「お、お前どうした?」  
 井上がすっかり慣れた手つきでアンダーシャツの上に防弾チョッキを装着していると、同じように装備確認中の石田に声を掛けられた。  
 主語がつかめなくて首を傾げる。  
 これ、と自分のより二回り程大きな手が伸びてきて肩に触れる。撫でられた箇所がつきんと痛んで、ようやく思い至った。  
「…………凄まじいな。熊手で襲われたか?」  
 その傷の痛ましさに、石田が眉根を寄せる。  
 違いますよそれどんな変質者ですか、と苦笑を返して、さてどうしたものかと井上は逡巡する。  
 でも一瞬で方向性を定めた。この決断力は特技の一つだ。自慢していいと思う。  
 
「飼い猫にやられました」  
「猫なんて飼ってたのか?」  
「ええ。すんげぇ可愛いんですけど高飛車で生意気で攻撃的なんスよね。すぐに引っかくし噛み付くし」  
 ほらここも、と二の腕を差し出す。  
 こちらにもミミズ腫れが数本と、赤く晴れ上がった歯の痕が生々しく残っている。  
「いかんなあ。噛み付いたらちゃんと叱って、どっちが主人か判らせてやらないと」  
 俺も子供のころ犬を飼っててなぁ、と石田が説教を始める。  
 素直に頷いて見せて、だけどすぐに井上は首を振った。  
「どっちかって言うと俺が下僕ですよ。もう女王様? 普段はいいんですけどね、遊んでて興奮してくると、制御効かないみたいで」  
「あー、本能だな」  
「そうそれ、本能。そんで参ったことに、可愛くって叱れないんすよね」  
「……まあ判る。俺も、娘はなかなか叱れんよ」  
 うんうん、と石田が同意をこめて相槌を打つ。胸ポケットの写真の姿を、思い出しているんだろうか。  
 っすよね、とワイシャツを着込みながら、同じように井上も頷いた。  
 
「まず興奮させてんのこっちだし? 叱ると逆切れでまた興奮するし」  
「お前が生傷好きならそれでもいいが、興奮し始めたらちゃんと押さえつけて叱って、手加減覚えさせないと駄目だぞ。  
 なんなら噛み返して、これは痛いと教えないと。ほんとは兄弟同士で覚えるらしいがな、無理なら飼い主が教えるべきじゃないか?」  
 
 うーん、と唸って、顎に指を添えた。  
 石田の言うことはたぶん正しい。引っかかれるといくら俺でもさすがに痛い、とは何度も伝えようとして、潤んだ瞳に欲情して言えないまま終わっている。  
 本能を剥き出しにしているのはこっちだ。  
 性欲をすべてぶつけて、それを受け止めきれなくなった彼女が、まって無理、と訴えながら、女にしては平坦だけとやっぱり鋭いその爪を立ててくる結果なのだ。  
 もう少し、井上の制御が効けばたぶん、生傷も減るんじゃないかと結論付けた。  
 
「あー……被害者俺だけだし、叱るの可哀想なんで我慢します。だってさ、引っかいたあとに、ごめんって感じでしゅんてするんすよ。そんで傷舐めてきたり頬ずりしてきたり。ずるいっすよねー。なんだこの可愛い生き物! って思います」  
「猫馬鹿か?」  
 石田が笑った。釣られて井上も、苦笑いを浮かべる。  
「飼ってみれば判りますよ。ふわふわで目きらきらですんげー可愛いくって抱き心地サイコーっすよ。意地っ張りで気まぐれなとこもたまりません。寝るときは絶対に布団に潜り込んできてあったかいんですよね」  
 その抱き心地と暖かさを思い出したら、笑いがこみ上げてきた。  
 あーまた抱っこしたくなってきた。  
 一人にやにやと思い出し笑いを浮かべる井上を、石田が怪訝そうな表情で見下ろしていた。  
「まあ、ほどほどにしとけよ」  
 うす、と薄笑いのまま軽快に返答をして、頭を下げる。  
   
