「マスターは私のこと、嫌いなんですか?」
ニンフが見ている昼ドラを何ともなしに眺めていた智樹の耳に入ったのは、イカロスの突拍子もない発言だった。
「な、なんだよいきなり」
「嫌い…なんですか…?」
意味がわからない。いきなり何を言い出すかと思えば、イカロスは主からの自分への嫌悪を疑ってるようである。
当然智樹としては、今までの自らの行動を振り返り、イカロスがそう思う所以を模索するのである。つまり
(俺…なにかこいつに悪いことしたかなぁ?)
といったところだ。しかし思い当たる節がない。
「なんでそう思うんだ?」
「…あの…」
顔が少しずつ赤みをましている。どんな発言が飛び出すのだろうか。
「マスターは、ニンフやアストレア、そはらさんの体を色々触っているのに…私には…」
「ブゥッ!?」
吹き出したのはニンフ。
「そはらにも聞かれたっけな、それ。なんでだか俺にもわかんないんだよな〜」
頭をクシャクシャと掻きむしり、智樹は答えではない答えをイカロスに与えた。実際智樹も本当にわからない。
「アルファー、アンタいきなり何言い出すのよ!こっちだって好きで触られてんじゃないわよっ!」
昼ドラをそっちのけ、真っ赤な顔をしてニンフが喚いた。
暖かい午後のことである。
ひとしきり改めて考え込んだあと、智樹は顔をあげた
「うんっわからない!」
なんとも清々しい笑顔で。
「…そうですか」
イカロスは一瞬落胆しかけたが、ある人物を思い出した。
「そうだ、あの人なら…」
「当たり前だけど触れるのもいい気分じゃないのよ、アルファー…て何処いくの?」
「イカロス?」
二人が名を呼んだときには、本人は窓から空の彼方に飛んでいってしまっていた。
―――
――
―
「智樹が?」
「はい」
そう、マスターにわからないことも、この人は今まで簡単に答えを出していた。きっと今回も――。
そう、この人とは守形英四郎のことである。
「確かに今までお前が智樹のセクハラを受けているのはあまり見なかったが…」
こればかりは天才的頭脳の持ち主でも知りえない。
「智樹にセクハラされたいとでもいうのか?何故だ」
「それは…」
聞いている身としては何だが、守形としてはイカロスの心境を何気なく理解していた。
「マスターは、女性の体が好きです」
「あぁ、女性なら何でもいいってくらいの貪欲っぷりだな」
後輩のあそこまで女性(の体)に関して情熱を注いでいる姿は、先輩としてではなく、人間として一種の尊敬を抱いてしまいそうになる。
「はい、しかし、私も女性のボディを持っているのに、ニンフやアストレアも同じエンジェロイドなのに」
「何故自分にはしないのか、自分には興味がないのではないか、と思っているということか」
「…はい…」
好きの反対は嫌いではなく、無関心―。
イカロスは直感的に、かつ無意識にそのことを知っているのかもしれない。もし自分に興味を持っていなかったら、主の自分への印象は好意から最も遠いところにある。それがたまらなく怖くて、確認せずにはいられないのである。
「俺には、わからん」
「そう…ですか…」
イカロスはここで落胆した。自分の不安をかき消す光はどこにあるのか。どうすれば手に入るのか。
「失礼しました、では、夕飯の時間なので」
「待て、イカロス」
夕飯の準備に自宅へ帰ろうと、羽根を広げたイカロスを守形はひきとめた。
「自分の気持ちを相手に伝える、おそらくこれが大事なんじゃないのか?きっとそのとき智樹はお前への印象を明らかにすると思うが」
眼鏡の奥の目は光の反射で見えなかったが、それが逆に信憑性を高めていた。
「はい、ありがとうございます」
イカロスは飛んだ。
「イカロスの奴、どこ行ってんだよ…」
「もうすぐ帰ってくるわよ、こっちに来てる」
ニンフのレーダーによると、こちらに向かっているらしい。
「雨降る前に帰ってこいよな」
智樹が空の様子を見ようと窓を開けた途端、白い羽根が飛び込んできた。
「どわーーーーーッ!!!」
「ただいま帰りました、マスター」
超スピードで飛び込んで来たので、居間はメチャメチャになった。直撃した智樹としては、ちゃっかりお菓子ごと避難しているニンフが妙に恨めしい。
