澄んだ木漏れ日。朝を告げる鳥の声。  
大きな樅の木の向こうに見える、森の奥の一軒家からは、ささやかな団欒を感じさせる良い  
匂いが漂ってくる。  
 
「母さん。朝食が出来ましたよ」  
 
毎朝のお祈りは、彼女の母の日課だった。  
今日も祭壇の前で静かに祈りを奉げていた母は、娘の声で顔を上げる。振り返る母はすでに  
年老いたと言っても過言ではない年齢だ。足腰の弱ってきた母を娘は優しく支えながら、共  
に食卓へと向かった。  
「どうぞ母さん。一緒に食べましょう」  
「ああ、本当にすまないねぇ……私は一度はお前を捨てようとさえしたというのに」  
食卓へ着くと、……母は、毎朝のようにそう懺悔する。忘れることは出来ない罪だと言うよ  
うに。  
「そんな……、母さんが悪いんじゃありません。それに、私は捨てられたりなんてしていな  
い。つらいこともあったけれど、母さんといられて……ずっと幸せでした」  
彼女がそれを初めて聞かされたのは、彼女が大人になったと言えるほどには成長してからの  
ことだ。  
傷付かなかった、と言えば嘘になる。けれども日々の暮らしを支える程度の収入を得るよう  
になってからは、生きていくことがただそれだけでもどれほど大変なことかはわかっていた。  
……飢餓の時代だったのだ。特に彼女たち親子は信仰する教えの違いから、謂われない罪で  
虐げられていた。  
貧しい家、女一人と子供一人で生きていくにはあまりにも過酷な状況――食べるものさえ満  
足に得られない中で、母は娘を大きな町の修道院に預けることを考えた。  
いや、預けるという言い方は正確ではない。修道院の近くに捨て、拾ってもらうことを期待  
したというだけ。それでも、あるいは今の暮らしよりはましではないかと思えるほど、親子  
の事情は逼迫していたのだ。  
だが、町へと出かけるその前日……長く消息不明だった父の遺産が二人の元へと届いたのだ  
った。  
文字通りの現金な話だ、と言えばその通りだろう。しかしその遺産で彼女たちは離れ離れに  
なることなく、共に助け合って苦難を乗り切り――今はこうして、慎ましくも幸せな生活を  
送っている。今さらそんなことを恨むほど、娘は狭量な人間ではなかった。  
「母さんの苦しみに比べたら、私の苦しみなんて大したことじゃない……母さんこそ、ずっ  
と甘えてばかりだった私を怒りもせず、育ててくれたじゃないですか。母さんが罪を感じる  
ことなんて何もないんですよ」  
紛れもない本心だ。  
娘にとって母と共に生きていくことが、どんな苦しみと引き換えても何より幸福なことだっ  
たのだから。  
罪を犯すことは誰にでもある。けれどもそれを正していける尊さも、人間はまた持っている  
はずだ。  
「ほら母さん。せっかく母さんが教えてくれたお料理なんですから、冷めないうちに食べて  
下さい。母さんに食事の支度をしてあげることが、私の夢だったんですよ」  
「ありがとう、私の愛しい娘……それじゃあいただこうかねぇ」  
神に感謝し、二人は談笑しながら食事を口に運んでいく。  
 
――――罪の祭壇に奉られた修道女も、火にくべられた魔女も其処にはいない。  
 
ただ、どこにでもいるありふれた母娘の姿があるだけだった。  
 
年齢不詳。性別も不詳。出遭えば不祥。正に人生の負傷。  
胡散臭い女将が夜な夜な暗躍する宿屋、その名も≪黒狐亭≫という!  
 