*  
 
 井上、と能天気に呼ばれて振り返る寸前、腕をとられて背後から押し倒される。  
 ベッドに突っ伏した体勢のまま情けなく、笹本を見上げた。  
「…………なんすか、急に」  
「確保の練習」  
「事前に言ってくださいよ。ちゃんと付き合うから」  
「言ったら練習にならないじゃん。あんたすぐ抵抗するし」  
「抵抗しなきゃ練習にならないでしょ」  
「あんたほど完璧な落とし技かけてくるテロリストが日本に何人いるっての?」  
「あれっ褒められた?」  
「褒めてないっ。大人しく練習台しなさいよ」  
 いいですけど、と会話の合間に緩んだ腕を引いて、笹本のバランスを崩させる。  
 笹本が体勢を整えるより先に、ぐるりと上下を入れ替えて今度は井上が細い身体に馬乗りになる。笹本の舌打ちが聞こえた。  
 
「笹本さん。確保するまではいいんですけどそっからが甘いっすよ」  
 身体を折り曲げて、耳元で囁く。  
 びく、と笹本が身を震わせた。喉の奥で笑って、耳を口に含む。  
「あ」  
 笹本が息を乱す。気をよくして頬を撫でた。  
 顔を寄せる。目を閉じた笹本が、大人しくキスを受け入れる。  
 洋服の裾から手を差し入れた。すべすべの腹を撫で上げて、両のふくらみにたどり着いた。  
 しばらく下着の上からその柔らかさを楽しんで、あっという間に服を脱がせてしまった。  
 
 本気で確保の練習、などとは思っていない。じゃれあいの一環だ。じゃなきゃベッドに倒される理由がわからないし、そもそも迫力が全然足りない。  
 笹本が、井上と触れ合いたかったに違いない。勘違いかもしれないが嬉しいから思い込むことにする。  
 でもそれにしても、確保だなんて色気のないことだ。  
「……あの、お誘いならもっと判りやすくしてもらえません?」  
「ちがっ」  
 笹本の吼えるような声を聞き、しまったと後悔する。  
 そうだ、こういう一言が笹本を逆上させるんだ。判っているのに口がすべる。  
「や、だ!」  
 身を捩り始めた笹本の顔を追って、強引にくちびるを塞いだ。  
 あーせっかく大人しかったのに、また宥めるのに一苦労すんのかな、とわくわくする。普通は面倒に思う場面なはずだけど。  
 
「って」  
 がり、とくちびるを噛まれて、慌てて顔を引き離した。  
「……噛みましたね」  
「噛んだ」  
「痛いんですけど」  
「あ、そう?」  
 にやり、と満足げに笹本は口元を歪めてみせる。ざまあみろ、とでも言いたげだ。  
 うーんこれは厄介だ。  
 何でこのひとはすぐに歯を立てるんだろう、と疑問を持った井上は、ふと昼間の石田との会話を思い出した。  
 
 ――興奮し始めたらちゃんと押さえつけて叱って、手加減覚えさせないと駄目だぞ  
 ――どっちが主人か判らせてやらないと  
 
「……しつけが必要ですね」  
 聞こえない程度の大きさで呟く。  
「なに?」  
 なんて言ったの、と聞き返した笹本には返事をせず、肩を押して向きを変えさせる。  
 
 どっちが主人か、だなんてこの上なく不毛だけど、一度腕力と立場の違いを判ってもらうのもいいかもしれない。  
 今は後輩という立場でしかないが、自分は男だから絶対に彼女を守ってみせる心づもりだということを。  
 出来れば、一生。なにがあっても。  
 守られるほどやわな女じゃないとか言い出しそうだけど、それでも。  
 
 安直で甘美なヒロイズムは心地よくじわりと広がり、胸が高鳴った。  
 実は、今日こそは余裕を持って優しくしてみて、笹本の反応を伺おうと事前に決めていたのだが撤回しよう。我慢は身体に良くない。持ち前の決断力を発揮するべき場所だ。  
 
