「お疲れ」  
 帰社した尾形が、ぽん、と自分の肩を叩きがてらデスクへと向かって、上品な所作で席に着いた。  
 違和感に井上は眉を上げる。  
「お帰りなさい…………笹本さんは?」  
 確か一緒に出掛けたはずだ。  
 よかったですね、と指名された彼女をからかったら、笹本は珍しく動揺をしていた。  
 いつもなら、ばーかとせせら笑うか、いいだろ、と自慢げに口元を吊り上げてみせるのに、今日はあの大きな両眼を見開いて井上を見つめたまま固まった。  
 何か言いたげにくちびるを震わせて、だけど尾形に行くぞと呼ばれた笹本は何も言わずにいつもの瞳の色を取り戻し、井上の視線から逃げた。  
 文字どおり、逃げた。  
 眼を細めて、彼女を見送った。何かが引っ掛かる。今だにその喉に刺さった小骨のような疑問は、溶けていはいない。  
 今のこれだって、連れだって戻らないこと自体が不自然なわけではない。  
 
「ああ、ロッカールームに寄るそうだ」  
 ふぅん、と出来るだけ興味なさそうに頷いた。  
 
 ただ職務上の外出をしただけで、笹本の移り香が尾形に残るのはなぜなのか。  
 そこから導き出される結論を、井上はこの上なく面白くなく思う。  
 
 他にも抱く違和感の正体を見極めようと、じっと上司を観察するもののさすが、尾形がそんなボロを出すはずもなく。  
 尋問するなら笹本さんのほうかな、と井上は判断をする。たぶんそれは的確だ。  
 ただし、笹本が自分と向き合ってくれるならの話だけれど。  
 
 笹本は尾形を敬愛しすぎている。  
 それはそれは盲目的で、いっそ崇拝と言ってもいい。  
 万が一笹本が殉職するようなことがあれば、それは確実にマルタイのためではなく尾形のためだろう。  
 他人の感情に興味がない井上が判るほどなのだ。相当だ。  
 尾形は確かに完璧で理想的な上司だ。  
 笹本が心酔するのもよく判る。  
 男としてもおそらく尾形は完璧で、笹本など容易くまるまると包み込んでしまうんだろう。  
 まず対等の土俵にも乗せてもらえない自分は、ただ見苦しく嫉妬することしかできない。  
 胸の内で盛大に舌打ちをする。その音は、笹本がよく立てるものと酷似している、気がした。  
 
 
 尾形より20分遅れてデスクに戻った笹本は、その態度は平素となんら変わりなく不自然な点はまったく見当たらない。  
 その顔色が心なしか蒼く見えるものの、戻りましたとさらりと告げる声音もいつも通りに凛と澄んで耳触りが非常にいい。  
 
「笹本さん」  
 井上のすぐ後ろのデスクに腰掛けようとした笹本の手首を握る。  
 身を固くした笹本が、なに、とゆっくり振り返る。  
   
「これ」  
 その冷たい手の中に、かさりと飴玉を握らす。関西圏のおばちゃんのように。  
「あげる」  
 ぎゅっとそのビニールごと彼女の手を握りこんで、笹本を見上げた。  
 
 見つめ合ったのは、ほんの2秒ほど。  
 
 一瞬だけ瞳を揺らした笹本はするりとその手を引き抜くと、さんきゅとおざなりに呟いて身を翻した。  
「山本!」  
 豪快に呼ぶと、振り返った山本に、今井上が手渡したばかりのキャンディをぽいと放ってよこす。  
「井上からのプレゼント」  
 あたしダイエット中だから、と爽やかに笑って、笹本はぎしと安っぽい音を立てる椅子に腰かける。  
 
 飴玉すらも受けとってもらえない。  
 ほんとに嫌われちゃったみたいだ。  
 
 デスクに向き直るその一瞬前に、笹本がちらりと片目だけで尾形を伺ったのを見逃さなかった。  
 尾形は、こちらの様子をいつもの無表情で眺めて、すぐに机上へ目線を落とす。二人の視線は絡み合わなかった。  
 
 ――ふうん?  
 
