ゲルダがこの家に来て、二度の不幸があった。  
 重苦しさをはねのける事ができず、いつも伸びていたゲルダの背筋は老婆のように丸まり、  
周囲の空気をますます沈ませていた。  
 もちろんゲルダの旅は先を急ぐ。カーレンの父が回復するいとまもなく、次の村へ向かう  
予定であって、この空気を吸うのも今晩限りだ。  
 だけど、自分はまるで逃げるようだとゲルダは思い、それがますます苦しみを深くした。  
 短い廊下の突き当たりまで来て、顔を上げた時、異様な光景が視界に飛び込んできた。  
 扉の向こう、家の外、ぎらりと何かが光った。  
 ゲルダが体をずらすと、背後の窓から月光が射し込み、扉の向こうを冷たく照らした。  
 暗がりに、カーレンの姿があった。  
 カーレンは虚脱した表情で立ちすくみ、右手に鋭く光るナイフを持って、自身の首筋に  
当てていた。  
「カーレンさん!」  
 カーレンが振り向いた。ゆっくりとナイフを下ろす。  
 部屋に飛び込んできたゲルダを、カーレンは不思議そうにながめた。  
「いったい何をしているんですか!」  
 不思議そうな顔をしていたカーレンは顔をふせ、すっと気が抜けたようにつぶやいた。  
「何をしているのか、教えてあげましょうか」  
 カーレンが部屋に入り、ゲルダの背後に立った。今度はゲルダが不思議そうに問い返す  
番となった。  
「カーレンさん?」  
 ゆるく、長く、光沢のある髪がほおをくすぐる。年上ゆえのつんととがった胸が背中を  
圧迫する。  
 ゲルダはぎゅっと力強く抱きしめられた。まるで大人にされているみたいに。だから、  
どぎまぎしてしまっているのだとゲルダは自分に言い聞かせた。  
 
 耳元に聞こえるのは、荒い息づかい。寒い夜なのに、耳たぶが熱い。  
「カーレンさん、やめっ、やめてください。どうしたんですか」  
 カーレンの細くたおやかな指が薄い胸板をまさぐり、ぽつんと脹らみかけた場所を見つ  
けて指先で刺激する。  
「あ」  
 痛みでも痒みでもない、未知の感覚にゲルダは思わず声を上げた。足ががくがくと震え、  
立っている事ができない。  
 指の動きはすぐに止まった。しかしカーレンは抱擁をやめようとはしない。無言でゲル  
ダの幼く細い太ももの隙間に足を入れた。  
 体重を支え切れなくなって崩れ落ちそうになったゲルダは、そのままカーレンに体重を  
あずけ、ともに寝台へ倒れこんだ。めきりと骨組がきしみ、ほこりがたつ。  
 ねっとりと粘着質の声がささやかれる。  
「なぜ、あなたのような子供の一人旅で、わからないのかしら?」  
 カーレンの口からつむがれる言葉は優しい。小さな体を受け止めてくれた胸は暖かい。  
 少女を護るように回された腕は力強い。  
 だけど、怖かった。カーレンの眼は、兎を前にした猛禽のそれだった。  
 天井を見上げるゲルダの瞳に涙がにじみ、やがて耳たぶに流れた。  
「それとも、わかっていて誘っているのかしらね」  
 カーレンの舌がちろりと顔を出し、ゲルダの耳に流れた水滴をなめとった。  
 
 そう、ゲルダは知っていた。カーレンが何をしたいかを。何を考えているかを。  
 そして知っている事、理解できる事が罪深い事さえも知っていた。  
「やめてください、女同士でこんな!」  
 ゲルダの叫びはカーレンの静かな一言でさえぎられた。  
「男とだったら良いと思ってるのかしら」  
 続く言葉はゲルダの力を奪うに充分だった。  
「探している、カイとかいう男の子だったら良いのね」  
 カーレンは抱きしめていた腕をほどいた。  
 上体を起こして振り返ったゲルダは、そこに、白いシーツに金色の髪を放射状に  
広げて、さびしげに微笑むカーレンを見た。  
 ショーウインドで見た陶器の人形よりも、路地に広げられた無数の似顔絵よりも、  
王の横で笑っていたオリーネよりも、葬儀の時に聖堂で見た壁画の天使様よりも、  
美しい人だとゲルダは思った。  
 そうだ、街角で初めて見た時から、ずっと心を奪われていたのかもしれない。  
 だから屋敷へ向かったカーレンを、あれほど必死に追いかけたのかもしれない。  
 この人を私から、私たちの世界から、上へ盗まれるような気がしたから。  
 ゲルダは胸が痛いくらいに心の鼓動が激しくなるのを感じた。  
 カーレンが手をさしだす。  
 ゲルダは魅入られるように、再びカーレンの胸に飛び込んだ。  
 ゲルダのくちびるにカーレンのくちびるが触れる。柔らかく、しっとりと濡れ、  
心地よい。  
 下着が湿ったような感触をおぼえたが、それは不快ではなかった。  
 ゲルダの小さな胸に、カーレンが優しく触れる。先ほどと何も変わらないのに、  
信頼感が持てる。  
 互いの心音が教会の鐘よりも高く、互いの体温が夏の煉瓦道よりも熱いように、  
ゲルダは感じていた。  
 
