下腹部が鈍く痛んだ。昨夜の情事の名残だ。  
 あいつの辞書には、配慮とか気遣いとか手加減、などという文字はないらしい。非常に残念だ。  
 笹本絵里は一人盛大に舌打ちをする。  
 それを耳にした山本が、ひぃ、と小声で鳴いた。笹本さん機嫌悪いっすね、などと石田に耳打ちを始める。  
 後ろの席の当人は、ちら、とこちらを見て失礼にも笑いを噛み殺した。  
 
 どこかの女流作家が、プラトニックなんてやる気ないと言っていた。それには概ね同意する。  
「『せっかくだからやっとこう!』『忙しいけどとにかくやる時間だけは作ろう!』ぐらいじゃないと男って気がしない」らしい。  
 その作家先生の持論に当てはめれば、じゃあ井上薫は200点だ。  
 
 
 男と付き合うとはどういうことなのか、笹本にはよく理解ができていない。  
 将来の配偶者候補、遊び相手、セックスパートナー。それだけじゃないのか。  
 必要なときだけそこにいてくれる、都合よく夢中にさせてくれるいい男が欲しかった。  
 だけど今、いわゆる「お付き合い」をしているのは生意気な後輩の井上だ。  
 
 年下だから、なんて枠にはめるつもりは毛頭ないけれど、オフの井上はとんでもなく子供だった。  
 オンのときのあの鋭さはどこに身を潜めるのか。  
 食べ物のえり好みが極端だし、足を開いて座るなと小言を言うし、たまにはスカートを履いてだとか料理しないの、とか、とにかく多くを求めてくる。  
 せっかく休みが重なった休日に、出かける? と聞いても人ごみは嫌だというし、じゃあ何をするのかと思えば一日中筋トレかセックスだ。  
 お前サルかと罵っても、ええそうです、だからしようよ、としか言わない。  
 
 笹本が非番の前夜にも、ちゃんとやってきて半ば無理やりに自分を抱いていく。  
 その日だけはどれだけ断っても、井上は聞いてくれない。  
 最終的には腕力にものを言わせるのだから堪らない。  
 諦めて最初から身を任せた方が怪我の心配がないし、何より変なところに痕を残されないで済む。  
 また、尾形にそんなものを見つけられたら、なんて想像するだけでぞっとする。  
 
 そんなにも激しく笹本を欲しがるくせに、セックスが終われば、人の家のビールを勝手に一本飲んでさっさと帰っていく。  
 寝てけば、と聞いても、自宅じゃないと寝られないからと必ず帰っていく。  
 同棲や半同棲なんてまっぴら、と宣言はしたけれど、絶対泊まるなとは言っていない。  
 
 これが俗に言う、身体目当てか? と嫌になる。  
 だけど――だったら自分だって身体目当てだ。  
 セックスには相性が重要だ。一般論だけどこれには大いに賛同する。  
 井上とは、抜群に相性がいい。  
 肉体的疲労が限界で睡眠を一番に欲していても、井上が煽るようなキスをひとつするだけで、身体からどんどんと力が抜けて言うことを効かなくなってしまうのだ。  
 首筋を舐められ背を撫で上げられると、じゅくんと潤んだ下肢が井上を欲しがって疼く。  
 昨夜のセックスを思い出しただけで、勤務中の今であるにも関わらず、悪寒にも似た甘い疼きが背筋を駆け上がっていく。  
 また触れて欲しくなる。  
 淫乱な自分を、改めて知ってしまった。  
 
 井上のことは好きだと思う。  
 まず仕事が出来る。あの鋭すぎる感性を素直に尊敬している。幾度もそれに助けられてきた。できたら自分も、あれが欲しかった。  
 一見細身だけれど鍛え上げた熱い胸板に、囚われるように抱きしめられるのが好きだ。  
 軽々と抱き上げたり肩に担いだり、ひょいと持ち上げて後を向かせたり、と言ったことを簡単にしてのける。あの小柄な身体のどこにその力があるのかと不思議に思う。やっぱり筋肉の質の違いか。  
 井上は甘えたがりだ。セックスをしていなくたって、二人っきりだったら一日中べだべたしていたがる。……そんなに、悪い気はしない。  
 だからと言って彼も暇ではないのだから、無駄に笹本を拘束したりはしない。  
 休みの日にメールがなかったからと言って、急に怒り出すなんて面倒なことはしない。どうせ明日になれば嫌でも顔を合わせるのだから、とお互い判っているのだ。  
 
