井上とヤった。  
 井上と、セックスをした。  
 
 ローヒールの踵が、無機質な廊下にかつかつと響く。カスタネットのようだ。  
 この音は嫌いじゃない。  
 時と場合によっては耳障りだけど、こういう風に廊下に反響をすれば自分が、デキる女になったような錯覚を抱ける。  
 その実、笹本は周りに評されるほど優秀な人間でないと自覚をしている。  
 
 乱暴にドアを開ける。夜間で誰もいないのをいいことに、盛大な音を立てて。  
 自分のデスクに腰をかける。  
 電話だけの、簡素で無愛想なその机上に腕を組んで、どか、と盛大に音を立てながら突っ伏した。  
 
 井上と、ヤってしまった。  
 同僚に犯された。  
 いや、被害者にするなと宣言をしたからには犯されたわけじゃない。  
 
 仮眠を取っていただけだった。  
 誰かが眠る己のくちびるを撫でた。  
 眼を開けた次の瞬間には、その瞳を堅く閉じた井上が自分のくちびるを塞いでいた。  
 身じろぎの抵抗しかできなかった。  
 なんの冗談かと、罵ることもできなかった。  
 早く離れろ。  
 心の中でそればかりを思った。  
 早く離れて、いつものその、人懐っこくて犬のような笑顔であたしを起こせ。  
 あたしは何も知らない。何も気が付かなかった。  
 ちょっと深く寝入り過ぎた。お前はそれをからかえ。それで、元通りだ。何もない。  
 
 だけど事態は、そう上手くは転がらない。知っていた。大抵の現実は思い描いた悪い方へと転がるものだと。  
 
 手錠で屈辱的な拘束を受けた。それでもまだ、抜け出すチャンスはあると思っていた。  
 計算外だったのは、快楽に溺れた自分だ。  
 情熱的なキスに酔った。  
 身体に似合わない大きな熱いてのひらが、身体を火照らせた。  
 器用な指先が、理性を奪った。  
 あまりに丁寧で確実な愛撫に、こいつはあたしが好きなのかと思い違いをしてしまいそうだった。  
 しばらく異性に触れていなかった身体が、言うことを効かず疼いてあっけなく絶頂を迎えた。  
 後輩を受け入れた。楽しんだ。  
 俗に言うインランだ。認めたくない事実だ。  
 
「あたしは抵抗しなかった。やらせろと言われてOKを出した。関鯖なお前の身体に満足した。でも二度目はない。以上。OK? 井上?」  
 なんとか平静を装えた。語尾は震えたけれど、我ながらよくやった。  
 
 カンのいいあいつには、無理がばれていたかもしれない。でも目に見える涙という屈辱は流さずに済んだのだからそれでいい。  
 明日からはまたいつもどおりに振舞って、ただの同僚を続行する。  
 井上のことは肯定も否定もしてやらない。謝ることも許さない。  
 無関心は最大の苦痛だ。誰よりも知っている。  
 お前なんか嫌いだと言ってやれば、井上は救われたに違いない。  
 だからあえて笹本はそれをしなかった。  
 あいつが苦しめばいい。まったく、自分は性根が歪んでいる。  
 
 顔をあげて、だらりと邪魔くさく下がった前髪を乱暴に描きあげた。  
 手首に残る赤い痕が目に入る。  
 また面倒なことをしてくれた。  
 左手は時計で隠せるけど、右手はどうするか。  
 リストバンドなんて持ってないし、いきなりそんなものを嵌めては不自然だ。  
 長袖のブラウスをきっちりと着込むぐらいしか、解決法は思い浮かばない。  
 
 それでもこの痕はしばらくすれば何事もなかったかのように消えるだろう。  
 だけど身体を繋げた事実は消せない。きっと、あのひとには隠し通せない。  
 
 なにせ厄介なことに。  
 意識の奥深くで、笹本は、井上を欲した。  
 感情を殺しきれずに、もっと激しく貫かれたいと願ってしまい、あまつさえそれを口に出した。  
 
 
 これは、裏切りだ。不可抗力でもなんでもなく、ただの裏切り。  
 
 
*  
 
 昨日の今日だ。  
 我ながら有り得ない。ほんとうに淫乱の称号をゲットできてしまうかもしれない。  
「笹本?」  
 心地よいテノールで呼ばれ、グレイのつめたいドアを睨むように見つめていた笹本はびくりとシャワーの雫が残る身体を震わせた。  
 肩越しに声の主を見やり、彼が瞳に穏やかな温度をたたえて自分を見つめているこの瞬間に、幸福を実感する。  
「係長」  
 ゆっくりと振り返り、目線をしっかり合わせる。  
 せっかくの逢瀬だ。ゆっくり二人で会うのは2か月ぶり、か。  
 正直、なぜこのタイミングで、と舌打ちをしたくなったが、断るなんて選択肢は笹本にはなかった。  
 この温度を今楽しまなければ、次がいつあるかも判らない。  
 
