幼い頃、警察は正義の味方だと信じていた。  
悪しき者を捕まえて弱きものを助ける。それを「仕事」として行える、素晴らしい職業なのだと。  
―――それがお題目にすぎないと知るまでにはあまり時間は掛からなかったけれど。  
警察に入って、多くの者が感じるのであろうことはきっと「この世は悪人ばかりだ」ということだろう。  
そして「法では裁けない悪人が居る」ことであり「正義の定義は状況によって変わる」ことであり―――、  
つまりは笹本が真っ白だと信じて飛び込んだ警察の世界も、実は灰色の世界だったわけである。  
しかしそこで躓くような軟弱な者は警察では生きてはいけない。  
誰が何を言おうとこの現代日本において犯罪者を取り締まっているのは警察なのだから、  
色々なものを飲み下してでも警察に居座らねば出来ないことも沢山有るのだ。  
 
その灰色の世界の中でSPの仕事は単純明快だ。  
対象者を命をかけて護る。己の命を賭け、動く壁となり、対象者を全ての敵から護る。  
もちろん中にはこいつ死んだほうが良いのではないかという対象者も居るには居るが、  
それでもそれで笹本の仕事が揺らぐことは無い。  
そんな対象者でも何らかの形でこの日本に貢献しているから、死んでしまっては困ることもあるから、  
だから笹本が命を護る。ちなみにそのような対象者は当然敵が多いから笹本達は大忙しである。  
笹本は、そんな明快なSPという仕事を気に入っている。  
 
警察というところは男社会だ。  
特にSPのような体力勝負の部署において女であることは圧倒的に不利である。  
だから負けず嫌いな笹本は己の武器を磨くことにした。速さ。身軽さ。テクニック、等。  
もちろん磨いたのは肉体だけではない。内面だって色々と気をつけるようにした。  
可愛らしい外見で舐められないよう。女らしい性格を出して馬鹿にされないよう。  
元々サバけた性格もあって、今では警護課の若いのをはたき倒す毎日なので  
彼女の目論みはある意味で大成功と言えよう。  
時々何かが間違っていると言われることがあっても彼女が思うことはあまり無い。  
 
まあ、そんなわけで。  
嫌なのである、笹本は。男に負けるのが。  
だから、この間病院占拠テロリストに腕力差体力差で捕まったのも屈辱だった。  
……が、結局奴等はボコボコにしてやったのでまだ良い。  
問題はその後の公安での「調査」だった。  
一日に二度までも手錠を(しかも二度目はあっさりと)食らい、  
その後、五分も経たずに自分は「女」なのだと実感させられた。危うく屈服するところだった。  
つまりは負けたわけである。  
―――あの、魚男め。  
しかもそれが関サバ系のぴちぴちした生きの良い魚ならともかく、  
ナマズだかドジョウのようなぬらりとした、しかもなんだか死んだ目をした魚である。最悪だ。  
もう一生会いたくないとも思うのだが、それでは一生負けたままということになる。  
どうせならボコボコにして勝ってから一生会わない方が良いような気もする。  
それが笹本だった筈だ。  
でもはやり出来れば会いたくない。悩みどころである。  
 
さて。会いたくないと思っている人間に出会ってしまうのが人生である。  
マーフィーの法則とかなんとか言うのだったか。違うかもしれない。  
……エレベーターに乗ると、そこに魚男がいた。  
「げ」  
全ての思いが集約した一文字がつい口から漏れ出た笹本とは対照的に、  
笹本を見た田中は少しだけ笑った。  
「……ああ、これはこれは」  
それはいびつな、無理に作ったような不自然な笑顔だった。  
―――公安の癖してなんだその笑顔は。  
 
笹本はムカムカと腹を立てる。  
公安というところは潜入捜査や内偵を行うのだから、笑顔の一つも作れないでどうするのだ。  
自然な作り笑顔の一つもできないで潜入操作など出切る訳がない―――と、  
そこまで考えて笹本ははたと気がついた。  
この魚男と同期だという井上は、「潜入捜査が得意な同期」と評してはいなかったか。  
(アイツは凄いッすよ)  
(あんな印象に残らないやつ見たことねえ)  
(俺アイツのモンタージュ作れって言われても眼鏡と髪型しか思い出せないっすもん)  
(ありゃ潜入操作向きっすね)  
人の印象というのは顔立ちのみで決まるものではない。表情や、立ち居振る舞いも大きく影響してくるのだ。  
ならば、潜入捜査が得意だと言う田中が「不自然な笑顔」など作るだろうか。ありえない、だろう。  
どれだけ凡庸な顔立ちでも「不自然な笑顔」の人間などそれだけで人の印象に残ってしまう。  
きっと潜入時における田中は、人に印象を与えすぎず控えすぎてもいない、実に「自然な」作り笑顔が出来るのだ。  
 
つまり、この不自然な笑顔は。  
……本来の笑顔、ということになるのではないか。  
―――馬鹿じゃあなかろうか。  
笹本はさらに腹を立てる。  
人の記憶に残らないことを努めて、作り笑顔ばかり上手くなって、  
挙句本来の笑顔の作り方を忘れてしまったということか。間違いなく馬鹿である。  
笹本の同僚たちとてきっと色々なものを抱えている。それでも笑顔を忘れるような馬鹿は居ない。  
時にド突き飛ばし(一方的に)時に笑い合う同僚達にこんな不自然な笑顔の奴はいない。  
それともそれが公安だと言うことか。  
 
灰色の警察において公安は黒に限りに無く近い、らしい。  
内偵にしろ対テロにしろ、人のどす黒い部分を垣間見る機会は多いのだと思う。  
それでもそれを飲み込んで淡々と振舞うのが彼らでありそれが仕事なのだ。  
『気をつけてください』  
この間の田中の忠告を思い出す。笹本の、いや多分警護課周辺で何者かが蠢いているということか。  
魚男が今何を調べているのか知らないが、第三者に忠告するなんて服務規定違反ではないのか。  
たとえ、何を知ろうと。  
たとえ、誰が傷つこうと。  
公安ならば、内偵中に知りえたことを何も漏らしてはいけない筈だ。  
公安が情報を漏らすなんて発覚したら停職どころではすまないだろう。  
「印象に残らない男」の一人や二人この世から消え去ったところで世界は何一つ変わらないのだ。  
それでも忠告してきたということは、良心の呵責というものに田中が負けたことを意味する。  
やはり大馬鹿だということだろう。笹本はさらにムカムカとする。基本的に馬鹿は嫌いなのである。  
 
笹本が物凄く腹を立てているのをどう誤解したのか、魚男は苦笑した。  
「そんな手負いの猫のように気を荒くしなくても。  
 ―――ご心配なく。二度と、貴方の目の前には現れないようにしますよ」  
田中はおどけて肩をすくめる。  
この魚男が本気で振舞えば本当に二度と目の前に現れないのかもしれない。  
笹本とてSPだから気配には敏感だが、この存在感皆無男なら気配を消すくらい簡単に出来そうだ。  
―――勝ち逃げするつもりか。  
このままでは笹本は大馬鹿者に負けたままになってしまうではないか。冗談ではない。  
「ちぃッ」  
と聞こえるように舌打ちしてやると田中は身をすくめる真似をして笹本から目を逸らした。  
 
 
「覚えてろよ」  
沈黙が続いたエレベーターの下り際に、笹本は言ってやった。  
「今度はあたしがボコボコにしてやるからな」  
 
鉄面皮の公安が今までに見たことの無い顔をした。  
鳩が、いや魚が豆鉄砲を食ったような妙な顔をするのを見るのは快感だった。  
 
 

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