ごく最近、名門サンクレット家に起きた出来事を講談師の前口上風に表現すれば次のようになる。  
 
令嬢ニナ・サンクレットが、ニナ・レスターホークになり、ニナ・サンクレットに戻った。  
 
出戻りか。石女(うまずめ)と放逐されたか。淫蕩の病でも出して愛想を尽かされたか。  
これだけの材料ながら、いや情報がこれだけだからこそ如何様にでも邪推のできる話である。  
また貴族の醜聞というのは、庶民にとってはただの娯楽に過ぎないのだ。  
そんなお題をちらつかせ興味を惹きつけておいて、講談師たちはこう続けるだろう。  
さあさ、続きは御代を払ってからのお楽しみ──。  
 
 
その日、サンクレット家の中庭において二人の男がお茶の席を共にしていた。  
白いレースを思わせる意匠の瀟洒なテーブルに、さぞ値の張るだろう茶器が一式。  
ティーカップから立ち昇る香気をすれば、使われている葉の良さも容易に窺い知れる。  
この場に欠けているものを挙げるとすれば、お茶請けの小品が見当たらないことくらいだろうか。  
「ベル、いつも言っているでしょう。訪ねてくる時には前もって言ってくださいと。  
 そうしてもらえれば今日だって貴方の好きなパテを用意できたんですから。  
 お客様を──他ならぬ貴方をおもてなしできないなんてと、ニナが嘆いていましたよ」  
半ば諦めの境地で友を諭すのはクラウス・サンクレットその人であり、  
「俺だっていつも言っているだろう。そういう貴族的な振る舞いは性に合わん。  
 好きな時に会いたいやつに会いに行く。それで十分だろうに」  
慣れたもので小言を往なして平然と返すのはその親友、ベルナルフォン・レスターホークであった。  
──否、もはやこの二人の関係は、ただの親友同士ではなくなっている。  
「それに、だ。娘と義理の息子殿が仲良くやっているか気になるのは親として当然だろうが」  
茶を啜りながらしゃあしゃあと言ってのけるベルナルフォン。  
「……だったら義父を歓待しなくてはと思うのも婿として当然のことでしょうに」  
肩を落として親友のからかい半分の言に応えるクラウス。  
そう、この二人は今や義理の親子でもあるのだった。  
 
クラウスの妹、ニナ・サンクレットはレスターホーク家の養女となっていた。  
それを先日、クラウスが妻として迎えた。  
こうしてニナ・レスターホークはニナ・サンクレットに戻ったわけである。  
戸籍上、ベルナルフォン・レスターホークの娘となっていたニナを迎えたわけであるから。  
ベルナルフォンにとってクラウスは、義理の息子、娘の婿。  
クラウスにとってベルナルフォンは、妻の養父、義理の父。  
無論そんな肩書きがついたところで変わってしまうような浅い付き合いでは断じてない。  
精々ベルナルフォンが生真面目な親友をからかうネタがひとつ増えたくらいのことである。  
そもそもがニナの想いに気付いていたベルナルフォンが汚れ役を買って出たというのが真相であり。  
今現在の状況は、彼から言わせれば「あるべきところに収まった」状況なのであった。  
 
