連綿と続く人の歴史の中、いつの時代にも『争い』という行為が史乗から完全に  
消える事は無かった。  
人の繁栄という光の部分に落ちた影のように、常に同じ道を歩んできたのだ。  
互いが信じる正義という名の武器で、相手の肉(価値観)や骨(存在意義)を傷付けながら  
時代や場所を変え、その蛮行は続けられて行かれるものなのだ……。  
 
………そして、現在(いま)もその行為は繰り返されている。  
 
それは人が人で在る限り断ち切れない、性なのかも知れない………。  
 
−エリクール2号星  
銀河連邦がそう呼称する惑星も、その枠組みとは例外では無く、  
戦乱と平和な時を幾度となく繰り返し、今日までの歴史を積み重ねて来た。  
 
この惑星で最も大きな大陸である、ゲート大陸。  
その大陸に位置する、アーリグリフ王国とシーハーツ王国との戦端が開かれたのは  
麗かな陽射しが差し込む春の事だった。  
厳しい冬を耐え忍んで芽吹いた新緑を、軍靴が無残にも踏みにじる。  
その様はまさに、シーハーツの行く末を暗示しているかのようであった……。  
 
片や戦闘国家であるアーリグリフ、もう一方は宗教国家のシーハーツ。  
元々が毛色の違い過ぎる同士のうえ、アーリグリフはゲート大陸統一という野望  
まで掲げている存在の国である。両国が合い間見える事は当然の理ともいえた。  
 
アーリグリフ王暗殺の嫌疑を掛けられ、事の真偽も確かめられぬままの一方的な  
開戦にシーハーツの女王、シーハート27世は異を唱え抗議したが、  
一度開かれた戦いの火蓋が治められる訳も無く、戦力差の違い。そして、交渉により  
後手に回った事が祟り、防戦一方の戦いを強いられる事となってしまった。  
 
『打倒、狂信国家!』を唱え、国民一丸となり進軍を続けるアーリグリフに対し、  
シーハーツ陣営の上層は、水を打った様に静かだった。  
現に、シーハート27世などは民衆の前での演説等で、誇張された表現は一切  
使わなかった。  
アーリグリフ軍が進行して来てから今日に至るまで、『聖戦』という聖職者にとっては、  
甘美で魅力的である言葉を他者の前で決して口にし、流用しなかった事からも  
その徹底ぶりが伺えた。  
 
「王女は、太陽神アペリスを隠れ蓑にしたくは無いのですよ……」  
 
聖王都シランド。  
 
一国の軍事一切を取り仕切るにしては質素な部屋で、光牙師団『牙』の部隊長であり、  
シーハーツ軍総司令官でもあるクレア・ラーズバードは、落ち着いた色の  
深緑の椅子にもたれ掛かり、静かに語りはじめた。  
 
「…この争いの事を神が与えた試練と感じていても、戦いの理由や宣伝材料に  
したくは無いと思っているのですよ……」  
クレアの言葉に同僚で有り、親友でも有る。ネル・ゼルファーが頷く。  
 
王女からの絶対の信頼。そして、女王になり代わりあらゆる権限を行使出来る力を  
与えられた、クリムゾンブレイドの称号を持つ二人。  
その二人が執務室に詰め寄り論議を交わしていた。  
と、云っても事務処理をしていたクレアのところに、ネルが勝手に押し掛けたのだが……。  
従って二人の会談は公式のものでは無く、私的レベルのものであった。  
それはその前の議題が『城下での流行と、最近のファッション』という、  
雑談で有った事からも容易に伺えた。  
 
ここで会話の流れが一時途切れる……。  
 
部屋の中央に設えられたソファーに身体を預け、ネルは目の前のテーブルで、未だ湯気を  
湛えている紅茶の入った磁気のチィーカップに手を伸ばした。  
その姿を見手取り、クレアは軽く伸びをすると自分の机に向き直り、  
山積みにされていた書類に目を通し、ペンを走り始めさせる。  
 
静かな室内にカリカリとペンの走る音だけが響き渡る…。  
 
その音を聞きながらネルは静かに目を閉じ、心を預けた…。  
開戦から幾度となく危険な任務をこなしたネル。その彼女にとってこの時間がもっとも  
大切で至福な時となっていた。  
 
