『…いつか、必ず…』
『──ああ、願いを果たせたら、な』
『待ってますから、何年でも、何十年でも、ずっと待ってますから…!』
『……、すまないな』
あの時、泣いていた少女の想いに答える事ができていたなら。
もっと早く、彼女への想いに気付き、その肩を抱いてやれたなら。
──何が、変わっていたというのだろうか──。
【霧狂い】
「──チ」
とどめを刺し、倒れ伏した魔獣の身体から溢れたどす黒い鮮血が、彼の白い装束に跳ねる。
──結局、此処もハズレだった。
「…何が、最高峰の技術だ」
ゼルガディスは苛立ちに再び舌を打った。
この程度、あの赤法師レゾの魔道技術に比べれば児戯も同然。造り上げた合成獣の肉体組織はあまりにもお粗末で、知能も低くただ馬鹿でかいだけの化け物がひしめくこの研究所には、目ぼしい資料は何も無かった。
あらゆる生物の性能を最大限に高め、かき集めた合成獣を造り出し、魔族の脅威に対抗するという名目によって建てられた研究所。今度こそはと足を踏み入れたゼルガディスの期待は、引き裂かれた檻の隅に転がっていた魔道士の腐乱死体を見た時に砕かれた。
そうして彼は、研究所全体に施術されていた魔術結界のおかげで外に出る事が出来ずにいた合成獣達の熱烈な歓迎を受けたのだった──。
「…自分で造り出した飼い犬に喰い殺されるハメになるとはな。さて、一気に研究所ごと片付けるか」
これ以上、此処を漁っても何の成果もあるまい。ゼルガディスはありったけの魔力を両の手に集め、呪文を唱える。
「──烈火球──!」
極限まで凝縮された炎は、あっという間に部屋じゅうを駆け回り煉獄となる。
凄まじい熱気に煽られながら、ゼルガディスは一つ溜息を吐くと踵を返して焼け爛れゆく建物を後にした。
──彼は知らない。
自らが放った炎が、岩壁の模様が如く巧妙に隠された封印符を事もなげに焼き払った事を。
瓦礫と化した建物の地下奥深くで、何かが蠢いた。
もうもうたる埃が降り注ぐ小さな部屋の中に安置された、真っ黒な壺のような、表面にびっしりとルーンの封印が施された棺。その重い蓋がかたかたと震え、ほんの少しの隙間が生じる。
刹那、辺りは深紅に染まった。
それは恐ろしい程に密度の濃い霧──まるで真っ赤なペンキが、そこらじゅうにぶち撒けられたかのように、小さな地下室を赤く赤く染め上げる。
『──ァ、アア、──ア』
引きつれた、か細い声がした。
『ア──ァア、ア、──ァ』
泣き声──ではない。それは紛れもなく、狂おしいまでの歓喜によって上げられた声だ。
真っ赤な霧が意志を持つように流れ、部屋の中心にわだかまる。
『ァ──アアあ、あァ、あああああ』
ごぶり。
赤い霧の塊は今や鮮血で満たされた沼のように成り果てていた。ごぼごぼと液体の溢れる音を立てながら、沼の中心で何かが隆起し始める。
『──あ、わた、私、私、は』
驚く事にソレは人の言葉を発し始めた。
赤い沼から産まれたモノはみるみるうちに明確な形を取り、やがて──。
研究所を後にし、街道から外れた森の中にて休息をとっていたゼルガディスは、ふと月を見上げた。
──あと、何度繰り返せばいいのだろう。
かつての仲間達と別れ──彼は随分と歩いてきた。いつか、人間に戻れたなら、帰ってもいい場所もできた。
しかし、望む方法だけが、見つからない。
繰り返される落胆に、心が疲弊していくのが解る。
「──駄目だ、まだ──」
月を睨み付け、剥がれ落ちそうな思いを止める。
──そう、諦める訳にはいかなかった。
「…?」
ふと。違和感に目を細める。
先程とは何かが明らかに変化している。
「──…ッ!?」
違和感の正体に気付いたゼルガディスは、剣を取ると素早く立ち上がった。
赤い。月が、──赤い。
朱月、などというレベルではない。禍々しい深紅に染まった月が、ゼルガディスを嘲笑うように照らしている。
いや、赤いのは月だけではない──。
「…霧…か!?」
いつの間にか、ゼルガディスの周辺はぞっとする程真っ赤だった。
「…これは…!」
赤い霧に囲まれたゼルガディスは、油断なく周りを見渡す。
どうやら赤い霧が出現しているのは彼の周りだけのようだ。
魔族の類か悪霊か。いずれにしても、この状況はまずいと本能が告げる。
魔術で薙ぎ払おうにも、相手の本体が何処にあるのか──。
(──甘、い)
赤い霧の力なのか、何か甘い匂いがする。
まるで食虫花の香りをイメージさせる、頭を揺さ振るような不快な甘い芳香。
「チッ…!青魔烈弾波──!」
こうなれば何処でも構わない。ゼルガディスは適当に当たりをつけて精霊魔法を放つ。
蒼い衝撃波は赤い霧を難なく貫き──。