 眉をあげて、井上は訝しく思う。  
 確かめてみたら、面白いことが判るかもしれない。  
 
 
*  
 
 夜。  
 静寂と爆音が奇妙に同居する射撃訓練室に、そのひとはいた。  
 ばぁん。  
 耳をつんざく銃声が響く。  
 出来るだけ音を立てないように、人気のない訓練室の内部へと身を滑らす。  
 5メートルほど離れた後方に立ち位置を決め、彼女の、マニュアルにそのまま載せられそうな構えをじっと見つめた。  
 
 ばぁん。  
 さすがの腕前で笹本が銃を放つ。  
 腕組みをして、知らず知らずのうちにその様に見入っていた。  
 
 井上の気配に気がついた笹本が、腕を下した。  
 イヤホンとゴーグルを外すそのしぐさにすら、欲情しそうだ。  
 だめだ、相当やられている。  
 目の前の笹本は、その不機嫌さを隠そうともせずぶっきらぼうに口を開いた。  
「……いま忙しいんだけど」  
「二人っきりじゃないと、逃げられちゃうから」  
「お前空気読めよ。思いっきり避けてんだからどっか行って」  
「おっ、意識されてる?」  
 死ね、と口汚く履き捨てた笹本が、銃口を井上へと向ける。  
 その、完璧な射撃体勢にまた見惚れる。  
 笹本さんになら殺されてもいいかな、なんて、思った。  
 大きく一歩を踏み出して、彼女との距離をつめた。  
 銃口の照準が、ぴくりとぶれた。  
   
「撃っていいっすよ」  
「近づくな。マジで撃つ」  
「どうぞ」  
「やめろ、ばか」  
「撃てば」  
「いやだってば」  
「笹本さん」  
「頼むから、近寄らないで……」  
 弱々しくうつむいてしまった笹本が向ける、熱の残る銃身をぐっと握ってその本体を奪い取った。  
 笹本に身を寄せながら、銃をかたんとゴーグルの隣に置いてしまう。彼女は、再び手にとろうとはしなかった。  
 
「なんで?」  
 問いかけただけで、ずる、と笹本が下半身から力を抜いて座り込んだ。  
 コンクリートのテーブルに背を預けて、空になった右手の指先を額に押しつけた。  
「あんたなんか嫌い……」  
「俺は好きですよ」  
「…………簡単に好きとかいうやつは、嫌い」  
「簡単じゃないんだけどな」  
「お前が、好きとか言うから、苦しくって仕方ない……」  
「だって好きだもん」  
「あたしは包容力のある年上の男がいいんだ」  
「係長っすか。だめですよ、相手にしてもらえてないでしょ」  
「微妙に、そう」  
 
 ぽろ、と閉じた眼尻から涙が零れ落ちた。  
 す、と手を伸ばして、それをぬぐい取る。  
 形のいいくちびるから、吐息と共に泣きごとが漏れる。  
「自惚れてたんだ。どこかで、自分は特別なんだって、信じてた。表の方では、違うって知ってますからって顔してたのに、」  
「うん」  
「想われてないのに、想い続けるのが辛くって、試すようなマネしたんだ」  
 サイアクだ、と笹本が、いつもの調子で己を罵倒する。  
 その辺の女と一緒になりたくなかったし、自分はそうじゃないと信じていた。  
 腕力の足りない女という性を持つ事実は認めざるを得ないけど、ならばせめて凛と背筋を伸ばして、見苦しくないそれでいようと、誓っていたのに。  
 好きなひとに好きになってもらうのは、どうしてこんなに難しいんだろう。  
 懺悔をするように笹本が一気に吐き出す。  
 
「判りますよ」  
 指先を開いて、手のひら全体でそのつめたく濡れた頬を撫でた。  
「俺にしときなよ。俺のこと好きになったら、めでたく相思相愛」  
「……社内恋愛は、もうまっぴら」  
「大丈夫、俺、上手くやるから。別に係長のこと好きなままでもいいですよ。簡単に忘れさせるから」  
 弾かれたように笹本が顔を上げる。  
 
