フェリアス南東部に広がる平原地帯と、その東方にある海岸線とを隔てている小高い丘陵地のことを、ドウム戦略司令部では管理の便宜上『101高地』と称していた。  
 この高地の支配権を巡り、フェリアス脱出を図るアゼレア一行と、それを阻もうとするドウム本国部隊の間で激戦が交わされようとしていた。  
 丘の上には赤を基調とした軍装を身に纏ったドウム軍正規部隊が、軍旗を林立させてズラリと居並んでいる。  
「アゼレアさん1人を手に入れるために・・・ざっと1万はいるんじゃないのか」  
 シフォンの声はどこか弱々しい響きを伴っているように聞こえる。  
「相手が膨張色の赤色を主体とした軍装をしているから、実際より多く感じるのよ。まあ、せいぜい5,6千ってとこかしら。ドウムって意外に古典的な戦術を使うのね」  
 軍師役のランジェが正確な判断を下すが、だからといって状況が好転するというものでも無かった。  
「くそっ。あの丘さえ越えれば、海路で脱出できるってのに」  
 自分たちの後方からドウムの増援部隊が迫りつつあると知っては、いつもは冷静なクリスも苛立ちの色を隠せない。  
「救援の船は、本当に来てくれるんだろうな」  
 焦りの余り、つい口走ってしまったクリスにシフォンが噛み付く。  
「ルーチェとエルティナを信頼するしかないだろっ」  
「なにっ、他人の女を呼び捨てにするな」  
「ああ、そうかい。それじゃルーチェ様って呼べば満足なんだな」  
 子供の口喧嘩同様の、レベルの低い舌戦にランジェが割って入る。  
「はいはい。2人ともイイ子だから、喧嘩はその辺で止めて頂戴。気が散って戦術をまとめられないじゃないの」  
 ランジェにお姉さんのようにたしなめられて、2人はバツが悪そうに俯く。  
「ホントは仲が良いくせに、いつもこうなんですよ。駄々っ子みたい」  
 心配そうに2人を見ているアゼレアに、ランジェが実情を解説してあげた。  
「で、何かいい考えは浮かびましたか」  
 アゼレアは丘の上の敵陣を忌々しげに見ながら問い掛ける。  
「このままだと、あと半日余りでドウムの増援部隊が到着し、我々は前後の敵から挟み撃ちを受ける事になります。敵が積極的に動かないのも、それを待っての事だと思われます」  
 
 ランジェが現状を明瞭に分析してみせる。  
「つまり、少数で前進基地を全滅させた私たちの戦闘力を過大評価した結果、正面からの攻撃だけでは怖くて動けないという訳ですか」  
 アゼレアは幾分明るくなった顔でランジェを見上げる。  
「というより万全を期す、ということでしょうか。目的物を、この場合あなたの事ですが、絶対に取り逃がさない確実な布陣を敷こうとしているのでしょう」  
 アゼレアの解釈に、ランジェが訂正を加える。  
「ですから、ここは早期にこちらから打って出るのが得策かと思います。何人かを本陣に突入させて敵を平原まで誘き出し、魔法攻撃で減殺していくしか手はないでしょう」  
 ランジェは目の前の平原をコの字に取り囲むようにせり出した、3つの高地を指差して続ける。  
「ここの地形では魔法力が外に逃げず、効率よく活用出来ますので有利に戦えるはずです。巧くいけば、直ぐに海岸線への突破口が開けるでしょう」  
 現状では他に取るべき手段も無く、ランジェの提案に従うしかなさそうであった。  
「では脱出しやすいよう、出来るだけ大きな穴を敵陣に穿ってあげましょう」  
 一旦作戦が決まると、それから後はアゼレアの仕事であった。  
「こんな正攻法しか思いつかなくてご免なさい。けど、私たちの力を合わせれば決して勝てない相手ではないでしょう」  
 ランジェの気休めに手を上げて応じたアゼレアは、後方の見張りについていた大蛇丸とイヌオウの所へと赴いた。  
 
