風呂上り、全身から湯気をたちのぼらせながら宿屋の階段を上るあたし、リナ・インバースはぼんやりと考えていた。  
実はお風呂に入っている間もずっと。ぼんやりしていてあやうくのぼせてしまうところだった。  
お風呂を出て自慢の長い髪を乾かせば、もう、あっというまに真夜中だった。  
 
近頃あたしはびみょ〜に気になってることがある。  
あのくらげ……もといガウリイが果たして本当に男として機能しているかということに。  
だって、おかしいじゃない?  
天才美少女戦士兼魔導士リナ・インバース、そう、このあたしと2年間も一緒に旅をしてるっていうのに、  
それもあっちはちょうど盛りの年頃だろうし、こっちだって年頃のうら若き乙女よ!?  
つぶらな瞳にちいさめな愛らしいリップ、ちょっと胸はちいさいけど……いくら食べても肉のつかないこのスレンダーなナイスバディをもつこのあたしと四六時中ずっと過ごしてきてなにも感じないってどういうわけ!?  
 
それだけじゃない。  
あたしはあのくらげが夜一人で出かけていくのをみたことさえ一度もない。  
つまり、その……ガウリイが色街へ出かけるところを。  
ふつうの男だったらあるだろうその行動パターンをこの2年間一緒に旅している間、彼は一度たりともしていないのである。  
かといって、童貞でもなさそうな彼。  
もうみなれちゃったけど、普通、あれだけの金髪と碧眼を持ったハンサムなら女の子にほって置かれないと思う。  
……たとえ少々足りなくても。  
事実、街中をふたりで歩いていると……感じるわ、感じるわ、ガウリイに見惚れる女の子の視線。  
あのボケは屋台の食い物ばっかりヨダレすすりながらみてるけれど。  
そんなふうに、モテるには十分な要素を満たしておきながらもガウリイからは遊んでいる空気が感じられない。  
それになによりこの「あたし」と一緒に旅してて一度もそういう雰囲気にならないのがおかしい!  
……ひょっとして、あいつ、不能?  
 
そんなことをあーだこーだぐだぐだ考えながら廊下を歩いているといつのまにか部屋の前。  
だが、ドアノブに手をかけようとしてあたしは違和感を感じた。  
自分の部屋についてではない。その隣室、……彼のいるはずの部屋。  
そこからなにか、押し殺すような、くぐもったような溜息が聞こえてくるのである。  
あたしはそっと……ドアの鍵穴から中の様子をのぞきこんだ。  
 
 
心臓がまだばくばくと鳴っている。  
あんなのガウリイじゃない……!!  
あの、のほほんとした男にあんな切なそうな声があげられるはずがない。  
あたしは後悔していた。  
さっきまではあんなに彼の性欲うんぬんが気にかかっていたというのに、実際それを目にしたらいたたまれなくなった。  
そう、みてしまったのである。ガウリイがひとりでいたしているところを。  
 
ちいさな鍵穴から中の様子がはっきりとみえるわけではなかった。  
けれどあたしにはそれだけでじゅうぶんだった。  
そこから感じられるみだらな空気だけで。  
その息遣い、呻くような小さな声、きしきしと揺り動かされるベッドの音が耳に入り込んでくる。  
彼は没頭していた。  
あたしが廊下を歩く音すらも気がついてしまうはずのガウリイが、それにすらまったく気がつかなかったようだった。  
その中の熱気、ガウリイの苦しそうな溜息、きっと、汗も流しているのだろう。  
彼はあたしがのぞいていると知ったら、どんな顔をするだろう……?  
そこまで考えるとひどく動揺した。  
胸が、その脈動をはっきりと感じられるくらいに、そこからはみだしそうに感じられるくらいに、痛いほど鳴っている。  
その感触が室内のガウリイまで伝わってしまうような気がして、あたしはそっと自室へ飛び込んだ。  
 
その晩あたしが一睡もできなかったのはいうまでもない。  
へんな空気にあてられて、隣の部屋ではまだそれが続けられているのかと気になって、  
あの溜息の音がまだ耳に残っているような気がして、あの日の前でもないのにあたしの身体は疼いた。  
かしこい指はいつも的確にあたしのよいところを刺激し、あっというまに安らかな気持ちで眠らせてくれるというのに、その夜は違った。  
いくら達しても、いくら達しても、あの空気にふれたあとには何かが足りなかった。  
ベッドのなかで火照った身体を抱えながら、あたしは途方にくれた。  
 
