今日は面倒なマルタイで大変だった。おかげで予定終了時刻を大幅にオーバーだ。  
もう大分遅い。食事はどうしようか・・・・。  
そんなことを考えながら石田は四係に戻ってきた。仲間はそれぞれの警護を終えて帰宅したのだろう。  
人気のないオフィスは機械の音さえなく静寂としている。  
急ぐ理由も無し、石田は自分の席でゆるりと装備を解き始めた。  
銃を保管庫へ戻せば終了だ。  
食事に付き合ってくれる仲間は無し、これから一人で済ませる食事の味気なさを想像し、  
石田は気分を沈ませながら装備室へとつながる扉を開けた。  
 
一瞬、声を上げそうになる。人影だ。  
誰かまだ残っていたのか、と少し安心しながらその影を確認する。  
だが、声をかけようとして石田は怯んだ。  
その影は手に銃を持ったまま微動だにしない。  
背を向けてはいるが横から伺う表情は一種異様な雰囲気をかもし出している。  
そして瞳は怪しく銃を凝視している。  
 
「いの・・うえ?」  
弾んだように顔を上げた井上はすぐにいつもの笑顔で返してきた。  
「石田さん、今帰庁ですか。今日は遅いっすね。」  
「井上、それ、どうかしたか。」  
銃を指しながら石田が保管庫を開ける。  
「いえ、考え事をしていたんで・・・つい・・。」  
「そんな物騒なもん早くしまえよ。」  
「はい。石田さん食事は?」  
「いや、まだだ。井上は?」  
「まだっす。帰りにご一緒しませんか?」  
「助かった。実は一人で食うの寂しかったんだ。」  
二人で笑いあう。いつもの井上だ。きっとさっきのは自分の勘違いか  
見間違いだろう。井上も疲れていたに違いない。  
そう結論付け、石田は二人で連れ立ってオフィスを後にした。  
 
警護課第四係−  
登庁してきた仲間でオフィスは活気を戻している。  
「おはよう。少し遅くなった。」  
かばんを置くと石田は報告書の紙を片手にドカと椅子に座った。  
横にいた笹本がそわそわとした様子で石田に話しかけてきた。  
「石田さん・・・井上知りません?」  
「まだ来てないのか?」時計を見ながら石田が答える。「珍しいな。」  
苦々しそうに山本が横から口を挟んできた。  
「今日は重役出勤ですかね。」  
その時、尾形が課員に召集をかけた。  
 
「笹本、山本は国交省大臣の応援警護だ。予定通り向かえ。  
 石田は俺と幹事長の警護にあたる。」  
「係長、予定では私は井上とでは・・・。」  
「井上は今日休暇をとった。体調がすぐれないようだ。  
 時間までまだ間がある。警護計画書を熟読して準備を万全にしろ。」  
 
「笹本、・・・ちょっといいか?」  
石田は席に戻りかけた笹本をオフィスの外へと誘う。  
係長席の尾形は、それを目の端に確認するとすぐに視線を手元に戻した。  
 
「笹本、お前今日の井上のこと聞いてなかったのか?」  
「はい・・・。」  
珍しくしおらしい声で答える笹本に石田は状況を察する。  
「最近、会ってないのか。おまえたち。」  
「ええ、まあ・・・。お互い仕事が忙しくて、プライベートでは二ヶ月近く会っていないですね。」  
「遠距離恋愛か、お前たち。」石田は呆れた。  
「でも仕事では顔を合わせてますし−−」  
「−でも二人だけで話す時間はとってないんだろ。」  
「はい・・・・まあ。」  
「最近、井上に変わったところはないか?」  
「変わったところ・・・ですか?仕事上ではいつもどおりでしたし・・・・ただ・・」  
少し言いずらそうに下を向きながら笹本が答えた。  
「ただ、前のように家に押しかけてこなくなったというか・・」  
少々語尾が小さくなるが、だが観念したかのように言葉を続けた。  
「前はどんなに忙しくても疲れていても、こちらの都合お構い無しに  
 強引に来るところがあったんですが、最近はないですね。」  
「今まで会えていたのは井上の努力あってのことか・・・。  
 できないのか、しないのか、それとも・・・。」  
腕を組み眉間に皺を寄せて石田はつぶやいた。  
「石田さん、何があったんですか?」  
「ずっと気になって様子を見てはいたんだ・・。一週間ほど前だったか・・・」  
石田は以前装備室で会った井上の様子を話した。  
 