「………………お前って、案外器がでかいのな」  
   
 濡れた瞳を細めて泣きながら笑った笹本を、可愛いと思った。  
 ず、と鼻をすすって、折り曲げた人差し指で鼻の下を撫でるそのしぐさすらも、愛しい。  
「笹本さん、キスしていい?」  
「だめ」  
「一回だけ」  
「したら殺す」  
「またまた。期待したでしょ」  
「マジで空気読め……ッ!」  
 振り上げた右手の手首をぐっと握って引き寄せた。  
 柔らかい身体が密着をして、心臓がどくんと跳ね上がった。たぶん、笹本も同じなんだろう。身体中が強張っている。  
「い、のうえ……」  
 弱々しく動いた笹本のくちびるを、さっと塞いでしまう。  
 身を硬くしていた笹本が、すぐに力を抜いて大人しくなった。  
 
 ぴちゃり、と唾液の絡まる艶っぽい音が響く。  
 抱き寄せた身体から、硝煙と混じってオリエンタルなあまやかさが匂いたつ。  
 笹本の香りだ。  
 執拗に舌を追いかけて吸い上げながら、ふぅんと井上は思った。  
 このひとも、強情だけどそれはただの強がりで、常に張り巡らせている神経は安らぎを求めているのかもしれない。  
 愛されたい、と笹本は願っていて、愛していると告げる井上を拒否しきれていないんだ。  
 
 やがて長い口付けを終えて、顔を引き離す。睨むように井上を見上げる笹本のその眼がほんとうに綺麗だ。  
 やっぱいい女だよな。  
 好みじゃないのに、どうしようもなく好きなんだよな。  
 
 自分を納得させるかのように、よし、と頷いた。  
「笹本さん、仕事、終わってます?」  
「……終わってるけど、なに?」  
「よし、じゃあホテル行きましょう。今度こそゴウイのウエで一回やって、そのあとメシ」  
 ばちん、と派手な音をたてて笹本の手のひらが井上の頬に直撃をした。  
 音の割りには痛くはなかった。  
「あれ、メシが先のほうがいい?」  
「ばかっ冷静に考えろ! あっちがだめならすぐこっち、なんてビッチな女だと思ってんのっ?」  
「思ってないですけど、落ちそうだったから押していかないと」  
「落ちない、絶対に落ちない! お前には落ちない!」  
「あっ、言ったな。後悔しますよ」  
「しない」  
「感じてたでしょ?」  
「な、なにが」  
「今のキス。あと仮眠室のときも。もっと気持ちいいことしてあげるから。どう?」  
「お前やりたいだけだろっ」  
「うん、やりたい。笹本さんとやりたい」  
 だから、ね、と笑うと、ついに根負けした笹本がはあ、と盛大なため息をついた。  
 
「お腹、すいた。なんか食べながら考える」  
 
 じゃあ行きましょう、と手を引いて笹本を立たせながら、連れ出してしまえばたぶんこっちのものだ、と井上は嬉しく思った。  
 
 
*  
 
 こういうのは勢いでしといたほうがいいって、大丈夫優しくするから、なんてひどく饒舌に、酒を飲ませた笹本を説き伏せてなんとかホテルに連れ込んだ。  
 飲んだからって酔ってくれるなんて思っていないけど、笹本は観念をしたようだ。しつこい井上に辟易をしただけかもしれない。  
 情熱的に舌を絡ませる現状に大いに満足をしている。  
 だけど、まだ足りない。  
 早く、早く笹本を乱れさせたい。  
 気が急いて乱暴にその胸を揉みしだいたら、抗議の声を上げた笹本が両腕を突っ張って身体を引き離した。  
「……がっつかれると、引く。シャワーぐらい、」  
「ごめん、無理。我慢できない」  
 ばか、と叫んだくちびるを塞いで、脱がせたジャケットをソファに放り投げた。  
 自分の上着も、その上に投げて重ねてしまう。  
 頬を両手で挟んで逃れられなくしてしまい、情熱的に、それはそれは情熱的にキスを重ねる。  
 井上、と呼ぶ隙も与えずに、隙間から差し込んだ舌を余裕なく蠢かせた。  
「……ん、ぅんー……ふ……」  
 甘えたような声音が、重なったくちびるから響いてくる。  
 どくん、と自身が膨れ上がった。  
 