「で、だ。用というほどの用ではないんだがな。クラウス、今日はお前に話があって来た」  
「話……ですか?」  
「……どうして俺が話というと、そう身構えるんだ」  
知らずクラウスは半身になり僅かに引き攣った表情をしていた。  
これでは身構えていると言われても仕方がない。  
「……自分の胸に手を当てて考えてみてください、ベル。  
 あんな騙し討ちも同然のことを信じていた友にされれば、以後身構えもするようになりますよ」  
「まったく、この件は貸しではあっても借りではないんだがな……」  
蓬髪めいた髪を掻きながらぼやくベルナルフォンだが、お互い忙しい身分ではある。早速本題に入ることにした。  
「クラウス、お前の目にニナはどう映っている?」  
いきなりの問いである。正直、クラウスは面食らっていた。  
「どう……と言われましても。良き、……妻、だと思いますよ。家をしっかりと切り盛りしてくれていますし。  
 これまで通りといえばこれまで通りとも言えるのですが。  
 ……それがどうかしましたか?」  
妻、と言いよどむ親友に、ベルナルフォンは密かに嘆息する。  
友の心情は分からなくもない。おっとりした彼には、なにぶん身辺の変化が急すぎたのだろう。  
「やっぱりか。お前は見ているようで何も見ていないな。  
 俺だってこんな知った風なことは言いたくないんだがな、」  
それでも。彼の妻としてニナを送り出した責任上、ベルナルフォンは友を責めなければならないのだった。  
「俺の目には、あの娘の目が死んでいっているように見える」  
 
ベルナルフォンは糾弾する。  
「お前、婚儀で誓いの口づけを交わして以来、ニナの手すら握ってやってないだろう。  
 いや、それどころかその身体に手を触れてさえいない。違うか?」  
「どうして……」  
「馬鹿か。どれだけの付き合いだと思ってるんだ。それくらいはお前たちを見れば嫌でも分かるさ」  
あまりに二人の様子はぎこちなかった。それこそ部外者でも分かろうというほどに。  
それに、と言葉を繋ぐ。  
「ニナから聞いた。寝所も今まで通りに、各々の部屋で別々に寝ているそうじゃないか」  
クラウスの目に非難の色が表れる。親友でも、暴き立てるべきでないところはあるでしょうと。  
その視線を真っ向から受けてベルナルフォンは怯まない。  
本来なら踏み込むべき領域でないと分かっている。  
それでも親友として二人の幸せを願うが故に、彼は言葉の矢を放つ。  
それが親友の心臓を射抜く致命の一矢になると、知ってはいても。  
「それ以上のことは聞いていない。聞けるものか。  
 だからここから先は俺の推測だ。もっともまず間違いないとは思っているが。  
 ……あの娘はな。今はたぶん、妻になったと、これで一生お前と離れずにいられると、  
 この事実だけを縁(よすが)にして自分を慰めている。それ以上は望むまいと。  
 全てはお前を想うからだ。まだ現状を受け入れきれないお前を慮っているからだ」  
そこでベルナルフォンは息を継いだ。胸中を苦いものが埋め尽くす。  
──俺はこんな現状を作りたくて横車を押したわけじゃない。泥を被ったわけじゃない。  
「なあ、どれだけあの娘を追い詰めれば気が済む、クラウス?  
 俺には可憐なつぼみが花開くこともなく朽ちていくのをただ無手で眺めているようにしか見えん」  
 
ベルナルフォンは待った。友の反応を。  
クラウスは動かない。その表情は、能面のように今やいっさいの彩を欠いていた。  
──仕方がない。ダメ押しをしなくてはならないか。  
「それとも、もっと直截的に言われなければ分からないか?」  
ベルナルフォンが立ち上がる。クラウスは座ったまま動けない。  
そんなクラウスの元に歩み寄り、ベルナルフォンは少し屈んで耳元に口を寄せた。  
囁きかける。優しく。たっぷりと、滴るような毒を込めて、  
「なあクラウス、お前はニナを、新妻を、」  
下卑た、と形容して差し支えないような笑みを象った唇が言の葉を紡ぐ。  
「愛してやったか?」  
──やめろ。  
「抱いてやったか?」  
──やめて。  
「お前にはそうする務めがあるんだ、」  
──やめて、くれ。  
「ニナの幸せがお前の全てだという、あの言葉に嘘がなかったならば、な!」  
 