「異様!?・・・だったんですか」  
「普段の井上からは別人だったな。こう・・・・何て言うか・・うまく言えないが・・  
 うむ・・・何か危うい感じだったな。あのままこめかみに銃を当てるんじゃないかと思ったよ。」  
「やめてくださいよ、石田さん。」笹本は少し不機嫌な顔になる。  
「悪い悪い」  
「こめかみと言えば、井上このところよくこめかみを押さえていましたね。  
 気にはなっていたんですが・・・・なかなか切り出す機会がなくて・・・・。」  
何か心情に変化があったのか・・・・・こんなに様子が変わったことに気付かなかった  
自分を笹本は悔しく思った。  
 
恋愛はどちらか一方が負担を負うようでは成立しない。  
そんなこと敢えて考えなくとも分かっていることだ。いや、分かっているつもりだった。  
実際の自分たちはどうだったろう。  
時間を調整するのはほとんど井上だ。その強引さに辟易したこともあったけれど、  
それがなくては自分たちは世間で言う"恋愛”を継続させることは難しい。  
井上が自分に合わせることになれて、自分が努力することをおろそかにしていた結果がこれだ。  
仕事でもこんなに近くにいるのに、そんな井上の変化に気付かないとは、  
ましてやそれを石田から教えられるなど・・・・・・・・・・。  
笹本は強い後悔の念に駆られた。  
「しかし・・・」  
石田が続ける。  
「そうだ・・・あれは・・・・あの井上から感じられたのは・・・」  
笹本は思いもよらない言葉を聞かされた。  
 
「――・・・・狂気だ。」  
 
ドアチャイムが鳴った。  
井上は立ち上がると重い体を引きずるようにモニターに近づいた。  
「・・・・・笹本さん・・。」  
 
ドアを開けると強張った表情の笹本が立っていた。  
「あんたが仕事休むなんて有り得ないから・・・来てやった。」  
無言のまま笹本を招き入れると井上は部屋の中央でへたり込む様に体を落とした。  
こめかみには相変わらず刺すような痛みが走っている。  
「井上・・・・・具合、本当に悪いんだ。大丈夫なの?」  
力なくうなずく井上を見て笹本はただならぬ不安を感じた。  
「すいません・・・・今日はみんなに迷惑をかけました・・。俺の代わりは・・・」  
「係長が石田さんと組んだよ。幹事長の警護は無事終了だ。  
 それより、医者には行ったの?」  
「いえ、いつもはしばたくすると良くなるんです。それが今日に限っては  
 頭痛も・・・眩暈も・・・・今朝はとうとう起き上がれなくて・・・。」  
「メニエールかな。とにかくこれから医者行こう。あたしがついていくから。」  
笹本が肩を抱いて起こそうとすると、腕をつかみ井上はそれを制した。  
「いいんです。わかっていますから。」  
そう言うとこめかみを押さえていた手を緩めゆっくり顔を上げると、  
不安げに覗き込む笹本の顔を見つめた。  
井上の険しい表情が和らいでいく。  
「・・・・・笹本さん、来てくれて嬉しいっす。」  
「何言ってんの。皆心配してるんだから。  
 どんなに羽目を外したって翌日には誰よりもピンピンして登庁してくるおまえが  
 仕事休むなんて異常事態、考えらんないだろ!」  
「すいません・・・・・・・・・・。」  
「いつから・・・」一瞬言い淀んだ後、笹本は続けた。  
「いつからなの・・・それ。分かってるって・・・・あたしは聞いてない。」  
獲物を射る様な笹本の強い視線に圧倒され、井上は無意識に目を逸らした。  
「今までも仕事中にこんなこと・・・・」  
言いかけて、ふと笹本は思い出した。  
 
