「まあ、さっきは随分と注いでくれたものな。もうここにはお前の子が宿っているかもしれないな」
そういって下腹部を愛おしげに撫でる。猫のような笑いで。
「シルヴァーナ……」
「そんな顔をするな、フェリオ。お前が悪いわけじゃないさ」
「でも、俺が無理矢理シルヴァーナを……」
「正道の剣しか知らない王子サマに手篭めにされてるようでは柱守など務まらないよ。
本気でそう言っているんだとしたら、お前は私を舐め過ぎだ」
「だけど……」
なおも続けようとするフェリオの唇を、人差し指で柔らかくおさえて。
「勘違いするな、フェリオ」
いいか、と念押しするように。
「……誘ったんだよ、私が。だからお前は悪くない。背負い込もうなんて思わなくていいんだ」
白皙の美貌にうっすらと朱が上る。やはり恥ずかしいのだろう、そんな言葉を口にするのは。
「お前のことだ、責任を取ろうとか考えているんだろうが……」
形良い眉が顰められる。今、胸中を過ぎる想いは如何ばかりか。
しかしそれも一瞬のこと。決然とした表情で声を張る。
「自分の立場を考えろ。今までだって、ちゃんとそうして動いてきたじゃないか。
私のことなど、考えるまでも無いことだろう? 王族の責務を放棄するつもりか?」
ぴしゃりと、打ち据えるように。厳しい声音がフェリオの耳朶を打つ。
身を強張らせるフェリオを思い遣るように、続く声は幾分か和らいでいた。
「お前は今や王弟で、そして、救国の英雄だ。
正室候補として神姫の妹や"戦姫"の名が噂にさえ上っている。そうだろう?」
「…………」
「そんな状況に。名も知られぬ北方民族の女の、入り込む余地があるとでも?」
言葉もないフェリオ。うなだれる姿を前にして、シルヴァーナはひとりごとのように続ける。
「王侯貴族なんて、碌でもない者ばかりだと思っていた」
「…………」
「だからこそ。私たちのような、歴史に名さえ残さない者達が命を賭して働かねばならないのだと思っていた。
恨み言じゃない。私たちのようなものこそが国を支えているのだという自負がある。ただそれだけのことだ」
「…………」
「でも私は、お前と出会うことができた。王族にも、貴族にも。まともな人間がいると知った」
「……シルヴァーナ」
「だから、さ。民を失望させるような真似はしないでくれ。お前には期待しているんだ──」
ひとつ、息をついて。
「──私なんぞに、躓いて欲しくないんだよ」
「シルヴァーナ……」
「フェリオ。お前の気持ちはすごく嬉しい。
私だって女だ、少なからず想う者から真剣に想われるというのは嬉しいことだよ。それは、本当に」
「だったら!」
行かないでくれ。引きとめようと、抱きしめようとその身に伸ばされたフェリオの手をするりと躱す。
「それでも。越えられない壁というのはあるんだよ、フェリオ。悲しいことだけれど、ね」
聞き分けのない子どもを諭すように。シルヴァーナの声はどこまでも優しかった。
そのまま、一歩、二歩、三歩──すべるような軽い足取りで。後ろ足に距離を離して、シルヴァーナの身がその場に沈みこむ。
跪いていた。略式ながら、それは紛れもない臣下の礼。
「あまねく慈悲を乞い、王弟殿下におかれましてはどうかこれまでの無礼の数々、平にご容赦くださいますことを」
立ち上がった時には、いつも通りのシルヴァーナだった。幾度となく魅せられた優しげな笑顔。そのはずなのに。
今は、その向こうに何ひとつ見透かすことができない。どこまでも、どこまでも透明な──笑顔。
「さよならだ、フェリオ。せめてあの娘たちだけは、不幸にしてやるなよ?」
決別、だった。
──それがフェリオの聞いた、シルヴァーナの最後の言葉だ。
銀の髪を翻し、その後ろ姿は薄暮の向こうへ──フェリオの知らぬ闇の中へと還っていく。
振り返らなかった。
決して、振り返らなかった。