「やめてください、ベルッ!」  
 
耐え切れず、テーブルを両の平で殴りつけた勢いでクラウスは立ち上がっていた。  
陶磁の砕け散る澄んだ音が響く。足を濡らす茶の熱さも今は気にならなかった。  
ともすれば崩れ落ちそうになる身体中から意志を掻き集め、視線に乗せて気力の限りに目の前の男を睨みつける。  
そうしなければ、大切な何かを失うと思った。  
「その怒り、俺に向けるのは筋違いだ。親友」  
悠々とひとりティーソーサーごと持ち上げ、難を逃れていたカップ片手にベルナルフォンが嘯く。  
「確かに俺は独断で状況を整えた。ニナも、お前も、抗ったよな」  
ティーカップを傾けながら、ひとりごとのように続ける。  
「でもな、ニナを妻に迎えたのはお前の意志だろう。俺はそこまで強制した憶えはない。  
 お前が本当にニナを妹としてしか見られないなら、俺は他に手を打つ気でいた。  
 礼儀作法見習いとでも何とでも理由はつけられる。  
 世間体を誤魔化してニナとお前が一緒にいられる方法は他にもあった。  
 何度でも言ってやる。お前は、お前の意志で、ニナを妻として迎えたんだ」  
 
ベルナルフォンは信じたかった。自分のとった行動が最悪の一手でなかったことを。  
ベルナルフォンは信じたかった。友を。友の選択を。ニナの想いを。  
ベルナルフォンは信じたかった。クラウスとニナの行く先に幸せがあることを。  
「だったら、ニナを幸せにしてやれ。逃げるな。甘えるなよ。俺はお前を軽蔑したくはない」  
 
 
言うだけ言ってベルナルフォンは帰っていった。最後にこんな言葉を残して。  
「肝に銘じとけ、色男。女の気持ちは汲んでやるものだ。でないと愛想を尽かされるぞ」  
 
ベルが帰った後、クラウスはすぐにニナの部屋へ向かった。  
伝えなければならないことが、あったから。  
「ニナ、いいですか? 失礼しますよ」  
返ってくる返事も待たずに部屋に飛び込む。普段のクラウスならば絶対にしないことだ。  
時刻はまだ昼下がり。眩い窓の外と対照に暗く感じる部屋で、ニナは机に向かっていた。  
今更ながらに思う。着替え中でなくて良かったと。  
「兄様……どうしたんですか?」  
振り向いたニナの顔には笑みがある。それがクラウスの目には痛々しく映った。  
ベルにあんな話を聞かされたからかもしれない。  
 
「あ……兄様」  
このところ、ニナから呼びかけられる時、いつもそんな風だった。  
気付かなくてはいけなかったのだ。  
元が闊達な性質のニナが自分を呼ぶのに口篭もったことなどなかったことに。  
「あなた」と呼ぼうとして、躊躇って、それが故の「あ」なのではないのか。  
今まで「兄様」と呼んでいた男を「あなた」と呼ぼうとする。  
それは今までの関係から踏み出そうとする彼女の勇気だ。  
妹ではなく妻として見て欲しいという願いであり覚悟であり、  
そしてまだ妹としてしか見られない自分を気遣って今まで通りにしようとしてくれる優しさなのだろう。  
──私にはいつだって覚悟が足りない。  
 