 両腕を攫って、後ろに一纏めにしてしまうと、首に絡みついたままだったネクタイをするりと外し手首に絡ませた。  
「ちょっ! やだ、縛んな!」  
 状況を察知した笹本が暴れだすが、体重をかけて難なく押さえつける。  
 手際よく拘束を終えた。蹴り上げられてはたまらないから、足の上にどっかりと座り込む。  
 自由を奪われた笹本が振り返り、眉根をきつく寄せて井上を睨む。  
「この、変態! ほどけっ」  
 くー生意気で可愛いな、と思ったけど口にはもちろん顔にも出さない。  
 そんな不謹慎なこと考えてると知られたら、ますます機嫌が悪くなるに違いない。  
 
「だってさ、こうしとかないと引っかかれて痛いですもん」  
「それはお前が……!」  
「俺が?」  
 言い淀んだ先を促すと、なんでもない、と笹本がぷいとそっぽを向いてしまう。  
「へぇ」  
 顔を寄せて、くびすじに吸い付いた。  
「んっ」  
 もぞもぞと逃げるように身を捩るがそれを許さず、時折湿った音を立てて吸い上げながら、舌先で撫で上げる。  
 ベッドと身体の間に手を滑り込ませて、やわやわと乳房を揉みしだく。ときどき、敏感に立ち上がった蕾に触れてやると、笹本が身を固くして猫のように高く鳴いた。  
 身体を熱く火照らせた笹本が、息を弾ませながらその声を徐々に高く大きくしていく。  
 このエロに対する従順さが、またたまらなくいい。  
 
「……の、うえ、んんっ……やぁ」  
 嬌声を堪えるようにくちびるを噛んだ笹本が、瞳を潤ませて井上を仰ぐ。  
 恨みがましく何かを訴えてるようでもある。  
 
 そんな視線を知らん振りして、下肢も脱がせて瞬く間に下着一枚のみの姿にしてしまう。  
 笹本は抵抗をして見せたけど、余りにささやか過ぎて気にもならなかった。  
 横に向けさせた身体の、細い足をぐいと持ち上げて開かせる。膝を自分の肩にかけて、足の間に身を置いた。  
「やっ、だ!」  
 羞恥に顔を染めた笹本が、不自由な身体を捩る。  
「大丈夫大丈夫」  
 なにが大丈夫なのかよく判らないが口先だけでとりあえず宥めて、笹本の機嫌を取った。ちゃんと取れてるかどうかは定かではないけど確認する気はとりあえずない。  
 
 白いふくらはぎにくちびるを寄せて吸い上げる。  
 びく、と腰が震えた。  
 徐々にくちびるを上げていく。ところどころに吸い痕を残していくのがまた楽しい。見えない所なら問題ないだろう。笹本はいつもパンツスタイルだ。  
 
 やがて辿り着いた足の付け根にちゅ、とくちびるを落としたあとに、薄い布地に覆われた秘部へ鼻先をこすりつけた。  
 びくびくとまた笹本の身体が揺れた。  
「…………白ですか」  
「やっ…………」  
 珍しくレースや花模様の刺繍などが入っている白いそれに、思わず感想を口にする。  
 普段はアウターに響くから、と柄も模様もないし、色も地味な黒とかベージュであることが多い。  
 今日はあらかじめ約束をしていて、珍しいことにその約束がちゃんと履行された、稀有な逢瀬である。  
 ほほう、と井上は胸の内で感心をする。  
 もしかしたらさっきあっという間に脱がせてしまったブラジャーも、お揃いのこういう可愛いやつだったんだろうか。  
 だとしたら悪いことをした。ちゃんと堪能すればよかった。  
 