「おーい、女将さん。明日の朝の仕込みが終わったっぺよ」  
 
宿酒場であること以上に癖が強すぎる女将の人物像と、看板娘のぞんざい極まる接客態度で  
喧噪の絶えないこの店だが、泊り客も寝付いた深夜ともなればさすがに静寂がやって来る。  
洋灯が一つ灯るばかりの薄暗い食堂に揺れる影。厨房から顔を覗かせた彼女は、雇い主兼  
(不肖)保護者である女将に声をかけた。  
「あら、ご苦労様。今日はもう休んでいいわよォ」  
言ってひらひらと手だけを振って応える女将の目線は、手元の帳簿に注がれている。  
ぱちぱちと算盤を弾く音、次いで数字を帳簿に書き込んでいく音。こういう時ばかり真剣そ  
のものの女将の表情に、彼女は呆れたように嘆息を吐いた。  
「そう言う女将さんはまーた銭勘定か。こんな夜中までやるごとねーっぺ」  
「馬鹿を言ってんじゃないわよ、綺麗事だけで世の中渡って行けるほど生易しくはないんだ  
からね。店が潰れたらアタシもアンタもおまんまの食い上げじゃないの」  
言っていることはある意味もっともではあるのだが、でーんとふんぞり返る女将の日頃の態  
度を見ていれば、素直に頷く気にもなれない。がりがりと頭を掻いて、彼女は女将の向かい  
に腰かけた。  
「オラは数字のことはよぐわがんねーけど……儲かってねぇのか?」  
味は良いのに何故か怪しい肝臓料理と、温い麦酒が名物のこの≪黒狐亭≫。繁盛しているか  
どうかまでは知らないが、客の出入りは決して少なくはないだろう。基本的には彼女と女将  
の二人だけで切り盛りしてはいるものの、そろそろ人手を増やした方がいいのか、などとい  
う話もある程度には忙しいのだ。  
「まぁ、ボチボチといったところかしねェ。……増税なんて噂もあったみたいだけれど、お  
流れになったらしいし」  
頬杖を付き、ぱらぱらと帳簿を捲りながら答える女将。  
書き込まれた数字の内容は、学の無い娘にはさっぱりわからない。田舎から売られ、この女  
将に拾われて店で働き始め、辛うじて覚えたのは接客に関わる最低限の読み書き程度。それ  
以上は女将も覚えさせようとはしなかったが……  
「……なぁ、女将さん。それオラにも教えてぐんねーか?」  
「はぁ? 何を言い出すのよいきなり……アンタみたいな田舎っぺに理解るわけないでしょ  
うが」  
「だーがーらー、これから覚えるっつって言ってるでねぇか。もし女将さんになんがあった  
時、オラが出来ながったら誰がやるっぺ」  
しっし、とばかりに手を振る女将に、しかし彼女は身を乗り出して食い下がる。思いも寄ら  
ない彼女の積極さに、女将は些か面食らった。  
……だってそれではまるで、彼女がいずれ店を継ぎたい、と言っているようではないか。  
「まったく……縁起でもないこと言わないで頂戴。アンタに頼るくらいだったら店を閉めた  
方がマシね」  
「そっちこそ何言ってんだ。黒狐亭が潰れたらおまんまの食い上げってー言ったのは女将さ  
んでねぇか」  
だから――もしそうなったら、女将は彼女をどこか嫁にでも出すつもりだった。最低限の読  
み書きは覚えさせたし、器量もまぁ悪くない。性格と訛りは多少問題になるかもしれないが  
、貰い手がないということもないだろう。身寄りがなく仕方なしにここで働いているだけな  
のだから、彼女にとってもその方が良いはずだと。  
だと言うのに、この娘は――  
「はん、……アタシの教育は厳しいわよォ?」  
「ンなこととっくに知ってるっぺ。女将さんは金のことになると眼の色変わるがらな」  
「わかってるならいいのよォ。そもそもアタシはそう簡単にくたばるつもりはないけどねェ」  
「ん。それもわがってるっぺ」  
にこり、と、やけに嬉しそうに笑う彼女に、女将はやれやれとばかりに肩を竦める。  
胡散臭い女将と田舎臭い娘が毎日騒がしい宿屋、≪黒狐亭≫はまだ当分の間健在でありそう  
だった。  
 