 
つぎの日からあたしは、自然な態度で彼と接することができなくなってしまった。  
昨日の様子を微塵もあらわさずに、いつも通りののほほんとした調子で挨拶してきた彼をみて顔が熱くなる。  
「ん〜、リナ、お前どうしたんだぁ? 顔赤いぞ」  
こんな調子なのがなんとも憎らしい。  
そしてあろうことかその大きな手であたしのおでこを触ってきた。  
いつもなら、「ちょっと、さわらないでよ!!」とかそういう台詞が瞬時に飛び出してくるはずのあたしの口はなぜだか動かない。  
そのまま大人しくガウリイの手に触られている。  
彼はじぶんのおでこにも手を当てて熱を比べた。  
「ん〜? 熱はないみたいだな。調子は大丈夫なのか」  
こんなふうに保護者面して面倒をみようとしてくる。  
それがなんだか今はますます腹が立った。  
「……あの日、じゃないよなぁ。なんかこの間だったみたいだし」  
こんなことを平然とした顔で言う。  
そう、彼にはなぜだか毎月あの日がばれてしまう。  
 
長い間触れていた手が漸くおでこから離された。  
その指をの滑らかな動きをみてどきりとする。  
これは昨夜、あれを触った指なのだ。  
「お、おいリナ、どうしたんだよ、……なあ?」  
困ったような声をだすガウリイの前で、あたしは身体が火照るのを抑えられそうにはなかった。  
 
覗かれたほうより覗いたほうが気まずいものだとはよく言ったもので、あたしはガウリイとどう接したらいいのかわからなくなってしまった。  
いつもなら気まずい気持ちがあっても食べ物の奪い合いかなんかしているうちに自然と元に戻って  
いるあたしなのだが……今回は最悪だった。  
なにが最悪ってそのメニューよメニュー!  
 
朝、モーニングセットを頼めば出てきたのは焼かれたぶっといウィンナーソーセージ  
がジューシィな肉汁を滴らせながら幾本も幾本も並んで、って……昨日あんなのみちゃったらそ〜んなもの誰が食えるかっつーの。  
あたしが一口、二口、ポタージュスープを大人しく飲んでいる目の前で彼、ガウリイは口の周りに油をてからせながら夢中になってソーセージを頬張っている。  
いつもはウィンナーの両端から食いちぎり合って、どちらも一歩も引かぬ勢いでテーブル上を戦場にして争っているのだが……食事時ってふつーはこんなに静かなものなのね。  
その違和感を彼も感じ取ったのか、ガウリイが手を止める。  
「なんで食べないんだぁリナ? ウィンナー大好物だろ、お前さん」  
……大好ぶっ!  
瞬間、あたしはポタージュスープを吹いた。  
「きったねーなー〜、なにすんだリ……? リナ?」  
あたしは完全に固まっていた。  
みるみるうちに頬が熱くなるのが自分でもわかる。  
目の前の空色の瞳が不思議そうにあたしをのぞきこんでくる。  
 
「さっきからぼ〜っとして……ひょっとしてダイエット中かあ?   
お前さんそれ以上やせるとただでさえ小さい胸が本格的にまな板になるぞ」  
こ、こんのぉ〜セクハラ男おおおぉっ!  
すぱーーんっ  
と、いつもならガウリイの頭、気持ちのいいぐらいの音を立ててスリッパで叩くわよね。  
だけどやはり手も口も動かなかった。いや、なんというか彼に触れる勇気が持てない。  
いつ頭を直撃されるのかと身構えてる感じのガウリイがまたまた不思議そうな顔つきをする。  
そこで今度はデザートが届いた。それをみてぎょっとする。  
フルーツ入りのヨーグルト……あのメニューの後にこれじゃあ、あまりにも刺激が強すぎる。  
なに、意識し過ぎですって!?  
わぁるかったわね、これでもあたしの乙女心は敏感で繊細につくられてるのよ!  
だってさ、それくらいになんだかショックが大きかったんだから。  
郷里のとーちゃんとかーちゃんがそーゆーことしてあたしとねーちゃんが生まれたってのを知ったとき以来の衝撃というか。  
このネッシーみたいにぬぼ〜っ とした男にもそういうところがあったなんて、なきゃないでそれこそ珍獣みたいだけど、あったらあったでその事実をなかなか受け入れられないのだ。  
……そういうところをあたしには完全に隠して接しているわけよね。  
だとしたら意外と器用なものである。  
それとも、『どんぐり目のぺちゃぱいのこども』は完全に対象外ってわけ? 妹みたいにしか思えないとか?  
胸、おっきいのが好きなのかな、やっぱ……。  
 