 そっと一歩を踏み出す。  
 
 書類を手にベッドに腰掛けた尾形が、目元だけで微笑んだようだ。  
 歩調を緩めないまま身体に巻いていた大判のバスタオルを床に落とした。空調の効いた室内は全裸でも問題ない。  
 やっと、彼に対峙する。笹本を見上げた尾形は、溜息が出るほど精悍だ。  
 身をかがめて、尾形に口付けた。  
 眼を閉じたその端正な顔が、笹本を否定せずに受け入れる。  
 ばさりと紙の音が響く。書類をテーブルに投げ出した大きな手が、ゆるりと背を撫でた。  
 触れるだけの口づけが、呼吸を奪うように激しさにやがて変わり、悦びに全身がしびれる。唯一、このときだけ女でよかったと思えるのだ。  
 
 しかしすぐに井上の、奪うようなキスが重なって慌てて身を引き離す。  
 犬のようなあいつの、キス。  
 だけど、ほんとうに笹本が欲しくて欲しくて仕方がないと錯覚させるに充分なキス。  
 
 ぶるると首を振ってそれを否定した笹本を、尾形が訝しげな視線で見つめていた。  
 
「……笹本、」  
「係長」  
 言葉を奪って、そっと首元から白い手を差し入れる。  
 バスローブの腰ひもを抜き取ると、前をはだけさせて肩からそれを抜き去る。  
 鍛えあげた胸板に頬を寄せて、存分にその肉感を楽しむように撫でまわした。  
 伏せたような瞳で、その様子を尾形がじっと見つめている。  
 身体中の血液が沸騰しそうに熱くなる。  
 
 ――愛してる。  
 泣きそうに安っぽくそう思う。  
 だけど口に出すのは憚られた。そういう、重いのはごめんだ。  
 尾形と自分は恋人でも何でもない。  
 こんな職業に付く以上、大切なひとは絶対に作らないと尾形は常々言明をしている。  
 だから笹本もそれに従う。胸は痛むが不満はない。  
 この関係に名前をつけるのは、とっくの前に諦めた。重要なのはそこではない。  
 口で愛を囁く代わりに、舌をその胸板の頂に這わす。  
 尾形がぴくりと反応したような気も、相変わらずの無表情なような気もした。  
 
 開いた膝の間に身を置いて床に腰を下し、まじまじとその肉桂と対峙する。  
 鍛えられた身体に似つかわしい、その雄々しい彼自身が欲望を露に反り返る様子に、笹本は心底満足をした。  
 彼も興奮をしている。  
 右手でふわりと撫でる。  
 ぴくり、とそれが反応を返す。  
 喉の奥で小さく笑いながら、ためらいもなくぱくりと口に含んだ。  
 唾液を口内にたっぷりと溜めて、先端を舐めしゃぶる。  
 含みきれなかった部分は手で扱き、睾丸もやわやわと愛撫する。  
 先端から、苦味を含んだ先走りの液が垂れて唾液に混じった。  
 じゅく、と自らの内部からも熱い蜜が溢れたようだ。  
 
 気が急いて仕方がない。  
 早く、尾形と繋がりたい。早く、この熱い彼自身で深々と、奥の奥まで貫かれたい。  
   
 本当に自分はいやらしい。  
 欲しているのが尾形なのか男なのか、たまに判らなくなる。  
 この胸に激しく抱く情愛も、肉欲に支配されているが故なのか。  
 もう判らない。  
 ただただ、尾形が欲しくて欲しくて仕方がない。  
 
「……笹本」  
 穏やかに名を呼ばれて顔を上げる。  
 もういい、とばかりに尾形が軽く首を振って、その指を笹本の顎に添えた。  
 伸びあがって口付けを受け取る。  
 肩に腕を回す。  
 熱い身体が密着して気持ちいい。でも今は、もっと欲しいものがある。  
 
 肩に乗せた手に力を込めて、尾形を押し倒す。  
 逆らわずに倒された彼の瞳は、監視をするように冷えて冷静だ。  
 いつものことだ。  
 笹本は眼を閉じてその目線から逃げる。  
 溺れるのは自分だけ。  
 まるっきりいつものことだ。  
 