「…効かぬ、というのか」
何もなかったかのように、再び赤い静寂が戻る。
「──ならば」
ここら一帯を丸ごと焼き払えばいい。そう考えたゼルガディスは、獄炎を手のなかに──。
「…ゼルガディス…さん?」
今まさに烈火を放とうとした瞬間、──聞いてはならない声を聞いた。
違う。そんな筈は無い。
『彼女』が、今この場に、彼の前に現れる筈が無い。
きっと、この霧には幻覚作用があるのだろう。
でなければ、あんなにも焦がれた女性が自分に笑いかけてくれているなんてあり得ない──。
「ゼルガディスさん?」
ソレは、きょとんとして、明るい蒼の瞳を丸くした。
白い法衣に飾られたアミュレットがしゃらりと音を立て、ソレは、ゼルガディスのよく知っている声で、姿で、彼のもとへと歩いてくる。
「久しぶりですね、ゼルガディスさん!」
──まるで、女神のように微笑んだソレは。
ゼルガディスの膝を折るのに、充分な力を孕んでいた。
「──アメリア」
ゼルガディスの震えた唇が、その名を紡ぐ。するとソレは、宝石のような煌めく笑顔でゼルガディスを見下ろした。
「そうですよ!覚えていてくれたんですね、ゼルガディスさん!」
堪らなく嬉しそうに、アメリアはゼルガディスに抱きついた。ゼルガディスが膝を折っているおかげで、ちょうどいい位置関係にある。
「──あ」
暖かい。柔らかい。
魔性のモノならば決して再現できない感触がゼルガディスを包む。
「ずっと…ずっと逢いたかったんです、ずっと──!」
力の限り彼を抱き締めながら、アメリアは涙声で訴える。ゼルガディスは、呆然とその肩に手を回した。
「…これは、夢か」
熱に浮かされたような頭は、もう何も思考を展開できない。
アメリアが、あの愛しい娘が、彼を抱き締めている。
夢だとしたら、それは奇跡のような悪夢だ。
「──夢なんかじゃ、ないんですよ、ゼルガディスさん」
アメリアは今までに見たことの無いような艶めかしい笑みを浮かべると、貪りつくかのように彼の唇を奪った。
「…んぅ、ん、ふ」
何度も角度を変え、舌を差し込まれる。唇を甘噛みされ、唾液を飲み干すたびにゼルガディスの喉が上下する。
──まるで甘い毒のような、身体をとろかす激しいキス。
「ん、…はぁ」
さすがに息苦しくなったのか、名残惜しそうに唇を離すアメリアの顔は、明らかに欲情している。
「ゼルガディスさん…」
悩ましく己の名を呼ぶ声に、ゼルガディスはとうとう理性を放棄した。
素早く体制を変え、アメリアを組み伏せるように押し倒し、シャツを捲り上げた。
ぷるんと震えた彼女の双丘を、掌で包み込むように愛撫する。
「あっ…」
岩で覆われたゼルガディスの手が、緩急をつけながらアメリアの乳房を揉みしだく。普通の人間では為し得ない快楽が、アメリアの身体を震わせた。
「ゼルガディスさんの手、気持ち、いい…」
うっとりとしながら、アメリアは快感にわななく。
その首筋に舌を這わせながら、ゼルガディスはつんと立った乳首を優しく摘み、爪弾いた。
「あ、…あんっ」
可愛らしく喘ぎ、アメリアの吐息は熱くなる。ゼルガディスとて、次第に身体の奥深くで情欲が熱を帯びていくのを止められそうになかった。
──止めるつもりもさらさらなかったが。
桜を散らしたかのようにほんのりと染まったアメリアの肢体。ゆっくりとアメリアの下衣を取り去り、下着の中に手を入れる。
「ひゃっ…!」
びくり、と震えながらも、アメリアの秘所はしっとりと潤い始めていた。ゼルガディスの顔に微かに笑みが浮かぶ。
「…濡れてるな、アメリア?」
「や、恥ずかしいです…!」
「すぐに良くしてやる…」
低い声で耳元に囁き掛けながら、指を蠢かせる。
くしくし。くちくち。
柔らかい襞を撫で、陰核をかするように。とろりとした愛液が、ゼルガディスの指をしとどに濡らす。
「んぅ…ッ、あ、は──」
愛しい人に秘所を弄られ、アメリアは息も絶え絶えになる。濡れた音が耳に届き、いっそう羞恥に顔を赤くする。
「ふ、…んぅ、ッん──」
アメリアの愛液で濡れた指を、ゼルガディスは見せ付けるように舐めてみせた。
「…ん、アメリアの味がするな」
「な、何やってるんですかー!」
ふとした遊び心だったが、アメリアには耐え難い恥ずかしさだった。がばっと身を起こすとゼルガディスを睨み付ける。
「……ずるいです」
「え?」
「…私だって、ゼルガディスさんの、…その、…見たいです…」
消え入りそうな声で、アメリアは拗ねたように口を尖らせた。子供のような言動に苦笑しつつ、ゼルガディスは自分の下衣の前を寛げる。
「…わ、ぁ」