昔々あるところに、雪白姫というそれは美しいお姫様がおりました。  
真雪のように白い肌、黒檀のように黒い髪、血潮のように赤い唇。幼くして世界一美しいと  
称されるに相応しい美貌の持ち主でした。物心つく前に実の母とは死別した彼女ですが、見  
た目の可憐さに反して根性があったので、わりとたくましく生きておりました。  
そんなある日、彼女がお城の廊下をてくてくと歩いているところ、後ろからぱたぱたと近付  
いて来る足音がありました。誰のものかは経験上わかっていましたが、ここはあえて無視し  
ておきます。すると足音はぱたぱたからずかずかに変わり、背後から彼女を呼び止める声が  
聞こえました。  
「雪白、雪白! 待ちなさい雪白!」  
ここでようやくさらさらの黒髪をなびかせて振り返ります。彼女の視界に入って来たのは、  
予想通りこの国のお妃さま、即ち彼女の継母でした。  
「あらお義母様、ご機嫌麗しく」  
「麗しいわけないでしょうが! 貴女、また家庭教師の授業を抜け出して森に遊びに行って  
いたのですって?」  
じろり、と睨む継母に、しかし雪白姫はどこ吹く風です。彼女にとって退屈なお勉強より、  
狩人の爺やと一緒に森を散策していた方が楽しいことなのでした。  
「だって、あの家庭教師って教えるのが下手なんですもの。細かいことを注意してばっかり  
だし」  
美しい黒髪の毛先をくるくると指に絡ませつつ、悪びれたふうもなくそう答える雪白姫。そ  
れに継母はさらに眉間に皺を寄せ、語気を荒くする――かと思いきや、返って来たのは意外  
な言葉でした。  
「家庭教師のことではなく、無闇に森へ行くのはおやめなさいと言っているのよ。爺やと一  
緒だと言っても、どんな危険があるかわからないでしょう?」  
言って雪白姫を見る継母の眼差しは、子を諌める母そのものでした。  
遠い記憶の中の母の面影が不意に揺らいで、雪白姫は思わず毒気を抜かれてしまいました。  
くすぐったいような温かな感触にしばし視線をさまよわせ、やがて満面の笑みを彼女へと向  
けます。  
世界一美しいと称されるに相応しい、極上の笑顔でした。  
「ふふっ……! じゃあ今度はお義母様にお花を摘んできて差し上げるわ! 世界で二番目  
に美しい人にぴったりの、綺麗な花束を贈らせてもらうわよ?」  
「えぇい、お黙りっ! と言うか貴女はひとの話を聞いていたの!?」  
「あ、それともお義母様も一緒にいらっしゃる? 花冠の作り方、お義母様にも教えてあげ  
るわ!」  
くすくすと嬉しそうに笑いながら、雪白姫は華飾衣を翻して小走りに駆け出します。  
「お待ちなさい、このお転婆娘っ……! そんなことでは素敵な王子様に迎えに来てもらえ  
なくてよ!」  
「いいわ、それなら私ずっとお城で暮らすから! お義母様がおばあさまになってもちゃー  
んと介護して差し上げるわっ」  
「キーッ! 余計なお世話よっ!!」  
継母の金切り声を背中に聴きながら、悪戯っぽい笑みを残して駆けていく雪白姫。そんな未  
来も悪くない、と、わりと本気で思いつつ。  
 