【おぉ〜、あのねーちゃん立派な胸してんなあ!】  
ウェイトレスのねーちゃんなんかが豊満な肉体をゆっさゆっさ揺らしながら注文を取りにいく姿を目にするとそうやって感嘆の声を漏らすガウリイ。  
すかさずこちらに目を向けてわざとらしく溜息をつく。  
【あ〜あ、お前さんもせめてこれくらい……いや、これくらいあればちっとはマシなんだがなぁ】  
手で具体的なサイズを作ってみせるところがなんともイヤミである。  
【あ、なんだったら俺が揉んでおっきくしてやろーか?】  
白い歯をむき出しにしてにやにやしながら自分の胸の前でお椀型に丸めた両手を揺  
すってみせる。  
あたしの鉄拳が飛んでくることをわかっててわざわざそーいうクソたわけたことをしてくるのだ、この男は。  
 
まぁ、それはともかくとしてガウリイがあたしにしゃべる下ネタはこの程度だというのが言いたかったのである。  
それも普通の男がねーちゃんの女体を嘗め回すようにしてみるようないやらしい視線ではなく、その口調にもまったく熱っぽさが感じられない。  
ごくふつうに感想を述べているような、しいて言えば余裕を感じさせるような口調なのだ。  
常にこんな感じだったので、てっきりガウリイは淡白な性質なのかと思っていた。  
強い欲望というのはなく、たとえあったとしても老人ホームのじーちゃんがばーちゃんに抱くほのかな恋心程度のものなのかと。  
ところがどっこい、ガウリイはちゃんとした若い男だった。  
それも平均以上に強くて激しいタイプなのかもしれない……だって、………………あんな………………あんなの……。  
昨夜の息遣いやベッドの軋む音がリアルに思い出されてぼんやりしてしまった。  
それで気が付かなかった。  
さっきからガウリイがじっとあたしを見詰めていたことに。  
青い瞳は驚いたようにこちらを見下ろしている。  
「お前さん、相当重症じゃないのか……」  
あたしはあわてて目を逸らした。  
それでも強い視線は外れようとしてくれない。  
妙な「間」をおいてガウリイがふうん……?と唸る。  
その口元が微かに上がった。  
「ま、いいけどな」  
 
それからのガウリイの機嫌の良さったらなかった。  
うれしそうな顔であたしの後をとことこついて歩き、鼻歌まじりにヌンサの同種族を刺身にし、そのハナに黄色いちょうちょが止まろうが髪にバッタが張り付こうがお構いなしに野原を歩いていた。  
まるでお散歩気分である。  
昼ごはんに宿で作ってもらったお弁当を広げたあたしはデザートにバナナが入っているのをみてまたもや複雑な心境に駆られた。  
「お前が食べないんならとっちまおー♪」  
あたしの機嫌が下降線をたどる中、バナナを2本手にしたガウリイが大喜びでふわふわ浮いていた。  
目が合うとにこにこにやにやしながら妙に含みのある目であたしを見詰めてくる。  
 
そんな感じで2〜3日はご機嫌のガウリイだったのだが、それも4日目からは下降線を辿るようになる。  
 
はふ……  
思わずため息がこぼれる。  
街道沿いのその道を歩くあたしから、随分離れた後方を歩く彼。  
まだ、怒ってる……わよね。  
ガウリイが怒った。  
彼にしちゃ、めずらしく長い間むくれ続けている。  
いつもならちょっと怒ってもあたしが反省したところをみせればすぐさまいつもの調子に戻る彼がだ、  
こうやってさっきから付かず離れずの距離を空けながらあたしについてきている。  
一言も、しゃべらない。  
 
