右腕の痛みよりも、左肩から伝わる重みのほうに、意識が支配される。眼を  
向けずとも視界に収まる彼女の横顔。夜の森から聞こえる虫や獣の声に、そっと  
彼女の静かな寝息が混ざる。  
 
 夜の森。その洞窟の中。そこに、フェイトとクレアはいた。ささいな行き違い  
から起こった事故では有るが、このような事態に恵まれたことは幸運であるの  
だろうかと、フェイトは自問する。  
 
「……フェイトさん」  
「あ、起きていたんですか?」  
 
 こんな状況で眠られるほど図太くはありませんよ、と少しだけ笑いながら  
クレアは言った。別に彼女のせいではないのだが、もしかしたら責任を感じている  
のかもしれない。彼女の性格を考えると、それは十分にあり得る事ではあった。  
 
「これ、飲みます?」  
「え?」  
「クリフ秘蔵の酒です。ばれたらあいつ怒り狂うかもしれませんけど、非常事態  
ですし」  
 
 くすりと悪戯小僧な微笑を浮かべて、フェイトは続ける。  
 
「それに僕もクレアさんも、お世辞にも暖かい格好をしているとは言えませんしね」  
 
 わずかなためらいを見せた後、クレアは彼と同じような笑みを浮かべ、頷いた。  
 
 発端は、本当に些細なことだった。アリアスの村で子どもが一人行方不明に  
なっただけである。いや、家族にしてみれば充分に大事件ではあるだろうが。  
 
 当たり前のことではあるが、アーリグリフとの和平が成ったとはいえ、この  
付近に居るモンスターまでもが平和的になった訳ではない。すぐにクレアは  
部下を率い、捜索に出た。それが、フェイト達が村に訪れる二時間前の事である。  
 
 無論のこと、彼らも即座に助力を申し出た。そして近辺の捜索に加わる、直前。  
件の子供があっさりと現れる。その子の両親が烈火のごとく叱り始めたが、当の  
本人は不可解気に首を傾げていた。どうやら子供自身には迷子になったという  
自覚がなかったらしい。  
 
 なんとも肩透かしな結末にフェイト達が苦笑していると、クレアの部下の一人が  
ひどく慌てた様子で駆け込んできた。曰く、クレア様が危ない、と。  
 
 パール山。その麓。エアードラゴンと一人戦うクレアがいた。いかにクリムゾン  
ブレイドの片割れとはいえ、常に最前線で練磨していたネルと指揮官の立場にいた  
彼女とを比べるのは酷というものだろう。明らかにクレアのほうが押されていた。  
助勢に走る皆。そして、  
 
 ドラゴンの尾が一閃し、彼女を弾き飛ばす。その先は崖。空中にあるクレアの  
手を掴みながら、フェイトは何ともお約束だなと自嘲していた。  
 
「……すみません」  
「何がです?」  
「今回のこともそう。私はあなた達に……あなたに、迷惑ばかりかけている。  
本当に、ごめんなさい」  
 
 彼女らしいようで、彼女らしくない弱音。そう判断するには、自分はあまりにも  
クレアの事を知らない。まあ、アルコールのせいで舌が滑らかになっているだけ  
かもしれないが。  
 
「ネル達を助けたのも、施術兵器を完成させたのも、アーリグリフとの和平を  
成立したのも、そして星の船を撃退したのも、全てあなた達。私には、謝る事と  
礼を言う事しかできません」  
 