                                 ※  
 
「よう、いよいよ攻撃開始か?よっしゃあ、先陣は俺に任せとけ」  
 アゼレアに対して卑猥な行為に及ぼうとした罪により、女性陣から総スカンを食らっていた大蛇丸は、ようやく名誉挽回の機会が巡ってきたと張り切る。  
「とにかく相手の陣地に斬り込んで、敵を平原側に引き連れてきて下さい」  
 咄嗟についてしまった嘘により、総スカンの原因を作ってしまったアゼレアは心の中で彼に詫びる。  
「後で2人っきりになったら、きちんと謝りますから」  
 皆の前で謝ることは容易いのであるが、それでは折角の大蛇丸の好意を無駄にしてしまうことになる。  
 
 アゼレアは今1人、頼りとするイヌオウにも声を掛けようとゆっくりと近づく。  
「イヌオウッ・・・?」  
 そのイヌオウの肌が土気色になり、顔中に脂汗が滲んでいることに気付いてアゼレアは絶句する。  
「すまねぇな。フェリアスの水が合ってなかったのか、昨日から腹痛が止まらんのだ」  
 3度の飯より喧嘩が好きと豪語するこの男が、いくさを前に我慢出来ないというのだから、余程ひどい腹痛なのであろう。  
「このままじゃお前らの足手まといになっちまう。折角頼ってくれたのに申し訳ないが、今のうちに引かせて貰うぜ」  
 苦しげな息の下でそういうと、イヌオウは剣を杖代わりにヨロヨロと森の中へ消えていった。  
 ここでイヌオウを失うのはアゼレアにとって計算外であり、彼が抜けた事による戦力ダウンは痛かった。  
「殿、私が一緒に参りましょう」  
 凛とした声で答えた不如帰が、頭上の木から飛び降りてくる。  
 ニンジャと呼ばれる特殊職業を生業とする美女は、涼やかな目でアゼレアに黙礼した。  
 ミニの着物からスラリと伸びた素足は眩しく、胸の盛り上がりは胴を帯に締め付けられることにより一層豊満さを強調している。  
 不如帰とアゼレアの視線が空中で絡み合い、見えない火花を激しく散らした。  
「どういう関係なの?」  
 と、口に出して大蛇丸に聞けないアゼレア。  
「後で2人っきりになったら、きちんと白状させてあげるからっ」  
 大蛇丸はもの凄い形相で睨み付けてくるアゼレアから逃げるように前線に向かった。  
 
                                 ※  
 
「今は朝凪の状態ですが、間もなく陸地側の気温が上昇し、熱せられにくい海側へ向かって風が吹き始めます。追い風に乗じれば、毒ガスの脅威も幾分緩和されるでしょう」  
 待つことしばし、ランジェの進言通り緩やかな陸風が吹き始めたのを待って、戦いの火蓋は切って落とされた。  
「それじゃ、ちょっと行ってくらぁ」  
 大蛇丸はピクニックにでも出掛けるような口調で先陣を切って走り出す。  
 