 後悔をしたものの、まあ過ぎてしまったことは仕方ない。またの幸運に期待をかけようと結論付けた。だって大事なのは中身だし。  
   
 さっさと思考を切り替えて、伸ばした舌を下着越しに笹本へと触れさせた。  
「あ、やだ……井上、ま……っ!」  
「…………ん、なに?」  
「……電気」  
「だめ。せっかく可愛いのに」  
「っ! や、だってば!」  
 ばたばたと下肢を暴れさせた笹本の足を、更にぐっと力を込めて押さえつける。  
 ふ、と息を吹きかけると、びくん、と今までになく反応を見せた笹本が、やだ、と鳴き声混じりで抵抗をする。  
 唾液と愛液でぐっしょりと濡れた下着の、秘部を舌で器用にずらして直接に触れる。  
「あっ、い…や、ん! 井上、い…っえぇ!」  
 あふれ出る蜜を掬いあげるように舐めると、笹本の身体が更に固くなった。  
 
 ぷつ、と指を秘壺に突き立てる。  
 濡れてどろどろに熱を帯びたそこは、簡単に己の指を受け入れた。  
 くちゃと水音を立ててかき回すと、その熱さに、身を収めた快楽を邂逅させられて、すでに張りつめていた自身がさらに質量を増した。  
 
 抜き差しを繰り返して、蜜を分泌させる。  
 高い猫のような嬌声がどんどん大きくなる。  
 身を捩った笹本の頭が、ごん、と壁にぶつかった。  
「いっ……あ、やだ……っ! も、井上、やだあ!」  
「嫌?」  
「や、やだ、……も、無理……っ!」  
「いいっすよ……ほら、我慢しないで」  
「やだって、ば! 変態っ、やだやだ、ばか、や……っ、だめ…やあっ!」  
 
 一層高い声をあげて、笹本が全身を硬直させる。  
 ああ、イったのか、とどこか遠くで思った。差し込んだままの指を、ひくひくと入口の痙攣が締め付ける。  
 
「や、だ…………っあ……」  
 拒否とも吐息ともつかない、甘えたような声音を上げた笹本が、不自由な裸体を捩る。  
 指を引き抜いて、自分の衣服をさっさと脱ぎ捨てた。  
 準備を終えて、いざゆかんと再びに細い片足を持ち上げたところで、笹本から抗議の声が上がる。  
「い、井上!」  
「なに?」  
「…………あ、入れる、の?」  
「そうですけど?」  
「……し、たぎ」  
「あー、せっかく俺のための一張羅だから、堪能しようかなって」  
「ばか! 死ね変態! 脱がせろっ」  
「あ、脱がせていいの?」  
「っ!」  
 にやにやと笑いながら問えば、笹本が真っ赤にした顔を背けて、井上の視線から逃げた。  
 
 たっぷりと逡巡したのち、消え入りそうな声でうんと言ったのを聞きつけて、望みどおり下着をはぎとってやる。  
 笹本はすっかりと従順に井上の意思に沿うように腰を浮かせた。  
 
「……ほどいて」  
「ほどいたら引っかくでしょ。もう少し待ってください」  
「でも、」  
 何か反論をしたげな笹本を無視して、裸体を横に向かせたまま、再びに足を抱えあげて挿入を果たす。  
「あっ! ああんっ!」  
 高い声に自分で驚いた笹本が、出来るだけ嬌声を抑えようと試みる。しかしそれは無駄なようだった。  
 枕に口を押し付けて声をくぐもらせ、でも息苦しさに耐えかねて顔を上げると井上が意地悪く奥へ突き立てる。  
 悲鳴のような喘ぎ声の合間に、井上、と幾度も呼ばれた。  
 快楽に理性を亡くし逃れるように囚われの腕を引絞り、しかしその痛みに我に変える、ということを五度繰り返して、ついに笹本は諦めて井上を見上げる。  
   
