お互いをぎこちなくさせていた壁は取り払われた。
そうなれば後に残るのは今まで通りの、仲睦まじい"兄妹"の姿である。
クラウスは噛み締めていた。ニナと共にある、今この幸せを。
今夜の茶会のため、ふたりは台所に並び、お菓子を作った。
──小麦粉に卵を落とし、牛の乳を加え、バターを混ぜてよく捏ねる。
この瞬間を──これからも続くだろう幸福の連続、その一瞬とて忘れはすまいと、クラウスは誓う。
前掛けをして嬉しそうに笑うニナの姿を、脳裏に焼き付けるように。
──あらかじめ火を入れておいた天火へ、細かく分けて並べた生地を入れる。
ふたり頬を寄せ合って、天火の小さな窓からお菓子が焼きあがるのを眺めていた。
小さいころ、よくこうしていたことを思い出しながら。
夜になっていた。
クラウスの私室は二つの部屋からなっている。
ひとつは文机や書棚のある部屋。こちらは屋内側であり、窓は無い。
クラウスが今いるのはもうひとつの部屋、寝室の方だった。
彼の立つ脇、ベッドサイドのテーブルには先刻焼き上げた小麦菓子を載せた皿が置かれている。
そこから取り上げた菓子のひとつを齧り、味を確かめて。
それからクラウスは、開け放った窓に切り取られた空を、満月をただ見上げていた。
手にした齧りかけの菓子を弄(いら)いながら、何を考えるでもなく。
……もしも何かを考えようとしたならば、きっとそれは。
そう、ニナの顔さえまともに見れなくなりそうなことになる。そんな気がして。
とんとん、と。隣室から控えめなノックの音が響く。
ともすれば聞き逃しそうな音量。だがそれを待ち焦がれていた者の耳には確(しか)と届いた。
「兄様……?」
いつの間にか渇ききっていた唇を湿す。緊張して仕方がない。
自分でも滑稽だと、分かってはいるのだけれど。
「ええ、どうぞ、ニナ。入ってください」
──自分の声は、上擦ってなかったろうか。
「こんばんは、兄様。今夜はお招きいただきまして、ありがとうございます」
軽く寝室着の裾を持ち上げ、悪戯めいて礼を述べるニナ。
湯浴みをして来たのだろう、まだ水分を含んだ濡れ髪がどうしようもなく眩しくて。
クラウスは勝手に高鳴っていく胸の鼓動を押さえられない。
──思えば。長じてから、ニナの寝間着姿を見るのは初めてかもしれません。
あるときを境に、クラウスはニナの湯上がり姿や寝室着姿を見ることがなくなった。
淑女の嗜みではある。貴族令嬢として当然のことであり、妹の成長を喜ばしく思った。
一方で。最愛の妹に少し距離を置かれたような気がして寂しく感じたことも、憶えていた。
──そうではなかったのだろう。
想い人が相手だったからこそ、無防備な──飾らぬ素の姿を見られたくなかったのではないか、と。
今ならば、そう思うことができた。
ふたりは並んでベッドに座り、ランプを消した月明かりの下でささやかなお茶会を楽しんだ。
かつてのように、取り留めの無い話を交わす。
その時間が、楽しかった。尊かった。なによりも。
談笑の中で口にする菓子の味は、先ほど賞味したよりもずっと美味しく感じられて。
ニナの存在が、どれほど自分の幸いに寄与しているのかを改めて思い知らされた。
──私は、きっと、この手を放さないでしょう。
胸の中で、今一度いと高きものに誓う。その永遠を願いながら。
いつしか会話は途切れていた。
場を包むのは沈黙。サモワールの立てる蒸気の音が夜闇に小さく溶けていくだけ。
決して不快な沈黙ではなかった。
何ものにも代え難い、確かな絆があるからこそ。無言のまま、時を共有できる。
それは互いが互いに心を許している、その証しに他ならないのだから。
どれくらいそうしていただろう。
身じろぎをして僅かに動いた手の先、クラウスの指がニナのそれに軽く触れる。
ぴくり、と怯えるような幽かな震え。それでもニナは逃げなかった。
そっと。クラウスは自分の手をニナの繊手へ重ねる。
小さな手だった。細く美しい、優美な女性の手。
──分かち合う温もりが、こんなにも愛おしい。
ニナの頭が傾いで、こつん、と。クラウスの肩に預けられた。
かつては物語をねだっては胸に後頭部を預け、下から逆さに見上げてきた少女が、今や。
そして襟元から、湯上がりの柔肌に醸されて立ち上ってくる微かな香気。
瑞々しい果実を思わせる柔らかなノート。青リンゴの香り。
ニナがつけていた香水の中でも、クラウスが一番好きだと。一番似合っていると、いつかそう言ったもの。
──憶えていてくれたんですね。
それは自分を食べてほしいという、ニナの勇気?
