しているホテルへ向かった。  
シカゴのように肌を刺すような寒さではなく、酔いをさますにはちょうど良い寒さだ。  
風にすくわれ舞い上がった髪を、両手で押さえる。こんな何気ない動作でも、流川を思い出してしまう。  
毛先だけを巻いた今の髪型をずっと変えないでいるのは、珍しく流川が似合うと褒めたからだ。  
ちゃんと食べてるだろうか。風邪をひいていないだろうか。寝坊してないだろうか。  
考えるのは結局流川のことばかりだ。  
「何やってんのよ、あたし……」  
日本にいたって流川のことが頭から離れず、昔の自分にも戻れない。家出してきたことがバカバカしくなってくる。  
 
イルミネーションの中を一人で歩いていると、後ろから強く腕を掴まれた。  
掴まれたその感触には、確かに覚えがある。  
まさか、と思いながら振り返ると、そこには憮然とした流川の顔があった。  
「なんで……?」  
「きのうの朝、あいつらから電話が来た。毎日飲んだくれてるからどうにかしろって」  
流川が指差した先にいたのは、桜木と晴子だ。  
二人は意味ありげな笑みを浮かべ、彩子にガッツポーズをして見せると、街の中へと消えていった。  
一瞬のうちに、様々なことが頭に浮かび、線で繋がっていく。  
数日前、今度シカゴに遊びに行きたいと言った桜木に、自宅の電話番号を教えたこと。  
今日、ほとんど無理矢理連れ出されたこと。そして、さっきの桜木の電話――。  
やられた、と彩子は思った。  
二人が食事に誘ってきたのは、こうやって流川に会わせるためだったのだ。  
 
「……で、なんでわざわざ来たのよ」  
連絡もとらない女の言う台詞ではない。だが、今の流川は、日本に来ている暇などないはずだ。  
「あと一週間はゲームに出れねー」  
「は?」  
いぶかしげな彩子の目の前に、流川が右手を突き出した。その手には包帯が巻かれている。  
「どうしたのよ、それ!」  
「練習中にぶつけた」  
流川はとっさに嘘をついた。彩子がいなくなって壁にやつあたりした、なんてことは、恥ずかしくてとても言えない。  
「大丈夫なの!?」  
「全治三週間て言われた」  
「そう……」  
気まずさからか、彩子は流川の目を見ずにうつむいたままだ。  
「どーゆーつもりだ」  
声の調子で、流川がものすごく怒っているとわかる。  
あたりまえだった。行き先も告げずに家出し、電話にも出ず、メールも返してなかったのだ。  
「言葉にしないとわからねー。いつもそう言ってたのはそっちだろ」  
「二度と、こんなことすんな」  
「なんか喋れよ」  
何も言い返せない彩子を、流川は静かに責め続けた。  
「……ごめん」  
ようやく声をふりしぼった彩子の頭を、流川が胸元へ引き寄せた。周囲の視線を感じたが、そんなものは数秒でどうでもよくなる。  
ほんの二週間会っていなかっただけなのに、彩子は流川の匂いを懐かしく感じた。  
こうやって抱き合っているだけで、どこでも安らげる場所になりうる。  
そんな簡単なことも忘れていた。  
 
 
 
***  
 
 
 
二人がシカゴの自宅に着いたのは、クリスマスイヴの夜だった。  
「ずいぶん散らかってるわねえ」  
予想はしていたが、部屋の中は惨たんたる有様だ。  
彩子は大きな物から手に取って片付けながら、流川に責めるような視線を向けている。  
「……手伝わねーぞ」  
「あてになんかしてないわよ」  
この散らかった部屋を見ていると、流川が手伝わない方が効率良く片付くのは明らかだった。  
 