 井上は笹本が好きだ。  
 ほんとうにほんとうに好きだ。  
 何度もそれを口にする。判ったからと宥めても、恥ずかしいからやめろとあしらっても、何度も何度も。  
 あまりに執拗だから、まるで自分に言い聞かせているようだとも思う。  
 
 突然背後から冊子が出てきた。  
「署内報です」  
 気配もなく原川の巨体が背後に佇んで、笹本を見下ろしていた。  
「……ありがとう、ございます」  
 おずおずとそれを受け取る。  
 にっこりと無邪気に微笑むと原川は、ばさばさと乱暴に井上と石田と山本の机に署内報を投げ載せると、満面の笑みで尾形のデスクへと向かう。  
 尾形は、いつもの調子で原川に淡々と礼を述べると、すぐにノートパソコンへと向き合ってしまう。  
 それを切なげに見つめる原川をみて、あのひと、ほんとうはSPに超向いてんじゃないの、と面白くない冗談を思いついた。あの集中力と気配の消し方は、尊敬に値する。  
 
 ――今度、井上に聞いてみよう。  
 
 署内報をめくりながら、ああ、また井上か、と笹本はげんなりする。  
 最近は何を見ても何を考えても、すぐに井上の顔が出てくる。  
 これを話したら井上はどんな反応をするだろうか、と言った生産性のない空想を知らずに繰り広げるのだ。  
 
 ぺら、と冊子を捲る。  
 三ページ目に、メンタルヘルスの相談窓口、などと書かれた記事が目に留まる。  
 日々の職務以外に、家庭のこと、持病のこと、老人介護について、子育ての悩み等フリーダイヤルで相談にのってくれるそうだ。親切なことだ。  
 
 彼氏が避妊をしてくれないんです、なんて、電話を掛けたら、悪戯だと思われるだろうか。  
 コンドームを嫌がるわけじゃない。そっちの方がまだ可愛い。  
 秘密にしていたはずのピルを服用を井上は知っていた。隠し事は得意だと思っていたけど、井上にはそれは通じない。  
 飲むのやめて、と押し迫ってきた。子供ほしいんスよね、と。  
 実際に薬を捨てられた。  
 あれにはほんとうに参った。  
 
 あたしの人生を、なんであんたに決められなきゃいけないの?  
 はっきり告げたかったけど、結局は飲み込んでしまった。  
 他の男とは違い、持ち前の気の強さを井上の前では隠さなくてもいい。  
 言いたいことはどんな罵詈雑言でも言えてしまう気楽さが井上と過ごす時間には確かに存在するのに、ほんとうに伝えたいことはなぜか覆い隠してしまうその原因は判らない。  
 
 元々避妊が第一目的な訳ではないし、それに妊娠に気が付かないで動き回って流産なんてことになったら嫌だから薬は飲ませて、と冷静に話をしたら井上は素直に納得をした。  
 それは困りますね、とあの整った柳眉に皺をよせて頷いた。  
 
 ――じゃあさ、SP辞めませんか。  
 
 耳を疑った。  
 何の権利があってお前がそれを口にするのか。  
 怒りが過ぎると、悲しみで満たされる。そんな体験を始めてした。  
 結局は、井上もその辺の男と同じだった。相手に何かを求めるなんて不毛だ、と散々思い知らされてきたはずなのに、なぜか井上は違うと信じていたようだ。  
 自分を認めてくれていたのは、尾形だけだった。  
 
