『メル、絶対、絶対に迎えに来てね……!』
『あぁ――約束さ』
そんな拙い想い出が、今も鮮明に浮かび上がる。
遠き日の斜陽に交わされた約束。エリーザベト・フォン・ヴェッティンは、自室の窓から夜
空を見上げ、そっと憂えた吐息を漏らした。
……あれから、幾年が過ぎたのだろう。少年とその母がテューリンゲンの地を離れて間もなく、彼女自
身も森近くにあった隠れ屋敷からヴェッティンの本家へと移された。
軟禁同然の生活からは解放されたものの、待っていたのはやはり窮屈で精彩を欠いた日々。
メルに会えない、ただそれだけで、世界はこんなにも彩りを失うものだったのか。どれほど
華やかで贅沢な暮らしも、かつて見た輝きには遠く及ばない。そうして夜になるたびに、四
角く切り取られた空を見上げるのだ。あの日の奇跡のように、この窓辺に月光が降り立つ夢
を見ながら――
「……あの夜もこんな満月だったわね、メル」
森を離れた今、そんなことが再び起こるわけもない。いや、そもそもメルツがずっと彼女と
の約束を憶え続けている保証などありはしないのだ。もし憶えていてくれたとしても、エリ
ーザベトを縛り付ける貴族のしがらみはあまりにも複雑で……仮に彼との再会が叶ったとし
ても、その前途は易しいものではないかもしれない。
不安は尽きることなく、それでも彼女は少年を信じた。
メルツ・フォン・ルードヴィングは約束を破るような人間ではない。彼が迎えに来てくれた
なら、その時は自分も戦おう。全てを彼に頼っていた幼い子供のままではないのだ。メルが
この手を握っていてくれるなら、どんな苦難にも立ち向かえるに違いないのだから。
「だから、早く迎えに来てね……メル」
そして今度こそ伝えよう。
――わたしは、貴方を愛しています、と。
と、その時不意に部屋の扉がノックされ、エリーザベトは意識を引き戻された。振り向くと
同時に扉の向こうから、慇懃な男の声が聞こえる。
「お嬢様。兄君がお待ちです」
それは古くからこの家に仕えており母の信も厚い従者、ヴァルターのものだ。彼女にしても
テューリンゲンの隠し屋敷に住んでいた頃から助けてくれる彼には少なくない信頼を寄せて
いるが、呼びかけの内容は決して歓迎できるものではなかった。
エリーザベトにとって、横柄で他者を見下したところのある兄はあまり好ましい人間ではな
い。何かにつけて彼女に婚礼を薦めようとするのも苦手な一因ではあった。
確かにエリーザベトも年頃となり、同年代の貴族の娘であればとうに結婚していたとしても
おかしくはない。だが、兄の望む明らかな政略結婚には抵抗があったし、何よりも彼女には
既に心を決めた相手がいる。エリーザベトには、メルツ・フォン・ルードヴィングでなけれ
ば駄目なのだ。
だから正直、兄が呼んでいると聞いて、彼女は少々憂鬱な気分になった。きっとまた貴族と
しての心構えだとか、今日まで育ててやった恩を考えろだとか、延々と聞かされるに決まっ
ているのだ。
……兄の言い分も理解できないわけではない。我儘なのはきっと自分の方だ。門閥貴族の令
嬢として生まれついた以上、彼女には相応の責任と義務というものがある。食べるものさえ
満足に得られない人々が多くいる中で、衣食住に不自由することなく暮らしてきた――それ
だけの権利を享受しておきながら、義務を放棄すると言うのは勝手な話だろう。
頭ではそう理解している。だけどそれでも、心を納得させることは出来なかった。この胸を
満たす想いを裏切ることは出来ない。愛を偽って生きるなんて、そんな器用には生きられない――
「……わかりました。すぐ伺います」
悟られぬようそっとため息をついてから、エリーザベトは身を翻し扉を開けた。
部屋の外で待っていたのはやはり忠実な従者であるヴァルター。彼に連れられ、通された談
話室で、兄は豪奢な椅子に腰掛けてエリーザベトを待っていた。