「井上………キ……し、て」  
「なに? なにが欲しいの?」  
「……キ、ス……」  
「噛むからだーめ」  
「ん、かまない、から……っ」  
 涙を浮かべた縋るような瞳が、お願いと物語る。  
 ああやばい、これはたまらない。  
 身を屈めてふわりとくちびるを重ねて、ずん、と腰を突き上げた。  
「んっ……ぅん!」  
 堪えるようにくちびるを震わせた笹本が、くぐもった悲鳴を上げる。  
 呼吸を奪うように激しく深く口付けながら、粘膜をこすり合わせた。  
 
「……んんっ、む、んーっ!」  
 かりっ。  
 快楽に酔って理性をどろどろに溶かしてしまった笹本が、また無意識に井上のくちびるに噛み付いた。  
「って」  
 ばっと身を起こした。笹本は半分泣きながら井上を見上げている。  
「……の、うえ……んん、あ」  
「噛んだでしょ」  
「や……ごめ、あ! ……ひ、ぁあ……」  
「噛んだらだめって言いましたよね」   
「……ん、だって……」  
「だってじゃない」  
 
 ずん、と最奥まで貫いて笹本の快感を煽り、涙ぐんだ顔を覗き込む。  
 キスを期待して瞳を閉じた笹本の、耳たぶに犬歯を立てて噛み付いた。  
「いっ」  
 笹本が肩をすくませる。  
「痛い?」  
 髪を撫でながらくちびるを落として、耳のすぐ下にも歯を立てて、薄い肉をはさみ上げた。  
「い、たい……や、やだあ、んんっ」  
 噛む間にもべろんと舌で舐め上げて、くちびるできつく吸い上げて、空いた手で胸への愛撫も忘れない。もちろん、思い出したような律動も。  
「いた……や、ふ…あっ! 井上、やだっ、あん!」  
 我を忘れて本能のまま笹本が、嬌声を漏らす。  
「痛い?」  
「……いたい……や、やん!」  
「気持ち、よさそう、だけど」  
 意地悪く言い放って、今度は二の腕に噛み付きながら腰を揺らして内部をかき回す。  
「ちがっ……それ、いた…ぃ、……やだ、もっ……!」  
「……痛い?」  
「んん! 痛いの、や、だ……ぁふ! ……井上……いの、うえっ」  
「なに?」  
「…………っ、ごめん、なさ……あ!」  
 
 ああ、これは反則だ。こんな時に可愛げを見せられたら、もう冷静でなんていられないじゃないか。  
 うん、許す。もう何でもいいっすよ。笹本さんだったら何でも。  
 
 身を起こして一層激しく肉をぶつける。  
「ひぁ……あぁ、あ、んんっ!」  
 リズムに合わせて笹本が高く喘ぐ。その声にますますくらくらする。  
 額を伝った汗が、ぽたりと笹本の上に落ちた。  
 ぞくぞくと快感が身体の隅々まで駆け抜ける。気持ちいい、気持ちいい、身体が熱い、もっと欲しい。そればかりに支配される。  
   
「……っ、も、いい?」  
「ん……うんっ、ああ……っ!」  
 言葉も呼吸もままならない様子の笹本が、それでも何とか返事をよこしたのを聞きつけて、絶頂に向かいさらに律動を深くする。  
 井上も、ほんの少し残していた理性をすべて飛ばして、ただ快楽を貪った。  
   
 やがてぎゅうぎゅうと快感を誘うように締め付けられ、そのときを迎える。  
 う、と低く呻き声を漏らして、薄いゴムの中に熱い欲情の証を吐き出した。  
 
 どくどくと脈打つような射精を終えると、急に頭が冷えて我に返る。  
 笹本は、と見下ろすと、全身から力を抜いて荒い呼吸を繰り返していた。  
 細い両腕は後ろで一つにまとめられたまま、顔はクッションに押し付けてしまっているので表情は伺えない。  
「……笹本、さん?」  
 恐る恐る呼んでみるが、反応はない。  
 抜くのと解くのどっちが先か、一瞬悩んだが解くほうを優先させた。  
 