 もう一度くちびるを吸い上げて顔を引いて、笹本の瞳を覗き込んだ。  
 珍しく不安げに、その色が揺れている。  
 ――へえ、こんな顔もするんだ。  
 嬉しくなった井上は、身を屈ませてひょいとその身体を抱き上げた。  
 
「ちょっ……まて、降ろして、歩く!」  
「暴れないでよ……すぐだから」  
「やだ、降ろせ、井上っ!」  
「おっけ、おっけー、降ろすよ」  
 お望みどおり、ぼす、と乱暴にベッドの上に笹本を投げ出した。  
 腕の中で暴れる笹本を持て余したところだったからちょうどいい。  
 その手荒さに抗議の声を上げようとしたその細い身体にのしかかって、また言葉を奪うべくくちびるを塞ぐ。  
 
 執拗に舌を絡めて、くちびるの潤いをすべて奪い取ってしまうようなキスを長い時間重ねて、笹本は案外それが上手くない、と気がついた井上は少し意外に思った。  
 エロいはずの笹本が、先ほどからこちらの舌を誘いこもうと舌を割りいれてくるものの、上手く絡め取れずに逆に井上に捕らわれて翻弄をされている。  
 その証拠に、かぷり、とぬるりとした舌を甘噛みをしてやると、重ねた身体の下でびく、と細くて豊満な肉体が揺れた。  
 笹本は簡単にキスに酔う。  
 ひとつ、いいことを発見した。  
 
 くちびるを開放して顔を覗き込む。  
 とろんとした目とは裏腹に、何か言いたげにくちびるが歪む。  
 従順なその瞳がおかしくて愛おしくて、にやにやと笑いながらなに、と聞いてやった。  
「それ、」  
 舌をよこせ、と目だけで笹本が命ずる。  
 その先輩風を吹かせる様子が、好きだとまた思う。  
「……ん?」  
 小さく呟いて、舌を差し出す。  
 素早くぱくりとそれに噛みついた笹本が、乱暴にキスをして見せた。  
 くちびるをすぼめて軽く歯を当て、まるで肉茎を扱くように舌を愛撫する。  
 幾度か往復をして、前歯のエッジが井上の舌を擦り、それを伝った唾液が笹本へと流れた。  
 
 堪え切れなくなり、乱暴に口内を犯す。  
 今日は、出来るだけ優しく時間をかけようとどこかで誓っていたのに、笹本はあっさりとそれを奪っていく。  
 笹本が、いけないのだ。こんなにも自分を夢中にさせて。  
「んんっ、ぅんー!」  
 抗議のような声を笹本が上げる。頓着をせずに鼻に、頬に、閉じたまぶたにキスを落とす。  
 自分のネクタイを外してシャツのボタンを外しながら耳朶をぱくりと噛みついてやれば、笹本の身体が嫌がるように捩れた。  
 
 濡れた瞳で鋭く井上を睨み、脱いで、と掠れた声で囁く。  
 その様子がとてつもなく色っぽい。  
 従順にシャツとアンダーを脱ぎ捨てて、熱い肌を笹本に重ねた。  
 井上の下で、にやり、と笑った笹本が、急に足を井上の下肢にからめて、くるりと上下を入れ替える。  
 マウントポジションを奪い取った笹本がまた満足げに笑う。  
 
「井上」  
 笹本が両手を封じて、くちびるを寄せてくる。  
 眼を閉じてそれを受け入れた。  
 こういうのもいいな、なんて嬉しくなる。  
「よし」  
 なぜか気合いを入れた笹本が、絡めた両腕を井上の頭上に回す。  
 あれ、と呑気にその目の前に広がるはだけた胸元から除く谷間に目を奪われているうちに、鮮やかな手際で両の手首が謎の拘束具に捕らわれた。  
 その質感からして、たぶんさっき己が脱ぎ捨てたネクタイ。  
「えーと、笹本さん? 何してんすか」  
「リベンジ……っていうか、仕返し? 今日は好きにさせてもらうから」  
 