心が落ち着く……堅苦しい宮廷音楽ではこうも落ち着けないだろうと、クレアの  
演奏に耳を傾けた。  
 
『意識した質素は最高の贅沢』と、常々口にするクレア。  
実際、王都に居る時に一日の殆どを今居るこの部屋で過ごすのだが、  
その部屋でさえも無駄な装飾が一切無かった。  
目を引くものと云えば、書類や資料の詰まった本棚。そして、  
花瓶に活けられた鮮やかな花々と必要以上に置かれている観葉植物ぐらいだった。  
 
が、そんなクレアが気を遣い、こだわっているものがあった。  
 
ネルは紅茶を一口啜り、手にしたティーカップを見詰めた。  
クレアにいわせると、相当な値打ち物らしい………銘柄を聞いた事があるのだが、  
ネルは舌を噛みそうな名前だったとしか記憶していなかった。  
(そういえば……)  
今手にしている、ティーカップ。  
これには、忘れ得ぬ思い出があった………。  
 
交易都市ペターニ。  
その名の通り交易が盛んな町で、様々な品がまさに玉石混淆といった具合で店先に  
並んでいた。  
クレアは、渋るネルを王都から半ば強引に連れ出し、買い物と称してペターニの  
町を連れ回した。  
「たまには、こういうのもいいでしょ?」にこやかに微笑むクレアに悪意は無く、  
ネル自身もその気に染められたのか、まんざらでも無いと思い始め、  
「ああ…」と、素っ気無いながらもクレアに同意し頷いた。  
 
ここ、ペターニでも、軍を統括するクレアの鋭い洞察力と、判断力が遺憾無く  
発揮される事となった。  
店先をさっと見渡すと、ひょいひょいと買い得な品だけをかいつまんでネルに手渡す。  
その見事な眼力は、長年商いで身をたてているという、商人も舌を巻くほどだった。  
 
−とある、町外れの雑貨屋。  
余りパッとしない店内に、小物や武器やらが雑然と並んでいる。  
クレアが言うには、こういう場所にこそ掘り出し物が有るというのだが………。  
 
(ほとんど、ガラクタだな……)錆び付いた篭手…それも左手のみの品を手に取り、  
心の中で毒づく。  
 
クレアがネルの心中を察したのか、薄汚れた壷を一つ手に取り、そっと耳打ちをする。  
「……これ、正規のオークションに出品したら、3万はくだらないと思いますよ…」  
「えっ!!」慌てて値札を見る……(850フォル!!)  
更に小声でクレア「…だから値打ち物が有るって、言ったでしょ?」と、にっこり微笑んだ。  
「じゃあ、これは?」錆び付いてガラクタだと思っていた篭手だが、そこはかとなく  
風格が……感じられるかも知れない。  
片手だけというのも、何かしら曰く有りげに思えて来る。  
ネルは追い風に乗った気分で、クレアに先程までガラクタと思っていた商品を見せた。  
「ん〜……」顔を近づけ、ネルの差し出した商品を吟味する。  
 
「………それは…ただのガラクタ…」苦笑いを浮べつつ鑑定人こと、クレアが評価を下す。  
「…………そうか…」ははっと、ネルは、ばつが悪くなり、乾いた笑いでその場を誤魔化した。  
 
この雑貨屋にしてこの主人有り。という恰幅の良い、いかにも怪しそうな風体の店主が  
二人のやり取りを見て、会話に入りこんで来る。  
「いゃあ……こんな奥さんを持つと、旦那さんも幸せだねぇ」  
商売上のお世辞なのか、それとも本気で言ったのか、商人の男が不本意ながらも  
荷物持ち係りを務めている、ネルの肩をポンと叩く。  
「えっ?!」ネルは頬を引き攣らせ、商人を凝視する (だっ…旦那さんって…)  
 