 一瞬だけ脳裏に描いた上司の姿を、井上は見透かしたようだった。  
「いま、なに考えてました?」  
 目を細めて、腕を握られた。  
 こういう顔で、こういう口調で、詰め寄ってくる井上を怖いと笹本は思う。  
 男に怯えるなんて、もう二度とないと考えていたのに。  
 大抵の男は伸してしまえるけれど、井上にはそれが出来ない。  
 井上は確保が巧い。簡単に腕を捻り上げられてしまう。しかも、完璧な手加減の上。嫌味なほど優秀だ。  
 
「…………子供の、名前?」  
 嘯いて逃げようと身を捩る。  
 だけど簡単にその身体を引き倒された。  
「じゃあその前に子作りしなくっちゃ」  
 
 くちびるが降ってくる。  
 とてもとてもそんな気分じゃないのに、圧し掛かる井上はぴくりとも動かせない。隙がない。ああ、今日はいくら拒否をしても、無駄な日だ。  
 それでも、どうしても無神経な井上を許せなくて力の限り身を捩る。  
「笹本さん?」  
「や、だ!」  
「なんで?」  
「そんな、気分じゃ……あっ!」  
 両腕をさらわれて、頭上で一纏めにされてしまう。  
 
 いつもこうだ。安々と、腕力で抑えつけられて。  
 男である肉体を自慢されている被害妄想に陥る。  
 SPなんて男の仕事だ。だれもがそう言う。  
 女にも出来ることはあるけれど、それは本領じゃない。  
 SPは元来男の仕事だ。笹本もそれは不本意ながら認めている。  
 
 だけど、こんなにも違いを見せつけられては、とても正気ではいられない。  
 
「やだ、井上、井上……やめて、お願い…………」  
「……どうしたんですか?」  
「いやだ……」  
「嫌なの?」  
 
 縋るような瞳で、井上が覗き込んでくる。  
 その眼は、ずるい。  
 見捨てないで、と全面で物語る。  
 俺はこんなにも好きなのに、笹本さんはは違うんだ、と責められている罪悪に襲われる。  
 尾形は、違ったのに。  
 欲しがらなかった代わりに、あるがままの笹本でいさせてくれた。  
 また無意識のうちに比べてしまって、胸に抱く罪悪感が大きくなる。  
 
「俺のこと、嫌い?」  
 ついにその、卑怯な一言を井上が発する。  
 諦めて笹本は、ゆるゆると首を振った。  
「……すき」  
「ほんとに?」  
「ほんと。だから……ちゃんと、」  
「なに?」  
「…………し、て」  
 犬のように笑った井上が、拘束をほどいて笹本の身体を抱きしめる。  
 やっと自由になった両腕を、井上の背に回してぐっと力を込めた。  
 安堵したように井上が息を吐く。  
 ついばむような口付けは、やがて激しさを増して快感への足掛かりとなる。  
 
 面倒な男を好きになってしまったものだ。  
 そもそも、セックスとはもっと、激しくも穏やかであるものではないのか。  
 なぜ井上とは、いつも喧嘩のようなそれになってしまうのか。  
 やっかいなことに、こんなに酷い仕打ちを受けても、どろどろに濡れてしまうのだ。これはもう、好きだから、としか言えないのがまたバッドだ。  
 
 現状に名前をつけるならば共依存、か。なんて面白くない。  
 自分は強いと思っていた。  
 精神のバランスには自負があった。  
 
 二度目だ。メンタルヘルスのお世話になるつもりは毛頭ない。  
 喪失は一度で十分だから。  
 
「笹本」  
 隣の席の石田が、身体をこちらに向けていた。  
「何ですかー」  
「疲れてるのか?」  
「普通に疲れてます。いつも通りに」  
「そうか……。お前、男でもできたのか?」  
「……それ、プレッシャですか?」  
 低く問い返せば、いやいやいや、と石田が両手を振る。  
 からかっただけなのに、ほんとうに石田はいい人だ。SPにしておくにはもったいない。  
 いいパパでいるべきなのに。  
 間違って死んだら、どうするんだ? 写真でしか知らないあの可愛い娘さんは、何リットルの涙を流すのだろう。  
 