あれはマルタイの退避訓練だったか・・・。  
途中井上は区連を抜けたことがあった。  
係長は所用を井上に頼んだと言っていたが、その後係長席からもれ聞こえた二人の会話・・・・。  
――検査の結果はどうだった?――  
特別気に留めていた訳ではないが、四係内で、警護中で、時折尾形の視線が  
井上に向けられているのは分かっていた。  
その視線は見守るような、心配そうな、そして何かを探るような・・・・・。  
 
間違いない。尾形は知っている。きっと自分よりもずっと井上の事を・・・。  
 
「あんたはあたしに何も話してくれない。」  
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」  
「あたしのことは聞きたがるくせに・・・考えたらあたしは井上のこと何も分かってないんだ。  
 両親の事だってあの事件で初めて知ったんだ・・・・。  
 ねぇ、教えてよ井上。あんたのこと・・・!」  
尚且つ俯き、答えようとしない井上に苛立ちを覚え、語気が強くなる。  
誰にだって話したくないことはある。それはそうだ。  
以前はそれで納得したこともあったが、しかし、尾形が知り得て自分が知らない、  
正直言って面白くない感情がそこにある。  
嫉妬か?らしくない。  
そんな自分を否定しつつ、そこに存在する自分勝手な感情差し引いてでも知りたい。  
井上自身のことを。  
知らなければいけない、そんな気が笹本にはしていた。  
「・・・・あたしには話したくない?・・・あたしたちの未来は重なっていないの・・・?  
 あたしの都合なんてお構い無しに、あんたはあんなに勝手に将来のビジョンは語るのに。  
 ・・・・係長だけ分かっていればいいこと?  
 それは男同士の信頼?友情?あたしには関係ないことなの?」  
「係長って・・・笹本さん、ちが・・・・」  
「男ってみんな――」暴走しそうになり、あわてて口をつぐむ。  
 
自分でも分からない。何故こんなにもムキになるのか。  
感情のコントロールには自信があるのに、何故今この時だけはそれが適わないのか。  
 
座り込んで俯いていた井上がユラリと立ち上がり、困惑した顔で答えた。  
「笹本さん・・・最初から話しますから・・・」  
笹本の元へ近寄ろうと足を踏み出した瞬間、強い眩暈が井上を襲った。  
様子の変化に気付き驚いた笹本は、瞬時に井上を支えに走り寄る。  
そしてそのままベッドへと移動させる。  
倒れこむように身を横たえた井上の顔には苦悶の表情が浮かんでいる。  
「大丈夫?井上・・・。」  
「すいません・・・・すぐに良くなりますから・・・・・――笹本さん・・・。  
「ん?」  
「膝・・・借りてもいいですか?」  
ベッドのふちに深く腰掛けそっと井上の頭を持ち上げると、  
笹本は自分の膝に優しくおろした。  
「・・・・久しぶりですね・・・・こんな時間・・・・  
 笹本さん・・・・・いい匂いがする・・。」  
「ばか。何言ってんだよ。」  
突飛にそんなことを言われどぎまぎする。  
少しはいいのかと井上の様子を見ようとするが、前に持ってきた腕を  
顔を隠すかのように交差させていて、その表情を窺うことは出来ない。  
笹本はただ井上の髪をそっと撫でるしかなかった。  
 
それからどれ位の時が経ったか。静寂だけが部屋を包み、  
淀んだ時間が二人の足元を過ぎていった。  
夜も更け、幾分気温も下がっただろうか。  
笹本は少し肌寒さを覚えて窓の外を見た。  
風が強く吹きぬけ、街路樹の葉を激しく躍らせている。  
 
