二人で見るなら頭をからっぽにして挑めるアクション映画に限る。  
 珍しく一致した意見だ。  
 小難しい映画ではすぐに眠くなってしまうし、恋愛映画は気恥ずかしくて見ていられない。  
 サスペンスは肌に合わないしホラーは白ける。現実主義者の笹本にファンタジーは似合わないと井上は思う。そう口に出したら殴られた。  
 実はスリルは日常だけでお腹いっぱいだけれど、勧善懲悪のアクション映画(ある意味これもファンタジーだ)は見ていて爽快だ。  
 
 ちなみに井上は映画館が嫌いだ。音がうるさすぎる、といつも感じる。  
 だから女の子とデートする場所がない。いつもすぐに振られるのはそのせいだ。たぶん。  
「おまえが振られるのは映画のせいじゃないと思うけど」  
「だってさ、映画って絶好の初デートスポットじゃん。無理に喋らなくていいし、映画が面白くてもつまんなくても共通の話題ができるわけだし?」  
「どこのマニュアルの受け売り?」  
「一般論っすよ」  
「へーえ」  
「あっ、やな感じ」  
「それよりさあ、スパイが結婚なんてしちゃいけないと思わない?」  
「なんで、いいじゃないですか」  
「だって、とりあえず職業ウソついてるわけでしょ? 出張だっていって潜入でしょ。で、婚姻の事実が悪の組織にばれたら、人質にされて脅迫の材料になるわけだ。  
ヒミツとキケンだらけのスパイなんかと、あたしなら絶対に結婚しない。あたしもスパイなら別だけど」  
「でもこのひとダンナがスパイだって知らないでしょ。実は俺がスパイだったら笹本さんどうするの」  
 えー、とにやにや笑いながら、左上に目線をやった笹本を横目で伺った。  
 三秒考えて、彼女は盛大に笑い出した。  
 
「ありえねーーーっ」  
「失礼だなあ」  
「恋人がスパイだったら、絶対見破る。あたしのカンを舐めんな」  
「あーそうですか。俺だって笹本さんがスパイだったら見破りますよ」  
 
 自宅での映画鑑賞のいいところは、こうしてべらべらと意見を言い合えるところだ。  
 映画館では大ひんしゅくものだけど、ここには邪魔な観客はいない。  
 予告は早送りで、喋っていて見逃したら巻き戻せばいいし、ラブシーンにあてられてキスがしたくなったら一時停止で、そのまま止まらなくなったら電源オフだ。続きはセックスが終わってから。  
 たぶん、正しい映画の楽しみ方ではないんだろう。でもいいのだ。一緒にいることが重要だから。  
 
 画面では、主人公の教え子の脳内に埋め込まれた爆弾が作動して儚く散った。  
 ヒーローの慟哭。不覚にも胸が痛くなる。こういうのは苦手だ。  
 死んだ女性にだって恋人や家族がいたはずだ。彼女の死はどのように伝えられるのだろう。死の真相はきっと機密情報だ。死に目にも会えない、真実も知らない。それは果たして、幸せなのか。  
 余計なことをぐるぐると考える。  
   
「あっ、井上。あたしさ、アレ見たアレ」  
「なんすか、アレって。年寄りみたいですね」  
「うっさい。アレだ、アレ。走馬灯」  
「………………」  
「山西に撃たれた時さー、見えた。マジであるんだな、走馬灯。なんか、すごい勢いでぐるぐるぐるって、両親とか親戚とかもう会えない昔の友だちとか、  
小学校のグラウンドとかあの婦長さんとか駐在所とか射撃場とか、石田さんとか、井上とか、」  
「……さ」  
「見えた。あんたが泣きそうな顔してた」  
「……俺のそんな顔、見たことないでしょ」  
「ない。だから死にたくないって思った。あんた都知事のとき見えなかったの?」  
「全然」  
「なーんだ」  
 
 残念、とちっとも残念ではなさそうに笹本が呟いた。  
 返すべき言葉が見つからなくて、ぼんやりとテレビの画面に見入る。  
 字幕を目で追うものの、頭に入ってこない。  
 すっかり展開がわからなくなったところで突然、床に置いた手を握られた。  
 
「思い出した」  
 驚いて顔を上げれば、笹本が身をずらして井上の正面まで移動してきていた。  
 大きな瞳にまっすぐと見つめられて、どきんとした。  
 その表情の余りの真剣さに、言葉が出ない。  
「井上」  
「は、い?」  
「すき」  
「えっ」  
「愛してる」  
「えええななななななななんすか、急に、」  
 
「あいしてる」  
 
 もう一度はっきりと告げて顔を寄せてくる。  
 驚きに硬直をしている井上をよそに、盗むような素早さでちびるにふわりと触れると、すぐに離れて、じっと顔を覗き込まれた。  
「井上、すッごい赤くなってる」  
 楽しそうに目を細めた笹本がけらけらと笑う。  
 
 赤面を隠すように口元をてのひらで覆って、井上は気恥ずかしさから顔をそらした。  
「いきなりそれ、反則でしょ…………」  
「…………おまえさあ、予想を上回る照れ方すんなよ。こっちも照れる」  
「無理っす、カンベンしてください……突然なんですか?」  
「えー? 走馬灯の最後にさ、思ったわけ。そういえばスキとかあんまり言ったことないなーって。死ぬならそれ伝えなきゃ、って。めでたく生きていたわけだから、二度と後悔しないように言ってみた」  
 カンドー的でしょ、と笹本の得意げな笑顔が視界の端に入った。  
 