 はじめて覗く、彼女の暗い感情。それに驚き、フェイトは眼を瞬かせ、改めて  
クレアの横顔を見つめる。どこか呆とした顔を、彼女は両膝に埋めていた。  
 
「……情けない指揮官ですね。私は」  
「随分と自虐的なんですね、今日は」  
「ぜんぶ事実ですから」  
 
「僕は、シーハーツの事も、あなたの事もそれほど詳しい訳ではありませんが」  
 
 そう前置きをし、慎重に言葉をまとめながらフェイトは口を開く。  
 
「アリアスでのクレアさんの事は知っています。村の人たちから、あなたがどれほど  
慕われているのかも」  
「そんな事は……」  
「事実ですよ。誰かは内緒ですが、あなたの戦う姿を見て、戦時中も村に留まり  
続けた兵士だっています」  
「…………」  
「アリアスだけじゃない。ペターニでも聖都でも、あなたの名前を聞かない所は  
なかった。みんな、あなたの事が好きなんですよ」  
「でも、私は……」  
「付け加えるのなら、僕も」  
 
 全く予想していなかった言葉だったのだろう。目を大きく見開き、クレアは  
反射的にフェイトの顔を見やる。その少女のような表情に、つかの間フェイトは  
彼女が自分より年上である事を忘れた。  
 
「こ、こんな時にふざけないで下さい!」  
「あ、ひどいな。本当の事ですよ。あなたの話すところが好きです。部下へ声を  
かける凛としたところが好きです。歩く時の姿勢が好きです。穏やかな雰囲気が  
好きです。今こうして隣に居てくれるところが好きです。……信用できませんか?」  
「そんな、こと、急に言われても、私」  
「あはは。それほど気にしないで下さい。もう会えなくなる前に、伝えておきた  
かっただけですから」  
「え?」  
 
 あっさりとしたフェイトの台詞に、思わず間の抜けた返答をしてしまう。いま、  
彼はなんと言ったのだ?  
 
「他に、片付けなければならない問題ができてしまったんです。もう一度あなたに  
会えて、伝えられるかどうか分からなかったので、ちょっと勇気を出してみました」  
 
 少し照れくさそうに笑う彼。奇妙に大人びた印象を与える彼の顔が、なぜかとても  
遠くに見えた。そのせいなのか、それは分からない。だが、クレアの意図せぬまま  
唇が自然と動き、言った。  
 
「……ネルは、あなたと一緒に?」  
「? ええ。妙に義理堅いところがありますよね、彼女」  
 
 何かが、クレアの中で壊れる。恩人である彼。親友である彼女。責任ある自分の  
立場。それら全てが薄まり、融け、混然となり、クレアを支配していく。新雪の  
ような淡い抵抗はすぐに飲みこまれ、クレアはむしろ望んでその衝動に縋りついた。  
 
「…………!」  
 
 フェイトの全身が固まる。左肩の重みが消えた瞬間、視界に広がる彼女の姿。  
次いで柔らかな感触がフェイトの唇を襲う。するりと、魔法のように潜り込む  
クレアの舌。それは別の生き物のようにフェイトの咥内を侵略する。  
 
「クレ、ア、さん? 何を……?」  
「あなたは……ひどい人です」  
 
 わずかに離れる彼女の顔。濡れた瞳。湿った唇。上気した頬。かすかに鼻を突く  
アルコールの匂い。なぜかそんなクレアを見て、フェイトは彼女が泣いている様に  
見えた。  
 
「仲間以外は誰にも頼りたくなかったのに。何度も私達を助けて、私にあんな事を  
言って、さんざん私を掻き乱しておいて! 突然居なくなる!? それも……!」  
 
 感情の高ぶるまま、フェイトに身体を乗せる。痛めた腕で二人分の体重を支える  
ことができず、フェイトは背を地面につけた。その真上で、クレアは、 
 
「それも、ネルと一緒に!? 私は、私は……!」  
「どう、したんです? クレアさんらしく」  
「どんなのが私らしいんですか!? いつも落ち着いて、耳聞こえのいい言葉  
ばかり口にしていなければならないんですか!? 私にも、私にだって……」  
 
 声のトーンが下がり、冷えた彼女の右手がフェイトの頬を撫でる。  
 
「私にだって、ただの女でいたい時があります……。それがあなたの前じゃ、  
だめですか……?」  
 
 薄闇に仄見える彼女の姿。それは、総毛立つほどに美しかった。 

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