部屋がきれいになるまで一時間弱かかった。  
空港近くのレストランで食事を済ませたせいか、それほど空腹でもない。  
彩子はとりあえずワインとピザを用意した。  
「イヴだし、いちおう乾杯ね!」  
ロゼワインの入ったグラスを流川に渡し、かちりと軽く合わせると、彩子はダイニングでくつろぎはじめた。  
流川がこういうイベントに興味がないことは知っている。  
あたためたばかりのピザを流川の前に差し出すと、それはそのままダイニングテーブルへ置かれた。  
「食べないの?冷めちゃうわよ」  
「こっちのほうがいい」  
当然のような顔で言い、彩子を軽々と抱き上げる。  
その拍子に彩子のグラスからワインがこぼれおち、きれいな鎖骨を淡い薔薇色に染めた。  
 
彩子はそのままリビングのソファに下ろされ、流川の腕に抱かれた。  
大きなソファでも、二人で横になると結構狭い。彩子を抱きしめている流川は、少し窮屈そうだ。  
こうしていると、高校生の頃、彩子の部屋の狭いベッドで抱き合っていたことを思い出す。  
この家の馬鹿みたいに広いベッドよりも、少し窮屈なほうがいい。  
そんなことを考えながら、流川は彩子に口づけた。  
 
久しぶりに重ねた彩子の唇には少し戸惑いのようなものがあった。  
一緒に暮らしてしまうと、こんな甘ったるい刺激はやたら照れくさい。  
その照れくささを消したくて、流川は彩子のカシミアのセーターのすそに指をかけながら、首筋に唇をよせた。  
彩子の鎖骨のくぼみを濡らしているロゼワインを吸いとりつつ舌を這わせると、溜息のような吐息がもれる。  
流川が脱がしやすいよう、彩子の身体は柔らかくしなった。  
それは、流れるようななめらかさだった。身にまとっているものが、次々に床へ落ちていく。  
 
裸で抱き合うのは何ヶ月ぶりだろうか。それでも肌は吸い付き、あたりまえのように馴染む。  
記憶をたどらずとも、手が、唇が、肌がその感触を覚えている。  
何年も求め合ってきた温もりを、忘れるはずもなかった。  
女体特有のまるみを帯びた身体は、ただ何もせず腕の中に入れるだけでも安らぎを感じる。  
肌のなめらかさや柔らかさも、細かく皮膚がざわめくような高揚感をもたらした。  
もちろん、女なら誰でもいいわけではない。  
流川の、欲と名の付くすべては、彩子のためだけにあった。  
 
ほんの一瞬、唇が離れる。すると彩子はすかさず、ねだるように軽く鼻をこすり合わせた。  
流川の舌はそれに応えるように再び彩子の唇に滑り込み、ゆっくりとからむ。  
待ちきれないような、気が急くような切なさが、彩子の身体の奥からじわじわと滲み出す。  
 
彩子は思い至った。  
なにも変わっていない。  
からまる舌のやわらかさも、頬を優しく包む手も、長い睫毛をふせる仕草も、なにもかも変わらない。  
変わったのは自分だけ。  
流川中心の生活の中で、あれだけあった自信や好奇心を失った自分だけだった。  
 
「彩子」  
 
突然名前を呼ばれた彩子は、何が起こったかわからない、というような表情で顔を上げた。  
"おい"でも、"ちょっと"でも、"先輩"でもない。初めて流川に名前で呼ばれたのだ。  
「たぶんオレは、一生変われねーと思う」  
彩子は、まだ驚いた顔で流川を見つめている。  
「もし、それがイヤだったら……」  
別れたほうがいい。  
流川は、喉まで出かけたその言葉を深く飲み込んだ。  
我儘なのはわかっている。だが、彩子を手放すことなど到底考えられなかった。  
「……イヤなわけないじゃない」  
バスケ以外のことに関しては、まるで頼りない。  
中学生の頃から全く進歩のないこの男を、自分以外の誰が世話できるだろう。  
ダメなところも含めて、流川が好きなのだ。  
「あんたは、そのままでいいのよ」  
そう言いながら、彩子は流川の前髪を優しくかきあげた。  
何年も変わらない彩子の癖。  
彩子の手で、ひたいを静かに覆われると、不思議と気持ちが和らぎ、あらゆる迷いから解放される。  
 