 それ動かさないで、と楽しそうにくちびるを歪めて、またキスをくれる。  
 井上がさっき笹本にそうして見せたように、頬を、こめかみを、眼尻を丁寧にくちびるで撫でて、耳朶にぱくりと噛みつかれた。  
 ぴくり、と思わず肩が揺れると、笹本が吐息を漏らして笑う。  
 耳の穴の中にその息が入り込んで、ますますくすぐったい。  
 
 薄明かりの中、鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌さで、ベルトに手をかけて音を立てながら井上の衣服をはぎとっていく。  
 下肢のすべて脱ぎ落させてしまうと、泣くなよ、とさらりと述べて、ためらいもなく口に井上のものを含んでしまう。  
「ちょっ」  
 突然のことに慌てて身を引くと、笹本がおもちゃを奪われたような顔をして井上を睨む。  
「逃げんな」  
「いやいやいや、それマズいっしょ」  
「美味しくはないけど、マズくもない」  
「そうじゃなくて…………笹本さんも気持よくなくっちゃ」  
 その言葉に、ん? というように笹本が小首を傾げる。  
 咥えられるのは気持ちいいけど、面白くない。  
 尾形に教え込まれたであろうそれで快感を得たくはないのだ。  
 
 笹本は不思議そうに右上を眺めながら何かを考えるそぶりを見せて、すぐに、ああ、と何を納得したのか大きく頷く。  
 男前にばっさばっさと自分の衣服を脱ぎ捨てると、ひょいと井上の頭上を通り越して枕元の避妊具に手を伸ばした。  
 ぺり、と控え目な音をたててその袋を破って、するすると若干危なげな手つきで井上にかぶせて行く。  
 待ってください、と言う暇も身を起こす隙も与えずに笹本が、それに手を添えて自らの秘部に先端を押しつける。  
「まだ、ダメだって……!」  
 抗議虚しく、ずにゅりと自身が笹本の中に埋まっていく。  
 奪い取られそうな乱暴な快感に、全身の毛穴から汗が噴き出した。  
 
 やがて全てを埋め込んでしまうと、井上を見下ろしていた笹本が眉根を寄せながらにや、と笑った。  
 どうだ、と言いたげなその表情に、天の邪鬼め、流行りのツンデレかよと胸の内で悪態を吐く。  
 腰を揺らした笹本に、抗議を込めてずん、と突き上げると彼女は、簡単に甘い声を漏らして首を左右に振った。  
「っ……今、あたしの番……!」  
「ああ、もう!」  
 
 先ほどとは逆に今度は井上が下肢を絡める。  
 同時に、動かすなと命じられているひと塊りにされた両手も笹本の首に回して自由を奪うと、ぐるりと上下を入れ替えた。  
 あまりに唐突な井上の反撃に、笹本が驚いたあとにすぐ、やられた、と悔しそうに眉根を寄せる。  
 両腕に乗ったその顔を覗き込んで、まじまじと問いかける。  
「…………笹本さんって」  
「……なに?」  
「尽くすタイプなの?」  
「…………………………それは、面白くないギャクだ」  
「じゃあ係長って変態なんだ?」  
「おまっ!」  
「だってそうじゃん? 相手イかせる前に突っ込むなんて、鬼畜すぎですよ」  
「や、だっ……!」  
 急に、腕の中の笹本が暴れ始める。  
 井上の胸を押し返しつつ、腰をずらして逃れようとする。  
 抜けよ、と毒づく笹本をなんとか抑えこんで、くちびるを塞いだ。  
 並びのいい歯列をなぞって、舌の裏側をつついて、下のくちびるをかぷりと噛むとようやく笹本が大人しくなる。  
 