――さて、そんな彼女が素敵な王子様に出会えたかどうかは、また別のお話。  
 
「♪〜〜♪♪〜♪〜♪」  
 
小気味の良い鼻歌と共に、ほうきで掃かれた落ち葉が舞う。  
今にもくるくると踊りだしそうな……と言うかすでに身体を揺らしている義姉の姿に、妹は  
小さく首を傾げつつ声をかけた。  
「おねーちゃん、なにやってんの?」  
「あっ、ちーちゃん。それがねー聞いて聞いてー!」  
待ってましたと言わんばかりにキラキラと瞳を輝かせて振り返る姉。それでも幼い妹は、鬱  
陶しがることもなく素直にうん、と続きを待つ。  
「じゃじゃーん! かーさんが縫ってくれたんだよ!」  
と、自らのスカートの裾を掲げて上機嫌に宣伝する姉。彼女が示した部分には、可愛らしい  
林檎とパンのアップリケが縫い付けてあった。  
「またやぶいたの?」  
「うっ……おっしゃる通りです。ちょっとそこで引っかけて……あはは」  
冷静なツッコミに笑って誤魔化す。見ての通り姉は元気が良く何事も一生懸命にやるのはい  
いのだが、少々調子に乗りやすいのと落ち着きがないのが欠点だった。ぱたぱたと忙しなく  
動き回るのは、逆に言えばそれだけ要領が良くないということでもある。ドジを踏むことも  
少なくはないため、衣服の裾を引っ掛けて破くなど日常茶飯事であった。  
そのたびに彼女の継母は、「もうちょっと落ち着けないのかい、この愚図!」と文句を言い  
ながら縫い直してくれるのである。  
「でもいいなー。あたいもムッティに付けてもらおーかなぁ」  
「そうだねー。……あ、じゃあちーちゃんもお揃いにしよう、お揃い!」  
「えー、やだ」  
「ぐはぁ! なんというクールなお返事! うぅぅ、最近のちびっこはシビアですのぅ……」  
しくしく、と肩を落とす姉に、しかし妹はきょとんとして目を瞬かせる。少女としては悪意  
などまるでなく、純粋に思ったことを口にしたまでである。……まぁ、むしろその方が残酷  
だ、という説もあるが。  
「ところでちーちゃんはどうしたの? かーさんとお昼の支度してたんじゃなかったっけ」  
「うん。ムッティがね、おねーちゃん呼んどいでって言ったから」  
妹の返答に、今度は姉の方が首を傾げる番だった。そもそも彼女に庭の掃除を言い付けたの  
は継母だったのだ。それが終わらないうちに呼び戻すとは一体どんな用件だろう。  
「何だろ? 小麦粉が足らないから買って来いとか?」  
「んーん、ちがうとおもう。お手紙がきてね、たぶんね、ファーティからだとおもうよ。ム  
ッティ、読みながらにやにやしてたから」  
「マジで!?」  
ファーティ、という単語にめいっぱい反応する姉に、うん、と笑顔を浮かべて頷く妹。  
彼女らの父は船乗りで滅多に家にはいないのだが、それでも何ヶ月に一度は顔を見せに帰っ  
て来る。  
物心つく前に母を亡くし、今の義母と再婚するまで父に育てられた姉は大変な父親っ子……  
ミもフタもなく言えばファザコンであった。ちなみに妹は母の連れ子で直接の血の繋がりは  
ないが、妹とて父の帰宅が楽しみでないわけがない。彼女たち三人が家族として暮らしてい  
られるのは、父の存在によるところも大きいのだから。  
「いつ!? ファーティ、いつ帰って来るの!?」  
「わかんない。ムッティにきいてこよーよ」  
身を乗り出して訊ねる姉に、ふるふる、と妹は首を横に振る。そっかそれもそーだよね!と  
玄関扉を突き破る勢いで姉が走り出しかけたその時、がちゃりとドアが開いた。  
「この愚図、庭掃除にいつまでかかってるんだい! もう昼ご飯が出来たよ!」  
「かーさん!」  
「ムッティ!」  
腰に手を当てて呼びつける母に、姉妹はぱたぱたと駆け寄っていく。そしてエサを欲しがる  
雛鳥よろしく、ぴーぴーとその周りでさえずる娘たち。  
「かーさん、わたしもファーティからの手紙読みたい読みたい!」  
「あたいもあたいもー。ムッティ、ファーティはいつかえってくるの?」  
「っ、いつの間に……、まぁいいけどね。ほら二人とも、食べながら話すからさっさと手を  
洗っといで」  
『はーいっ!!』  
ハモって元気良く応え、姉妹は共におさげを揺らして家の中に駆け込んで行く。嘆息と共に  
苦笑を浮かべ、母は玄関の扉を閉めた。  
 