 確かに、スキとか愛してるとか、言ったことも言われたことも余りない。いい大人がそんなこと軽々しく口に出すのはどうも照れくさい。  
 第一、言わなくても一緒にいるってことはそういうことだろう、と簡単に推察が出来るではないか。二人とも見事に典型的な日本人、いやむしろ日本男児なのだ。  
 
 ――でもすげーなこれ。  
 
 未だ心臓が鳴り止まない。覆った手のひらの下では、くちびるがにやにやとだらしなく緩んで戻らない。  
 体温が1度ほど上昇した気もする。  
 愛の囁きとは凄まじい破壊力だ。  
 感動した。  
   
「そういうわけ。OK? 井上? 覚えといて」  
「……う、ん」  
「ありがと。あースッキリした」  
 ほう、と息を吐いた笹本が、確かに晴れ晴れとした笑顔を浮かべながら、身を起こして離れていこうとする。  
「あ、ちょっと」  
 とっさに肩を抱いて引き止めた。  
 元の位置に戻り損ねた笹本がなに、と不思議そうに小首をかしげる。  
「……すげえ一方的っすね」  
「そう?」  
「あの、俺、俺も…………」  
「…………」  
「俺、……え、えーっと……」  
 このすごい衝撃を、笹本にも是非味わってもらおうとお返しを試みるのだが口が上手く回らない。そういえば「愛してる」なんて言葉、今までの人生で一度も言ったことがない気がする。  
 
 息苦しく微妙な沈黙に、平静な顔をしていた笹本もどんどんその表情を強張らせ、頬を赤く染めてうつむいていってしまう。  
「……いい、言うな、もうなんも言うな!」  
 身を捩じらせて、井上の腕からすり抜けようと笹本が小さく暴れ始める。  
「待って、言わせてください」  
「もーやだっ、こういうのやだ! 言うならさらっと言えよ馬鹿っ!!」  
「だって俺日本人だし!」  
「あたしだって日本人だ! そもそもおまえも言えなんて強制してないだろっ」  
「そうだけど笹本さんっ」  
「やーだーっ、聞かない、もういいってば!」  
「あー、じゃあ」  
 ぐっと肩を引き寄せて、腕の中にすっぽりと笹本を収めてしまった。  
 顎に軽く指を添えてこちらを仰がせて、まだ何か文句を言いたげにへの字に曲がるくちびるをさっと塞いだ。  
 びく、と笹本の細い肩が震えて、一瞬だけ身体を強張らせたのち、徐々に力を抜いていく。  
 
 時折言葉にならないくぐもった単音を漏らしながら、ゆるゆると舌を絡ませあう。  
 愛を伝えるための口付けのはずだったのに、いつの間にか快楽を得るための深く激しいものへと変わり、井上は貪るように笹本の口内を味わった。  
 その余りの激しさに、息苦しさに耐えかねたのか笹本がゆるく首を振ってキスから逃れた。  
 笹本は大きく深呼吸をひとつすると、潤んだ瞳でゆっくりと井上を仰ぎ見た。  
 
「……あー……井上、あんた腕は?」  
「普通に痛いです。笹本さん肩は?」  
「負荷が掛かると微妙に痛い程度で問題なし。よし、今日はサービスしたげる」  
 
 にっこりと腕の中の笹本が笑ったかと思ったら、手が伸びてきて井上の首元を探る。  
 サービスってなんだ、と必死に空気を読もうと頭を働かせるが、結論を導き出す暇もなくするするとシャツを脱がされた。  
 
 
 そんな調子で映画は中断、セックスに突入をしたのはまさに予定調和だ。少なくとも自分にとっては。  
 あの事件以来、笹本とはすれ違いが続いて二人で会うのはほんとうに久しぶりだ。  
 この条件下のデートで、セックスをしたくない男がいたら是非お目にかかりたい。自分は健全なる成人男性だ。  
 
 あれ以来、頭痛や耳鳴りはどんどん酷くなるし、めまいも頻度が増えた。  
 気分はどんどんと陰鬱になっていき、なんかもうだめかも、だなんて後ろ向きなことを何度も考えたけど、それでも笹本の顔を見ればほっとするし、何も考えずに笑えるこの時間に安らぎを覚える。  
 
 笹本と、笑い合うことも触れ合うことも、呼吸や食事と同じぐらい大事なのだ。  
 
 
 必要以上に怪我を慮って、脱衣から後始末まで至れり尽くせりでのセックスは少々居心地が悪かったけれどそれよりも、  
笹本が時々左腕の包帯をそっと撫でては珍しく気遣う声音で痛くない? と聞いてくれたこととか、  
ノリノリで上に跨った彼女が腰を揺らす度に、素晴らしい乳房が目の前でバウンドする様を存分に堪能をできたこととか(しかし手を伸ばすと怒られるのは拷問だ)、  
絶頂の直前に頬を挟んで「愛してる」と告げた時の、驚いたような困ったような怒ったような顔のあと、すぐに涙目の瞳を細めてあたしも、と笑った顔に熱くなった胸とか、  
裸のままの肌を寄せ合ってまどろみを堪能しているときに急に思い出して「そう言えば夜の許可取ってなかった」と呟いて殴られた頭の痛みとか、  
もっと単純に重ねたくちびるの柔らかさとか、腕の中で眠る笹本の体温とか、  
 
そう言ったものすべてが愛おしい。  
 
 ほんとうに、生きていてよかった。自分も、笹本も。  
 満ち足りた甘やかな幸せが胸に広がる。  
 今日はなんていい一日だったんだろう。  
 明日も、できたら幸せであるといい。  
 
 そう言えば耳鳴りがいつの間にか止んでいる、と不思議に思いながら、井上は浅い眠りに身を預けた。  
 
   
 
 
*  
おわり  
 

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