 くすりと笑ったら、肩の力がふっと抜けた。そういえば、笑うのは久しぶりかもしれない。  
「冗談です。なんで、そんなこと急に?」  
 恋愛にうつつを抜かしているかもしれないが、仕事に手は抜いていない。絶対に。  
 女だから、なんて言われるのはまっぴらだ。  
「いや、最近、合コンって言わないかじゃないか」  
「…………それだけ?」  
「ん? ああ。男できたから、必要なくなったのかと思って」  
 
 ちょっと返答に迷って、しばらくはいらない、と続けようとしたら背後から急に井上の手が笹本の首に回った。  
「そ、俺の相手でいっぱいだから合コン行かないらしいっすよ」  
 
 しん、と場の空気が凍った。  
「……あ、れ? そ、そうなの?」  
 昼間の幽霊を見たような山本が、間の抜けた声を出す。  
 その調子の外れた音に我を取り戻した笹本は、首に絡まる井上の手を冷静に振りほどいた。  
「……ばかじゃないの山本、有り得ないだろ。井上、気安く触んな。金とるよ」  
 大人しく振りほどかれた井上が、いかにも残念、というように首をすくめた。  
「ちえ。ちなみに、幾らですか?」  
「一回三万円」  
「たかっ」  
「相場だろ」  
「それどんなぼったくりっすか」  
「三万でいいのか……」  
「石田さん? よからぬ想像してるっしょ」  
「石田さん信じてたのに……」  
 井上が、石田さんセクハラですかと笑い始める。  
 当の石田は違うよ、と苦笑いを浮かべている。山本がそれに絡んで、笑い声を上げる。  
 ちらり、と視界の端に入った尾形も、目じりを下げて優しく微笑んでいた。  
 
 ああ、よかった。  
 これが日常だ。ここが、あたしの居場所。  
 井上との関係がばれて、石田や山本に余計な気を回されるなんて、まっぴらだ。  
 尾形にからかわれでもしたら、その痛みは想像に耐えない。  
 
 まだ尾形に拘っている自分に驚いた。  
 自慢の切り替えスイッチが正常に作動していない。これはどうしてだろう。  
 井上を、愛し始めているはずなのに。  
 
 あの日、尾形に別れを告げた日。  
 この痛みは自分だけのもの、生涯背負って生きていく、と誓った。今思えばただのナルシズムだ。  
 井上は自己陶酔を許容しなかった。そんな暇を与えずに、盲目的に笹本を希い、温もりと充足と快楽を与えて余所見を許さない。  
 宣言通り、笹本のなかから尾形の影を追いだそうと躍起になっているようだった。  
 だけどそうされればされるほど、触れられたくない古傷に塩を塗りこまれている錯覚に陥る。  
 眼を背けたい現実を、顎をつかまれて直視させられて、愛されてなかったでしょ、と脳髄に叩きこまれて。  
 気が狂いそうに息苦しいはずのに、どこかでそれを居心地よく感じてしまう。  
 
 この上SPまで辞めたら、もう井上しか縋るものは残らない。  
 逃げ道もアイデンティティもすべて奪われて、からっぽになってしまう。  
 井上が求めているのは、ほんとうにこんなつまらない自分なのだろうか。  
 
 
*  
 
 明日休みだから、と当然のような顔でひとの部屋に押しかけて来て、呆れるほどの自然体で冷蔵庫を開けビールを取り出した井上の後姿を、腕を組んで睨みつけた。  
 実は、怒ってる。井上の勝手な振る舞いに、腹を立てている。  
 井上が気が付いているかどうか、知らないけど。  
 
「……井上、昼間のあれ、どういうつもり?」  
「どれ?」  
 つめたいビールを喉に流し込みながら、行儀悪く井上が歩み寄ってくる。  
 飲むか歩くか、どちらかにしろ、と笹本はこっそり舌を打つ。  
 