 するり、と衣擦れの音を立てて白い手首からネクタイが抜き取られる。  
 それにはくっきりと皺が刻み込まれてしまったが、そんなことよりも笹本だ。  
 拘束が解かれても顔を上げる気配はない。  
 すっと手を眼前まで持ち上げて検索をする。白い肌に痕は残っていない。よかった、また機嫌を損ねるところだった。  
 指の腹でそっと力の抜け切った手の甲を撫でると、肩が小刻みに震えているのに気がついた。  
 
 ――え、泣いてる?  
 やっべ、やりすぎた。言い訳も出来ないほどやりすぎた。猛烈に怒られるに違いない。  
「笹本さん? ……ごめん、大丈夫?」  
 慌ててずるりと自身を抜き去って、ベッドにひじを付いてその顔を覗き込む。  
 そっとふわふわの髪を撫でながら様子を伺う。  
 笹本が、ゆっくりと顔をあげた。目が真っ赤だ。  
「……ごめんなさい」  
 謝罪のつもりで、くちびるを寄せる。笹本は逃げなかった。薄く開いたそれにふわりと重なる。  
 
 ――――――がりっ。   
 
 
*  
 
「…………また、壮絶だな」  
 くちびるの端の傷を認めて、石田がしかめっ面でつぶやいた。  
 スイマセン、と、別に石田に害を加えたわけでもないのに井上は思わず謝辞を口にしていた。  
「猫怒らせちゃって」  
 傷痕を撫でながら、しれっと述べる。  
「アドバイス通りに押さえつけてみたんですよ。最初すげー暴れて大変だったんですけど、だんだん大人しくなって。でも、もういいかな? って手を離してもぐったり動かなくなっちゃって焦りました」  
「やりすぎたのか」  
「やりすぎてないっす。だって、おーい大丈夫かって覗き込んだら、がりっですよ。おびき寄せられました。で、本人は逃走」  
「賢いな。飼い主に似なかったのか」  
「……みたいですね」  
 爪の先で生傷を撫でる。ちりりと痛んだが、それがまた甘く響く。笹本に与えられた痛みだ、と思うだけで、どくんと胸の奥が心地よく疼いた。  
 やべー俺やっぱド変態か。  
 余り褒められた性癖ではない。一人眉根を寄せる。  
 
「で? 仲直りはしたのか?」  
「え?」  
「猫と」  
「ああ、それが聞いてくださいよ。部屋の隅っこに行っちゃってさ、近づくと怒るからしばらくほっといたら、ちらちらこっち伺い始めるんですよね。可愛くてたまらんっす。  
 おいでって言っても当然来ないけど、こうなったら近づいても逃げないから、無理やり確保して、ぐりぐりに撫でてごめんごめんもうしないってあやして仲直り。可愛いもんでしょ」  
   
 腕の中であたしも噛んでごめん、引っかくのもこれから気をつけると神妙に小声で謝られ、そのレアなしおらしさに度肝を抜かれていると笹本の赤い舌がぺろりと口の端の傷を舐めた。  
 さらに驚いて石像のごとく固まった井上に、しょうどく、とはやくちで告げた笹本がくちびるを重ねてくる。  
 あーもう可愛いな畜生! なに、襲えって言ってますか? やばいっしょ、明日も仕事だぜ? でも止まんない。このひと、俺を夢中にさせてなにを企んでんだ?  
 胸のうちで絶叫をしつつ、角度を変えて深く口付けた。条件反射で身を震わせた笹本をぐっと抱き寄せる。  
 その後、押し倒す段になって今日はもうだめと激しく嫌がられたため大人しく引き下がり、その代わりにさらにぐりぐりと頭を撫で髪を乱したら、また機嫌が悪くなったが、まあいつものことだ。  
 好きすぎて加減など出来ない。まるで子供だ。どうしたものか。  
 