 顔を離すと、はぁ、と息を吐いた笹本が慌てて井上から顔を背けた。  
「…………サイアク。空気読めよ……突っ込んどいて、あのひとの名前、出すなんて」  
 手の甲で口元を覆って、今にも泣き出しそうに笹本が表情を歪める。  
 空気が読めないのは自覚しているつもりだ。  
 だけど、笹本が何かするたびに尾形のあの、達観した、自分にはない余裕を含んだ、他人に安堵を与える笑顔が浮かび、どうにも胸がざわついて抑えられない。  
 
「あっ! ……ん、ひ…や、だ、井上!」  
 笹本の抗議をまるっきり無視をして、腰を打ち付ける。  
「笹本さんって」  
 息を弾ませながら、意地悪い声音で吐き捨てる。  
「中で、イける人ですっけ?」  
「ん、やだ……しらな……っは、ぁあん!」  
「そんだけ、エロいのも、仕込みがよかった、から?」  
「やだ、やだやだ……い…ぅえ! も……っやだ、抜いて!」  
「どこがイイの? 教えてよ?」  
 
 ここ、と内壁をえぐりながら笹本の反応を窺う。  
 首を激しく左右に振りながら、抵抗を繰り返す笹本が、だけどある一か所で敏感に身を仰け反らせて明らかに快感に酔った声を上げる。  
 見つけた、と井上は冷笑を浮かべる。  
 ちらりとこちらを盗むように仰いだ笹本の目が、脅えたように歪んだ。  
 
 こんな顔を、するんだ、とまた思った。  
 尾形はこの顔を見ただろうか。  
 
 肘で笹本の肩を抑えつけて、先ほど見つけたあの場所を先端でつつく。  
「や、やあっ…ん、んんっ、だめ、やだ! やだって、ぁんん!」  
 一方の手で必死に口元を塞いで声を抑えようと無駄な抵抗を試みながら、もう一方の手はぐっと井上の二の腕を握り締める。  
 その指の先にどんどんと力が込められていく。  
 指の痕が残りそうなぐらい握りしめられて、それが意外にも心地よくて律動にますます夢中になった。  
「ん……むりっ、そこやだ! いや、いやあっ……」  
「なんで、イヤなの?」  
「やだ、ぅんっ! い…やっ」  
「イきそう?」  
「……っがう、ちがう…も、やだぁ!」  
「違うの?」  
 
 笹本の内部から溢れる愛液が、薄いゴムを隔ててはいるが自身に絡み、ぐちゃぐちゃと卑猥な音を響かせる。  
 だけどその音も、すぐに笹本の嬌声に混じって掻き消される。  
「んんぅっ! あっああっ、や、まってむりッ……は、ああ!」  
 全身を硬直させた笹本を慮って、動きを最奥で止める。  
   
 背を弓なりに反らせて、びくびくと、笹本が井上を小刻みに締め付けた。  
 その刺激に勢いで達しそうになっるが、なんとかこらえて、額を笹本にぶつけた。  
「…………イっちゃった?」  
 熱い吐息を織り交ぜながら意地悪く問うと、笹本がちがう、と掠れた声で吐き捨てて両眼を固くつぶる。  
「ふぅん」  
 ぐぐ、と腰を押しつけると、またびく、とその全身が揺れた。  
「いや……も、早く……終わって…………こんなセックス、最低」  
 吐息のような小声でそれだけを言うと、両腕で自分の顔を覆い隠してしまう。  
 
 井上は笹本の首の下から両腕を引き抜くと、これ解いて、と低く告げた。  
 腕をのろのろとどけた笹本の瞳は薄闇でも判るほど充血をしていた。  
 
 力の抜け切った指先でもどかしく井上の拘束を解くと、すぐにぷいと顔を背けた。  
 お前なんか嫌いだ、と全身で物語るその様子に、挿れたままの自身が萎えそうになる。  
「笹本さん」  
 自由になった手を伸ばしてこめかみを撫でる。  
 笹本が嫌そうに表情を歪める。  
「………………動くか抜くか、どっちかにして」  
 