「社内恋愛は秘密裏にするもんだろ。いきなり暴露すんなよ」  
「ああ、あれね。冗談にされて俺、傷ついたんですけど」  
 償ってなどと、ぬけぬけと言い放って、顔を寄せてきた井上の頬をぱちんとはたいた。  
 自覚はあるけど己は暴力的だ。過去にはこれが原因でよく喧嘩に発展していた。  
 暴力慣れしている井上とは、こんなことでは喧嘩にならない。  
 
「石田さんや山本に気を使わせんなよ。社会人としてのジョーシキだろ」  
「大丈夫だって、ばれてないって…………石田さんたちには」  
「…………どういう意味?」  
「係長には、気付かれたかもしれないですね?」  
 挑むような目で、井上が視線をぶつけてきた。  
 今日は逃げない。絶対に。怒っているのはこっちのほうだ。  
 
「…………ばれたら、どっちかが異動だな」  
「うん。たぶん笹本さんがね」  
 こいつそれを狙ってるのか?  
 片眉を上げた笹本のくちびるに、悪戯の見つかった子供のような顔をした井上が素早く触れてくる。  
 逃げる間もなく重ねられたそれは、だけどすぐに離れてしまった。  
 
 息のかかる距離をキープしたまま、井上が言う。  
「係長にばれるのが怖い? それとも、尾形さんに知られるのが嫌?」  
「…………係長に、決まってんでしょ」  
 ふぅんと呟いた井上のくちびるが、また迫ってきた。  
 舌が入り込んでくる。  
 ビールの味がする。  
 冷えた缶が急に頬に押し当てられて、びくりと身が竦んだ。その反応に、井上が喉の奥で楽しそうに笑う。  
 遊ばれている。癪になって、顔を背けた。  
 
「……まだ話終わってないけど」  
 つめたく言い放ちながら身を捩らせた。  
 簡単にするりとその腕から抜け出せた、と意外に思ったら、すぐに後から抱きしめられて、再びにその腕の中に捕らわれる。  
「後で聞きます」  
 井上のくちびるが、首筋に落ちてきた。  
「これ持って」  
 差し出されたビールの缶を、なぜか素直に受け取ってしまった。自由になった左手も追加されて、更にきつく拘束を受ける。  
 熱く湿る舌がねっとりと首や肩を這いまわる。  
 細い身体に巻きついた両の掌も、洋服の上から焦らすような緩慢な動きで膨らみに辿り着いた。  
 たったそれだけで、全身がかっと熱くなった。  
 
 後で聞く、なんて、井上がそんな殊勝なことするわけがない。  
 判っているのに笹本は、与えられた熱に浮かされてすぐに思考を白く濁らせてしまう。  
 この温度に抗えない。抗いたくない。身を委ねてしまいたい。  
 
 息を乱し始めた笹本に気をよくした井上が、素早くボタンを外していってしまう。  
 器用な指だよな、と笹本は井上の顔を仰いでキスを受け止めながら思った。  
 
 熱いくちびるが重なる。舌が絡まり合う。身体から力が抜けた。  
 指が腹部を這いあがる。もっと、もっと欲しい。  
 下着のホックも簡単に外され、熱い掌が直に乳房に触れた。感触を楽しむように揉みしだれて、立ち上がった乳首が触れて欲しいとばかりに疼いた。  
「…………好きだなー、これ」  
「……っ、なに、が?」  
「揉みごたえがあるっていうか。俺専用ってのがまたいいっすよね。そう思いません?」  
「思わな……あっ、ん!」  
 突然、色づいた蕾を指で挟まれて甘い悲鳴が漏れる。  
 その硬度を確かめるかの如くこりこりと執拗に責められて、腰が引ける。  
 密着した臀部に、張りつめた井上自身が触れて、期待に下肢が疼いた。  
 
 早くこれを埋め込んでほしい。ナチュラルに思考がそこへ行きつくとは、とんだスキモノだ。  
 知っていたけど。井上とセックスするようになって、ますます拍車が掛ったようだ。  
 