……そう考えるのは、男の思い上がりだろうか。
──いま、ニナはどんな表情(かお)をしているだろう。
クラウスは、ニナの顔を見た。
ニナも、クラウスを見ていた。
不安を湛えた瞳で、見つめあっていた。
暫時を経て、互いの視線がふっと緩む。
──考えていたことは、同じだった。
そのことに安堵して。
あとは自然に惹かれあう。唇と唇が。互いを求めて。
触れ合う。啄ばむ。もっともっと、近くに欲しいから。
──例えるならば。
それは天上の美酒とでも形容すべきだろうか。ぼんやりとクラウスは思う。
──婚儀で交わした口づけは、苦い罪の味しかしなかったのに。
求めた。求めつづけた。
そしてどちらからともなく離れた唇を、なおも結びつけるように。
乱れた吐息にそよぐ銀糸が、月光に淡く煌めいていた。
いいですか、と目で問いかけた。返ってきたのは受諾の小さな頷き。
口づけに酔ったか、朱の差す頬を恥じらいでさらに染めるニナの姿は。
──ああ、私の貧弱な語彙では、到底表し得ません。
預けられた柔らかな肢体をゆっくりとベッドへ横たえる。
ひとつ、ひとつ。寝室着のボタンを外し、脱がせていく。
ニナは抗わなかった。ゆるやかに瞳を閉じて、クラウスの指の動きを感じ取っているよう。
そこにあるのは絶対の信頼。それを寄せられるクラウスの胸は幸せに燃え上がるようで。
──これが、ニナ……なんですね。
今、クラウスの目の前には。一糸纏わぬニナの裸身があった。
華奢な躰。肉付きが薄いと、そう言われても仕方がないかもしれない。
それでも。そこにはまぎれもなく「女性」があった。
小さくなだらかな肩。腰骨の描く丸みのあるライン。
柔らかく震える慎ましやかな双乳。そして。
ぴったりと閉じられた腿の間(あわい)。その奥に、誰一人知らぬ秘境。
──ああ。
これから何をされるのか、分からないわけではないだろう。
微かに戦慄(わなな)く唇が、震える長い睫毛が、ニナの感じている恐怖を正直に伝えている。
その上で。クラウスを信じていると。クラウスにならば、と。
身体を自分に委ねる娘の純情を前に、こみ上げてくるこの感情は。
ああ。それを表現する言葉を、クラウスは知らない。
──私は、ニナを。この娘を、
レージクに、陛下に、フェリオ様に、……ベルに。
平然と、供物に捧げようと、していたのか。
妹の幸せのためと。胸を刺す針の痛みに、言い訳を幾重にも糊塗して。
──誰にも渡したくない。ニナを、離したりするものか。
心の底から湧き起こる自分の声の強さに、今更ながらクラウスは驚いた。
或いは、汚れなき処女(おとめ)を前にした、矮小卑小な男の独占欲なのかもしれない。
構わない。構うものか。汚れていようがどうであろうが、それがいったい何に関わろう。
そう。狂おしく胸焦がす、今、この想いは。もう疑うべくもない。クラウスの真実なのだから。
──ニナを、汚したい。ニナの、そのすべてが欲しい。
──ニナを、護りたい。ニナの、その行く先に幸せだけを敷き詰めたい。
だから、私は。
慌てるなと、自省を忘れないよう。ニナの身体へ指を伸ばす。
灯火に惹かれる羽虫がごとく。クラウスの手は男の体にはない器官を自然に求めていた。
ピアニシモ。どんな強さで触れたらいいか、分からないから。
玻璃細工へ触れるように。その柔らかさを確かめるように。
ゆっくりと、臆病なほどゆっくりと、乳房へ指を沈めていく。
テヌート。その感触に、心奪われた。離すことが、できない。
むずがるような、ニナの小さな身じろぎ。我に返った。
──ニナを、悦ばせるようにしないと。私は、年長者なんですから。
アダージョ。優しく。ゆっくりでいい。夜は長いのだから。
怖がらないで。そう伝えるように。口づけを捧げる。長く、万感を込めて。
──思えば。きちんと言葉にして伝えていなかったかもしれない。
肌を合わせている今になって気付くなんて。クラウス、お前は。愚か過ぎる自分を憫笑する。
ドルチェ。ニナ、貴女を誰よりも愛していると。甘い、言葉を。耳元で。柔らかく、囁いた。
他愛もない睦言と、そう思われるだろうか。だとしたら……少し、寂しい。想いの丈を知られないのは。
……ああ、そうだった。私だって、ずっとニナを苦しめていたんだから。
──これで帳消しと、流石にそういうわけには、いかないかな。
アンダンテ。少しずつ、少しずつ。不慣れなふたりはゆっくり進んでいく。
ふるふると震える桜色の頂きを舐め上げた。可憐な唇から、声が漏れる。
それだけのことが、もうどうしようもなく嬉しくて。
──もっと。もっと声を、聴かせてください。
クラウスの手が、処女雪のように白い肌を、這いまわっていく。
そして、クラウスの指は、そこへ辿り着いた。