 主君に遅れまいと後に続く不如帰。  
「ボクも行こう。ムロマチの君主と三勇者の首なら、囮としては充分価値があるだろう」  
 クリスも2人に負けじと駆け出す。  
 3人の突撃に気付いたドウムから毒殺弾道砲が次々に発射され、辺りはたちまち猛煙に包まれる。  
 ようやく強く吹き始めた西風が神経ガスをドウム側へと押しやり、風下の不利を悟ったドウム軍は砲撃を中止する。  
 毒ガス攻撃に代わって3人を迎え撃ったのは、夥しい数の銃器類であった。  
 直ちにランジェが防壁魔法を張り巡らせ、仲間を凶弾の雨から守る。  
「好きなだけ撃たれてちょうだい。私の気力が続く限り、幾らでも回復させてあげるから」  
 ランジェの声援をバックに、3人が風のようなスピードでドウムの前衛部隊に辿り着く。  
「死にたい奴はかかってきな!いくぜ!壱之太刀、辻風!」  
 敵陣に突入した大蛇丸は、常人の目には捕らえられない速度で連続に突きを繰り出す。  
 快足を身上とするため、軽装備しか身に着けていなかった前衛突撃部隊は、竜巻の突入にも似た大蛇丸の攻撃に耐えきれずに、バタバタと吹き飛ばされてしまう。  
 不如帰も得意の月組忍法を駆使して、大蛇丸が討ち漏らした兵士を虱潰しにしていく。  
「逃げ切れまい!音速を超えた刃の疾風!消せ!ヤクトダガー! 」  
 クリスはダガーを投げまくり、的確にドウム軍に出血を強いる。  
 3人の派手な大暴れにドウム前衛突撃部隊はあっという間に壊滅してしまった。  
 それを見た主力部隊がただ手をこまねいて見ている訳もなく、3人を包囲すべく殺到してくる。  
「よぉ〜し、上出来だ。引くぞっ」  
 来た時同様、風のような早さで丘を駆け下りる3人。  
 それを追ってドウムの主力部隊が雪崩を打って降りてくる。  
「シフォン、退路を断って」  
 アゼレアの指示でシフォンが愛剣を振りかぶり、極限まで気を高める。  
「かつて魔王を倒したこの力・・・じっくり味わってくれよ!喰らえ!必殺!流星剣!!」  
 気合いと共に放たれたシフォンの気は、闇夜を切り裂く流星群のように敵集団の後方に降り注いだ。  
 後衛を掻き乱されて狼狽える兵士たちに追い打ちが掛かる。  
 
「世界の奥深くで眠る者、その姿を封じられし者よ・・・契約に従いて目覚めよ!ロース・ファイヤー!」  
 この旅で2度目の発動となるラトの必殺技が、逃げ道を失った敵兵を一気に薙ぎ払う。  
「この隙に一気に駆け抜けるのよっ」  
 アゼレアの掛け声により、全力で走り始めた一行。  
 その行く手を遮るように、ドウムの自走砲から撃たれた砲弾の雨が平原の真ん中で炸裂した。  
 炸裂した砲弾から飛び出た油の飛沫が発火し、あっという間に巨大な炎の壁が出現する。  
「シーフタワーで見た油と同じだ」  
 クリスはタワーの中で味わった火炎地獄を思い出すが、巨大な火炎の渦は風ぐらいでは消えそうになかった。  
「これは計算外だったわねぇ。ドウムの科学とやらもやるじゃない」  
 元の自陣に引き返したランジェが、魔法炎とは違い、いつまで経っても消えそうにない炎を見ながら感心したように言う。  
「これじゃ釘付けだ。向こうからもこちらが見えないだろう、火と煙に紛れて回り込むってのはどうだ?」  
 スタリナを背負った大蛇丸が提案する。  
「ダメッ。それこそドウムの思う壺だわ」  
 ランジェは伏兵の存在を示唆して即座に却下する。  
「時間がないよ。こうしている間にも、ドウムの増援部隊が到着しちゃうじゃん」  
 ラトはまだ見えぬ敵兵を気にするように、何度も後方を振り返る。  
「これまでか・・・」  
 誰かが諦めを口にした時であった。  
 燃えさかる大地の下から、何本もの水柱が間欠泉のように空高く吹き上がった。  
 いたる所から噴出した水流は、酸素の供給を遮断すると同時に高温になった油を冷却し、炎を消し止めてしまった。  
 地下水脈に魂を吹き込み一気に放出するこの技は・・・。  
「天魔命水・・・シオンがっ」  
 目聡く南の丘──ドウム式に言えば『102高地』──にシオンの姿を見つけたスタリナが歓喜の声を上げる。  
 
