水柱が立つ音がした。
私は其れが鎮まるのを聞く前に遠くへ落ちていく。
(嗚呼‥‥エレフ。)
服から空気が抜けていく音がする。
揺られ墜ち、冷えていく中、生き別れた兄を思い浮かべた。
泣き虫なエレフ。
いつもべそばかりかいていて、私の後に付いて来た兄。
空を駆ける鳥を追い掛けては転び、気付いた私に恥ずかしそうに笑ったエレフ。
(確かあの時もそうだったわ。)
遠い日の思い出だというのに、記憶を呼び起こしただけでも口許が緩んでしまう。
あの時のエレフの反応といったら、此処が水中でなく 其れだけの力が残っていれば、今でも笑ってしまいたい位だ。
私を驚かせようと、何分もずっと湿地の茂みに隠れていたエレフ。結局 急に池から振り返った私に驚いて、彼は足を滑らせ転び 泣いてしまったのだけれども。
―――‥‥君ノ兄ガ、後ロノ茂ミニ隠レテ居ル。
水面に揺らめく満月を取ろうと水を掻き乱すのに必死で、池に落ちそうになった私をそっと抱えた「声」が教えてくれたのだ。
「声」と短い会話を交わし振り返るも「声」の主は居らず、代わりにエレフが転んだだけだった。
(―――‥‥そういえば、あの声は誰だったのかしら。)
父とも母とも兄とも違った手。
大きいその手は明らかに異質で、言うなれば老人のような骨ばった手だったが、力強く 冷たい手で幼い私を抱き上げてくれた。
それでも、だ。
またいつか迎えに行くと 声は去り際に言ったけれども、私はこうして逝ってしまう。
結局人は真意を知らぬまま、運命の随に身を委ねる事しか出来ない。あの日の「声」の主もまたいつか別の所で其れを知るのだろう。
「アルテミシア。」
沈む意識の中何処からか名前が呼ばれ、急に墜ちるのを止められた。
腹に当たった その細さから木の枝かと思ったが、背側に抱き寄せられ 其れが腕なのだと気が付いた。
こんな深い水底に誰がいるというのだろう。水蛇がいる様な場所に海の魔女が居る筈も無い。
それに此処は第一 湖だ―――‥‥一体何だというのだろう。
ふと軽い衝撃を感じた後 あんなにきつかった腕が緩まり、開放された。水平になった体が軽く沈み込んでから、穏やかに戻る。
気付けば周りを圧する水の気配も消え、代わりに遠くから河のせせらぐ音が聴こえるのみだった。
「大丈夫カ」
響いてくる発音。
眼を開けば、紫があった。
エレフよりも、もっと深く青い、黒と見紛う真紫の瞳。
長く闇の様な長い髪と服を纏ったその肌は真っ白で、使えなくなり打ち捨てられた娼婦達の骨を思い起こさせた。
「来ないでッ!!」
声とイリオンでの恐怖を思い出し、思わず自分を覗き込んでいた黒い服の背の高い男――‥‥声の低さからして男だろう‥‥――を払い退けた。
殴られた衝撃で男の髪から水が落ちる。
男を、寧ろ人を殴ったにしては軽い その衝撃に私は驚きながらも、今更 自分の視界が拓けている事に気付いた。そして次に叩いた人物が自分と同様 水で濡れてい、彼が自分を此処に連れて来たのだと直感した。
―――‥‥助けてくれた見ず知らずの人を叩くなんてどうかしている。
「済マナィ。驚カセタヨゥダ」
意に反し彼は気に止めず、紫の瞳で見詰めている。しかし不思議と女を前にした時の雄を感じず 褥に置かれているというのに、その瞳は私をただ 黙して見ているだけだ。
「…‥殴ってしまってごめんなさい。助けてくれたのは、貴方?」
黙した瞳が一度、瞬きをする。そして数拍の間。
