お兄ちゃんが引退して、代わりに私がマネージャーになって。  
忙しい日々が過ぎてゆく。  
新しいチームで、前よりもっと強くなるために、よりハードな練習になって。  
マネージャーの私は、選手のみんなに比べたら疲れることなんかしてないのに、家に着くとすぐにベッドに倒れ込む。  
夢の中でも、出てくるのはいつも流川君や桜木君ばかり…なんだけど。  
最近、三井さんが出てくることが多くなった気がする…。  
 
お兄ちゃんが引退して淋しいのか、勉強の邪魔したいのか、休みの日の練習が終わると、三井さんがうちに来るようになったからかな…?  
 
『赤木、漫画の続き借りに来たぞー』  
あ、今日もまた三井さんが来た。  
お兄ちゃん、木暮さんとまだ図書館だと思うんだけどな…  
『三井さん、お疲れ様です…あの、お兄ちゃんまだ帰ってなくて…』  
三井さんは頭をがしがし掻きながら、子供みたいに口を尖らせる。  
『なんだよあいつ、ガリ勉野郎め』  
帰って貰うのも申し訳ないしなぁ…  
『もう少ししたら帰って来ると思うから、良かったら上がってください!』  
お兄ちゃんの殺風景な部屋に案内すると、三井さんはベッドに寝そべって勝手に漫画を読み始めた。  
毎日一緒に練習してるのに、三井さんと喋ったことって、あんまりないなぁ…。  
彩子さんと違って、宮城さんや三井さんにはなんとなく声をかけにくい。  
もっと色々話したいな…  
そんなことを考えながら台所に行って、麦茶を持って部屋に戻ると…三井さんは既に寝息をたてていた。  
 
起こさないように、そっと麦茶を机に置いて、寝顔を覗き込む。  
思ったより長い睫が、窓からの光で頬に影を作っている。  
華奢ながらにごつごつした大きな手や、バランス良くついた筋肉が、なんだかとても綺麗に見えた。  
(私も、三井さんみたいにシュートが打てたら…どんなに気持ちがいいんだろう?)  
あどけない寝顔を見つめながら、ベッドの傍に座ると、暖かな秋の日差しが心地良くて、いつしか瞼が落ちていった。  
 
空が青からオレンジ色に変わる頃、俺はぼんやりと目を覚ました。  
見慣れない天井を見渡して、寝返りを打つ。  
…!?  
鼻先を、さらさらとした髪がくすぐった。  
シャンプーの優しい香りが広がる。  
思わず勢い良く飛び起きると、眠りに落ちる前の記憶が蘇ってきた。  
(そうだ、赤木の家に来て、寝ちまったんだ…)  
それはそうと、なんでこいつがここで寝てるんだ。  
無防備すぎるだろ、いくら兄貴の友達だからって。  
(しっかし、いかつい赤木の妹とは今更ながらに信じられねーよな…)  
細い肩、白い肌。  
小さな唇は、自分のものとは違い、艶々と潤っている。  
(キスしたのなんて、どんだけ前だっけな…)  
数ヶ月前のバスケ部に戻る前の日々が、随分昔のことのような気がする。  
あの頃は、空虚な心を満たす為に、気持ちも無いのに付き合ったりもした。  
(馬鹿だったよな…俺)  
これからは大事にしたい。  
バスケも、自分も、友達も。  
いつか好きになる誰かも。  
夕日で輝く春子の細い髪を、三井は無意識に、優しく撫でた。  
 
『ん…』  
吐息混じりの掠れた声が洩れる。  
体育館に響くいつもと同じ高めの声が、甘く、柔らかく、三井の胸を震わせる。  
静かな部屋の中で、自分の鼓動が速くなっていくのがはっきりとわかった。  
(やべえ)  
なんで、今まで何とも思わなかったんだろう。  
こんなに可愛いのに。  
桜木がこいつのことを好きだからか?  
赤木の妹だから?  
(いや、違う。俺がバスケしか見えてなかっただけだ)  
高鳴る心臓とは裏腹に、三井の頭の中はとても穏やかだった。  
ゆっくりとベッドから降り、春子に近付くと、天使のように無垢な唇に、そっと自分のを重ね合わせた。  
 
ふいに石鹸の香りがして、春子は夢の中から戻ってきた。  
ぼんやりとした視界の先には、見覚えのある長い睫があった。  
(キリンみたい)  
幼い頃、兄と2人で行った動物園を思い出した。  
……。  
………?  
…………!?  
重なった唇が微かに震え、三井は目を開ける。  
そこには、大きくて真っ直ぐな、茶色い瞳があった。  
『…起こしちまったか』  
低くて落ち着いた声が、部屋に響く。  
数時間前と同じように、がしがしと頭を掻く姿を見て、春子は急にせつなくなった。  
澄んだ瞳に、涙が滲む。  
それは大きな粒となり、白い頬を伝った。  
『悪い。寝てる時なんて狡いよな。』  
三井の大きな手が、優しく、優しく、春子の頭を撫でる。  
その温もりが、一層胸を締め付ける。  
(違う…違うの。)  
 
細い指が伸びる小さな手で、自分の目頭をおさえる。  
それでも涙は、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。  
(嫌だった訳じゃないの。)  
肩が小さく上下する。  
(どうして…)  
(どうして謝るの?)  
冷たい雫が膝に落ちる。  
(初めてのキスが、三井さんとで…嬉しかったのに。)  
(どうして謝るの??)  
やっと気付いた自分の気持ち。  
憧れじゃない、本当の 好き 。  
なのに、気付いた瞬間、砕けてしまった。  
三井さんには、 好き が無かったんだ。  
後から後からこみ上げる、涙とせつなさに、春子は顔を覆う手を離すことができなかった。  
 
固い床に胡座をかいて、三井は泣いている横顔をずっと見つめていた。  
(泣かせるつもりじゃなかったんだけどな)  
じゃあ、どんなつもりだったのかと聞かれたら、言葉に詰まってしまうのだけれど。  
いつも明るく仲間に声をかける姿や、密かにテーピングの巻き方を勉強するひたむきな姿を思い出して、こんな状況の中、三井の心は穏やかだった。  
(やっと気付いたんだ)  
大事にしたい誰かが、誰なのかを。  
目を細めて机を見ると、氷が随分小さくなった麦茶が2つ並んでいた。  
もう少しして、泣き止んだら…ちゃんと言おう。  
ふられちまうかもしれないけど。  
この小さな手で、ひっぱたかれるかもしれないけど。  
今度はちゃんと、起きてる時に。  
柔らかい唇にキスするんだ。  
何度も。  
何度も。。  
 

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