「ニナ、すみませんでした。気が付かなくて」  
自然と手が伸びていた。サンクレット家に迎えられて、心細そうにしていたあの日の少女にそうしたように。  
ゆっくりと、頭を撫でる。さらさらと、指の腹でそよぐ髪の感触が心地良かった。  
手のひらを通して伝わってくる熱が、彼女の存在を強く訴えかけてくる。  
あの時の少女が、今、妻としてここにいる。  
ああ、遠くへ来てしまったと。それは嘆きか、淋しさか。  
郷愁のような色を帯びた淡い感情に包まれながら、クラウスは言葉を繋ぐ。  
「私のことは、貴女が好きなように呼んでいいんですよ。  
 私たちは、夫婦なんですから。  
 片方だけが無理をして繕うところに、幸せなんてありません。  
 私は、そう信じます」  
つ──と。白磁の頬を涙が伝った。ニナは微笑んでいるのに。  
手を伸ばし親指で涙を拭う。手のひらで頬を押し包むようにして。  
クラウスは思う。  
こんな小さなことで嬉し涙を流すなんて。いったい、私は。  
私はどれだけ目の前の娘を影で苦しめてきたのかと。  
「じゃあ……」  
泣き笑いの顔で、それでも気丈に声を張って、妹だった妻は応えてくれる。  
「ええ、呼んでください。ニナ、貴女の望むように」  
だから兄だった夫も覚悟を決める。変化を受け入れていこうと。  
「あ……あな……た……」  
ぼそっと。押し出すように呟かれた言葉。  
あっという間にニナの頬が紅潮する。感情を持て余すように俯いてしまった。  
一方でクラウスにはそれに気を回せる余裕などない。  
なんと表現すべきか。  
転げ回りたくなるような気恥ずかしさというか、穴を掘って頭まで埋まってしまいたいというか?  
ともあれ脳天に雷を落とされたような、それは衝撃だったことは確かである。  
しばし呆然としている間に、ニナはとっくに立ち直っていた。  
 
「やっぱり変ですね。兄様のことを、兄様じゃなくてあなたと呼ぶ日を真剣に夢見た頃があったのに。  
 叶ってしまうと、なんだか落ち着きません。すごく変な感じがして。似合わないもの」  
ぽろぽろと目からは涙を零しながら、それでもニナは笑っている。両手で涙を拭いながら。  
そして感極まったように、あるいは泣き顔を隠すように? クラウスの胸に飛び込んできた。  
薄い胸板に額を預けるようにして、溢れる想いを、言葉を継いでいく。  
「クラウス兄様は、やっぱり、兄様、なんですね。  
 しっかりしているようで、何処か頼りない、それでも私にとってはいちばんの、大切な、ひと……」  
胸骨を通して全身に染み渡っていく振動。吐露された想い。  
愛しさに突き動かされるようにして、クラウスはニナの華奢な体を抱きしめていた。  
 
 
あの日、少女は、見知らぬ大人たちの中で必死に笑顔を作っていた。  
あの日、少年は、そんな少女の本当の笑顔を見たいと思った。  
少女は少年の妹になった。少年は妹を愛した。  
少女は少年の前で本当の笑顔を見せてくれるようになった。  
それでも少年の胸にいるあの日の少女は作り笑顔のままだった。  
遠い日の幻だからか。少年は無理矢理自分を納得させた。  
そして愛する妹のために良縁を探した。妹の人生が幸福に彩られるようにと。  
胸の奥で、面影の少女の笑顔がますます強張っていくことに、気が付かないまま。  
 
腕の中でしゃくりあげ続けるニナを、クラウスはただ優しく抱きとめていた。  
時折頭を、背中を撫でてやりながら。  
子ども扱いとニナは怒るかもしれない。でも、自分にはこれしかできないから。  
改めて思う。腕の中にいるこの娘を、他の誰にも奪われなくて本当によかったと。  
認めてしまえば簡単なことだった。私は、ニナを、愛している。  
今、この瞬間が。──幸せでなくて何だというのか。  
ベル、ありがとう。ニナを不幸にするわけには、いきませんよね。  
ニナが落ち着いた頃合いを見計らって、クラウスは切り出した。  
「ねえニナ、今日は良い月が空に昇るそうですよ。  
 ロセッティからはいい茶葉が手に入ったという話も聞きましたし。  
 どうです? 今晩、名月を愛でながらのお茶会でも開きませんか?  
 このところ、話もしていませんでしたからね。ゆっくりお話でもしましょう。  
 無論、ふたりだけのお茶会です。つきましては──」  
さあ踏み出せ、前へ。  
「今夜、私の部屋に来てもらえませんか?」  
 
胸の奥で、  
あの日の面影の少女が、まるで清楚なつぼみがほころぶように、  
自然な笑顔で微笑みかけてくれたような、そんな気がした。  
 

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