「あむ」
「……………」
桜井家において、いつの頃からか見られるようになった、午後の風景。
ニンフが昼ドラを観ながらお菓子を食べ、イカロスが隣でスイカを撫でている。
「アンタもたいがい好きね、それ」
「かわいい……から」
そう。イカロスのスイカへの執着には並々ならぬものがある。
暇さえあればスイカを抱いて撫で回しているし、庭の畑で栽培までしている。
スイカに寄ってきた害虫をアルテミスで撃墜した事もニンフは知っている。
「かわいい、か」
……地上に来てからというもの、よくあの事を思い出す。
昔シナプスにいた頃に、ニンフは一羽の小鳥を飼っていた。
迷い込んだ小鳥。可愛くて、一生懸命世話をした。
けれどマスターの命令で、その小鳥を、この手で……
「……………」
「ニンフ……?」
「えっ? あっ、なんだっけ?」
今となっては本当に、過ぎ去った事。
もうあの男は自分のマスターではないし、今の自分はこの町で平凡に暮らしている。
「どうしたの?」
「? 別にどうもしないけど」
だが、今が安らかな時だからこそだろうか。
「泣いてる」
「え……?」
あの時はさっさと片付けなければどうしようもなかった悲しみ。
「あれ? なんだろ? 目にゴミでも入ったのかな……?」
それがここに来て、蘇ったのだろう。
「ホントに、なんでもないから……」
「(思い出したって、しょうがないのに)」
あの頃とは何もかもが違う。
マスターに非情な命令を下される事もないし、廃棄処分という名の死に怯える事もない。
そして何より、あの小鳥はもう、この世界の何処にも存在しない。
感傷に浸っても、ただそれだけ。何が起こるわけでもない。
「一人で帰るのって、こんなにつまんなかったんだ」
それどころか、今を阻害してすらいる。
昨日も昔の記憶が頭の中を巡り続けていて、上の空になっていた。
そして今日も、皆と一緒にいるのが億劫で、こうして一人で学校から家に帰っている。
こうしていても何が変わるわけでもない。
何度も繰り返し、自分に言い続けてきた事。
「あれ?」
けれど、偶然になんらかの運命を感じる事を許してもらえるのなら、
「なんだろ、小鳥?」
それはまさに、想って、何かが起きた瞬間だった。
「アンタ、ケガしてるの?」
道の隅に蹲っていた小鳥。
何をしているのかと見てみれば、翼に傷を負っていた。
このケガが原因で飛ぶ事が出来なくなってしまったのだろう。
「トモキなら、ゆるしてくれるよね。ケガが治るまでなら」
どうしても放っておけなくて。
「おいで」
ニンフは両手で包みこむように、その小鳥を抱き上げた。
単に抵抗する気力がなかったのか、或いは……。
小鳥は大人しく、ニンフの手の中に収まった。
「……で、説明してもらえるんだろうな?」
家に帰ってきてみると、居候している未確認生物が小鳥の世話をしていた。
ケガをしていたらしく、ご丁寧に手当までして。
「ケガしてたから拾ってきたの」
「ケガしてたからって……まぁ、良いや」
確かに自分とて、放っておくのは寝覚めが悪い。
エンジェロイドが面倒事を引き起こすのにも、もう慣れた。
「ちゃんと自分で全部世話しろよ。それから、あくまでそいつのケガが治るまでの間だからな」
それに……
「ありがとっ、トモキならそう言ってくれるって思ってた!」
それに……
「? どうしたの、トモキ?」
「なっ、なんでもない! とにかく、約束が守れるんなら別に置いてても良いからな!」
カバンを部屋に置くがてら、この場から退散する。
自分の脳裏に一瞬過った想いが気恥ずかしかったから。
数日後。
「だいぶ懐いてるみたいだな」
居間でテレビを観ているニンフを見つけた智樹が声をかける。
「え?」
「いや、小鳥だよ。肩に乗っかってる」
ただ、そこにある光景はいつもと少しだけ違う。
「ああ……うん」
ニンフの肩の上に、仮初めの家族が一羽。
「ケガもきちんと治ってきてるみたい」
