雨が、窓を濡らす。小さな水滴が忙しなくガラスを叩く。静かで、それでいて  
途切れる事のない雨音が、フェイトをゆるやかな眠気へ誘う。それはワインに  
含まれた毒のように甘く、抗することさえ難しい。  
 
 このような文明レベルの星に、製造の困難な平面のガラスを量産する技術がある  
ことに今更驚きながら、フェイトは差し出されたカップに口をつけた。熱くはないが、  
暖かい。色や香りは紅茶に似ているが、それよりもやや酸味が強いシーハーツの  
薬湯。新鮮なその味は、フェイトの舌を楽しませた。  
 
「止みませんね」  
 
 雨音に重なるように、彼女、ミスティ・リーアはそっと声を漏らす。聖都にある  
工房。その二階に、彼女の部屋はあった。実用一点の簡素な部屋。毛の深く柔らかな  
絨毯が、特徴と言えば特徴か。  
 
「このぐらいの雨でしたら走ればすぐですし、やっぱり……」  
「フェイトさん。どうか私の事はリーアと呼び捨てになさって下さいな」  
「えーと、それは……できれば勘弁してください。年上の人をそう呼ぶのは  
どうも抵抗が」  
「クリフさん、ネルさん、クレアさん。どなたもフェイトさんより年上……」  
「これおいしいですねリーアさん」  
 
 最大の譲歩をしたつもりであったが、彼女はひどく淑やかで、同時に意志が  
強かった。  
 
「リーア、と」  
「……リ、リーア」  
 
 ただ名前を呼んだだけだというのに、首から上が紅潮していくのを止められない。  
あまりにも容易く揺さぶられる自身の心。それを毒づきながらも、まあ相手が  
悪いかと諦める。彼女の浮かべる微笑み。その日陰に咲く雪割草のような微笑に、  
抗える男などいるはずがない。  
 
 右手で顔を撫で(無駄だと分かってはいたが)、フェイトは改めてリーアへ告げる。  
 
「リーアさん。雨も小降りになってきましたし、そろそろ僕は……」  
「私のような女と一緒にいるのはお嫌ですか?」  
「……リーアさん、わざとやってません?」  
「さあ、どうでしょう?」  
 
 ああ、これはあれだとようやくフェイトは悟る。猫を前にした鼠。あるいは蛇を  
前にした蛙か。どちらが自分なのかは述べるまでもない。だがなおの事問題なのは、  
この状況に緊張を感じはしても、決して不快ではない自分自身だろう。恋人に甘噛み  
される心地よい痛み。これは正しくそれであった。と、  
 
「一つ、お尋ねしてもよろしいですか?」  
 
 空気の間隙に滑り込むように、彼女が言う。  
 
「人は自分の命以外のものにまで、責任を負うべきでしょうか?」  
「ず、ずいぶんと唐突ですね」  
「学者とはそのようなものです」  
 
 右拳の上に顎をのせ、黙考すること数十秒。  
 
「……負うべきでしょう」  
「なぜ」  
「人の命は重くないから」  
 
 どこか、虚ろで――冷たささえ垣間見せるフェイトの瞳。いったい何を見てきた  
のか。それは以前の、リーアの知る彼の瞳ではなかった。  
 
「バンデー……星の船が一度輝くだけで、死体の山ができる。剣を持ち、力量が  
上というだけで他人の命を支配できる。『創った』というだけで、『創られたもの』  
を壊してしまえる。被造物の都合など無視して」  
「……負うべきではないと、言っている様に聞こえます」  
「いえ、だからこそ、です。人の命は重くなく、生と死は紙一重。ならせめて、  
慰めが欲しいとは思いませんか?」  
「つまり、綺麗な価値観の建前が、概念として必要と?」  
「そう言われると身も蓋もありませんけど」  
 
 苦く笑い、それでも彼は頷いて見せた。頷いて、見せた。それで、リーアは  
満たされる。この上なく。内腑が震えるほどの冷たい喜びが、彼女の全身を覆った。  
 
「白状しますと」  
「はい」  
「あなたからあの石をもらう前、私は死のうと考えていました」  
「……はい?」  
「あなたからあの石をもらう事で、私は死ぬ事ができなくなりました」  
 
 不意に、視界が歪む。頭蓋の中を襲う鈍痛。いや、それは甘い痛みか。抑揚の  
少ない、リーアの声が穏やかに続く。  
 
「それはつまり、私の命があなたに左右されたということ」  
 
 低く、高く。聖歌の如き彼女の美声。それはフェイトをゆるやかな眠気へ誘う。  
それはワインに含まれた毒。それは日陰に咲く雪割草。抗える男など、いるはずがない。  
 
「……責任を取って、下さるのでしょう?」  
「何、を……飲ませ……」  
 
 力なく垂れたフェイトの腕がカップを倒し、薬湯を辺りにぶちまける。四肢は痺れ、  
視界は歪み、思考には霞がかかる。だが、なぜかリーアの言葉だけははっきりと届く。  
 
 艶然たる微笑と、どこか哀しみに蔭る双眸をゆるりと細め、ミスティ・リーアは  
静かに繰り返した。  
 
「責任を、取って下さいまし」  
 
 澄んだ、同時に安っぽい音を立てて、板張りの床に陶器の椀が落ち、砕ける。  
その不吉な音を聞き、クレアは戦いた。  
 
「まさか、フェイトさんに何か・・・・・・!」  
「あんた料理するたんびに何か壊してるでしょうが」  
「……ネル。最近のあなた優しくないと思う」 

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