近在でも有数の大商家である××家の令嬢エイレーネは奉公人にとって触れることも考えつない高嶺の花だった。
大商家ゆえの裕福さを背景に蝶よ花よと育てられた美しい娘。
育ちの良さが滲み出るような無垢な微笑、奉公人を分け隔てることのない優しさから
彼女に懸想する奉公人は後を絶たなかったが、××家の娘いずれは同程度に
裕福な商家か、公証人や裁判官など地位ある男にでも嫁ぐのだろうと憧れによる思慕だと己を騙し諦めていた。
しかし、ある男アレクセイ・ロマノヴィッチ・ズヴォリンスキーは違った。
貧しい一家に生まれ早いうちに××家に奉公に出た彼は仕事熱心で
醜い顔立ちだが、親しみやすい笑みや有能さから同輩や後輩から慕われていた。
そんなアレクセイがエイレーネに恋したのは、人から見ればささいなきっかけかもしれない。
アレクセイには夢があった、貧しいゆえに死んだ優しい母の残した一冊の『叙事詩』を神話を蘇らせること。
今まで話した者は夢物語と嘲笑い馬鹿にした。
だがエイレーネは美しい瞳をキラキラと輝かせ笑ってくれた。
アレクセイはその時彼女に母の面影を見たのだ。
そして途方もない、愚かにも思えるひたむきな恋心で彼女を必ず手に入れると決めていた。
が、決めていたものの身分が天と地ほど違う二人の恋が簡単にいくはずもなく。
迂闊に動けば全てが終わると彼は彼女を見詰めるだけでいた。
しかし、運命が紡ぐ糸は二人を結び付けるよう動き出す。
アレクセイが30数年の年月を数える頃、長年の働きが認められ××家の名を暖簾分けした商店を持つことを
認められた。奉公人にしてみればこれ以上ない誉れだが
アレクセイは焦った。このまま××家を出ればエイレーネとの接点が消えてしまう。
独立の後、頑張り一財産を築けばエイレーネに求婚することも出来るだろうが
その頃には彼女は適齢期を迎えどこぞへ嫁いでいるだろう。
焦りのあまりアレクセイは強攻手段に打って出た。
エイレーネに手紙を出したのだ。深夜の逢い引きを望む手紙を。
万が一にも叶わぬだろう願いを、祈りを込めるようにしたためた。
逢い引きの場所に指定したのは××家の敷地内にある忘れられ人の使わぬ廃小屋。
かつて馬小屋だったのか湿った干し草の匂いのする場所だった。
気の狂いそうなほどの静寂の中アレクセイは、ただ待った彼女を。
一秒が数時間に感じられる時をアレクセイは待ち続けた。
果たして、彼女は現れた。
軋む扉の音、穴の開いた小屋に差し込む淡い月光に照らされた彼女の美貌。
感動のあまり言葉もないアレクセイ、戸惑い頼りなく揺れるなよやかなエイレーネの肢体。
アレクセイは溢れ出る衝動を抑え切れずエイレーネに囁きかける。
「エイレーネ、君に触れたい」
熱に浮されたような言葉に、正真正銘乙女であるエイレーネは言葉もなく頷くことしかできなかった。
アレクセイがエイレーネを見詰めていたように、エイレーネもまたアレクセイを見詰めていた。
けして美しいと言える顔ではなかったが、誰より優しく微笑み、熱心に働く姿を
夢を語る時の少年のような瞳を、家族について語る悲しい顔を
エイレーネは少女らしい恋心を胸に、見詰めていたのだ。
エイレーネは初めてみる男の表情に恐れと同じくらいの昂揚を感じていた。
労働しか知らない無骨な手が結いあげた乙女の絹糸の髪を解く。
日に焼けたことのない真白い肌が、さぁっと羞恥に紅く染まった。