初めの頃は上機嫌だったガウリイも、3日、4日と経っていくうちに徐々に不機嫌になっていった。  
……それはもちろんあたしのせいなんだけれど。  
 
はじめは純粋に「見てしまった」ことに対する罪悪感があるだけだった。  
ガウリイの顔を見るたびにその現場を思い出して赤面しそうになる。  
いわば「相手のかおもみられない」状態になるわけで……  
なにを勘違いしたのかガウリイはやけにうれしそうだった。  
嬉々とした調子でリナリナ言ってきた。  
あたしが返事をしなくてもいっこうに気にしたそぶりをみせず、肩にぽむっ と手を置いてきたり人の頭を軽く小突いてきたりした。  
その指に触れられてあたしが飛び上がったのはいうまでもない。  
相手はくらげよ、くらげ! なんでそんなに気にしちゃうわけ!?  
そうやって必死にくらげくらげ言い聞かせている私に、構われたいのかいちいちちょっかいをかけてくるガウリイ。  
その指の熱を感じるたびに、その明るい声が自分を呼ぶたびに、あたしはどんどんおかしくなっていった。  
 
夜になるとその熱や、声の調子、興味津々に見詰めてくる瞳の淡い色を思い出して苦しくなった。  
昼間は昼間で必要以上に近くにいられると今にも逃げ出したくなってしまうというのに、  
夜になってお互い別々の部屋にわかれるとむしょうに淋しい。  
すぐ隣にいると分かっているのに不安になるのだ。  
自分たちを隔てている一枚の壁が邪魔だとさえ思えてきてしまう。  
おかしいと思う。  
なんだって2年間過ごしてきた相手にいまさらながらこんな感情を抱くのか。  
あいつのよだれを垂らした寝顔だって当然のようにみてきたし、あたしの寝顔もあいつは幾度となくみてきただろう。  
お互いの癖だってよく知っている。食べ物の好みが似通っていることも。  
光の剣のかわりになるものを見つけるまで一緒にいる、と決めたはずが、  
いつのまにやら「お互いが一緒にいることに関して理由はいらない」みたいな感じになってきている。  
もう家族のようなものだった。  
お互い言いたい放題言い合っているし遠慮し合うことなんて全くなかった。  
だからこそ上手くやれてきたわけだし、一緒にいることでお互いがより自由になるような気持ちさえした。  
それが自然だったのだ。  
そこにこんな不自然な感情を割り込ませたらどうなってしまうだろう……?  
 
恐らく一緒にはいられなくなる。  
はじめのうちはまあどうにかなっても、だんだん気まずい空気が流れるようになってきて  
最後にはもう、別れるしかないのだ。  
それだけはどうしても嫌だった。  
だったら話は簡単なはずだ。今までどおりに振舞えばいい。  
秘めた気持ちは胸に隠して隣にいればいい。  
けれどクールな顔してそういう芸当が出来るほど、あたしは大人にはなりきれていなかった。  
こういうことに関しては案外ガウリイのほうがうわてなのかもしれない。  
だって今まで彼がああやってしていたなんて、ずっと一緒にいたのに全然気づかなかったんだもの。  
それが悔しい……大人は隠し事が上手いのだ。  
 
ベッドに入ると隣室のガウリイのことが気にかかる。  
彼のいる方をみてどうしているんだろうと考える。もう寝てるのかな、とか。  
そうやっているうちにしだいに昼間のようすが蘇ってくる。  
それも一日のおおまかな流れとかではなく、部分部分の場面、パーツが蘇ってくる……具体的に言えば彼の肉体が。  
その目つき、剣を握る太い指の感じ、自分をすっぽり包んでしまうだろう広い肩幅……  
そういった部分部分のパーツが、その動きが、実際昼間見ているときよりもより鮮明に再現されるのだ。  
あたしはそれらを思い浮かべながらゆっくりと身体を撫で回す。……自分と彼との違いを確認するように。  
気分が高まってくるとしだいにその指は大胆になり、服の上から擦るようにして良いところを刺激する。  
こんな事をしてはいけないと思えば思うほど指は激しくなり、頭の中が真っ白になってゆく。  
 
それでも物足りなくなると、あのとき鍵穴から覗いたガウリイの様子を思い浮かべる。  
吐息に混ざるようにして吐き出される、快感に堪えているような呻き声や、大きく上下していただろう肩や背中、その姿態を。  
どんな表情をしてそんなことをしているのか、誰を思い浮かべて興奮しているのか、そんなことを考えて激しい嫉妬に駆られる。  
つまり、自分がその相手になりたいのだと。  
あたしは指を挿れることを覚えた。  
自分がその相手をしているような気分になって指を抜き挿しする。あたかも自分が挿されているような感覚になって腰を揺り動かす。  
思わず声が出てしまいそうになることさえあった。  
その声を堪えるのもまた、快感だった。  
この声が隣に聞こえたら……と思うと羞恥心でいっぱいになる。  
深夜を過ぎてもその狂乱は止まらない。  
腰ががくがくの状態になっても指を動かし続けた。  
 
