「その後一階の物理療法室へと連行をされ、私の所持していた手錠で浴槽へ繋がれ拘束を受けました。井上巡査部長が到着、合流するまでその場からの移動は不可能でした」
うんざりと吐き捨てる様に述べながら、笹本は胸中で舌打ちをする。
何度同じことを言わせたら気が済むのだろう。
五回目までは数えていたけど、面倒になってそれを辞めてからさらに十回は同じセリフを繰り返しているはずだ。
拘束を受けたのは己の失態だ。その後井上の機転でなんとか帳尻を合わせたとはいえ、面白い事実ではない。
ちらりと目の前の男を見やる。魚のような顔をした男だ。生理的に受け付けないタイプだ、とどうでもいいことを思った。
田中一郎、などという偽名の代名詞のような名前も気に入らない。もっとマシな名を名乗れ。
つまり笹本は、この男が嫌いなのだ。その印象はきっと生涯変わることはないだろう。
先ほどまでもう二人、取調べを聴取している公安の人間がいたはずだが、いつの間にか姿を消してこの狭く息苦しい密室に、この男と二人っきりだ。
不快指数は80%。
早く終われ、とそればかりに気を取られ顔を背けていた笹本は、田中の眼鏡の奥の瞳がきらりと光る様に気がつかなかった。
田中が音もなく立ち上がり真横に佇んだ。
驚きに身を硬くして、なに、と声をあげるのも忘れた。
「……立っていただけますか」
慇懃な口調は有無を許さない。
言われるがままに無機質でつめたい椅子から立ち上がる。
――壁に向かって起立を。
淡々とした命に、訝しげな表情を前面に押し出しつつも従った。
目の前の真っ白な壁に、自分の影が色濃く映し出される。
真後ろにもう一つ影が重なった、と思った次の瞬間、両腕は後ろ手でに一まとめにされて手首には冷たい手錠が絡まる。
その鮮やかな手際に圧倒され抵抗を忘れた。事態があんまりにもあんまりすぎるせいだ。
がしゃん、と無慈悲な音が響いて笹本はやっと我に返り、ヒラメ顔を仰ぎ見る。
「…………なんですかこれ?」
「聴取にご協力願います」
淡々と告げた男の手が、ウェストをぱんとはたいた。
ボディチェックか? 今さら?
ジャケットの裾を割りいれた田中の手が内ポケット探り、ブラウスの上から胸を撫でる。
かっと怒りに身体が熱くなる。
振り返って蹴り上げる一瞬前に、後ろからぐっと男の身体で壁に押し付けられ、腰がまるで抱きしめられるようにその腕の中に囚われた。
「ちょ……オマエ最悪だな。公務にかこつけてセクハラか?」
「公私混同はしてません」
あくまで聴取ですから、と告げる声音はまさしく業務用のそれだ。
先ほどの口頭尋問のときとなんら変わりない。
「ご協力を」
腹を撫でた手のひらが、あっという間にスラックスのボタンとファスナを外して下着の中にもぐりこむ。
身を捩る間もなく、ブラウスのボタンも外されて薄い下着の上から、たわわな乳房をぐいと痛いほどの力で握られた。
「…………ッ、や、だっ!」
「ほう、結構なものをお持ちだ。さぞご苦労なさってるでしょう。お察ししますよ」
オマエの同情なんていらない、と胸のうちで吐き捨てた。
「これ、聴取? ……んっ、ありえなくない? どうっ…贔屓目に見てもセクハラだろ」
「まだまだ可愛いもんです。地検のほうがえげつないですよ。やつらケツの穴までさぐりますからね」
あなたはこっちですねと、折り曲げた指が内部へと侵入を果たす。
ぞわり、と背筋が粟だった。
「いった! やめろっ!」
「ああ、大声や抵抗はいけません。配慮の上でのマンツーマンでの聴取ですよ。一人で対応しきれなくなったら増員をします。そのほうがお好みですか?」
ぐっと言葉を飲み込んだ。
3Pだか4Pだか、乱交まがいの肉体聴取を受けるぐらいならまだ、このヒラメ男一人の気持ちが悪い指を我慢したほうが幾分かマシなような気がした。
「……ん、ぁうっ……」
敏感な箇所をぬるりと撫で上げられて、不本意ながら声が上がる。
がく、と膝が震えた。
嫌だ、このままでは身体を預けてしまう。しっかりしろ、と己を叱咤するそばから、絶妙な力加減の指が思考を奪う。
「や、……いや……」
「すぐ済ませますから」
間近で低く響いた。
すぐ済ませるってどういうことだ。なにが起きたら終了なんだ。
濁った頭でそれでも必死に考える。
冷静になれ、と何度も言い聞かせた。
なにがなによりマシだって? 明らかにこれはおかしい事態だろう。こんな、気持ちが悪い男にいいように嬲られる聴取があるはずない。
「やだ、やめろっ……訴える!」
「どうぞご自由に? 痴漢・セクハラ裁判における女性の精神的負担はよくご存知でしょう。『感じてましたか』って平気で聞かれますよ。なんて答えるんです?」
ほら、こんなにしてますよね、と下着の中を好きに動き回っていた男にしては細い指をぐいと折り曲げて、ぴちゃりと水音を響かせた。
「……っ、あっ」
堪えきれず漏れた高い声に、男はくすりと笑った。