ゆるやかに合わさった、男性にはないもうひとつの器官。
その奥には余人を拒む純潔の砦。
ああ。なんだろう、この高揚感は。
──男はケダモノだなんていいますけれど、どうやら私も例外じゃないようです。
殊更に自分へ言い聞かせる。焦るなと。大切なひとを、ニナを泣かせたいのかと。
──いや、鳴かせはしたいですけどね。
諧謔めいた品のない呟きを胸中に差し挟んで、クラウスは集中する。
こわばったもうひとつのくちびるをほぐす、右手の指先へ。
おずおずと、なぞるように指を滑らせる。
それだけでニナの声が跳ね上がった。
いやいやをするように髪が振り乱される。両手がシーツを掻き毟る。
クラウスの姿が捉えられないのか、その面(おもて)に迷子のような心細さを滲ませて両の瞳が虚空を彷徨う。
クラウスの与えつづける刺激に背が軽く反り、緩やかなアーチを描いて浮き上がった。
その下へ左手を通し、体ごと抱きかかえるようにしてニナの躰を繋ぎとめる。
私は、ここにいるよ、と。そう告げるために唇を重ね。
左手は落ち着かせるように、穏やかに胸をさすり。
そして、右手は。
ピチカート。跳ねるように。クラウスは指を踊らせつづける。
運指のひとつひとつに可愛い声で応えてくれるニナが、どうしようもなく愛おしい。
──ああ、この娘は。
まるで自分のためだけに用意された、名匠に誂えられた唯一品。この上なく優美な楽器のよう。
奏でる音色は、至上の美楽。奏者(マエストロ)の指が紡ぐのは、今晩限りの即興なる調べ。
それは、クラウスのためだけに奏でられた、積年の想いを謳い上げる夜想曲(ノクターン)。
なんだか胸を、締め付けられて。クラウスは、束の間の幻想に酔い痴れる。
「……っは、っは……」
息継ぎさえ忘れたように、親鳥に餌をねだる雛鳥のように。
ニナはさっきから一心にクラウスの唇を求めていた。
唇を合わせているだけで、安心できるのだろうか。
時折意地悪をして顔を離してやると、可哀想なくらいに表情が不安で塗り潰される。
もう、ニナの見せる挙動のひとつひとつが、可愛くて、愛らしくて仕方がない。
だから手を躍らせる。肌を吸う。耳朶を噛む。くすぐってみたりもする。
ダル・セーニョ。セーニョ。いったいどれだけ繰り返しているのか。
それでも飽きなんてくるはずもなく。
──ああ、私は。
ベルからは幾度となく「お前のその溺愛っぷりは異常だ」と苦言を呈されてきたけれど。
これはもう、認めるしかない。
確かに、私は。もうどうしようもないくらい、妹に──ニナに、溺れてしまっている。
気付けば陶然とした表情でニナが動きを止めていた。
ぼんやりと、宙に漂う視線。
どうやら気をやってしまったらしい。
クラウスの右手も、どろどろになっていた。
ひっそりと、右手を汚すニナの体液に舌を這わせてみる。
興奮の火花がなおも爆ぜ続ける精神に、味覚が伝える信号は届かなかった。
よく分からない。が、クラウスは。
それをあまい、と感じていた。これが愛する、ニナの、あじ。
──ニナの気が付く前に、右手を清めておかないと。
ひとりごちながら、クラウスはひとり、右手の指を舐め上げる。
彼が今、どんな表情をしているか。中天に輝く月だけが、それを知っていた。
今度は言葉にして伝えなければならないと思った。
「ニナ……いいですか?」
こくん、と。大人びてしまった容姿と裏腹に、子どものような仕草で頷きを返すニナ。
……分かっていた。そこにどれだけ途方もない覚悟があるのか。
──その境地、分かる気はしても。男には生涯、分からないのかもしれませんね。
持て余すほどにいきり立った分身を、そっと近づけていく。
先端が、くちびるを押し開き、その頭を埋めていった。
「……っ、ぁ──」
明らかな苦痛の声。気遣わせないようにと、押し殺した声が余計に切ない。
それでもニナは、クラウスに笑いかける。まなじりから涙を零しながら。
赦すと。受け入れると。その汗の浮いた笑顔に、クラウスは神性を見た。
クラウスは思う。
──赦す、とは。女性のみが行える秘蹟なのかもしれません。
腰を進める。抵抗を、打ち砕いていく。苦痛を長引かせたくなくて。
「……っあ! ぁっ、あ! あ! ぁ──」
クラウスの背中に回されていたニナの両腕が強張った。
略奪者の背に爪を立てようとする。それは当たり前の防衛反応。
が──予想していた痛みは無く。ただ、震える指の、感触だけが。
スフォルツァンド。十の指の腹に込められた圧力。それはニナの声無き絶叫。
思考さえ灼かれる痛みに苛まれているだろうに、ニナはそれでも。
それでもクラウスを傷つけまいと。最後の最後で、自分の指に、爪を立てることを、赦さなかった。
──どうしてですか、ニナ。私は、貴女に一生消えない傷を刻む、薄汚い簒奪者なんですよ!