「待たせたな。出航準備を整えて待っている」  
 アーマリンに寄り添って手を振っているシオンが叫ぶ。  
「ルーチェたち、よりによって海賊船なんかチャーターしたのかよ」  
 ラトの顔は言葉とは裏腹に嬉しそうである。  
「悪党でも腕は確かです。さあ、走りましょう」  
 アゼレアを先頭に最後の突撃を開始した一行を、身の毛もよだつドウムの最終兵器が迎撃した。  
 小箱だけを背負った兵士が、アゼレアたちに近づいたと見るや、いきなり体ごと大爆発を起こして四散した。  
「キャァァァーッ」  
 爆片と肉片を身に浴びたアゼレアが、悲鳴を上げて転倒する。  
 背負った爆弾で、我が身もろとも敵を爆殺するドウムの切り札『特別部隊』は、ドウムの真理のためには、個人の命に小石程の価値も認めないという中央審議会の異常性を如実に現していた。  
「アゼレアッ」  
 大蛇丸が駆け寄りアゼレアを抱き起こす。  
「かすり傷です。こいつらは・・・」  
「いかれてやがる」  
 これでは誘爆のおそれがある魔法攻撃は出来ず、かといって刀剣だけに頼っていては、まだ1000人以上もいる敵を相手に到底体力が持たない。  
 丘を降りたドウム軍主力は、特別部隊を前線に立て、整然と隊伍を組んで行進してくる。  
「今度こそお終いか・・・」  
 
                                 ※  
 
「何だ、あいつらは」  
「おいっ、アレはどこの部隊だ」  
 最初に異変に気付いたのはドウム主力部隊の最右翼にいた兵士であった。  
「規律を乱すなっ」  
 兵士たちのざわめきは直ぐに士官の知るところとなった。  
 しかしその士官も、兵士たちの指す北側の丘、103高地の上に展開する騎馬部隊を見て慄然とする。  
 
「我が軍の増援部隊じゃないぞ」  
 ドウム軍で騎馬隊が廃止されたのは、もうかなり前のことである。  
 戦場で敵か味方か分からない時には、敵と見なして備えをするのが戦場の常である。  
 ドウム軍は少数をアゼレアたちの押さえに残し、残りの全軍を見事な隊形変換で90度右へ向けた。  
 謎の騎馬隊はそれを待っていたかのように移動を開始し、1騎の騎馬兵を先頭に丘を駆け下り始めた。  
 
                                 ※  
 
「何だっ、奴らは一体・・・敵か味方か?」  
 突如現れた騎馬隊に呆気にとられるアゼレア一行。  
「あたし知ってる・・・」  
 ポツリと漏らしたスタリナに皆が注目する。  
「ほら、先頭の人・・・オカマのマスター・・・」  
 スタリナに言われて注視してみると、それは確かにヘルハンプールのホテル『フラワー』のマスター、ギャリンであった。  
「どうしてギャリンのオッサンが・・・」  
 ラトも呆気にとられるが、彼が装着している特徴的な甲冑を見て、一つの答えを導き出した。  
「フラウスター兵団・・・?」  
 一方の迎え撃つドウム部隊も喚声を上げながら走り出し、両軍は平原の真ん中で激突した。  
 機動力に優るフラウスター騎馬隊と、数に優るドウム主力部隊は、ほぼ互角の戦いを見せたが、フラウスター兵団の予備部隊が次々に戦場に投入されるや、戦いは一方的な殺戮へと推移していった。  
「あっちの騎馬隊はゴルデンにいたグリドフじゃん」  
 ラトは覚えのある顔を見つけて叫ぶ。  
 壊走に入ったドウム軍の前に、居丈高な装いの鎧を着た一団が立ち塞がった。  
「見て。あの部隊を率いているのは女の人よ」  
 ランジェは厳めしい鎧に身を固めた指揮官が、凛々しい女性と知って驚く。  
 ドウムの銃はフラウスターの重装歩兵部隊の装甲を貫くことは出来ず、逆に長槍の横隊突撃の前に朽ち果てた。  
 