 ゲルダはカーレンの胸に顔をうずめた。  
 かすかに残る母の記憶とは違い、柔らかさよりも弾力、甘さよりもみずみずしさ  
を感じ、羨望と嫉妬、感嘆が入り交じる。  
 そして少年達とともに遊んでいた村の記憶がよみがえってきた。ゲルダはまるで  
自分が男の子のようになった気持ちで、カーレンの胸をつかんだ。  
 でも、カーレンはゲルダを簡単にいなし、ただ耳たぶを甘噛み、舌でなめ、息を  
ふきかけた。  
 それだけでゲルダは背筋がふるえ、あえぎ声をもらしてしまった。股間におぼえ  
ていた湿り気がさらに増していき、ついにぴちゃりとシーツに小さな染みを作った。  
 カーレンはゲルダの、ゲルダはカーレンの下腹部に顔を近づけ、ももや、へそや、  
あらゆる場所を愛しあった。  
 カーレンから女の香りが匂いたつ。ゲルダは牧草を集めた牧場のように良い香り  
だと思った。  
 ビーズを散らしたように汗の粒が肌に浮き上がり、二人の体を輝かせた。  
 ゲルダは肌が溶け合うほどの熱さを感じ、それを持続させようと小さな体で懸命  
に愛撫し、カーレンも応じた。  
「カーレンさ……」  
 言葉はとぎれ、ゲルダは幼い体を痙攣させて闇に沈みこんだ。  
 
 波打つ窓硝子を透かして月光が差し込み、床に投げ出された二人の衣服を  
照らした。  
 赤い靴が寝台の横に並んでいる。  
「いつも」  
 声は震えていた。それは寒さのためだとゲルダは自分に言い聞かせた。  
「いつも、こんな事をしているんですか」  
「そうね。せいぜい月に一度くらい、父や弟妹の眼が届かない時に、ほんの  
小遣い稼ぎよ。噂が流れないよう、ゆきずりの旅人とね」  
 何がおかしいのか、カーレンはくすりと笑った。  
「あなたと違って年上だったけれど、女の人とも何度も寝たわ。いつも私の  
長い髪を誉めてくれた」  
「でも、カーレンさんは全てが綺麗です」  
 ゲルダは自分が口走った言葉に、赤面した。  
 シーツで隠した自分の体。棒のような手足に起伏のない胴体。顔は、よく  
分からないけど十人並みだと思っている。手のひらは長い洗濯仕事で皮膚が  
分厚くなり、あかぎれと古傷が一面にある。  
 青白い光に浮かぶカーレンの体は染み一つなく、彫像のように整った姿を  
持ちながらも、暖かく柔らかい。仕種一つ、表情一つ、かつて村で楽しんだ  
どのような旅芸人の演技よりも無駄がない。  
 カーレンは微笑み、ゲルダの手をとった。  
「今ならわかるわ。あなたの腕は働き者の勲章よ。私の父も持っていた」  
 そしてカーレンは涙を一しずく流した。  
 ゲルダは知らない。カーレンの父が助からない事を。  
 そして家族が離散する運命を。  
 ただ、ゲルダはカーレンの涙にいとおしさを感じ、カーレンがしてくれた  
ように自分も顔を寄せ、流れる涙をくちびるで綺麗にした。  
 
 カーレンはナイフを取り、切っ先を首筋に向け、刃をうなじに回し、髪を  
握りしめて一気に切り落とした。  
 流れるようだった髪は、くたりとカーレンの手から垂れ下がった。  
「この髪の毛を売るわ。あなたへ渡すには足りるかしら」  
「そんな、もらえません!」  
 ゲルダは首を強く横に振った。  
 自分がしてもらった事はたくさんあったが、してあげた事など一つもない  
と思っている。  
 意図した事ではないが、二度も不幸を呼びよせてしまった気さえする。  
 夢のような……事実、ゲルダが起きた時には痕跡は消えていた……昨夜の  
出来事は、代金をもらうような事ではない。  
 それをしたら、人として大事なものを失ってしまう。ゲルダは金が欲しく  
てしたのではないのだ。  
 しかしカーレンは首を振った。  
「あなたには多くの物をもらったわ。何をしても足りないくらいに」  
「でも、これからきっとお金が入り用になります」  
「お金なら、働ければ手に入るのよ。普通の仕事でだってね」  
 カーレンは微笑み、その美しさにゲルダは再び顔が赤くなるのを感じた。  
 ゲルダはカーレンと別れ、再び北へ向かった。  
 カーレンからもらった髪は、やがてゲルダが美しい声を活かした歌で稼ぐ  
ようになるまでの旅費として充分だった。  
 カーレンは弟妹とともにゲルダが去ったのを確認して、急いで父の葬儀を  
すませ、それぞれの場所に散っていった。  
 もちろんそれをゲルダは知らない。  
 

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