イカロスがすべての家事を終えて智樹の部屋へと赴いたとき、ほぼ必ずといっていい程彼は既に寝てしまっている。
だから彼女はマスターを起こさないように何時もそっとふすまを開け閉めして、室内を移動するときも成るべく足音を出さないようにと気をつけて歩く。
電気の消し忘れがあればそっと消灯し、窓が開いている時は静かに閉め、ゴミやコップが残っていたら「片付け……命令だったらいいのに」ちょっと不満げに。
智樹が横を向いて寝ている時は顔が見える方に座り、寝返りに合わせて自分も移動する。天井を向いて寝てしまった時は、目が覚めた時怒られてしまうけど、彼の頭の横に両手をついて覆いかぶさるような体勢で。
「マスター? もうお眠り……ですか?」
そういう訳で、今日も今日とてそっとふすまを開ける。
つぶやいた声は疑問形だが声量がとても小さくて、そこには既に就寝しているだろう事を予想している響きがあった。
そして現に、智樹は今日も寝てしまっていた。
「うひょ……ひょひょひょ……うひょひょひょ……」
エロイ夢でも見ているのか寝顔はだらしなく緩み、口からはヨダレと共に妙な寝言が漏れている。
(マスター……楽しい夢、見てるみたい)
イカロスは両手を胸の前で組んでほっと息を付いた。
マスターが楽しいと私も楽しい。そして幸せ、である。
室内をさっと見渡して何もすることがないのを確認してから、智樹の顔が見える位置に静かに腰をおろす。
「……」
それから暫くのあいだぼうっと寝顔を見つめてみた。
「うひょひょひょ……うひゃひゃひゃ……」
「……」
こうしていると、何故だろう? 視線が顔全体ではなくて、智樹の唇近辺を彷徨うことが多くなる。焦点が合うたび、クリスマスのことや庭のパイプのことを思い出して動力炉の調子が少しずつおかしくなって、胸のあたりがふわふわする。
(これが……愛なのかな……?)
そうだったら良いな、とイカロスは思った。
痛みではなくて、こういった心地良い感覚の方が「愛」らしいような気がする。頬が熱くて汗はかくし、耳からは蒸気が出てしまうけれど……
「あ……」
ふと、イカロスは鼻をひく付かせる。
今少し生臭い匂いがした。雨上がりのアスファルトのような癖のある匂い。
きょろきょろと部屋全体に再び視線を走らせ、その匂いの元を辿る。――何時ものように、それはゴミ箱から漂ってきていた。
「……」
そして、最近の自分は……動力炉の調子がおかしくなってからは、どうしてだか無性にその匂いを嗅ぎたい。嗅ぎたくてたまらない。
「……」
何故そんな欲求が湧き上がるのか理解できないまま、そっとイカロスは立ち上がった。
ふらふらとした足取りでゴミ箱へと近づいていく。
(こんなことしたら……また、マスターに怒られる……)
頭にたんこぶを作って正座させられている自分を想像する。
マスターが「何時になったらもっと人間らしくなれるんだお前はぁぁぁ!」と怒鳴りながら私の頭をぐりぐりして、私は「すみません」と謝って。
(マスターに……マスターに……)
おかしい。おかしかった。怒られると悲しいはずなのに、こうやって動力炉の調子がおかしい時は全然悲しくない。寧ろそうされたいとすら、自分は感じている。
――そして何時ものようにゴミ箱の中からそれを拾いあげて、ゆっくりと丁寧に開いた。
「はぁっ……!」
むわん、と一気に匂いが拡散する。
ティッシュの中には、粘ついたゲル状と液状が混じった白濁液。眼前にそれを持ってきて呼吸をすると、頭がくらくらした。
「はっ……はぅ……!」
目をつむって、なんども何度も呼吸を繰り返す。
肺器官が満たされるたび動力炉がますます調子をおかしくして、体全体が火照ってくる。特にお腹が熱い。じんじんと疼く。耳から吐き出される蒸気の量がまして、膝から力が抜けた。
(マスター……マスター……マスター……!)
ぺたんと力が抜ける膝にあわせて、その場にへたり込む。
無意識のうちにもじもじと太ももをすりあわせた。
「どうして……?」うっすらとまぶたを開ける。瞳は輪郭がぼやけるように蕩けていて、焦点を合わせるのに苦労した。そしてもう一度「どうして……?」とつぶやく。
(マスターの精子……成分は普通のタンパク質なのに、どうして……)
こんなに良い匂いがするんだろう――ぼんやりとして正常に働かない頭で考えながら、イカロスはいつの間にか半開きになっていた口から、そろそろと赤い舌を伸ばし――