「お呼びでしょうか、お兄様」
コツリ、と、靴を鳴らしてその正面へと立つ。それに彼は顔を上げ、手にしていた葉巻をぐ
しゃりと灰皿へ押し付けた。
「……来たか、エリーザベト」
だが――その様子に、エリーザベトは些か意外なものを感じた。常であれば兄はもっと、居
状高な態度のはず……それがどうしてか、今夜に限ってはやけに神妙だ。いったい何の話が
あるのだろう、と、内心首を傾げる彼女に構わず、兄は傍らの卓に無造作に置かれていた封
書を彼女へ見せる。
「喜べ、エリーザベト。お前に婚礼の話が来ている」
言って、ぞんざいに封書をエリーザベトへと突き付ける兄。
やはりその話なのか……僅かに眉を顰め、彼女は兄を見据える。既に幾度も繰り返したやり
取りだ。だがなんと言われようと、自分の返事は変わらない。唯一人を除いて、愛を誓うこ
とは出来ないと。
「お言葉ですが、お兄様。私はどなたのもとへも嫁ぐ気はございません」
迷わず答える彼女。そう言ったところで兄は納得すまい。このまま兄の不興を買い続ければ
どのような仕打ちを受けることになるのかはわからないが、それでも自分が意志を曲げるこ
とはないだろう。
凛、と返答したエリーザベトに、兄は深くため息を吐く。そして渋面を浮かべて、もう一度
封書を彼女に差し出した。
「……いいから、これを見てみろ。それでも返答が変わらないと言うなら構わん」
「…………?」
やはりいつもとは違う兄の態度に、思わず疑問符を浮かべるエリーザベト。つい封書を受け
取ってしまい、封蝋を確認する。ブンター・レーヴェ――テューリンゲン領の紋章たる獅子
の姿に、彼女は思わず息を呑んだ。
「――――――」
一度兄が目を通したのだろう、既に開かれている封を外し納められた書状を取り出す。……
カサ、という紙擦れの音。内容はヴェッティンの当主に宛てられた、エリーザベトへの求婚
の申し出だ。文面自体はありきたりで、以前に見せられたものとも大差は無い。だがその末
尾に添えられていた署名に、彼女の目は釘付けになった。
――Marz von Ludowing――
テューリンゲン方伯家の紋章と共に記されていたのは、片時も忘れたことはない、あの愛し
い名前であった――
* * *
それから約半月。もどかしいばかりの日々は、気が付けばあっという間に過ぎ去っていた。
とにかく会いたい。そう兄に答え、用意されたのが今宵の夜会。今日この屋敷にメルツは招
かれ、彼女と会うことになっていた。
……テューリンゲン方伯ルードヴィング家嫡男、メルツ・フォン・ルードヴィングとして。
ルードヴィングが方伯の姓であることは、エリーザベトも本家へと戻った後に知ったことだ
った。それも、ヴェッティンとは政敵の間柄にある家として。
だが関係が悪化していると言っても、争えば互いに疲弊することは目に見えている。今回の
婚礼はそんな両家の事情を考慮した政略結婚と言っても過言ではない。兄が反対をしなかっ
たのはそういうことだろう。
だけどエリーザベトにとってはそんなことは重要ではない。全くの無関心というわけにはい
かなかったけれど、誰も文句を言わないのなら問題は無い。ただメルツが本当に自分のこと
を憶えていてくれているのか、どういう意図で結婚を申し込んだのか、それが何より不安だ
った。
そして今夜、待ち侘びていた彼との再会が叶う。半月の間はあまりにも長く感じたのに、い
ざ当日となると時間は瞬くように過ぎていった。給仕の女性に髪を梳いてもらいながら、彼
女は鏡に映る自分を確かめる。
今夜のために特別にあつらえた華飾衣。幼い頃、好んで着ていたものに似せた意匠。金の髪
が梳き上げられ、白い髪飾りで留められる。普段あまり化粧を好まない彼女だが、今夜はち
ょっと気合を入れて整えて貰った。どこか変ではないだろうか。彼はどう思うだろう?