「助ケテハ イナィ」
貴女は唯、死んだのだ。
彼の唇はそう、動いた。
「‥‥死んだ?」
信じられず目の前の男が発した言葉を繰り返せば、彼は首肯した。
思わず掴み掛かる。
「死んだ、って・・・貴方は誰なの、何故私は此処にいるのっ?」
生気の無い顔に一瞬影が通り過ぎる。機嫌を損ねたのだと気付くのに、暫く時間がいった。
何故ならその前に 再度床に押さえ込まれ彼を仰ぎ見る事になったからだ。容姿から懸け離れた力が上から押さえられた肩にかかる。
「憶エテ、イナイノカ」
疑問なのか独白なのか、それとも唯のからかいか。変化を映さない顔では分からないが、男を知らない身でもこの状況が何に繋がるか位察しが着いた。
「生贄を奪えば、神罰が下るわよ。」
脅すよう少女は紅い眼で睨むと、男は首を傾げた。
「我ノ前デハ等シク無ダ。ソレニ何故我ノ花嫁ヲ、アンナ蛇ニ遣ラネバナラナイ。」
身をなだれ込ませ床に伏し、軽く口吻ける。
その軽さに一度侵入を許してしまえば浅く深く、柔らかく 彼は口腔を荒らしていく。
「‥‥んっ…‥‥!」
人とは違う体温。敢えて言うなら「冷たい」というのだろうが、まるで温度が無いような感触だ。
僅かに零れた声に彼女の唇を離すと、今度は背に手を回し 濡れた服では隠せず浮き上がった胸の紅い尖りを口に含む。冷えた布擦れに 頬を染めたミーシャの身が跳ねた。
――‥‥その温もりを、我が奪い去るのだろうか?
白い布から透ける 紅を帯びた薄象牙の肌に舌を埋める。良い香の香りがするアルテミシアの形の良い二つの膨らみの谷間の奥から、早鐘の様な鼓動が伝わってきた。
怯えているのだろう。己には無い 血の巡りを感じ考える。
幾ら彼女が頼によって別の男(ヒュドラごとき)を気にし、己を忘れていたにしても 剰りに軽率な行動に出てしまった。
契ってしまえば彼女は完全に冥府の者となり手元から居なくなりはしないが、未だしなやかで暖かいこの身を 彼女の体を冷やす水の様、唯の冷たい物にさせるのだ。
―――‥‥‥彼女もまた、忌まれ嫌悪されるだけの存在へと成り下がる。
何と彼女に似合わないのだろう―――‥‥冥府の暗い池も月の無い空も。
「‥‥‥……済マナイ。悪カッタ。」
突然彼は前戯の途中で身を起こし、私から身を引いた。長く細い手で己の顔を隠すように額に手を当てたせいで、その表情は分からない。
「服ヲ持ッテ来ル。暫ク其処ニイテクレ。」
出来れば忘れて欲しい。
そんな言葉が見える素振りと言い方に、覚悟していただけに拍子抜けしまう。
しかし少女は目の前の男の声が、僅かに震えている事に気が付いてしまった。
「‥‥どうして貴方は私を連れて来たの?」
気付けばミーシャは問うていた。
死は答えない。
そっと顔に手を伸ばし、見覚えのある彼の手を取る。細い、されど大きなその手。
覆いを取られた紫の瞳は、水面の様に 眼窩の様に動かない。
「どうして貴方は 此処にいるの?」
彼は黙して答えない。
少女の薄紅の唇は問う。
「貴方は、何を奪いたかったの?」
違ウ、と小さく、しかし強い否定の声。
初めて紫の瞳に色が揺らぎ、強打するかの様な言葉が彼から発された。
「唯、もう誰にも、我の物を、奪わせはしない…‥‥ッ…!」
何て悲しい色だろう。
握り締めた細い指から伝わる力に、俯いた叫びにも似た声に、ミーシャはタナトスを見詰めた。
憎しみ、ではない。深い淋しさだ。
――‥‥奪われない為に奪って。