揶揄に抗う気力は奪われてしまっていた。目の前が白くにごり膝ががくがくと震える。言うことを聞かない肉体が絶頂の接近を、自分のみならずこの気に食わない男にも伝えている。
へえ、と耳元で囁かれ、びくりと腰が震えた。
田中は唐突に指を引き抜いて眼前へと持ち上げる。まるで見せ付けるように。
煌々とした蛍光灯の下で、その指はぬらぬらと光っている。
笹本はくちびるを噛み締めて、顔を背けた。
ただの生理現象だ、と怒鳴ってやりたいが、息を乱した現状ではこの上なく説得力に欠けるだろう。
「……テロリストと情を通じてはいないようですね」
「……………………あたり、まえ……」
なんとか反論をしたが、語尾が震えた。
一度快楽の波に泳がせた身が、刺激を欲して相変わらず小刻みに震えるからだ。
「安心しました」
田中はハンカチを取り出すと、神経質な仕草で指を拭った。
呼吸を整えながら猫が毛を逆立てるように気を荒くする笹本の洋服を慣れた様子で手早く調えると腰を支えていた手をするりと外す。
身体に力が入れられずぺたんと座り込んでしまった笹本の背後に跪き、鍵を取り出した田中が手錠に触れる。
鍵穴にそれを差し込んだ瞬間、今までにない鋭く低い口調で田中が囁いた。
「あなたも、気をつけてください」
「……?」
かちり、と錠が外れた。ちきちき。軽い音をたてて歯が一つずつ外れていく。
「色々と…不穏な動きがありますので」
業務用の声音ではない。悲愴の混じった焦るそれ。
数時間会話をしただけだが、この男のこういう声はきっと珍しいのだろう、と笹本にも判った。
「信じるべきは己のみです」
その言葉の意味を考える。だけど中途半端に火照らされた下肢がずくんと疼いた拍子に笹本は面倒になって、思考を放棄した。
「じゃあオマエのそれも信用できないな」
「……なるほど」
楽しそうに田中が口角を上げた。
かち。手錠がすべて外される。
本日二度目の拘束。手首がひりひりと痛む。もう手錠の拘束は生涯ごめんだ。
おそらく五分ほどだったとは思うが、やけに長く感じた。
たった五分。それだけで危うくイかされるところだった。気味は悪いが迅速かつ正確な指使いは賞賛に値する。公安はどこかでこんな講習も受けるのだろうか。
面白くないジョークだ。
「もう一つ。井上はやめておいたほうがいい」
「なにが」
「井上ではあなたを御しきれないし、あなたでは井上の理解者になれない。もちろん、ただ守られるだけのお荷物にもなりきれない。似すぎている割に、肝心なところが違いすぎるんですよ」
「…………勝手に決め付けて勝手に分析して勝手に破局させないでくれる? 全ッ然、そんなつもりないし」
「ならいいんですが」
じっと見つめられる。
眼鏡の奥のぎょろりとした瞳が、案外深い色をしている、と笹本は思った。
ありとあらゆる事件・人物・事象・世俗の側面を好む好まないに関わらず見続けて、目を背けることが出来ずに己を歪ませたら、こういう濁った色になるんだろうか。
死んだ、魚の目のような。まるきり生気のない。それにこんなにも人の印象に残らない男も珍しいのではないか。
そんなことを考えながら、どんよりとした瞳に吸い込まれるように、田中の顔を見つめた。
しばしの沈黙に、居心地を悪くしたのか田中はおどけた表情で首をすくめて見せる。
「ああ、いっそ俺にしておきますか?」
「……死ね」
「ちょっとアレな冗談でしたね」
すみません。さらりと謝辞を述べて立ち上がると田中は、慇懃な物腰で手を伸ばす。
笹本は差し出されたその手をぱちんと払って素早く立ち上がった。
「触んな」
「失礼。……非礼はお詫びしますよ。手荒なまねをして申し訳ありませんでした。これにてあなたは無罪放免。もうお帰りいただいて結構です」
言われなくてもこんな陰鬱な場所に長居はしたくない。
無理矢理ずらされた下着が胸に食い込んで不快だが、致し方ない。
さっさと田中に背を向けてドアに向かって一歩踏み出した。
背後から、業務用の声が飛んでくる。
「…………一部、私情が混じったこともお詫びします」
……どこだ。どこが私情だった。
条件反射で聞き返したくなったがぐっと飲み込んだ。
きっと聞かないほうが精神衛生上いいだろう、と直感が物語る。
ノブをひねって、ふと思い出す。
「あんた、井上の同期だったっけ」
「そうですけど」
「不作の同期だな。最高にむかつく。井上はときどきだけど、お前は常にむかつく。二度と顔見たくない」
「………………美人が怒ると迫力ですね」
おどけた声にさらに胃がむかむかとする。
田中に聞かせるように盛大に舌打ちをして、ぐっとドアを押し開けた。
「怖い怖い」
ドアを閉める直前、もう一言聞こえてくる。
真摯な本心をピエロのようなおどけてた仮面で隠して見せて、あいつは一体なにがしたいんだろうと笹本は疑問を持った。
だけど偶然廊下で出会った尾形に、お疲れだったなと労いの言葉を掛けられて、いいえと笑った拍子にそんな些細なことは綺麗に忘れてしまっていた。
(おわり)