「そっか、良かった」
智樹が小鳥の前に手を伸ばす。
小鳥は小首を傾げた後、
「アダッ!?」
とりあえず突いてみる事にしたらしい。
指の痛覚が程良く刺激される。
ついでに血も滲んできている。
『やはり電子戦用なんぞ造るんじゃなかったな』
「ご、ゴメン、トモキ!」
「ツツ……ニンフ、タンスの上に救急箱があるから……」
「うんっ」
背伸びをして、救急箱を取る。
早速中からオキシドールを取り出し、綿に染み込ませ、傷口に当てる。
「大丈夫トモキ?」
「まあ痛いけど、そんなに酷くはないし。うおっ! しみるーー!!」
「ご、ゴメン!」
「……………」
一瞬、智樹の表情が固まった。
少し、怖い。
「……トモキ?」
「いや、まぁこうやってニンフが手当してくれてんだし、大丈夫だろ」
「そ、そりゃ私が面倒見るって言ったんだし、ちゃんと責任取らなきゃ」
俯きながら、ニンフが答える。
……アルファーのマスターが、少し、怖い。
ニンフの方を向いた小鳥がまた、小首を傾げた。
翌日。
「ああああーっ!?」
外出から帰ったニンフが聞いた声は、出迎えの言葉ではなく、智樹の叫び声だった。
嫌な予感がして、声の聞こえた居間の方へ駆け込む。
「どうしたの、トモキ!?」
「どうしたもこうしたも、これ見てみろ!!」
指された指の先。畳の一点。
濁った白い泥のような液体。
「こいつ、よりにもよって畳の上にフンを落としちまったんだよ!」
「あ……」
智樹は、目に見えて腹を立てている。
家を汚されたのだから、当然だ。
「そもそも、なんでこいつは籠の外に出てるんだ」
普段小鳥は、鳥籠の中で飼われている。
ニンフがたまに籠の外に出したりはするが、外に放ったまま放置する事はないはず。
「えっと、ゴメンなさい……籠から抜け出しちゃったみたい、で……」
「ま、そうだろうな」
『お前小鳥を一羽飼っていたろう』
……なんで最近、あの時の事を思い出してばかりなのか。
今は、一番思い出したくないのに。
「ゴメンなさい、ゴメンなさい!」
「ニンフ?」
智樹の胸に縋りつく。必死に。
「なんでもするからこの子は許してあげて!」
あの頃と、似ているから。
あんな想いをするのは、失うのは、もう沢山だから。
「……じゃあ」
『その小鳥を今すぐ引きちぎれ』
そんな事言うはずない。
そう思っていても、過去の記憶が、どうしても呼び覚まされてしまう。
短いはずの間が、恐怖で引き伸ばされる。
「これ、ちゃんとお前が掃除しろよ」
「え……?」
智樹の口から出たのは、罰でも理不尽な命令でもない。
「それだけ?」
「それだけじゃない。もう抜け出したりしないように、ちゃんと戸を洗濯バサミで挟め。
フンを落とされるならまだ良いけど、こいつにとっては危険な場所だって、この家にはあるんだから」
智樹が話し終えるのと同時、小鳥がニンフの肩に止まる。
もう傷は大分癒え、少しの距離なら飛べるようになっているようだ。
「よかった……」
肩に止まった小鳥を見つめていると、瞳が自然と潤んでくる。
「うわっ!? なんでいきなり泣いてんだ、お前!?」
「べっ別に泣いてないもん!」
智樹から顔を背ける。
泣いている顔を、見られないように。
「……なあニンフ」
けれど時既に遅し。智樹も、ニンフが泣いているのは判ってしまった。
そして、誰の為に涙を流しているのかも。
「なに?」
「小鳥のケガほとんど治ったけどさ、お前が引き続き世話するんなら、家で飼い続けても良いから」
「え……?」
背けていた顔を、思わず智樹の方に向ける。
「んじゃ、ちゃんとそれ、綺麗にしとけよ」
「う、うん……」
大きな勘違いをしていた。
今とあの頃は、全く違う。
もう自分はマスターのエンジェロイドではないし、
「ありがとう、トモキ」
あの頃持っていなかった気持ちも、今この胸にはある。
涙を流しながらはにかむ飼い主を見て、新しい家族が一羽、小首を傾げた。