美しく飾り立てられた城の大広間に、華やかな祝辞が次々と交わされる。  
今宵は待ち望まれた王妃の懐妊、そして、この国の未来を担う王女の誕生を祝う宴だ。招か  
れたのは国内外の王侯貴族や名誉ある者と、王国を守護する賢女たち。燭台の光に輝く黄金  
の皿は、招かれた賢女の数にちなんで13枚――  
 
「お招きいただき光栄ですわ、陛下」  
「姫様へのお祝いに、美徳をお贈り致しましょう」  
「わたくしは美貌を」  
「それでは私は富を」  
「では私からは――」  
 
壇上の王と王妃、そしてその腕に抱かれた姫君に、賢女たちは神通力を用いて贈り物を授け  
ていく。  
その様子を壁際から見守る彼女もまた、宴に招かれた賢女の一人だった。名はアルテローゼ  
……不吉と称される13人目の賢女である。冥府に通ずる力を司る彼女を生誕の祝いに招くの  
は不適切ではないかと論議もされたが、その役割が王国とこの世界を守るのに重要な意味合  
いを持つのもまた事実である。最終的には彼女もまた賢女なのだ、という王の一声によって  
、他の12人と同様に招かれたのだった。  
「ふふっ……貴女は何を贈るの? アルテローゼ」  
「アプリコーゼ……」  
そんな彼女に声をかけて来たのは、旧知の賢女であるアプリコーゼだった。親しいと言うほ  
どの間柄ではなく、むしろ敵対関係と言ってもいいが、それは互いに実力を認めている証で  
もある。敬遠されがちなアルテローゼに何かと絡んでくる物好きな相手だ。  
「でも意外だわ。あなたはこういう場は苦手だと思っていたから、来ないんじゃないかと心  
配していたのよ」  
「ふん……無論、馴れ合いなどする気はない。……ただ、まぁ、私もこの国に住まう身だ。  
姫の生誕を祝わないほど不義理ではない」  
ふい、と顔を背けるアルテローゼに、アプリコーゼはくすりと笑みをこぼす。孤高の古薔薇  
などと言われたりもするアルテローゼは、実際気位が高く物言いも高圧的だ。だがその半面  
、義理堅く繊細な面も併せ持つことを彼女は知っていた。  
「おぉ……よくぞ参った、アプリコーゼ殿、アルテローゼ殿」  
「ようこそいらして下さいましたわ」  
と、そこにやって来たのは王と王妃だった。まさかの主賓の登場に、慌てて姿勢を正す二人。  
「これは、陛下……! わざわざいらして下さったのですか?」  
「こちらからご挨拶しなければならないところを、申し訳ありません」  
王の御前、さすがにアルテローゼと言えど頭を下げる。それに良い良い、と穏やかに応える  
王。王妃の腕の中では、玉のような姫君がきょとん、と目を瞬かせて二人を見ていた。  
「まぁ、可愛らしい……きっと健やかにお育ちになりますわ」  
「さぞお美しく成長なさることだろう。この国の将来を任せるに相応しい気高い姫様となっ  
て頂きたいものだ」  
「ありがとう、アプリコーゼ、アルテローゼ。どうかこの子とこの国を、これからも守って  
下さいな」  
たおやかに微笑む王妃に、慇懃に頷きを返すアプリコーゼとアルテローゼ。それから顔を見  
合わせると、それぞれ神通力の触媒たる杖を取り出す。  
「では贈り物を授けますわ。わたくしは……そうですね、姫様が素晴らしい伴侶と巡り会え  
ますように」  
「ならば私は、その相手と結ばれ宿す御子に光を……」  
杖の先で描かれた文字が瞬く光の欠片となって、王妃の腕に抱かれた王女に降り注いだ。こ  
の国の永き繁栄を祈る瞬き。そこに、死の呪いなどどこにもありはしない――  
「あら、ずいぶんと気が早いのねアルテローゼ」  
「お前も人のことは言えないだろう……」  
百年の眠りにつく城はなく、野薔薇に抱かれた姫もいない。  
ただ輝かしく育つであろうその姫君に、果たしてどんな出逢いがあるのだろう?  
 