 ベッドに仰向けに横たわった尾形の腹に両手をついて、そっと馬乗りになる。  
 秘部に彼自身をあてがった。  
 ぬるり、と先端が自分の内部に侵入をしてくる。  
 身体がかっと熱くなった。  
 もっと、もっと尾形を捕らえたい。  
 直接にこうやって尾形を感じるために、面倒な薬を毎日飲み続けているのだ。  
 ためらいもせず一気に腰を落とす。  
 潤いはなくはないが充分とは言えず、身を裂かれる錯覚にも似た痛みが、だけど甘く笹本の背を駆け抜けていく。  
「あ……ッ、んん」  
 はしたなく嬌声が漏れる。  
 痛みさえも気持ちいい。  
 実は自分はマゾヒスト?  
 ばかばかしい自問は、すぐにはるか彼方へ追いやられる。  
 彼を咥えこんだ内部が熱くて仕方ない。  
 なのにまだ足りない。もっと、もっと熱が欲しい。  
 
 笹本は淫らに腰を振り始める。  
 一つ動くたびに、熱く張りつめた尾形が内壁をえぐり苦痛のような快感に目の前が白く濁る。  
 自覚できる程きつく彼を締め付けて、膣内でその形が把握できてしまうのではとふと思った。  
「……い、ぁあ……んっ、いや……」  
 自らで貪る熱に浮かされて漏れる声は、まるで泣き声に聞こえる。  
 内部からとろとろと、とめどなく溢れる愛液は抽挿を助け、新たな快感を笹本に与えてくれる。  
 
 やがて熱にどろどろと溶けた身体中から力が抜けて、絶頂まであと一歩だと予想は出来るのに下肢が言うことをきかず動けない。  
 もどかしさに、眼尻に涙が浮かぶ。  
 それでも何とか腰を持ち上げて、ゆるゆるとまた奥へ奥へ尾形を誘うと、じっと彼女の様子を窺うだけだった尾形がずん、と腰を突き上げて刺激をよこす。  
「ああっ!」  
 傾いた腰を、尾形の熱い手が掴んで支える。  
 
 数度追い上げられて、笹本はその鍛えられた身体をしなやかに反らせて、声もなく絶頂を迎える。  
「――――ッ、は……あっ!」  
 びくびくと入口が収縮を繰り返す。  
 動きを止めた尾形が、相変わらずの無表情で笹本を見上げていた。  
 はしたなく簡単に乱れた自分が急に恥ずかしくなる。  
「……あ、係…長……あたし、あんっ!」  
 言い訳をしようと口を開いたとたんに再びに突き上げられて、達して敏感になった内部が新たな快楽に悲鳴を上げる。  
 尾形の両手が、自分の手のひらを重ねるように握りこんだ。  
 
 ああ、これ恋人つなぎって言うんだっけ。  
 
 白く濁る意識の隅で、そんなことがよぎった。  
 だけど尾形は恋人じゃない。  
 こんなにも激しい情交の間でさえ、係長、以外に彼を呼ぶべき言葉が見つからない。  
 その呼称は大変に口触りが悪いので、結果、どれだけ苦しく喘いでも愛しいひとを笹本は呼べないのだ。  
 
 ぐ、と突き上げられて浮いた身体を、尾形が握った両手を強く引っ張って腰にぶつけさせる。  
 幾度もそれを繰り返されて、尾形の上で踊るように腰を揺らした。  
 逃れたくなるような強い快楽に、髪をぐちゃぐちゃに振り乱しながら笹本は耐える。  
 波に、呑み込まれてしまいそうだ。  
 
 突然、下方にではなく前方に手を引かれた笹本は上体のバランスを崩して、尾形の胸に倒れこんだ。  
 背中を抱かれて、くるりと器用に上下を入れ替えられる。  
 ぼやけた視界で懸命に尾形を見上げた。  
 額にうっすらと汗を浮かべた緒方は、眉根に皺をよせて何か難しい顔をしている。  
 彼の、この顔が好きだ。  
 
「……いくぞ」  
 はい、としおらしく返事をするために開いた口から、すぐに別の悲鳴が漏れる。  
「や、んぅ! ひぁ……か、ああっ、だめ、も…やだっ……ぅんん!」  
 ずんずんと深く突き上げられて、もう何もかもが判らなくなる。  
 ただ、与えられる熱を貪るべく笹本は喘ぐ。  
 