 ちりり、と胸が痛んだ。  
 あんなにも優しくする、と繰り返したのに、優しくしたいのは本心なのに、熱い身体とは裏腹にどんどん頭の中が冷えて行く。  
 幾度か陥るこの感覚。自分の中の残酷な部分を自覚する。  
 尾形に抱かれていた笹本を、許せなく思った。さっき、好きなままでいいと、宣言をしたのも本心だったはずなのに。  
 
「あのさ、器でかいって言ってもらったけど撤回して。俺、すっげぇ係長に嫉妬してます。  
 エロい笹本さん知ってるの、俺だけならいいのに」  
「……聞きたく、ない」  
 好き、と素早く伝えて、だけど言葉だけでは全然足りる気がしなくて、くちびるを塞いだ。  
 応えない口内を犯しながら、どうしてこんなに好きなんだろうと自問を繰り返す。  
 
 笹本は絶対に三歩下がって歩くタイプじゃない。  
 相手が尾形だったらそうかもしれないけど、自分には絶対に違う。そこがまた面白くない。  
 働き者だし、基本美人で時々可愛い、も二重マル。でも、いつも可愛くいてくれてもいいとも思う。  
 だけど、そんな形式的なことじゃなくて、魂が、笹本を欲して止まないのだ。  
 もっと単純に言えば、笹本に、こっちを見て欲しくてたまらない。  
 
「好きなんだってば」  
「……っ、もう、いい!」  
「聞いて」  
「やだっ」  
「じゃあさ、何も考えずに気持よくなってよ」  
 
 身を折り曲げて、色づいた乳首を口に含む。  
「んん!」  
 声を上げた笹本が、だけどそれを聞かせまいと手の甲でまた口を塞ぐ。  
 押さえつけようか、とも思ったけれど、それよりも先に笹本をとろけさせたかった。  
 ころころと舌先で蕾を転がしながら、たわわな果実を揉みしだき、空いた手はさらに下の、ひとつにつながる秘所へと延びる。  
 己の男根の位置近くの、尖る性器へ触れる。  
 びく、と笹本の裸体が震えると同時に、井上をぎゅっと締め付けた。  
 
 やっぱりこの身体はとてつもなくエロくて、気持ちいいことに従順なんだ。  
 元の性質なのかなんなのか知らないけど、上手く制御できてないんだ。  
 一人納得をする。  
「ぃ…の、うえ! お願い、やだ!」  
 蕾を口に含んで前歯を立てたまま、意地悪くなんでと聞いてやる。  
 こぼれた吐息にも敏感に反応をして、笹本が身を捩る。  
「んっ……くすぐった…い! ぁふっ……や!」  
「またイけるの?」  
「んっ! あ…………うん…い、きそうだから、やだっ……あん!」  
「いいですよ、イっちゃってよ」  
「やだ、やだってば……!」  
「なんで嫌なの?」  
 問いかけても笹本は、いや、と首を振るだけだ。  
 ああ、そう、と目を細めて、井上は性器を嬲る親指に、ぐっと力を込める。  
「あっ! ふ、井上、井上っ!」  
「なに?」  
「んんっ! や、も……や、だ……」  
 
 泣き濡れた瞳で、笹本が井上を見上げる。  
「もぅ、くるし…………おねが……」  
 懇願を最後まで聞かず、井上は身を起こし、ぐいと両膝の裏に手を回して足を開かせる。  
「やっ……あん!」  
 笹本は羞恥に身を固くしたけれど、腰を打ち付けるとすぐに甘い悲鳴をその口からこぼれさせた。  
 
 ふと、笹本は面倒になって演技を始めたのかなと脳裏によぎった。  
 女はときどき、そういうことをする、と誰かが言っていた。  
 だけどあいにく、額に汗を浮かべて切なげに喘ぐ笹本の本心は、女心にも、他人の感情にも興味がいない井上には読めはしない。  
 テロリストの思考は簡単にシュミレートできるのに、女とはなぜこうも複雑なのか。  
 