 腰を支えていた左腕がこっそりと動いて、ズボンのボタンを外した。素早く下着の中に入り込んで、敏感な部分に触れてくる。  
「あっ……!」  
「うわ、すっげー濡れてる……」  
「ん、やだ、言うなっ……ぁん!」  
「立ったままってのがいいの?」  
「ちが、うっ、ひぁ……っ!」  
「だってほら、こんなにぐちゃぐちゃですよ」  
 井上がわざと水音を立てながら、相変わらず確実に笹本を絶頂へと誘う。  
 いや、と言葉にならない甘い声を押さえることも出来ずぽろぽろと垂れ流し、笹本は全身を小刻みに震わせてあっけなく達してしまった。  
 
「……あ、」  
「おっと」  
 両膝から力が抜けて崩れ落ちそうになった身体を、井上に抱きとめられた。  
 これ危ないっすね、と手の中のビールを奪って非難させる。  
 誰のせいだよとは思ったが、絶頂の余韻が甘すぎて声を出す気力もない笹本は、ぼんやりとその様子を眺めた。  
 
「笹本さんも、」  
 ゆっくりと床へ笹本を座らせながら、井上が耳元で囁く。低い吐息のような声音がくすぐったくて肩をすくませた。  
「大概、ケモノっすよね」  
「…………お前に、言われたく…ない」  
「可愛いなーほんと」  
 またからかわれた。かっと頭が熱くなる。  
「……閉じ込めちゃいたい」  
 半ば本気が透けて見えるその揶揄にぞくりとする。  
 気だるい身体を捩り拒否しようとした肩を押されて、前のめりに床に倒れこむ。  
 なにすんだ、と言うよりも早く、下肢に絡まる衣服を双丘から素早く滑らせて、また敏感な性器に触れてきた。  
 
「……ゃ、あ、井上……っ、井上っ!」  
「その声ずるい……ね、もう入れていい?」  
「…………っ、うん……」  
 まだ服を脱ぎきってないとか、膝が痛くなりそうだからせめてベッドにとか、このまま後ろから突っ込んでケモノプレイかとか、言いたいことはいくつかあったけど、どれも言葉に出来ずにただ従順に頷いた。  
 
 熱い井上自身が内部に埋まる。  
 ゆっくりと押し入ってくるそれに、意識が集中をする。  
 半ばまで埋め込まれた所で敏感な部分を擦り上げられ、知らず彼を締め付けた。  
「っ、……気持ちいい?」  
「あ、やだ……んんっ」  
「いや?」  
「……ちが、気持ち、いい……あっ、ああっ!」  
 一気に最奥まで突き上げられて、普段の体勢よりももっと奥を刺激されて息が詰まる。  
 ずん、と一つ突き上げられて身体が震えるたびに、脳髄も揺さぶられて思考がどんどん溶けていく。  
 
「……のぅえ、あん…や、いやっ…んぁ!」  
 何かに縋りたいのに、あいにく床には何も転がっていない。  
 毛足の短い絨毯に爪を立てて、強烈な快感の支配を甘んじて受ける。  
 絡まりあった体液が、秘部から零れ内ももを伝った。  
 
「笹本さん」  
 突然動きを止めた井上が、身を折り曲げてその熱い胸板を笹本の背に密着させる。  
 耳たぶがちりりと痛んだ。  
 井上に噛まれたのだ。  
「好き」  
 耳元で囁かれて、身をびくりと震わせた。  
「……っ、んんっ」  
 右手が重なる。指の間に無骨な指が入り込み、ぎゅっと手の甲を握りこまれた。  
 左手は、頬を撫でてくちびるの形を確かめて、首筋を伝って左胸へとたどり着く。  
 緩慢な動きに焦らされ、貫かれたままの秘部がぴくぴくと意志とは関係なく動いてしまう。  
 そのたびに井上を内部に認めて、また身体が熱くなる。  
「すき」  
「ん、うん……」  
「気持ちいい?」  
「……んっ、うん、の…ぅえ、井上……っ!」  
「なに?」  
「きもち、い…から……もっと……」  
「欲しい?」  
「ほしい……あ、ぅん……や、」  
「俺のこと、好き?」  
「……すき、やっ…あん! ふ、すき……」  
 