彩子を抱きたい。流川は、そんな素直な欲のまま、白くまるい胸へ唇を落とした。  
痛む右手をかばいながら、唇、舌、左手、使えるもの全部で彩子の身体を愛撫する。  
それでも足りなく感じ、もどかしくなる。  
髪の毛から爪先にいたるまで、彩子の身体のすべてを覆いつくしてしまいたかった。  
 
彩子は、新鮮な感触を覚えていた。  
いつもは髪や頬を撫でたり、肩や腰に添えられている流川の左手は、どこかぎこちなく白い肌を滑る。  
愛しい。それだけが彩子の胸を埋めつくす。  
なめらかに胸を這う舌と全く調和してないその手に、彩子はそっと口づけた。  
 
胸もとを離れた流川の唇は、彩子の鎖骨や首筋を少し荒々しく動き回る。  
みずみずしく潤う唇からは甘い声がもれ、からみつく長い脚は時折細かにふるえた。  
白い肌は徐々に紅に染まっていき、これ以上ないほどに熱をもった身体は、濡れ、零れ落ちていく。  
備わっている感覚のすべてを使い、流川はそれらを感じとる。  
「……お願い。はやく………」  
耳たぶを唇ではさんだり、なめたりしながら、彩子が囁いた。  
まだまだ、と思いながらも、彩子の誘うような瞳には勝てない。  
だが、こんなふうに胸を焦がすような激しさとか、淫らな誘惑など、流川には全く不要だった。  
声も仕草も――、とにかく彩子のなにもかもが、流川の身体にこれ以上ないくらいの欲をもたらす。  
流川は彩子をきつく抱くと、そのやわらかい身体の中にゆっくりと沈み込んでいった。  
 
息苦しくても唇は離れない。  
二人の指は、喘ぎや吐息と共に、絡んだりほどけたりを繰り返す。  
革張りのソファが滴る汗で濡れると、二人はつながったまま床に転がり込んだ。  
毛足の長いラグのふわりとした感触を背中に感じながら、流川が彩子を見上げる。  
わずかに、彩子が微笑んだ。  
あたしに、まかせて。艶めいた紅い唇は、今にもそう動きそうだ。  
瞼をふせた流川の身体に、温かい重みが覆い被った。  
やわらかく熱い彩子に包まれていると、性的な欲望とはまた別のものが生まれ、全身を巡る。  
それは、とても言葉では言い表せないような感情だ。  
愛しさ。安心感。独占欲。そのどれもが当てはまるような気がする。  
 
身体をおこしたまま動いていた彩子が、身をふせ流川に抱きついてきた。  
動くたびに胸元はこすれ、尖った乳芯が刺激を受けると、ふくらはぎや爪先がぴんと張る。  
激しさと優しさが混在する抱擁の、どうしようもない甘さが彩子から力を奪う。  
動きが止まった彩子を下にすると、流川はそこらじゅうにキスをした。  
触れているかどうかわからないほど優しく、時には痕が残るくらい強く――。そうしながらも、自らを彩子に突き立てる。  
あらゆる場所から伝わる刺激が交差すると、彩子は、身体の芯からとろけるような感覚に包まれた。  
それを流川にも味わってほしくて、彩子も胸や首筋や耳に舌を這わせた。  
快感に溺れる彩子の吐息は、流川の身体を何度も火照らせる。  
一度だけでは足りずに、果てても、尽きても、身体は重なり貪り合った。  
 
「……いなくなってから、なにも手に付かなかった」  
 
荒くなる呼吸の中、少しかすれた流川の声が、彩子の耳の奥をくすぐる。  
たったそれだけの言葉が、彩子の心を満たす。雪がすべてを白く包むように、余計なものを消し去っていった。  
 