 最奥を付き当てられて、全身がびくびくとまた震える。  
 ぎゅっと締め付けた尾形が、内部でやはり同じようにどくどくと脈打って白濁液を吐き出した。  
 内部にじんわりとそれが広がって、笹本は、満たされていると錯覚する。  
 それは幸福な誤解だった。  
 
 荒い呼吸を繰り返す尾形の手が伸びてきて、そっと、眼尻の涙をぬぐい取られた。  
 そこで初めて、泣くほどよがっていたと気づかされる。  
 最近の自分は、欲望に素直になりすぎている。  
 だから井上の増長を許すことになったのだ。  
 
 両手を伸ばして、甘えるように包容を求める。  
 ぴくりと尾形の眉が動いた気がして、面倒に思われたかと不安になる。  
 だけど彼は、額を撫でながら笹本の要求に応えるように熱い身体を密着させて口付けをくれた。  
 
 瞳を閉じて、その夢見心地に浸る。  
 尾形のくちびるは冷たい。舌の熱さとのギャップにいつも驚かされる。  
 その射るような瞳にぴったりだ。  
 
 そう言えば井上は、くちびるも、舌も、身体も、何もかもが最初から最後まで熱かった。  
 あいつ、子供体温なのかな。  
 
 尾形が離れた。  
 うっすらと目を開いてその顔を確認した笹本は、自分が今誰のことを考えていたかを知り、浮かされた身体が急速に冷えた。  
 
 最悪だ。  
 裏切りだ。  
 例え尾形が笹本に何の感情を抱いていないとしても、自分だけは彼を敬愛し続けないといけないのに。  
 それが、この関係を続けるために己に言い聞かせた唯一の規則だったのに。  
 
 いつまでも見つめていたかったはずの顔は、もう見ていられなかった。  
 顔を背けた汗ばむ裸体を、緒方に抱きこまれた。  
 甘美なはずのその温度が、だけど今は罪悪の象徴でしかない。  
 
 なのにくびすじに尾形のつめたいくちびるが触れれば、それだけで冷めた身体がまた熱く疼く。  
 求められて、喜悦と空虚が同時にやってくる。気が遠くなりそうに胸の奥が鋭く痛む。  
   
 愛されたいのに、その方法が判らない。  
 これ以上の愛し方も判らないし、今まで根拠もなく抱いていた自信が音もなく崩れていく、と笹本は思った。  
 もう自分を騙すのは無理かもしれない。  
 
 熱い腕の中に閉じ込められて、笹本はぐったりと力を抜く。  
 
 
*  
 
 前方のエレベータのドアが閉まりかけていたのを見て、隣を歩いていた笹本が走り出す。  
 ばん、と乱暴にボタンを押したが、生憎間に合わなかった。  
 4基のエレベータはどれも忙しく稼働中だ。  
 
 ――別に走らなくてもいいのに。  
 
 せわしなく動く彼女は、小動物のようですらあり可愛らしい。  
 胸の内で苦笑をしながら、大人しく待つべく、階数表示を見上げた彼女の隣に立ち並んだ。  
 
 慣れた香りが改めて匂いたつ。  
 オリエンタルなイメージのその香りを、笹本が身にまとうのは珍しい。  
 最近は任務もなくごく平和だからか、それとも。  
 
「…………笹本」  
「はい」  
「何か、あったか?」  
「……何か? 何かってなんです?」  
「…………例えば、井上と」  
 ちらりと片目で笹本を見下ろす。  
 反面、彼女はこちらを全くと言っていいほど見ない。  
 別にと告げるくちびるが震えているようにも思えた。  
「どうして、そんなことを?」  
「いや」  
 最近、仲がよさそうだから、なとどは口が裂けても言えそうになかった。  
 
「何もないならいい」  
 語尾にかぶさるように、ちん、と軽々しい音をたててエレベータが到着をする。  
 右手をのばして、笹本がドアを開く。  
「どうぞ」  
 低く促されて、軽く頷いて先に足を踏み入れた。  
 その右手の手首に、生々しく残る赤い痕を尾形は認めた。  
 つい先日の情事の時には、気が付かなかった。  
 彼の後に笹本が続く。  
 密室にほかに乗客はない。  
 上層フロア行きのこの箱は、2、3階で捕まらなければとりあえず13階までノンストップだ。  
 