「そうか、よかったな」  
「ええ。今朝も機嫌悪くなかったんで大丈夫だと思います」  
「猫にめろめろか」  
「めろめろっす」  
 ふぅん、と一言呟いた石田の目が、まるで猫のそれのようにキラリと光った。  
「井上、その猫は関鯖が好きか?」  
 ぴき、と笑みが凍る。さすがだ。騙しきれるとは思ってなかったけど、まさか相手まで見抜かれてるとは。  
 
 観念して、自嘲の笑みを浮かべながら石田を仰ぐ。  
「……………………っスね」  
「大変だな」  
「まあ。でも自分の手噛んじゃうよりはマシなんで」  
「…………強烈だな」  
「情熱的ですから。その、そもそもプライド傷つけずに持ち込めないんですよね。俺どうしたらいいですか?」  
「情けない、男だろ。そこでガツンと判らせないと、一生このままだぞ」  
「……………………じゃあ石田さんならガツンと出来ます?」  
 ネクタイを結び終えた石田が、む、と呻る。  
 
 しばらくの沈黙が二人を支配した。  
 井上がネクタイを結ぶ、するするという衣擦れの音だけが響く。  
 上着を羽織ってバッジを確認すると石田は、無理だなとポツリとこぼした。  
 よかった。判ってもらえたみたいだ。  
「っすよねー」  
「俺には無理だがお前ならやれる。信じてるぞ、井上」  
 ぽん、と肩を叩かれて勇気づけられた。  
 ウス。握りこぶしを腰で作ってそれに答える。  
 尾形とはまた違った安心感や頼りがいが、石田にはある。どんな低レベルな相談でも受け入れてくれそうな身近な優しさが。  
 その身近さが油断を生んだわけだが。  
 
「あー石田さん、……いつから気づいてました?」  
「ん? ああ、明らかに猫サイズの傷じゃないだろ。まあ最初からだな。婚姻経験者舐めんなよ」  
「………………俺、めっちゃノロケちゃったじゃないっすか」  
「そうだなあ。ごちそうさま」  
 井上は顔を引きつらせながら、うわあと一本調子で呟いたあと、がん、とロッカーに自分の額をぶつける。  
 アメリカナイズは多少されていても、やはり照れくさい。恥ずかしい。  
 石田の前で何回、可愛いと言っただろうか。めろめろ、とまでのたまった。  
 一連の会話すべてをなかったことにさせていただきたい、と願ってももう遅い。石田は絶対に忘れてはくれないだろう。  
 
「黙っといてやるよ」  
 今度は傷を痛めつけるようにぐい、と肩を掴まれた。  
「って」  
「お前も、見えるところはやめてやれよな。山本に見つかったら面倒だぞ」  
 あれも見つかっているのか。さすがだ。  
「ま、頑張れよ」  
 ひらひらと手を振って、石田が装備室を出て行く。  
 それを横目で見送りながら、あのくらいの余裕が俺にも必要なのかな、と井上は思った。  
   
*  
 
「お疲れ様です」  
 席に戻ると間を一つ挟んで隣のデスクの笹本が、イヤホンを眺めていた顔を上げて微笑んだ。  
「お疲れ」  
 頷き返して石田は、猫か、とふと思う。言い得て妙だ。これを手懐けるのは相当苦労するだろう。  
 頑張れ井上、と無責任にエールを送った石田を、笹本が訝しげに見上げている。  
「石田さん?」  
 小首を傾げた弾みで蛍光灯の光に晒された白いくびすじに、赤いしるしがくっきり映えている。たぶん、井上の「噛み返し」の痕であろう。  
 