思い空気感を破ったのは井上だった。  
のせていた顔から腕をおろす。顔色は幾分いいようだ。  
 
「事件にあったのは・・・・俺が6歳の時でした・・・。」  
唐突に口火を切られ、笹本は少々面食らう。  
そんな笹本をよそに井上は訥々と語ってゆく。  
 
「両親を亡くした自分を引き取ってくれたのは、当時警視庁に勤務していた叔父でした。  
「警察官だったんだ。」  
「組織犯罪を担当していたようです。  
 事件後、俺は発語しなくなり感情表現もできなくなったりして・・・・  
 病院ではPTSDと診断されました。その後二年間通院しましたが・・・・  
 養父母は大変だったと思います。本当に・・・・。  
 だけど養父母はそんな俺に心血愛情を注いで育ててくれました。  
 二人にはとても感謝しているんですよ。」  
――それはそうだろう。――と笹本は思った。  
幼いながらこれだけのショックを経験した子供なら、  
多少なりとも暗くひねたところがあってもおかしくないのに、  
井上にはそれがない。あけっぴろげに明るいのだ。  
現在の井上が在るのは、養父母の愛情の賜物であろう。  
でなければ殺したいほど憎いであろう二人の命を護ろうとするなど出来っこない。  
・・・あの時の光景を思い出すと笹本は今でも胸が痛くなる。  
憎しみを凌駕し、命を賭けて麻田を護り、山西に救命措置を施すなど、到底自分には無理だ。  
 
「じゃあ、警官になったのも叔父さんの影響?」  
「そうですね。いろいろ聞かされたし、武勇伝とかね。憧れたから。」  
笑顔が出てきた。表情はいつもの井上だ。  
笹本はどこかホッとしながら井上の話を聞いていた。  
「これでも教職に就くことを考えたこともあるんですよ。」  
「えー、嘘だろ。」  
「本当ですって。俺子供好きだし。実父は高校の教師でしたから。  
 ――・・・でも自分の感覚が普通ではないと気付いてから、  
 教師は向かないと悟りましたね。軌道修正は早かったですよ。」  
ふと井上の視線が宙を見据える。  
「この仕事に目標を絞ってからは・・・・なんでもした。  
 この仕事に必要なもの、活かせると判断したものは・・・何でも・・・全て  
 身に着けようと躍起になった。アメリカに留学したのもトラッキングを学ぶためだ。  
 全てはこのため・・・・そう、SPは俺の全てだ。  
 誰にも俺からこの仕事は奪えない―――誰にも。」  
――それは自分もそうだ。笹本は思った。  
自分だってSPに対する信念は誰にも負けないという自負がある。  
がしかし、自分のと井上のとでは何かが、決定的な何かが違うように感じた。  
その何かを表現する言葉を捜そうと、笹本は頭の中を検索するが思うように見つからない。  
 
く、という呻き声に笹本はわれに返った。  
「井上、どうしたの。頭痛がひどい?」  
固く目を閉じて目頭を押さえた井上は大丈夫、というように片手を挙げ  
笹本を制する素振りをし、大きな深呼吸をひとつするとしっかりとした目で笹本を見据えた。  
「笹本さん・・・。もう、大丈夫だから。心配しないで。」  
笹本は井上の頬を両手で挟むと、視線を正面から受け止める。  
「ごめん・・・ごめん、井上。・・・・・あんたこんななのに、  
 あたし・・・ 取り乱して無理言って追い詰めて・・・・  
 あんたに辛い事まで話させた・・・・・。  
 もう、いいよ・・・井上・・・・ごめん。」  
井上は自分の頬にある笹本の手に自らの手を重ねると、  
愛おしそうにそっと唇を押し付けた。  
「謝らないでください。これでよかったんだ・・・。  
 まだ、もっと、聞いて欲しい・・・・・・。」  
「もう休んだ方がいい。これ以上ひどくなったら・・・」  
「頭痛・・・――」  
「え?」  
「俺の頭痛・・・幼少の頃のあの事件がきっかけなんです。  
 あれを経験したことで脳内物質と神経回路のバランスが崩れた・・・。  
 ・・・・鋭敏になればなるほど研ぎ澄まされた神経が疲弊してくる・・・。」  
「それって・・・」  
「そう、俺の五感は頭痛という代償があってのものなんだ。」  
「ずっとこのまま・・・」  
「それでも俺にとっては大事な仕事道具ですから・・・・付き合っていかなきゃ。」  
井上は軽く微笑んで返す。  
「井上・・・・あたしに出来ること、ある?」  
「笹本さんは・・―――」  
井上は和らぐ気持ちを伝えるかのように笹本の上に置いた手の力を込める。  
「笹本さんは、こうやって俺と一緒に過ごす時間を作ってくれるだけでいい・・・。  
 たまで・・・いいから・・・。」  
井上はそのまま両手を笹本の腰に回す。  
そして顔を横にずらすと笹本の腹部に鼻をこすり付ける様にしながら、  
一つ深い溜息をついた。  
 