そんなことを考えながらじっと鏡の中の自分とにらめっこしていると、後ろに控えていた使
用人の女性がくすりと小さく笑った。それに、ますます顔が赤くなる。
「え、あ、あの、っ……」
「ああ、申し訳ありません。でも、お嬢様のそんなお顔を拝見するのは初めてでしたもので
……」
言われてエリーザベトも自覚する。そうだ、こんなに胸が高鳴るなんていつ以来だろう。た
だ素直に感情が動く。やっぱり自分には、メルが必要なんだ……
「こちらのお屋敷にいらしてから、お嬢様は毅然としていらっしゃいましたが……どこか憂
えたところがおありでしたから……」
「……………………」
……そう言えば、この女性もかつて隠れ住まいにいた頃から仕えてくれている……
エリーザベトにとって、メルは誰よりも大切な愛しいひと。それはもうどうしようもないし
、彼女自身にも変えようが無い。だけど……彼女のことを案じてくれている人は、自分が考
えているより、ずっとたくさんいるのかもしれない。だとしたら、きっと自分は傲慢だ。
「……ありがとう。心配をかけたのね、レイナ」
「いえ、お嬢様がお幸せになられるのでしたらそれが何よりですわ。さ……お仕度が整いま
した。そろそろ先方もお出でになります」
さら、と、前髪を手櫛で揃えて、女性は穏やかに微笑む。それに小さく笑みを返し、鏡台の
前から立ち上がるエリーザベト。
深まりゆく宵闇を照らす月は、いつかのように明るく丸い。彼ももう到着していることだろ
う。
――――もうすぐ、会える。
身を翻す彼女の背に、降り注ぐ月光が柔らかに微笑んだような気がした。
/
ギィ、と、厳かな音を立てて、広間の大扉がゆっくりと開かれていく。
接待側の席に座して待つのはエリーザベトの兄。エリーザベト自身はその傍らに立ち、赤い
絨毯の先――こちらに向かい近付いて来る人影をじっと見つめていた。
涼やかな足取り。緩く束ねた長い髪が流れる。燭台の灯りを撥ねてきらめく白銀の色。……
とくん、と、胸の奥が鼓動を打つ。
ややもせず彼らのすぐ前まで歩いてきた青年は、二人に向かい恭しく頭を垂れた。
「――フォン・ヴェッティン侯爵。本日はお招き頂きまして誠にありがとうございます」
聴き覚えのない、低くなった声音。すらりと伸びた手足が、優雅に会釈を形作る。
「よくぞ参られた、次代ルードヴィング方伯殿。此度の求婚、光栄に存じよう」
「勿体無いお言葉です。当方からの突然の申し出であったにも拘らず、このような機会を設
けて下さったことに感謝いたします」
流暢に社交辞令を操り兄と会話する青年は、エリーザベトの知らない人間だ。けれど――ゆ
っくりと彼女に振り向く面差しは。優しいいろを湛えた、その緋い瞳は。
「……久しぶり。エリーザベト」
「メル……!」
メルツ・フォン・ルードヴィングに間違いないのだから――――
弾かれるように、人目も気にせずエリーザベトは彼の胸へと飛び込む。メルツが驚いたよう
に小さく息を呑んだことも、後ろで兄が嘆息を吐いていることも気にならなかった。メルが
此処にいる、今はただそれだけでいい。
「……ごめん。遅くなったね」
そっと。まるで壊れ物を扱うかのような慎重さで、メルツの腕が彼女の背に回される。
控えめではあったが優しくあたたかな抱擁に、エリーザベトもまた柔らかくそれに応える。
……嬉しかった。もう、今この瞬間に死んでしまっても何の悔いも無いと断言できるほど満
たされた瞬間。こんなにも幸せな時間は、きっと生まれて初めてだったに違いない。
「会いたかった……会いたかったわメル……」
「……うん。……僕も、逢いたかった」
エリーザベトを抱き返す腕に、少しだけ力が篭る。
そのまま互いに言葉も無く、抱きしめ合うことしばし――二人を我に返したのは、ごほん、
という咳払いの声であった。
「……そろそろ宜しいかな、ルードヴィング殿」
『っ……!!』
固い声音に、メルツとエリーザベトは慌ててぱっと身を離す。赤くなった顔を揃えて振り向
けば、エリーザベトの兄が眉間に皺を寄せてこちらを睨んでいた。
「も、申し訳ありません侯爵。お恥ずかしいところをお見せしました」
「お兄様、あの、これは……!」
頭を下げるメルツと言い繕おうとするエリーザベトに、彼は深々とため息を吐き出す。依然
として不愉快げな表情を浮かべたまま、しかし憤慨するふうでもなく手を振ってメルツを見
遣る。
「……妹はどうやら少々取り乱しているようだ。申し訳ないが、しばらく貴公にお相手願え
まいか。別室を用意させよう」
言って兄は適当な給仕を呼び付けると、客間を用意するように言付ける。
有難うございます、と再び頭を下げるメルツの横で、思わず目を丸くするエリーザベト。…
…このひとは、こんなことを言ってくれる人だっただろうか?