眼下に広がる、風が駆け抜ける草原。夕暮れに朱く燃える丘。  
彼は何を言うでもなく、ただ無言のままその光景を眺めている。深く、記憶の水底に沈むよ  
うに……斜陽が陰を落とす横顔を、彼女もまた同じように無言のまま見つめていた。  
夜気を含んだ風が二人のいる露台へと吹き込む。彼女の長い髪が夜風になびいて、ようやく  
彼は椅子から腰を上げた。  
「……風が冷たくなってきた。屋敷の中へと戻るとしよう」  
重々しく立ち上がった夫を、しかし妻は腰かけたまま視線で追う。どうした、と振り返る彼  
に、彼女はいいえ、と首を横に振って、  
「何でもありません。……戻りましょう、あなた」  
言って、白い華飾衣の裾を持ち上げ立ち上がる妻。夫に続き屋内へと足を向ける──が、不  
意に彼女は足を止め、もう一度背後の丘へと振り返った。  
落日の碧。どこまでも続くかのような赤い草原。  
つられるように、彼もまたそちらへ視線を戻す。其れは決して、あの戦場ではないけれど――  
「……あそこに、何かあるのですか、あなた」  
置いてきたもの。残してきた想い。今なお忘れえぬ、果てない輝き。  
けれども、それは。  
「――何も無い。あの場所には、何もな」  
応える声はただ平坦だった。だって、それはとうに決された過去。戻せない在りし日の残照  
なのだから。  
ふい、と踵を返し、青髭と呼ばれた伯爵は屋敷の中へと戻って行く。その去り際、背中越し  
に、  
 
「……だが、此処にはお前がいる。…………それでは不満か」  
 
振り返ることもなくそう言い残し、立ち去って行く背中を彼女は思わず呆けたように見つめ  
てしまった。……そんな言葉、このひとが言ってくれるなんて……思いもしなかったから。  
黄昏に染まる赤い背中に滲む鉄と血の匂いも、内に抱く深い慟哭も。きっと一生拭えはしな  
い。そしておそらくはその翳りを、彼が彼女に明かすこともないだろう。  
――でも、信じよう。そうまでして貴方が守ろうとしてくれている場所を。振り向く必要さ  
えなく、貴方が信じてくれた私を。  
「いいえ……、充分です、あなた……」  
二つの影が穏やかに寄り添う、夕焼けの窓辺。  
 
* * *  
 
 
「…………ん……」  
 
……微かな物音が聞こえたような気がして、微睡みから意識が浮上する。  
薄らと瞼を開け、視界に移る天井は、見慣れた自分の寝室のものではなかった。ぼんやりと  
思考を巡らすことしばし、エリーザベトはやっと昨晩のことを思い出す。あ、と小さく声を  
漏らし、おそるおそる傍らへと視線を移した。  
「……メル……」  
安堵の声。  
彼女の隣で穏やかに寝息を立てる青年の姿に、エリーザベトはほっと胸を撫で下ろす。もし  
あのことが夢だったら――そんな不安が氷解していくと共に、今度は羞恥が頬を熱くさせた  
。そう言えば自分は何も身に着けていないのだ。  
「あ……、な、何か羽織るもの……」  
慌てて周囲を見渡すものの、ここは自分の部屋ではない。寝間着も替えの衣服もあるはずな  
く、かと言ってこのまま裸でいるというのも恥ずかしい。……仕方なしに、エリーザベトは  
とりあえずということでメルツの服を一枚拝借することにした。  
「……やっぱり大きいのね。昔はほとんど変わらなかったのに……」  
そんな当たり前のことを今さらのように感じて、彼女は小さく笑みをこぼす。それからもう  
一度、寝台で眠ったままの彼に視線を戻した。  
「こうして眠っていると、何だかあの頃のメルみたいなのに……」  
寝顔は幼く見えるなどと言うが、どうやら彼にしても当てはまるらしい。無防備な表情は昨  
夜の凛々しい青年のものと言うより、かつての優しい少年に近い。懐かしい面影に愛しさを  
感じ、眠るメルツの瞼にそっと接吻けを落とすエリーザベト。  
それから静かに寝台を抜け出して、窓際へと向かう。東の空はまだ薄暗く、日が昇るまで幾  
らかの猶予がありそうだった。明け方の澄んだ空気は薄着の身には少々肌寒い。  
「……あら……?」  
と、そこで彼女は窓の一つが僅かに開いていることに気が付いた。道理で寒いはずだ……、  
と納得して閉めたところで、エリーザベトは思わず首を傾げた。どうしてこの窓が開いてい  
たのだろう?  
眠りに落ちる前は、自分も彼も開けた覚えはない。メルツが夜の間に起きて、換気か何かの  
ために開けたのだろうか……けれど、何か違和感が――  
 