目の前に現れたゼルガディスの陽根をまじまじと見つめ、意を決したようにアメリアが手を添えた。
竿をゆっくりと撫で、袋を拙い手付きで揉み始めた。先走りの液が滑る。
「…ん」
技巧など無きに等しいが、アメリアが己の為に手を動かしてくれているのが嬉しかった。
「…気持ちいい、ですか…?」
不安げに見上げてくるその顔が、堪らない。
「──ああ、とても」
今すぐ彼女を押し倒して乱暴に貫きたい。その胎内をこじ開けて中に入りたい。
ドス黒い欲望がゼルガディスを突き動かす。
「…アメリア、──いいか?」
細い肩を掴み、再びアメリアをそっと地面に横たえようとしたが、直では痛いかと思い至り自分の外套を下に敷いた。
期待に潤んだ瞳を瞬き、アメリアはこくりと頷いた。
「…はい、ゼルガディスさん。来て…下さい」
もうアメリアの入り口は充分に濡れている。ゼルガディスは安心させるように口づけを交わすと、アメリアを出来るだけゆっくりと貫いた。
アメリアの胎内は信じられない程柔らかく、暖かい。今までに女を抱いた事が無い訳ではないが、それでもアメリアのなかは極上の心地よさだった。
「…ん、──ッ!ぁ、ああッ」
ゼルガディスの肩にしがみつき、アメリアは大きく喘ぐ。苦痛だけではない、凄まじい快楽と至福感が彼女を満たしている。
「ゼルガディスさんが…っ、私と、繋がって…!」
ゼルガディスに揺さ振られながら、アメリアは嬉しそうに腰を踊らせる。
「ああ…っ!あ、あ──」
ゼルガディスはだんだんと律動を早めていく。追い上げるような動きは、アメリアを更なる高みへと導いて──。
「ゼルガディスさんっ!私、私…!あなたが、大好きです…!」
喋る事すら辛いだろうに、それでもアメリアは想いを伝えんとゼルガディスを抱き締める。果てはすぐそこだった。
こんなふうに、アメリアを抱きたいとずっと思ってきた。ずっと、アメリアが欲しくて堪らなかった。
「──アメリアッ…!」
「あ、あぁ、あ──!」
達する寸前に己を引き抜いて、彼女の腹部に白い欲望をぶち撒ける。同時にアメリアもびくびくと痙攣し、喉を反らせて絶頂に至る──。
──その時を待っていた。
ゼルガディスが、晒されたアメリアの喉を鷲掴む。
「…く、ぁッ!?」
突然の凶行に、アメリアは驚愕する。たった今まで愛し合った筈の相手に怯え、息を詰まらせた。
「くる…しッ…!ゼルガディスさ…!どうして…ぅうッ…!」
喉に喰らいつく手はまるで万力のように、アメリアを捕えている。がりがりと弱々しく引っ掻いても、岩の肌にはなんの効果も為さない。
「…何故かは、お前が一番良く知っているだろう」
底冷えするような、ゼルガディスの憎悪の声。
「──お前は、何だ」
そうして、アメリアの姿をした何かは諦めたように笑った。
「…気付いて、いたんですか」
「アメリアの声で喋るな」
首をありったけの力で締め上げられながらも、ソレは普通に言葉を発する。ゼルガディスはいかにも不愉快そうに口元を歪めた。
「私は、貴方に救われたモノ。貴方のおかげで再び産まれることができたモノ」
声も姿も変わらない。だが、アメリアの顔をしたモノの目だけが、赤く赤く染まり始める。
「…私は、あの研究所に封じ込められていたの」
ぴく、とゼルガディスの髪が揺れた。
「淫魔サキュバスと、霧状の下級魔族を混成した合成獣。…それが、私」
あの紅い霧の正体に、ようやくゼルガディスは思い至った。
つまり、紅い霧はこの女そのもの。サキュバスの能力でゼルガディスの心に介入し、アメリアの姿を取った──という事だろう。
「貴方の心に触れて、全部分かった。貴方は、…私と同じ、望まぬままにその身体を得たひと」
アメリアのカタチをした淫魔は、ゼルガディスの頬に手を伸ばす。そこには敵意も殺意もない、慈しみを伴う暖かみがあった。
「私を助けてくれた貴方に…お礼をしたかった」
「アメリアの姿で俺に抱かれる事が礼だとでも?」
ゼルガディスの声はあくまでも冷たい。淫魔の紅い瞳から、涙が溢れ出す。
「貴方の心に触れた時…痛くて悲しくて破裂しそうだった。たった一人で、ずっと、歩き続けて…だから、貴方が、一番求めていたひとになりたかった」
淫魔は懺悔をするように泣きながら、ゼルガディスの頬を撫でる。
「貴方を…救いたかった」
ぎち。
ゼルガディスの胸の奥で、何かが軋む。
これ以上、この淫魔の声を聞いてはならないと、頭の中で警鐘が鳴り響く。
「貴方と一緒に行きたい。合成獣にされた身体を元に戻す為の力になりたい。貴方を…愛してるから」
「…ふざ、けるな」
淫魔が、何をほざく。男の精さえ得られるなら、どんな嘘さえも纏う悪魔が──!