「笹本さん・・・・俺、怖いんです。・・・とっても・・・怖いんだ・・。」  
笹本は我が耳を疑った。  
今までどんな危険も平然とサラッとやってのけてきた井上から、こんな弱気な言葉を聞こうとは。  
 
「あの時の事を思い出そうとすると闇に引きずり込まれそうになるんだ・・・・。  
 そしてその闇は、大きな靄となって度々俺を包んでくる・・・。」  
ふと膝の上の井上を見て笹本はその大きな瞳を見開いた。  
背を丸め、まるで子供が母親に救いを求める様に、すがり付いている。  
顔色が青いことも手伝って、閉じていて分からないその瞳さえ弱々しく思える。  
笹本は生まれて初めて自分の中の母性を感じた。  
何かに怯えている井上を愛しく思う。井上を守りたいと強く感じる。  
 
ふと井上がゆっくりと起き上がった。  
笹本の顔に自らの顔を近付けると、先ほどとは違った強い眼差しで笹本の瞳を  
射る様に見つめる。  
端正な顔立ちにしばらく見とれるが、その瞳に普段の人なつこい様子はない。  
笹本は一瞬、体を強張らせた。  
「笹本さん。もし、もし俺が向こう側に堕ちることがあったら・・・  
 ―――そのときは容赦なく、俺を撃ち抜いてください。」  
――――向こう側に堕ちる――――  
笹本は頭の中でその言葉を反芻するが意味がよく飲み込めない。  
だが、そんな疑問より笹本の胸の内には押さえられないほどの切なさが込み上げ、  
気付くととっさに井上の頭をきつく抱きしめていた。  
そうすることで少しでも井上に安心感を与え、気持ちを静めてやれる気がしたからだ。  
ふと手を緩めた笹本が井上の頬を指で触れる。  
それを合図に、どちらからともなく唇を求め重ね合わせる。  
井上の唇はいつものように熱を持たず、驚くほど冷たい。  
井上の手が笹本の胸元のボタンに掛かった。  
「待って。井上・・・お前・・・今日は・・・・だめだ。」  
それには構わず井上は迷子の子供のように不安げな声ですがりつく。  
「寒い・・・・・寒いんだ。」  
井上は笹本の細い体に腕を回してきつく抱きしめると、白い首筋に軽く唇を押しつける。  
笹本は冷たい感触が胸へと這ってゆくのを感じた。  
 
笹本は井上の言わんとする意図を探ろうとするが、込み上げる甘い感覚に邪魔をされ、  
思うように頭が回らない。  
ふと、石田の言葉が頭をよぎる。  
 
 ―――狂気・・・・。―――  
 
しかし、それはすぐに白濁した靄に掻き消され、  
笹本は井上の抱える闇の深淵を感じながら、長い夜に身を投じていった。  
 
閑散としている四係のオフィスには尾形だけが残っている。  
やっと先程最後に仕事を終えた山本が帰宅したばかりだ。  
尾形は今日の警護に思いを巡らした。  
井上の穴が出たことで心配もあったが、とにかく何事もなく無事警護を  
終わらせることが出来た。  
やれやれ、と溜息を一つつくと頭はもう次の警護計画を練っている。  
 
明日、井上は来るのだろうか・・・。  
 
ふと引き出しから一組の書類を出して目を落とす。  
書類には『経歴調査書』とあり、一枚の写真が添付されている。  
しばらく眺めた後、ゆっくりと顔を上げると視線を一点に定めた。  
先には内閣府の閣僚図が貼ってある。  
尾形は眉間に皺を寄せると一人呟いた。  
 
「井上・・・・・お前は違うのか?」  
 

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