 ドアが閉まると同時に、尾形は階数ボタンを押すその細い手首を握って、笹本の眼前まで持ち上げる。  
「どうした?」  
 己の手首と尾形を交互に見つめ、笹本が息を呑む。  
 質問の意味を謀りかねているようでも、返答を迷っているようでもあった。  
「…………病院のときの、ヘマの痕です。不名誉の証ですよ。もう、消えたと思ったんですけど」  
 上気した白い肉体に生々しく浮き上がるそれに、そっと口づける。  
 ここが社内だ、という意識はあった。  
 だけどそれ以上に、彼女に対しての罪悪感が胸に圧し掛かっていた。  
 部下を危険にさらした、笹本は女であるのに消えるとはいえ身体に傷を残させた己の責任を改めて痛感する。  
 たぶん、それを口に出したらお門違いだと責められるだろうけど。  
「か……係長!」  
 驚いた笹本が身を引くが、構わずに強く抱きしめた。  
 腕の中で笹本が暴れる。  
 離れなければならないのに、柔らかく抱き心地のいい彼女の身体に珍しく理性が負けそうになった。  
 
 狭い密室の角奥に笹本を追い詰める。監視カメラの真下だ。  
 申し訳程度の死角には入れたはずだ。  
 くちびるを寄せる。  
 笹本は受け入れる。確信があった。唯一の共犯者なのだ。  
 
 だけど予想は盛大に裏切られる。  
 どん、と両手で強く胸を押された。  
 泣きそうな顔で、笹本が尾形を見上げる。  
 
「………………ッか、り、長……あたし、あたしって、何ですか?」  
 今度は尾形が眉根を上げる。  
 質問の意図が見えない。  
 笹本が、どんな返答を求めているのか、尾形には測りかねる。  
 
「……笹本だろう?」  
「…………。ですよね、知ってます」  
 とん、と背中を壁に預けて、笹本が深く深くうつむいてしまう。  
「係長にとって、何ですか?」  
 息を呑む。  
「そんな風に、手を、伸ばして」  
 
 愛しく思うから、とは、やっぱり口にできなかった。  
 
 そっと伸ばした手が触れるより前に、笹本がくちびるを震わせて息を吐いた。  
「……もう、やめませんか」  
「笹本?」  
「嫌なんです」  
「笹本、その話は社外でしよう。今夜、時間を取る」  
 尾形の言葉は、だけど笹本には届いていないようだった。  
 子犬のように激しく首を左右に振って、いや、と子供の駄々のような声を出す。  
 ねだるような声音だったのに、ちっとも甘さを含まない。  
 拒絶の色のみだ。  
「終わりにしてください。お願いです」  
 
 
「……………………笹本が、そうしたいなら。そうしよう」  
 
 驚くほど冷えた声だった。  
 こんな、突き放すような声を部下に、笹本に向けられるとは思ってもみなかった。  
 
 ちん、と場違いな軽快さで、エレベータが15階に到着をする。  
 笹本は降りる気配を見せない。  
 閉じかけたドアを、手で差し止めて平淡に笹本を呼んだ。  
 
 顔を上げないまま彼女は、やはり淡々と答える。  
「…………すいません、時間、ください。ロッカールームに、忘れものしたから」  
「判った」  
 
 簡潔に告げて、身を滑らせてフロアに降り立つ。  
 ドアが無機質に閉まるその一瞬前に、笹本が足から力を抜いてずるりと床に座り込む様子が目に焼きついた。  
 彼女を乗せた箱は、再び階下へするすると降りていく。  
 眉根を寄せて尾形は、その階数表示を先程の笹本と同じように見上げた。  
 
 笹本がそうしたいなら。  
 解放をする。  
 惜しくないと言えば嘘になる。  
 笹本は頭がよく優秀で、空気に敏感だ。竹を割ったようなその性格も、豪快な笑い声も、心地が良かった。  
 何より尾形を大事に思っていた。だけど尾形にその重みを見せはしない。  
 大切な人など作らないと誓いを立てた己が、笹本を引きとめることなどできないのだ。  
 ――それでもいいんです。  
 一度だけそう嘯いた笹本の心中を、勝手に思い描いたことがなかったわけではない。  
 男社会に呑まれまいと小柄な身体をはりねずみのように尖らせる彼女が、自分だけに見せるあの柔らかな笑顔を大切に思っていたけれど、その表情の意味を知りながら見ないふりをしていた。  
 必ず訪れる今日の為に。  
 
 溜息をひとつ。  
 一瞬だけ恋人を失ったただの男の面持ちを抱いた彼は、だけどすぐにいつもの尾形総一郎の顔を取り戻し、警備4係へと足を向ける。  
 
 
*  
 
おわり  
 

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