 お盛んだ。ほんとうに。少々面白くない。  
「笹本」  
 軽く手招きをして彼女を呼ぶ。すっと立ち上がって大人しく一歩寄ってきた笹本の猫のようにきらめく大きな目が、くりんと動いて石田を見据えている。  
 口元に手を寄せて耳打ちの姿勢を取れば、笹本が素直に耳を傾ける。身を屈め顔を寄せると、さっきよりもはっきりと痕が目に入る。  
 …………非常に、官能的だな、これは。  
「……たまには負けてやれ。気の毒だから」  
「え?」  
「あとそれ。隠しといたほうがいいんじゃないか?」  
 指先でつん、と耳のすぐ下のその痕をつついた。  
 わ、と声を上げて身を引いた笹本は、ば、と手やってそこを覆い隠す。  
「あ、……えーと」  
 丸い瞳を激しくしばたかせている笹本の顔が、見る見るうちに赤く染まっていく。  
 おや、と石田は片眉を上げた。  
 ほう。まるで恋する乙女のようではないか。こんな笹本初めて見る。  
 
 ――可愛くてたまらんっす。  
 井上の嬉しそうな声と笑顔が浮かんでくる。同時に、あの痛々しい顔の傷と肩の跡も。名誉の負傷、とでも言いたげだった。  
 ――自分の手噛んじゃうよりはマシなんで。  
 何故かそこが脳内で再生された。  
 手を噛んでしまうのか。それはそれは激しいな。ふむ、笹本はそうなのか。  
 笹本はいい女だ。男のようにさばさばとしていて付き合いやすいけど、一度好きになったら絶対に余所見をしないだろう。  
 華奢な割りに胸も大きい。細いというだけでなくちゃんと鍛えられていて無駄な肉がない。身体も柔らかいし、五感も鋭い。  
 何よりエロい女はいい。井上は当たりを引いたに違いない。羨ましいことだ。  
 この若干ハスキーな声が喘いだら相当クるだろうな。気の強そうな大きな目が潤んだら可愛いんじゃないか。ちょっと泣かせてみたくなった。  
 いやいや、生々しくていかんな。っていうかこれはセクハラじゃないか?  
   
 いかんいかん、と慌てて脳内を打ち消した石田を、いつの間にか俯いてしまっていた笹本が低く呼んだ。  
「石田さん……」  
「ん?」  
「……ぇ、どこですか?」  
「井上か? 装備室で悶絶してるぞ」  
「どうも」  
 顔を上げずに石田のわきをすり抜けていく。  
   
 突然、尾形のデスクの斜め後方のドアが開く。装備室へと繋がるドアだ。  
 井上か、と思ったが出てきたのは山本だった。  
 ずんずんと早足で歩いていた笹本が、彼女の倍ほどはありそうな身幅に正面からぶつかった。下を向いていたせいだ。  
「うっわ、……あれ?」  
「どけ」  
「……す、すいません!」  
 脅された山本はよく躾けられた犬のごとき従順さで、俊敏に笹本の前から飛びのいた。  
 装備室へと身を滑らせて、乱暴にドアを閉めた。その音は想像よりも控えめだったあたり、多少冷静さは残っているから大丈夫だだろう。頑張れ井上。  
 
「井上ーっ! オマエ石田さんになんか言っただろー!!」  
 迫力のある怒鳴り声が装備室から漏れ聞こえてくる。  
 なんも言ってないっすよ、と井上の恐々とした返事も聞こえた。ああ、あれでは火に油だ。まだまだだな、井上。そういう時はなにがとすっ呆けて相手の毒気を抜くんだ。  
「嘘つけ! それにつけたら教えとけっ! っていうかまずつけんな!」  
 ほら、ヒートアップさせた。  
 
 石田、と声をかけられた。  
 振り返れば、書類から顔を上げた尾形が不思議そうに自分を見上げている。  
「どうした? あれ」  
 顎をくい、と装備室のドアへと向ける。  
 ええ、まあ。なんていうか。  
 苦笑いを浮かべて、石田はどう返答をしたもんかと考える。  
 一応、黙っておくと約束したし。  
 
「えー…………若いっていいですね」  
 
 
 しみじみと言いながら、猫を飼いたいなあ、とふと思った、石田なのでした。  
 

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