唯愛して欲しかっただけで、誰かに必要なのだと、そう一言、言って貰いたかったのだろう。
恐らくその言葉も知らずに。
私は彼の手を離し 背に腕を回す。そしてそのまま抱えるように彼を褥に倒した。
軽い音が立ち、体が沈み込む。
己を拒んでいた筈のミーシャの行動に 困惑したタナトスは彼女を仰ぎ見た。
「私が貴方を受け入れてあげる。」
其れはミーシャの濡れて解れた髪が顔の横に落ちる近さだ。
「‥‥死を受け入れれば、貴女は忌まれる。」
男の言葉に少女はくすり、と笑う。
「迎えに行く、そう言ったのは貴方じゃない。そうよね、タナトス。・・・・私は、貴方を待っていたの。」
承諾の言葉に瞳を開きそして閉じ、彼は彼女をそのまま横に伏させた。
頬が触れてしまいそうな近さで互いを瞳に映した後、再び口付け舌を絡ませ合う。
絡ませたまま 月の名を持つ少女の肢体を丁寧に脱がせ、柔い肌を愛撫する。
名の通り美しく締まった身体の右胸を手の平で潰すように弄り、触れられていないのにツンと上を向いた左の飾りを弾くように尖らせれば、少女は嬌声を零した。
幾度も角度を変えながら重ね合っていた接吻をどちらとも言わずに解く。つ と唾液で出来た糸が紡がれた。
伝った糸を撫でるように指で掬ったタナトスの瞳が再びミーシャに縫い止まる。
「どうしたの?」
空白が長いので息が弾んだままのミーシャが問うと、
「綺麗だから、つい。」
見惚れていた、とタナトスがサラリと返す。
「そんな事、真顔で‥‥……ひゃっ…!」
ミーシャが告げようとした反抗は空しくも、彼女の下腹に伸びた 彼の指が絡め取ってしまった。
驚きと快感に頬を朱に染め彼を見上げると、口元だけが笑い、耳元でもっと知りたい、と囁かれる。
‥‥彼の低い声は甘く、聞いているだけで背中が熱くなってしまう。
足に手を添えられば熱に浮かされた様な表情で恥じらいながらも、自然に脚を肩に乗せた。
奥から露わにされた其処は誘うよう 蜜を零しながら震えている。
男の眼に隠せない雄の視線が映る。
濃桃の部分を指でなぞり眼で彼女を見詰めた後、彼は指の代わりにあてがった物で刺し貫いた。
「‥‥‥っぁあ…‥!」
互いに予想以上だったのか、ミーシャは声を抑え切れず タナトスは少し顔を歪ませる。
「大丈夫‥‥っ‥?」
表情の変化にミーシャが問うと、アルテミシアも、と火照った頬に手を伸ばしタナトスは答えた。
グイッと彼女の奥深くに打ちつける様押し込む。狭い胎内から部屋に水音が響く。
「っふ‥‥っぁあ、あっ……!」
指を絡め、求めるまま身体を貪り合い、汗ばみ上気した肌に痕を刻む。
「…ァあ…‥ッ!」
「………ッ…‥!」
一際高い声と内壁の締め付けに胎の深くに精を放つ。
互いの唇が掠め、そのままミーシャの意識は暗転した。
眼が覚めれば、いつの間にか私の眼にも死の影が見えるようになっていた。
死者が蠢く冥府では思ったよりも忌避したいものではあったが、それすら愛しく思えた。
体に残る痛みと充たされただるさを抱きながら視線を横に流す。
「運命の器だから愛している訳ではない。」
私が眼を覚ましたのに気付き、彼は事後の力が入らぬ手を握り締めた。
「貴女(アルテミシア)だから、愛している。」
彼の頬を手で触れる。其処には今は私と同じ、深い紫の瞳がある。
そのまま身を寄せ、驚きで見開いた眼に微笑む。
「幸せにおなりなさい、私の旦那様。」
私の方から唇を重ねた。
おしまう。