 圧倒的な強さを誇るフラウスター兵団の力を前に、アゼレアたちはただ立ちすくんでいた。  
「これが、強国の力というものか・・・」  
 クリスが唸るように呟いた。  
 
                                 ※  
 
「ごめんなさい、アゼレアちゃん」  
 馬から降りたギャリンが、濡れタオルで埃まみれの顔を拭きながら近づいてきた。  
「ベールに包まれたドウム軍の実力を調べるのが、私のお仕事だったの。でも奴ら鎖国してるから苦労してたのよ。そこへ奴らがあなたを拉致するため、フェリアスで罠を張ってるって情報を掴んだの」  
 ギャリンは部下の差し出した美顔クリームを受け取りながら続ける。  
「お店はフェリアスへ送り込んだ偵察隊からの情報を集める司令部だったんだけど。偶然そこにあなたが現れたものだから、ドウムの本国部隊を引きずり出すのに利用させて貰ったって訳」  
 アゼレアはギャリンがドウムに関する情報を気前よく話したり、不安を煽りつつも彼女をけしかけるような発言をした事を思い出す。  
「その後、あなたを尾行していたお陰で作戦はバッチリ大成功っ。ホントにご免なさいね」  
 嬉々として跳ね回るギャリン。  
「それじゃドウムのオーガプロジェクトの事なんか知ったら大変でしょうね」  
 アゼレアはニコニコ顔をギャリンに向ける。  
「何なの、それって?」  
 釣られて近寄ってきたギャリンの右頬をアゼレアの平手が思いっきりひっぱたいた。  
「キャァァァッ。何すんのよぉっ」  
 悲鳴を上げたギャリンの左頬をスナップの利いた手の甲が襲う。  
「ごっ、ご免なさい。顔だけは許してぇっ」  
 フラウスターの一翼を担うギャリンが真性のオカマと知った一行が呆気に取られる中、クリスとランジェだけは撤収を開始した騎馬隊の後ろ姿を、憧憬の籠もった目で見送っていた。  
 
                                 ※  
 
「さぁ、みんなドウムの増援部隊がそこまで来ています。急いで」  
 
 スイート・ポイズン号に乗船したアゼレアとスタリナは、船着き場に整列した仲間たちに乗船を急がせた。  
 しかし・・・。  
「ここでお別れだ」  
 みんなを代表して大蛇丸が答えた。  
「どうして?ぜひプリエスタへいらして下さい。賓客としてお迎えします」  
 アゼレアの呼びかけにもみんなは、ただ微笑んで黙っている。  
「私の兄や仲間にも紹介したいのです。そうだわ、全エルフからの感謝のしるしとして、勲章をお贈りしましょう」  
 言葉を続けるアゼレアを大蛇丸が遮った。  
「女王アゼレア様なんて誰も見たくないのさ。このまま友人としてサヨナラしよう」  
 大蛇丸は寂しそうに微笑む。  
「でも・・・」  
 突然やってきたお別れにアゼレアは戸惑いの色を隠せない。  
「今度の旅のことは一生忘れません。どうかお元気で」  
 ルーチェの目には涙が浮かんでいる。  
「困った時にはいつでも声を掛けてよ。どこにいたって飛んでいくからさ」  
 ラトのおどけた口調も、いつになく湿り気を帯びていた。  
 波の音だけが周囲を包み込む中、静寂を破るようにスイート・ポイズン号の錨が巻き上げられ始めた。  
「さようなら」  
「またなっ」  
 アゼレアの視界の中で、仲間達が一斉に手を振り出す姿が涙ににじむ。  
 船尾に立ったアゼレアは怒ったような顔で涙をこらえ、一言でも発すれば一気に激してしまいそうな感情と必死で戦っていた。  
 それでも何とか感情をコントロールしたアゼレアは、スカートの両脇を指でつまみ、裾を軽く引き上げると、深々と一礼してみせた。  
 風と潮を上手く捕まえたスイート・ポイズン号は速度を上げ、船着き場は見る見る小さくなっていく。  
「ホントに、これで良かったのですか」  
 