身体の中で、流川が小さな震えを繰り返している。  
終わりの瞬間が近いことを感じた彩子は、流川が離れてしまわないよう強く抱きしめた。  
今なら、素直になれる気がする。そう感じた彩子は、流川の目をまっすぐ見つめた。  
「お願い、このままで……」  
流川は、少し緊張したような目をした。  
だが、それはほんの一瞬だけで、すぐに穏やかな眼差しへと変化する。  
「いーのか……?」  
「ものすごく欲しいのよ」  
もみじみたいに小さな手をひく人を見るたびに、いつも心のどこかで思い描いていた幸せの光景。  
なかなか口に出せずにいたそれは、とてもささやかな彩子の願いだった。  
「実は、オレも……」  
震えと共に果てた流川が、彩子のやわらかな髪に顔をうずめる。  
「……欲しーと思ってた」  
それは、独り言よりも小さなつぶやきだった。顔を見なくても、声色から照れているのがわかる。  
 
彩子は、身体の内側と表面に流川の熱を感じながら、窓に視線を向けた。  
目に映ったのは、静かに降る大粒の雪。  
どうしてか今夜は、ちいさな命が芽吹く予感がした。  
 
 
 
***  
 
 
 
「次、いいわよ」  
彩子に促され、流川はバスルームへ向かった。  
シャンプーを取ろうとして思わず利き手を出し、眉間にシワを寄せる。  
打撲は快方に向かいつつあるが、少し動かすだけでも結構痛い。  
「いて……。洗うの、めんどくせー」  
自分でやったこととはいえ、うんざりする。汗だけ流して身体を拭いていると、バスルームのドアが勢いよく開いた。  
「髪、洗ってあげるわよ。座って!」  
彩子はタオルを受け取ると、流川をバスタブのへりに後ろ向きで座らせた。  
「目に入るから頭下げてよ」  
言われるがまま頭を下げ、彩子に髪をくけずられながら目を閉じる。  
泡立ちの中、細い指が頭皮を優しく滑る感触は、床屋とはまた別の心地良さだ。  
手を怪我している自分のため、彩子が髪を洗ってくれている。  
そんな細やかな気遣いは今だけではなかったが、流川は改めてありがたく思った。  
「……もっと、自惚れろよ」  
シャンプーの甘い香りがたちこめる中、流川がつぶやく。  
彩子が自惚れてもいいくらい、流川は彩子を必要としているのだ。  
洗った髪をタオルで丁寧に拭き終えた彩子は、返事の代わりに流川を抱きしめた。  
 
まだ、雪が降り続いている。  
彩子はバスルームを出ると、寝室からリボンのついた袋を持ってきた。  
「プレゼント!」  
流川が彩子から渡された袋を開ける。その中にはTシャツが数枚入っていた。  
「あんた、いっつもヨレヨレの着てるんだもの。スターのくせに!」  
「オレからは何もねーぞ」  
そんなことは今年に限ったことではなく、はなから彩子は期待などしていない。  
「いいのよ。もう、もらったから……」  
必要とされている実感。小さな命への希望。  
かたちのないそれらは、彩子が何よりも欲しかったものだ。  
隣の家からは、今日もピアノの音が聴こえる。厳かな旋律に包まれた二人は、自然と寄り添い、唇を重ねた。  
 
馬鹿みたいな広さのベッドの真ん中で、身を寄せ合う。  
猫のように身体をまるめた流川は、普段どおり彩子の胸もとへ顔をうずめた。  
そうやってお互いの体温を感じながら、二人は温かく心地良い眠りに落ちていく。  
 
――もしかしたら、来年の今日は三人で過ごしているかも。  
 
そんな光に満ちた未来を想いながら、イヴの夜が静かに更けていった。  
 
 
 
 
 
END  
 
 

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