 
翌朝になると昨夜のテンションとは一転してひどく落ち込む。  
朝食中なんて最悪だ。昨夜思い浮かべてしていた相手と向かい合わせで座らなければならない。  
とくに相手が無邪気な顔をしてこちらを見詰めてくると罪悪感で胸が詰まりそうになる。  
まさかガウリイはあたしがこんなことをしているなんて思いもしないだろう。  
知られたくない。  
知られたらお終いだ。そうわかっているのならやめればいいのに、それを止めることが出来ない。  
そうしなければ気持ちが高ぶって寝つけないのだ。  
彼と目を合わせないようにして、ヘンなことを口走らないように極力会話を避けるようにした。  
ずいぶんとよそよそしかったと思う。  
それでもガウリイは笑って、あたしに構おうとしていた。  
それが2〜3日続くと彼は心配するような顔になり、いつもよりも優しく接してくるようになった。  
それがまた辛くて、なにかあったのか!? と問いただされそうになるたびにそれを冷たくあしらった。  
5日目には躍起になって聞きだそうとし、6日目にはむっとした顔つきになり、そして7日目の今日、とうとうガウリイが溜め込んでいたものを爆発させた。  
 
 
「……いいかげんにしろ」  
逃げられないようにあたしの両肩をつかんでガウリイが言った。  
真面目な顔がすぐ目の前にあった。氷のように険しい色の目が射抜くようにこちらをみてくる。  
こういうときのあたしはガウリイに逆らえない。なぜなら……  
「お前さん一体なにがあったんだ……ここんとこ、ずーーーっ とおかしいだろ?」  
その顔が本気であたしのことを心配していてくれるから。  
「俺にも言えないことなのか!?」  
傷ついたような表情で問うてくるガウリイにあたしの良心がじくじくと痛む。  
まさかここで、”貴方のことを考えてて夜もろくに眠れないの……”、などと言えようか?  
もっと露骨にいえば、”貴方のひとりえっちをみちゃってから、恥ずかしくて目が合わせられないの”、である。  
間違ってもこんなムードの中で発言してはいけない。  
「俺、お前との間で……隠し事とかそういうのがあるの、すごく嫌なんだよ……  
なにかあったんなら聞いてやりたいし、俺に何もできなそうでも支えになることくらいはできるだろ?  
最初はだんまりを決めていても、お前ならいつか俺に打ち明けてくれると思って待ってたんだが……」  
 
そこでいったん言葉を区切ると、眉間にしわを寄せてムッとしたような顔つきになる。  
それでもあたしが黙っていると、彼はあたしの両肩を掴んだままその顔を横に背けた。  
そのまま大きく息を吐いた。まるで全身でやるせない心境を表現しているみたいに。  
「……………リナ………」  
溜息交じりの声が胸に深い響きをもって、すんなりあたしの耳に入り込んでくる。  
彼に名前を呼ばれると、なんだかいつも、迷子になったこどものような気持ちになる。  
まだ頭の座っていない不安定な身体でよてよてと、一体どこへいったらいいのかわからなくなってしまうような……  
彼があたしの名を呼ぶ声を聞くと、そんな風におぼつかない気分にさせられる。  
そんなこともてんでわかっていないで、こうやってあたしの名を呼ぶのだ。この男は。  
「べつに……なんでもないってば」  
か細い声がゆるりと唇からこぼれる。  
飛び出してみるとそれが情けない声で、動揺してんのがばればれかもしれない。  
ほら、こんな風に名前を呼ばれるだけでも彼を無視できなくなる。  
いったんしゃべりだしたら何が飛び出すかわかったもんじゃないのに、口をきいてしまう。  
 