「ああっ! ん、あ、あ、い…んっ!」  
 律動に合わせて笹本のあかいくちびるから嬌声が漏れる。  
 その声に、ますます思考が鈍くなり、本能が求めるままに快楽を貪ろうと身体が動く。  
 
 ぐっとクッションのカバーを握るその手を見ながら、もう縋り付いてくれないのかな、と残念に思った。  
 だけど気持とは裏腹に、井上の腰は絶頂を目指してまるで獣のようにみっともなく身体をぶつけるのだった。  
 
 
*  
 
 井上が痛みを伴った射精を終えると同時に、笹本がぐったりと全身から力を抜いて目を閉じた。  
 いつまでたっても息が整わない彼女が心配になって顔を覗きこめば、案外にしっかりとした瞳を開いた笹本が、シャワー浴びたい、と平坦に言ってのけた。  
 その様子に、やっぱり演技されてたのかなと当て推量を一人呟く。  
 虚しい独り言は、シャワーの音色にかき消された。  
 
 水音が止まる。  
 身を丸めて、不貞寝の体勢を取った。  
 
「井上……入る?」  
 笹本の澄んだ声が聞こえたが、狸寝入りを決め込んで出来るだけ息を潜める。  
 メトロノームのように正確にリズムを刻む足音が近づいてきた。  
 その音に迷いはない。  
 だから余計に判らなくなる。  
 
 ぎし、と控えめな音をたてて、ベッドが揺れた。  
 笹本が枕元に腰掛けたのだ。  
 同時に、香料がキツく安っぽい石鹸の香りが鼻につく。  
 彼女に、こんな下品な匂いは似合わないけれど、こんなところに連れ込んだのはそういえば自分だった。  
 尾形は。どこで笹本を抱いていたのだろうか。  
 
 細い手が伸びてきて、こめかみの生え際を撫でた。  
 過去。ものすごく遠い昔に、母親にそうされた時のような幸福が、胸の内から湧いてくる。  
 ああそうか、やっぱりこのひとは女なんだ。  
 快楽に酔って手を伸ばすのも、宥めるように身を任せるのも、あやすように頭を撫でるのも全部、女のすることだ。  
 
「井上…………好き、だと思うから、さ……ちょっと待って」  
 くるんと指に井上の髪を巻きつけてはすぐに解き、手遊びを繰り返しながら笹本が、消え入りそうな声音で独りごちる。  
 井上が寝入っていると思っているのだろうか。  
 起きていると知っていて、そんなことを聞かせているのだろうか。  
 好き、だなんて、その響きのもつ甘さと痛みがどんなものか、笹本は知っているのだろうか。  
「いいですけど」  
 前触れもなく白い手をぐっと握って、乱雑に引いた。  
 バスタオルを巻いた身体が腕の中に倒れこんでくる。  
「井上!」  
 背中に回した手に力を込めて、ぐっと抱きしめた。  
「待つって、なにを?」  
「…………やっぱり、そんな急には切り替えらんない……」  
   
 井上の胸に埋めた顔を上げないのは、何か後ろ暗い思いでもあるからなのか。  
 
「俺とヤったこと、後悔してるんですか?」  
「……してない」  
「ほんとに?」  
「ほんと。……あんた、上手いし」  
 係長よりも? と聞きたくなって、慌てて打ち消した。  
 中途半端に開いたくちびるに、やっと井上の視線を受け止めた笹本が自分のそれを重ねてきた。  
 
 蓮っ葉な物言いは、もしかしてまた何か隠すためじゃないかと邪推をするが、ストレートに聞いたって笹本は何も言わないだろうなとも判っている。  
 じゃあ身体に聞いてみようか、なんて、アダルトビデオのようなありきたりなセリフが沸いてきて、井上は再びに笹本を組み敷いた。  
 
 初めは嫌だと抵抗を試みた笹本も、井上にやめる気がないと判るとすぐに大人しく全身から力を抜いて、服従の姿勢を取ってみせる。  
 その様子にまた井上は、笹本の真意を見失ってしまった。  
 
 

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