 繰り返し繰り返し、好きと囁かれて、言わされて、気持ちいかと尋ねられて頷かされて求めさせられて。  
 判断力が低下している最中にこれをやられるから、一種の催眠状態に陥っているんじゃないかと自己分析を終えた。  
 
 振り返ってくちびるを強請る。飽きるほど舌を絡ませ合うのに、まだ足りない。  
 好きだからだ。  
 何もかも考えられなくなるほど、めちゃくちゃにしてほしいと泣きそうに強く思ったところで、激しすぎる律動が再開された。  
 
 望みどおりに激情のままに幾度も貫かれて、さすがに意識も身体も限界だ、と眼尻からこぼれた涙が物語っていた。  
 もうだめ、と何度も訴えたのに、それが止まる気配はない。  
 許容を超えた強い快感に、目の前が白んだ。  
 ああ、やばい、と自覚したのと同時に、膣内が熱い体液で満たされる。  
 どくどくと注ぎこまれるそれを心地よく受け止めながら、笹本は意識を手放した。  
 
 
 
 だけど気を失っていたのはほんの一瞬だったようだ。  
 不安げな井上の声で呼び戻された。  
「笹本さん? 大丈夫?」  
 ゆるゆると目を開けると、安堵の表情を浮かべた井上の顔が間近に迫っている。  
 いつの間にか裸体がベッドに埋まっていた。  
「…………あのさ、手加減、覚えて」  
「ごめんごめん。明日休みだから、つい」  
 ついうっかりで意識飛ぶほど突きまくるな。身体が痛いじゃないか。  
 
 悪びれない井上を罵る体力もなく、笹本はぐったりとシーツに身体を埋めた。  
「……寝る?」  
「うん…………あんた帰る?」  
「んーもう少し、いようかな。心配だし」  
 その言葉に、不覚にも顔がゆるんだらしい。  
 驚いたように両眼を見開いた井上が、顔を覗き込んでくる。  
「…………いま、喜んだ?」  
 端正な顔のアップ。  
 キスが欲しい。頭を、頬を撫でて欲しい。暖かい手で触れていて欲しい。  
「…………少しだけ」  
「少し?」  
 ああ、それよりも瞼が重たい。  
 お願いだから、もう少しだけ抱きしめていて。眠るまででいいから。そんなに時間はかからない。  
 いつの間にかこんなにも、井上を求めている。  
「ん…井上……ここ……いて……」  
 
 いいよ判ったと、優しい声音が、どこか遠くで聞こえた。  
 
 
*  
 
 夜中に低い音が響いて飛び起きた。  
 はっと隣を見やると、その音は井上の口からこぼれているようだ。  
 額にびっしりと汗を浮かばせて、眉根にきつく皺を刻み食いしばった歯の隙間から低い呻き声が断続的に漏れている。  
「井上?」  
 一瞬だけパニックに陥ったけれど、とっさにその身体を揺さぶると、ぼんやりと目を見開いた井上が焦点の定まらない瞳をこちらに差し向けている。  
 しかしすぐに覚醒をしたようで、ばっと両腕で顔を覆い隠してひとこと、ごめん、と呟いた。  
「……なにが?」  
「起こしました」  
「いいよ、そんなの。……怖い夢でも見た?」  
「……うん、まあ」  
「どんな?」  
「………………山本が実は女で、俺に迫ってきました」  
「厳しいな、ソレ」  
 たぶん、井上はいま嘘をついた。そのぐらいは、判る。  
 
 誰にでも秘密はある。知られたくないことの一つや二つぐらい、持っていて当然だ。だから、追求はしない。  
 代わりに、そっと硬い髪を撫でた。  
「怖い夢見て泣くなんて、子供みたい」  
「泣いてないし。笹本さんはお母さんみたいですね」  
 こんなでかい子供産んでない、と言ってしまった後で、井上にはもう両親がいないんだったと思い出す。  
 