「遠慮しなくていいんだぞ、リナ。  
……俺、お前のことは、なんでもちゃんと受け止めてやるつもりだから」  
さりげなくすごいことを言われた気がする。……十中八九無自覚で言った、と思う。  
そこから彼の表情から読み取ろうとして見上げると、目と目が合った。一瞬の無言の後、うれしそうに目で問いかけてくる。  
「な?」  
だから遠慮すんなよ、というように。  
それから気軽な調子であたしの頭をぽんと小突いた。  
なんだか腹が立ってきた。  
その瞳はひどく優しい。気持ちを隠してるあたしには残酷に感じられるほどに。  
彼は、いい人なのだ。それはわかってた。  
でも、こんな風に心配されるのはなんだかこう、こう、思春期の娘の悩みを聞きだそうとする父親みたいで嫌なんですけれど……  
もう、こども扱いなんてしないで欲しい。だって、あたしにはそうやって頭に触れてくる指が苦しいから。  
この指が熱いと感じるのはあたしだけであって、なにげなく触れている彼にはわからないだろう。  
あたしたちには温度差があるのだ。  
何にも考えないで触ってくる彼とその指になにかしらを感じてしまうあたしとの間にある、永久に埋まることのないであろう……その温度差が。  
 
あたしが大人しくしているのがうれしいのか、彼の口が綻む。  
目の前でその顔がうれしそうに笑みかたちづくった瞬間、かつてないざわめきがあたしを襲った。  
「あ……」  
思わず声が出た。  
空色の瞳が不思議そうに自分を覗き込む。  
その瞳の色は先程の厳しいものとは違い、溶けかけた氷のような甘く淡い色彩である。  
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ」  
何を言ったらよいのかわからない!  
けれどガウリイは、あたしが言葉を紡ぐのをじっと待っている。  
なにかを言わなければ、と思った。  
こちらがあせっているのがわかるのか、その瞳が優しく細められる。  
「たし……、あたしが悩んでたのは…」  
言葉を紡ごうとして、思考が止まった。  
こんなときにどういうわけか2年前の彼の言葉がリフレインされる。  
【……せっかくコナかけようと思って体張ったのに……ドングリ目のペチャパイのチビガキじゃあないか……】  
 
 
「なにがあろうとガウリイになんて関係ないでしょ!?」  
次の瞬間にはそういう言葉が飛び出していた。  
 
 
ガウリイの目が大きく見開かれた。  
その瞳が無垢なこどものように色を変える。それがきれいなビー玉のようにもみえた。  
びっくりしたように見開いたまま、しばらくのあいだ口もきけないようだった。  
 
しばらくするとガウリイの顔は何事もなかったかのように、いつもの大人の表情へと戻った。  
 
ガウリイを傷つけた……?  
 
 
思っていることは逆なのに、本当は受け止めて欲しいのに、憎まれ口は止まらない。  
 
 
 
ここで話は冒頭に戻る。 
 
 
それからあたしと彼は距離を置いて街道を歩いているのだ。  
歩き出すあたしから、かなりの距離をあけてガウリイがついてきた。  
この街道をもう子一時間も行けばそこには次の街がある。  
……最悪に気まずかった。  
いまだかつて、ここまでひどいムードになったことはない。  
後ろを振り返るとガウリイが鋭くこちらを見遣ってから、ぷいとすぐに逸らす。  
ガウリイの機嫌を確認するように、それをさっきから頻繁に繰り返していた。  
やっぱり、……まだ怒ってる……。  
いつも保護者だとかなんだとか言ってあたしが何言っても一段上からものをみているようなところがあったのに。  
あたしたちの心境を反映しているのか、さっきから空模様が怪しい。  
と。  
まるでなにかの魔法をかけられたかのようにみるみるうちに黒雲が寄り集まってきた。  
そうなるともう動きは早い。  
墨が流れるように黒雲はあっというまに空一面を塗りつぶした。  
すぐさま大粒の雨が降り出した。それもぼとぼとと顔に落ちてくるような容赦のない叩き方で。  
いつのまにかすぐ背後にガウリイが来ている。  
「リナ! 雨宿りしよう」  
怒ってたんじゃなかったの?  
その変わりようになんだかムッときて、あたしは口もきかないで足を速める。  
「あそこの木の下で休もう」  
嫌だ。こんな気持ち抱えたまま、一本の木の下でこいつと身を寄せ合うなんて。  
懸命に話しかけてこようとするガウリイから顔を背けて、さらに足を速めた。ガウリイが慌てる。  
 