「マスター…」
主のげんこつを受け頭のたんこぶをさすりながら、
「…好きです…」
言った。
耳からの蒸気がとまらない。止めようとも思わない。動力炉が今までにないほど活動している。気にならない。
イカロスは智樹からの自分への気持ちを聞こうと、そこに全神経を集中していた。
「イ、イカロス!?いきなりどうしたんだ!?」
ある意味当然の反応かもしれない。特に女性の体には人一倍興味があるが、恋愛には人一倍疎い智樹には予想外の発言だろう。
「アルファー!?」
イカロスの智樹への好意は予想こそしていたが、アプローチの仕方は意外極まりないものだった。予想外な先手を打たれたことで、ニンフはただ声にならない声をあげるしかなかった。
「マスターは…私のこと…」
「う……」
反応に困る。昼からの予想外の質問。予想外(ある意味予想通り)の帰宅方式。予想外の告白。どれをとっても、今日のイカロスはおかしい。
「え、え〜とですね…それは…その…」
「はい」
ただ聞くのみ。聞くしかない。マスターの気持ちを是非聞きたい。
「智ちゃーん!!夕飯のおかず作りすぎちゃった!持ってきたよー!」
「お、おうそはら、今いく!」
突然の訪問に一瞬気をとられ、その隙にマスターに逃げられてしまった。
幼馴染のいる玄関にせわしく駆け込む智樹の後ろ姿を見て、イカロスは言いようのない絶望を感じた。
あまりにそれが深すぎ、涙すら出なかった。動力炉のオーバーヒートによる痛みに気付いたのもその時だった。
「…アルファー…」
ニンフにできることは、ただ名前を呼ぶしかなかった。これだけ落ち込んだイカロスは、記憶を思い出した時、いやそれ以上かもしれない。そんなイカロスにかける言葉は全く見当たらなかった。
夕飯を食べ、いつも通りに風呂に入り、智樹は寝床に入った。イカロスは智樹がそうした後も、風呂の手入れ、食器洗い、その他家事をする。それが終わる頃には、智樹は夢の中なのである。
そんな智樹を朝まで眺めるのが日課。智樹の寝顔を見ると、いつも暖かい気持ちになる。
しかし今日は違う。
――マスター…答えてくれなかった…――
守形のアドバイスは頼りになった。それでも主は答えてくれなかった。自分の聞き方がマズかったのだろうか?それとも、優しいマスターのことだ、自分に気をつかって言葉を濁し、本当のことを言わなかったのではないか?
そういったネガティブな思考が頭の中でグルグル回る。
頭を一周する度に、目から涙が滲む。
「…あっ」
涙が智樹の顔に落ちた。これでは智樹が起きてしまう。無関心な上にマスターの睡眠を妨げるとあっては、もはや自分にエンジェロイドとしての価値などないのか。
「申し訳ありません…マスター…」
しかし涙は止まらない。
「どうしたんだ?イカロス?何があったんだ?」
智樹は目をゆっくりあけた
「マ、マスター?」
「今日のお前、なんかおかしかったからさ、気になって眠れなかったんだ」
智樹はにっこり笑った。月の逆光になっていても、はっきりとわかった。
「マスター…」
なんと声をかけていいのかわからない。どうしたらマスターは…。
「イカロス」
「はい…」
「いつも、ありがとな。俺が寝てる時も、家事やってくれてさ。飯も、風呂も、洗濯物も。時々ドジもやらかすけど、お前といると、めちゃくちゃ楽しいんだ。お前がいてくれて、本当によかった。…こんなタイミングで言うのも、アレだけどな…!」
智樹の自分への感情は、感謝であった。それ以上の感情があるかは、智樹本人もわからない。しかし、智樹のその言葉はイカロスへの慈愛に満ちた本心だった。
「マスター…マスター…!」
涙が止まらない。不安でもない、絶望でもない。あるのは安心と安らぎ。何故か涙が止まらない。
「今日は、一緒に布団に入るか、イカロス」
それは、智樹によるイカロスへのまごころの表れだったのかもしれない。イカロスはそれを受け取り、主人の隣で枕を共有した。
「ずっと…ずっと大好きです、マスター…」
エンジェロイドは眠らない。しかし、イカロスにとっては、それは夢のような一時だった。
おしまいける