確かに今回の話を進めたのは兄自身だし、求婚をしてきた相手との顔合わせなのだから二人
にされること自体は不自然ではない。けれどもずっと、兄は自分を疎ましく思っていると感
じていたのに。
「お兄様……」
「衆目の場で見境無く男に縋り付くとはな。これ以上の醜態を晒されては我がヴェッティン
の名が汚れる。さっさと引っ込むがいい」
顎でしゃくる兄に、ぺこり、と頭を下げる。
戻って来た給仕に連れられ退出するエリーザベトとメルツの姿を見送った後、彼は幾度目か
もわからない深いため息を吐いた。
「……宜しいのですか、殿下」
「あの娘をこれ以上この場に出しておいては見苦しいばかりだ。呆れ果てた馬鹿娘よ」
「そうではありません。……メルツ・フォン・ルードヴィング殿のことです」
おそらくはわざと判らぬ振りをしたであろう彼に、敢えて問うヴァルター。それに、彼は眉
間に刻んだ皺を一層深くする。
「ルードヴィングとは長く対立が続いていたが、向こうからの申し出。こちらが不利になる
ことは無い。加えてあの役立たずを引き取ってくれると言うのなら、有り難い話だろう」
「しかし、あの容貌は……」
「……方伯殿もよく跡取りと認めたものだ。だが、所詮はあちらの醜聞。我が家には関わり
の無いことであろう」
そう言い捨てる主君にヴァルターはややあってから、御意、と小さく頷いた。
幼少の頃からエリーザベトの世話をしてきた彼にとって、メルツ・フォン・ルードヴィング
は知らぬ人間ではない。かつてテューリンゲンの隠し屋敷に住んでいた頃、エリーザベトの
元へと訪れていた少年。あれだけ特異な容姿だ、当人に間違いはないだろう。となればその
母、かの≪賢女≫テレーゼ・フォン・ルードヴィングは――
……いや、これ以上は臣下に過ぎぬ自分が考えるべきことではない。やむを得なかったこと
とは言えエリーザベトには苦しい日々を強いてきたのだ。その末にやっと幸福を手にするこ
とが出来ると言うのならば、例えそれが誰かの作為であったとしても感謝さえしよう。
「…………これで良かったかどうかなど、……私にも判らんよ」
エリーザベトにとっては確かに、夢にまで見た未来だろう。これで彼女が自らの生と、周囲
の想いを顧みられるようになるのなら、……母も少しは報われるというものだが。
返答を期待したものではないだろう、彼の漏らした呟きに、ヴァルターはただ黙礼を返す。
やれやれと軽く頭を振り、彼の主君は靴音高く身を翻した。
「母上にはお前から伝えよ。私は他のお客人の相手をしてこよう」
「御意に」
恭しく応える従者に頷き、彼はきらびやかな広間へと向かう。内心がどうあろうと招いた客
は持て成すのが貴族としての務めであり礼儀だ。彼はフォン・ヴェッティンを背負う立場に
あり、また自身の生まれに相応の誇りを持っている。ときにそれが他者の目から過剰に映っ
たとしてもだ。
例え肉親から疎まれることになろうとも、後悔などしまい。
人にはそれぞれ背負うべき立場と運命がある――ならばこそ、悲観したところで何になるの
か。受け入れ己のものとすることが、彼の人生なのだから。
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