「風邪引くぞ!? お前ただでさえそういうの弱いんだから……こないだだって風邪引きかけて……おい、聞いてるのかリナ!?」  
(だからそういうのやめてよねッ)  
こんな風になってもあくまであたしの保護者として振舞いたいってわけね。  
びしゃびしゃに湿っていく重たい髪を払いのけながら、あたしは早歩きで歩き続けた。それに負けじとガウリイも足を速める。  
早歩きはやがて競歩のようになり、競歩はやがて小走りになった。小走りはやがて全力疾走へ。  
「まてよリナ!」  
待て、といわれて誰が大人しく待つもんですか!  
はたからみたらもの凄く間抜けな光景だったに違いない。  
貴方あたしをつかまえてごらんなさいな、うふっ……みたいな雰囲気は皆無で、ふたりの男女がお互い必死の形相をしながら、次の街に向かってどしゃぶりのなかを大真面目に追いかけっこしていたんだから。  
 
街に着いたときには髪も服も全身びしょ濡れなのと、走ったせいで汗だくなのが混ざり合って気持ちが悪くてしょうがなかった。  
服は雨水で重たくなっているのに、下着のほうは汗が滲み出ていてべったりしているのだ。  
早くお風呂に入らなきゃ!  
その足はまっすぐ宿屋へと向かう。  
 
「二部屋お願いね」  
全身濡れ鼠のあたしたちにたまげた顔をした宿のおっちゃんが申し訳なさそうに答える。  
「……今日はもうあと一室で満室になるんですよお客さん……」  
それにしても凄い雨ですよね、まあいきなり土砂降りで……ここらへんはこの時期しょっちゅうこうなんですわ……とかなんとかぶつくさ言ってる。  
「……ああ、そうだ。ここから反対側の通りにもう一軒宿がありまして、あたしの弟の店なんですけどね。あっちならまだ空いてるかもしれないですなァ……おふたり別々がいいんでしたらあちらへ……」  
ガウリイがあたしを見た。そっちへ行くんだろ? と言う様に。  
なんだかその視線の遣り方が癪に障った。ただ単に……全身ずぶぬれの汗だくで気分が悪くなっていただけかもしれないけれど。  
もうあたしは自棄になっていた。  
「一緒の部屋でいいです!」  
ガウリイが驚いたように口を開けていたのがみえた。  
そんな彼には構わずおっちゃんから部屋の鍵を受け取るとさっさと部屋へと向かう。  
 
□ □ □  
 
ガウリイがシャワーを浴びている。  
その間にあたしは雨で重たくなった彼の服を絞って干しておいた。  
先にシャワーを浴びたあたしは部屋にあったパジャマに着替えている。  
 
ベッドに横たわっていると、ボディーソープの匂いやシャワーの水音がきこえてくる。  
部屋についてあたしは早くも後悔していた。  
入って目に飛び込んできたのは質素なベッドひとつのみ。  
他には小テーブルの上に載った獣脂のランプがぼんやりと室内を照らすだけの一人部屋で、大木の下で雨宿りするよりもお互いを近くに感じてしまうような部屋だ。  
今のあたしたちの空気では耐えられない。ふたりの間にある空気の重さに息をするのも苦しくなってしまうだろう。  
風呂場から出てきた彼は荷物に入っていた予備の服に着替えていた。  
 
何気ない調子でガウリイが口を開く。  
「夕飯食べに行くけど……」  
こんな空気の中、それを押しやるようにせっかくそう言ってくれるのに……  
「いらない」  
 
それでもやっぱり今ふたりで向かい合ってテーブルを囲むのは嫌だった。  
はじめから行く気がなかった。だからもうパジャマを身に着けていたのだ。  
「わかった……」  
いつもなら、お前さんが食べないなんて天変地異の前触れかぁ!? とか、どっから出てるのかもわかんないようなすっとんきょうな声をあげそうなのに。  
そのひとことで彼は部屋を出て行った。  
閉められた扉の音が、ぴしゃりとつめたい音を立ててあたしとガウリイの心を遮断したようだった。  
 
夕食から戻った彼はすぐさま剣を身に着け始めた。  
袋やなにやら仕度を終えるとそのまま扉のほうへと向かっていく。  
「……どこいくの……」  
ガウリイの動きが止まる。  
一呼吸おいて唸るように言った。  
 
「そのベッドはリナが使えよ」  
背中を向けたまま、決してあたしの方を振り向こうとはしない。  
「……安心しろよ、俺は今夜は戻らない……」  
苦笑交じりの声音でそう言うとガウリイが扉に手をかける。  
その言葉を聞いてあたし自身の心にどのような作用が働いたのかは自分でも分からない。  
我を忘れてしまっていて考える余裕もなかったのだ。  
扉を開けて出て行こうとしている彼の髪のひと房を捕まえて、私は夢中でそれを引っ張った。  
 

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