「あ、……えっ……?」  
 
はっとして、エリーザベトはきょろきょろと辺りを見回す。だが、目当てのものは見当たら  
ない。昨夜、確かにここに置かれていたはずの人形を。  
「そんな……どうして……」  
まさか窓から落ちてしまったのだろうか……?  
もう一度窓を開けて下を覗いてみるが、この部屋は屋敷の二階。窓の外には木々があり、ま  
して夜明け前のこの暗さだ。小さな人形一つを見つけ出すことは不可能な話だった。  
「…………夜が明けてから探すしかないかしら……後できっと見つけてあげるから、待って  
いて」  
仕方なく窓を閉め、エリーザベトは寝台に戻る。  
寝入ったままのメルツは、相変わらず起きる気配がない。人形の行方や窓のことを訊くのは  
朝にならなければ出来そうもなかった。もう、と小さく頬を膨らませながら、彼女も再び寝  
台の中に潜り込む。  
……温かい。  
あの娘のことは気掛かりだけれど……その温かさに包まれていると、すぐにまた眠気がやっ  
て来た。うとうととしながら、エリーザベトは寝台の上に置かれた彼の手のひらに自分の手  
を重ねる。  
「……メル……、ずっと…………」  
夜が明ければ。  
朝になれば。  
止まっていた刻が、やっと動き出すのだ――――  
 
 
 
 
 
* * *  
 
 
……そう、刻は此処から動いていく。  
その後どれほど探そうとも、人形が見つかることはなかった。なぜなら人形はもう必要ない  
のだから。  
変わらないまま、“今”を繋ぎ止めるためのお人形は宵闇に消えるだけ。  
夜明けの間際、まるで見えない手に導かれるように、ひとりでに開いた窓から『彼女』はふ  
わりと身を投げ出す。  
夜に抱かれ羽ばたいて、そして―――  
 