喉に掛けた手が、かたかたと震える。この憎しみは本物だ。ゼルガディスはぎりりと歯を喰いしばる。
アメリアの姿をした悪魔が、涙をとめどなく溢れさせながらゼルガディスを見つめる。淫魔は本気だった。本気で、ゼルガディスを愛していた。
その孤独に、その傷に。寄り添いながら生きていきたいという想いは、紛れもない真実。
それが、ゼルガディスの心をぐちゃぐちゃに掻き乱す。
「…なんて、…可哀想なひと…」
ぎち。
「──く」
その言葉を、聞いて。
すぅっ、とゼルガディスの手から力が抜ける。
拘束から解放された淫魔が、信じられないと言わんばかりに嬉しそうに微笑む。
その笑顔が、あの少女にあまりにも似て──。
「──崩霊裂」
ゼルガディスの放った蒼い火柱が、瞬時に淫魔を包んだ。
「ぎぃああぁあああぁああああああああああああぁぁあああッッッッ!?」
存在そのものを引き裂かれる苦痛に身をよじり、耳を塞ぎたくなるような凄まじい悲鳴をあげて淫魔が滅びゆく。
何故。
蒼い業火に灼かれながら、淫魔はゼルガディスに手を伸ばす。
何故。
ゼルガディスは伸ばされた手を、冷ややかに見るだけだ。
何故。
「──なぜぇえエエエエッ──!?」
淫魔の断末魔が響き、蒼い炎がゆっくりと消え去る。
後には、最早何も残らなかった。
「──く、くく、…く」
くぐもった笑いを漏らし、ゼルガディスは最初と同じように木に身体を預けてへたり込んだ。
「…何故…だと?」
くつくつと笑うその声は、ただ自虐的なものを孕んで。
「──アメリアを、穢しやがって」
ゼルガディスは、憎悪に肩を震わせながら笑い続けた。
アメリアが、彼を憐れんだ事など一度もない。
彼女はいつだって彼を励まし、力強く笑ってくれた。それだけの事が、どれだけの支えになったことか。
──それは、今でも色褪せない思い出としてゼルガディスの心に強く残っている。
『可哀想なひと』
その言葉さえ言わなければ、道を共にしてもいいとすら思え始めていたのに。
アメリアが決して言わなかった言葉を、アメリアを纏った淫魔が言った。
それが、どうしても許せなかった──。
「…くく、はは…は」
ひたすらに笑えた。
「は、ははは、は…はぁ、はは」
淫魔ごときに誑かされ、こんな場所で、下半身をだらしなく晒したまま笑っている。
可笑しくて──笑いが止まらない。
「…はは、……は」
──アメリアと別れてから、既に二百年の月日が流れたというのに。
未練がましく想いを引き摺り続ける自分が、滑稽で堪らない──。
「はは、は、…ぁ、あ」
がたがたと震えている肩は、笑いの所為だ。
次から次へと溢れる涙は、笑いの所為だ。
「…ァあ、ッああ、あ」
がりがりと内側から斬り裂かれるような痛みも──きっと笑いの所為だ。
「ああ…あ、あ」
探す。
決して諦めない。
誓いを磨耗させたりしない。
いつか、必ず人間に戻ってみせる。
そして──セイルーンに帰ると、約束した。
「あぁ、あ…あぁあああぁ…!」
最早自分を誤魔化しきれずに、ゼルガディスは哭いた。
毒の紅から色彩を取り戻した月は、二百年前と変わらぬまま、ただ一人慟哭する男を照らしていた。
了