 不如帰が大蛇丸の顔を横目で見ながら尋ねる。  
「ああ、これでいい・・・いつものことさ」  
 大蛇丸は自分に言い聞かせるかのように呟くと、水平線の彼方に消えていく船に向け、今一度大きく手を振った。  
 
                                 ※  
 
「うぅっ・・・まだ、きちんとお礼も言っていないのに。まだ、きちんとお別れもしていないのにぃ・・・」  
 陸地が見えなくなると同時に、アゼレアは甲板に泣き崩れた。  
 スタリナやトリトフたち海賊も、それを遠巻きに見守るしかない。  
 ただお頭のシオン1人がアゼレアに近づき、ハンカチをそっと差し出した。  
「お友達なら、ありがと、じゃあね、で済むことなのに・・・私が・・・私が素直じゃないから・・・」  
 アゼレアの感情が落ち着くまで、しばしの間シオンは一言も喋らないで立っていた。  
「俺には出来のいい妹がいてな、今は貴女と同じく一国の女王に納まっている」  
 アゼレアは以前トリトフから教えて貰ったクリアスタ王家の内紛話を思い出し、泣き疲れた顔を上げた。  
「ところが祖国の危機を見捨てた挙げ句、海賊なんかに成り下がった馬鹿兄貴を決して許そうとはせず、いまだに口もきいてくれぬ。身から出た錆とは言え、こいつは結構こたえる」  
 シオンはそう言って自嘲めいた笑いを唇の端に見せる。  
「だが生きていさえすれば、きっと分かり合える日が来る。そう信じて、その日が来るのをじっと待つことにしたよ」  
 シオンは手下共にも滅多に見せたことのない微笑みを浮かべた。  
「また・・・会えますよね・・・あの方に・・・」  
 一言一言を噛みしめるように発せられたアゼレアの質問に、シオンは黙ったまま大きく頷いた。  
 
                                 ※  
 
 数日後、シュラク海を抜け、エレジタット岬を通過したスイート・ポイズン号は、その夜明け前にはプリエスタ沖へと入っていった。  
 幻想的な輝きを放つ夜光虫の群が、船首が起こす波に呑まれて左右に分かれていく。  
 
 舳先に立ったアゼレアは、1人東の水平線を見つめていた。  
 目を閉じるとこの数ヶ月のことが思い出され、あれは夢の中の出来事ではなかったかと感じられる。  
 しかし瞼の裏に浮き上がってくる冒険の数々は紛れもない事実であり、ルーチェやラト、そして大蛇丸の笑顔と共に一生忘れない思い出として心に残るであろう。  
「すっかり遅くなってしまいました。リリーもさぞかしお冠でしょう」  
 出発する際に自分の身代わりとして影武者に立てたリリーだったが、流石にとっくの昔に露見していることであろう。  
 軍備の見直し、隣国との緊張緩和など、城に帰ればアゼレアにはやらなければならないことが山積している。  
「まずは今度の冒険で命を落とした、敵味方全員の魂のために祈りを捧げましょう」  
 アゼレアは再度、固く目を閉じた。  
 折から吹き始めた追い風に煽られて、全マストの帆が大きく膨らむ。  
 帆を満開にさせ速度を上げたスイート・ポイズン号は、白み始めた東の水平線をめざして進んでいった。  
 
                                 ※  
 
 この年の暮れ、ネウガードにおいて魔王の名乗りを上げたジャドウは五魔将を率いてバルハラへ侵攻を開始、これに呼応するかのようにロギオンのザーフラクはサンライオへ兵を進め、世界制覇へ乗り出した。  
 二大強国の起こした火種は、平和の祈りを捧げるアゼレアを嘲笑うかのように大陸全土へと飛び火し、戦いは泥沼の様相を呈していった。  
 そして魔導世紀1000年、戦渦は大陸東部の列島諸国をも巻き込み、遂にネバーランド大戦が勃発する事になる。  
(『聖女アゼレアの冒険』完)  
 

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