今、ニナの眼は溢れる涙に覆われて。苦痛に身を炙られて。クラウスの姿は見えていないだろう。
それなのに。大丈夫だよと告げるように、奪われゆく娘は笑いかけるのだ。
──なぜ、どうして! どうしてそこまでするんですか!
捨身。それは捨身だった。口幅ったい。が、言おう。それは愛という情動が生む──人が起こす、奇蹟。
──ならば。ならば、私も。応えなければ。
「ニナ……遠慮しないで。容赦なく爪を立ててくれて構わないんですよ」
平素の口調を意識する。努めて。ニナの心遣いを、無駄にしたくはない。
「男の身である私に、貴女の痛みは分かりませんから」
涙声になってはいまいか。
「ですから、」
声が揺らいではいまいか。
「少しでも、貴女の痛みを。私に分けてください──」
一瞬だった。背に突き立つ五対の刃に、視界が紅い閃光を見る。
──こんなもの、ニナの苦痛に比べればどれほどのものか。
さらに腰を押し進めていく。クラウスの唇は、確かな笑みを刻んでいた。
入り乱れ荒れ狂う感情が、出口を求めて暴れている。頬を温かいものが伝い落ちた。
喜びも、悲しみも。幸せも、痛みも。──共に分かち合うと。
今、クラウスの脳裏で。祭壇での誓いの言葉が鮮やかに甦っていた。
──ニナ、貴女は私の妻だ。私は、それを、肯定する。
もう言葉は要らなかった。絡み合う視線だけですべては事足りる。
アレグレット──アレグロ──プレスト。
「にい、さま……にい、さまっ──」
重なり合う鼓動のままに、求め合う動き。上り詰めていくままに加速していく。
「にい、さま、にい、さまっ、……にい、……さまっ──」
カンタンド。謳え、高らかに。生の歓びを!
そして、ふたりは──
──コーダを迎える。
クラウスは、愛するひとの中へすべてを解き放っていた。
おお、それは歓喜。愛を謳い上げよ、微睡みの中に。
初めての合奏(アンサンブル)──二重奏(デュオ)。
その幕が、閉じる。
「……ん、ぁー……」
小鳥の囀りでクラウスは目を覚ました。んー、と伸びをひとつ。差し込む朝日が眩しい。
──夢じゃ、なかったんですよね。
傍らにはニナが眠っていた。苦痛などないような穏やかな顔で、小さな寝息をたてている。
──そうだ、寝顔を見るのも病床以来ですか。
ずっと眺めていたい気分になって、それでもニナが起きた時に服を着てないとまずいと考える。
ニナを起こさないように。そっと上掛けから抜けだした、クラウスの、その目に。
シーツに落ちた、小さく、点々とした染み。ニナの純潔の証しが、強く焼きついた。
──こんな小さな躰で、どれだけの苦痛を。
いや、そうではないだろう。
──ニナを。本当に、後悔なんてできないくらい、幸せにしてあげないといけませんね。
心に残る妹の面影に誓いを捧げる。妹(あなた)を、決して離しませんと。
服装を整えて戻れば、果たしてニナはまだ眠りの中にいた。
上掛けから転び出た繊手。白魚のような指。その先端を彩る桜貝のような爪に、赤黒いものが。
──私の血、ですよね。
肩甲骨は、人が翼をもがれて墜とされた、その名残だという。栄光の残照であると。
ならばその上に付けられた、今まだ痛みを伴う、誇らしきこの五対の爪痕は。
──私たちの幸福の苗床に、なってくれるでしょうか。
ニナの、自分の、昨夜流した血が。永遠に続く幸せの礎となればいいと。クラウスは願った。
眠る姫君の傍らに跪き、恭しくその手を押し頂く。
一指一指、指先に舌を這わせて。クラウスはニナの手を清めていった。
「……ん──」
その刺激で、眠り姫がうっすらと目を開ける。
「……ぁ、れぇ……にい、さま……?」
何よりも、誰よりも、大切なひとに。クラウスは笑いかける。
「おはようございます、ニナ。今日もいい天気ですよ」