「……女の子が欲しいな。笹本さんそっくりの」  
 唐突な発言に面食らう。こいつ、まだ諦めていなかったのか。  
「…………気の強い女がもう一人できて大変そうだな」  
「頼もしいじゃん」  
「あんた、そんなに子供好きなの?」  
「好きですよ。すっげー好き」  
「意外。そんな風に見えない」  
 そうですか、と井上が顔を上げる。  
 
 子供もいいかもしれない。こんなに井上が言うなら、きっといいものなんだろう。  
 ただし、どっちに似ても頑固でやっかいそうだ。  
 もしかしたら、親を反面教師にして物凄く素直ないい子に育つ、という可能性もなくはないけど、低いだろう。  
 一人でにやにやと笑って、不思議に思う。  
 今まで、子供が可愛いと思ったことはあっても、欲しいと思ったことなんて一度もなかったはずなのに。  
 
「……もしも、俺が死んだら」  
「やめてよ縁起でもない」  
「笹本さんだって覚悟してるでしょ?」  
「していないわけじゃない、けど、」  
「たとえば、の話だから」  
「……」  
「もし俺が、死んだら。笹本さん、泣いてくれるでしょ? そういうひとが、ずっと欲しかった」  
 ずいぶんと身勝手だ。子供と笹本を残して、自分だけ死ぬ未来を想定している?  
 尾形と正反対なのか。尾形も尾形で、身勝手だと思ったけれど。男はみんな身勝手な生き物なんだろうか。  
 もしも、井上を失ったら、正気でいられるか。  
 不毛な未来のトレースは、だけど上手くはいかなかった。  
 たぶん一番泣くのは、山本あたりなんじゃないか、と思考が苦痛から逃げた。  
 
 うん、とだけなんとか呟いた。  
 井上は、それ以上何も言おうとしなかった。何かに満足をしたようだ。  
 
 
 この話はもうおしまい、とばかりに気だるい身体を何とか起こして立ち上がる。寒さに身が震えた。  
 適当に上着を羽織って、キッチンまで足を伸ばす。  
「何か飲む?」  
 水、と飛んできた返事にはいはいと適当に答えて、白い冷蔵庫の扉を開ける。  
 
 買った覚えのないビールが六本、紙のパックに入ったまま真ん中の棚に鎮座している。  
 ミネラルウォータのボトルを取り出して、井上に声を投げつけた。  
「あんた、ビール入れた?」  
「入れましたよ。ご機嫌取ろうと思って」  
 ご機嫌とりは、口に出したら意味がないんじゃないか?  
 
 だけどたったそれだけのことが、嬉しくなる。  
 あの井上が、自分の機嫌を察知して、喜ばせるためにと必死に考えた結果なんだろう。  
 ビールを買ってきてくれたぐらいで、簡単にご機嫌を取られてしまうなんて。やっぱり、言い訳も出来ないほど好きみたいだ。超グッドだ。  
 
 せっかくだから一本だけ井上と半分こして飲もう。明日は休みだし。  
 飲んだらまた肌を重ねながら眠ろう。  
 
 一本を取り出して、幸福の名残に火照る頬へ押し当てた。  
 その熱を収めるように、体温が奪われていく。  
   
 今は、たぶん、二人ともはしかにかかっているようなものなのだ。この頬のように、一時的に熱くなってしまっているだけ。  
 恋の初期段階には非常によくあること。  
 この熱が、緩やかに愛へと変わっていけばいい。このまま未来を重ねられたらいい。それはきっと、世間一般でいう「幸せ」なのだ。  
 
 乾いた身体にアルコールを流しいれながら、笹本は一人願った。だけどそれは余りに己に不似合いすぎる夢見がちな発想で、井上に伝える気には到底なれなかった。  
 
 その後、これを心底悔むこととなる。  
 
 
 ――――――事件発生 十日前。  
   
 

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