「おかえり、エリーゼ」  
「……タダイマ、メル」  
 
彼らが眠る部屋を望む、木陰の枝の上。  
迎える彼の腕の中に、少女は舞い降りるように還るのだ。  
 
「――ご苦労様。どうだったかな、久しぶりに里帰りした気分は」  
「別ニ、エリーゼニハ……『私』ニハ関係ノ無イコトダモノ。メルメルト離レテイルノガツ  
マラナカッタダケ」  
ぽふ、とメルヒェンの胸に顔を埋め、つっけんどんに答えるエリーゼ。そんな彼女に苦笑を  
浮かべつつ、メルヒェンは優しく彼女の頭を撫でる。  
「そうか、それは残念だったね。まぁ、私も君と離れているのは退屈だったけれど」  
くすりと微笑って、メルヒェンはエリーゼの額に接吻ける。一瞬くすぐったそうにはにかん  
でから、エリーゼは慌てて視線を逸らした。  
「コ、コンナノデ誤魔化サレナインダカラ……! メルメルッテバ……何ヲ考エテルノヨ」  
「何って?」  
「ワザワザコンナ可能性ヲ探シ出スナンテ、馬鹿ゲテルワ。シカモアノ娘ダケナラマダ簡単  
ダッタノニ全部ナンテ……屍揮者ノスルコトジャナイワヨ」  
ぷく、と頬を膨らませ、エリーゼは横目でちらりとあの窓を見遣る。  
すでに彼らとは分かたれたモノである二人にとって、こんな結末は何の意味もない。謂わば  
紙の上の出来事だ。だと言うのに膨大な試行錯誤を重ねてまで七つ全て揃えるなんて、どう  
考えても割に合うことではないだろうに。  
「屍揮者は休業状態だが……まぁ、ちょっとした暇潰しさ、エリーゼ。どうせこの世には童  
話(わたし)を必要とする喜劇など溢れ返っているんだ。その中の七つばかりが何事も無く  
終わったところで、大した問題はないだろう?」  
肩を竦めながらさらりと答えるメルヒェンに、エリーゼはしばし口を噤む。何となく釈然と  
しないものがあるのは、少女の素因たる『エリーゼ』の感傷だろうか。  
 
よくはわからないけれど――まぁ、彼がそう言うのならたまにはいいか、と考え直して、エ  
リーゼは再びメルヒェンの胸に身を預けた。少女は彼と共に在るために生まれた、ただそれ  
だけのことである。どうせこれからも二人で共に、永い夜の幻想を集め続けていくのだから  
。カタチを変え、刹那の瞬きと成しながら。  
「ジャ……ソウイウコトニシテオイテアゲル。ダカラ、ソロソロ森ニ戻リマショウ?」  
ようやく悪戯っぽい笑顔を見せて、メルヒェンの頬に接吻けるエリーゼ。それに笑みを返し  
て、唇で応えるメルヒェン。  
「そうだね、もうじき夜明けだ。……ああ、彼女が目を覚ましたのかな」  
メルヒェンの言葉に振り向けば、窓際にエリーザベトの姿が見える。人形がないことに気付  
いたらしく、窓から下を覗き込んでいるが、こちらに気が付く様子はない。彼女にはこちら  
の姿は視えないのだから、当然ではあるが。  
「フゥン、道ガ違エバ聖女ナンテ言ワレルコトモアルッテイウノニ……ダラシナァイ。人間  
ッテドウシテ愛ト性欲ヲ切リ離セナイノカシラネ?」  
「おや。まだそんなことを言っているのかい、エリーゼは」  
肩口にかかる髪を払いのけつつ呆れたように言うエリーゼに、メルヒェンはくすりと微笑を  
浮かべた。それに彼女はむー、とむくれて、  
「何ヨ。ダッテエリーゼハメルメルノコトヲ愛シテルケド、……ソ、ソノ、ソウイウコトヲ  
シタイナンテ思ッタコト、ナイモン」  
顔を赤らめて答える少女に、思わずメルヒェンはくつくつと笑いを噛み殺す。いやいや、も  
しかして煽っているのだろうか、この娘は。  
「ナ、何ヨモウ、笑ウトコロナノ!?」  
「いや、すまないすまない。……ふむ、そうだね。後で教えてあげようか、エリーゼ」  
「……? ドウイウコト?」  
首を傾げる少女に意味深な笑みを返すと、彼女を抱き寄せてその場に立ち上がるメルヒェン。  
……まぁ、少々当てられてしまったところもあることだし。せっかくだからこれを機会に、  
彼の愛しいお姫様にもそのあたりのことを覚えてもらおうか。  
 
「――――さて、それじゃあ帰ろう。イドへ到る森へ――――」  
 
少女を抱き上げ、メルヒェンはくるりと半身を翻す。  
真紅と漆黒の影がはためき、次の瞬間には、二人の姿は宵闇へと溶け消えていた――――――  
 
 
 

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