確かにネルは女性としては身長が171センチと、そこそこに高い方に入る部類だし  
今の出で立ちも施術師と悟られぬ様、手足に刻まれた紋章を隠す為、  
ゆとりのある長袖の上着とズボンを着込んでいる。  
それに隠密行動が主なネルは、人混みが苦手な事もあり、帽子を目深く被っていた。  
(だが、それにしても……)男と勘違いされるのは冗談では無い。  
人の知らぬ場所では女としての努力は怠らないし、女である自尊心だって持ち合わせて  
いる。  
それに…(せめて恋人ぐらいに留めて欲しいものだ…)と、自らの論点がずれ始めて  
いる事にも気付かずに、ネルは心の中で商人の男に向かいまくしたてた。  
 
と、突然、怒り心中なネルの腕にクレアが腕を絡ませる。  
豊満…と、まではいかないが、存在感が十分に有る胸がネルの肘に当たる。  
そして、商人に向かって仲むつまじい『夫婦』です、と云わんばかりに笑顔の  
アピールをした。  
 
「くっ…クレア?」唐突なその行動に怒りどころか、我さえ忘れ。裏返った声で  
親友の名を呼ぶ。  
若い夫婦ののろけに対し、中年節炸裂のお約束な冷やかしが商人の口から矢継ぎ早に出る。  
……どうやら、この店主はこういうネタが好きらしい。  
「あっ…そうだ…待っててください」店主が何かを思い出したのか、  
そう言うと、ニヤニヤしながら店の奥へと引っ込んで行った。  
 
「ちょっと、クレア!どういうつもりだ?」店主の姿が奥へと消えたのを確認し、  
ネルが顔を真っ赤にして問い詰める。  
「どういうって……さっきの事かしら?」クレアは、至って冷静に親友の言葉を受けとめた。  
そうだと云わんばかりにネルが詰め寄る。  
「あれは…話を合わせた方が、値段を負けて貰えると思いましたので……」  
「なっ………」絶句し、天を仰ぐネル。(私がどんな気持ちでいたのか…)  
「クレアっ!あんた…」  
ネルの言葉をクレアが指を指し、遮る。 指差した先には奥から戻って来た店主の姿が有った。  
(はぁっ……万事この調子だ…)心の中でネルは深く嘆息した。  
 
「いやぁ、お待たせしました」  
戻って来た店主の手には、古びた小さな木箱があった。  
箱の蓋を開けると、そこには2つで一対のティーカップが…。  
 
小さな可愛いらしい天使が二人、口付けを交わしている。  
その二人を祝福しているかの様に、周りを花が囲んでいた……そんな絵柄のティーカップ  
だった。  
 
商人はその品の価値を聞きもしないのに、とくとくと語り始める。  
内容を要約すると、その品を使った二人に幸福をもたらすというものらしいのだが……。  
そんなに素晴らしい品ならばどうしてこんな店の奥で眠っていたのか?…とネルは、いぶかしんだ。  
(それにさっき、人の事を幸せ者と呼んでいただろう……)幸福な者に幸福になる  
品を売り付けるなんて、矛盾ものだ……と、心の中でたたみ掛ける。  
更に店主が切り出した値段にネルは仰天した。  
(桁が違い過ぎる…)今まで購入した品の全額を優に超える値段。  
百歩譲って良い品だとしても、ぼったくりとしか言い様が無い。  
それと同時に、ネルは店主を哀れんだ。一体誰に向かって商売をしているのか……。  
相手は『倹約クレア』なのだ、と。  
 
だが、そのクレアの口から、思いもよらぬ言葉が出た「では、それも頂こうかしら…」  
「へへっ…まいど」揉み手をし、一際腰を低くする店主。  
「その代わり、これとこれはサービスしてくださいね…」  
「おっ…そう来たかぁ……まぁ、仕方ないな…」  
「それと、今購入した品と、外に有る荷物をシランドまで送りたいのですけど…  
その送料も負担して頂けますか?」  
「かっ――――――〜奥さんには敵わないなぁ……よし!わかった!任せて置きな」  
呆然と立ち尽すネルの横で、クレアと商人の商談が弾んだ。  
 
ペターニの中心に在る広場。そこにあるオープンカフェで二人は一息つく事にした。  
空いている席を見付け、椅子に腰掛けると、タイミングを見計らったかのように  
華やかな原色の制服に身を包んだ、ウエイトレスが注文を取りに来る。  
ネルはアイスティー、クレアはホットココア。  
注文を聞き終えると、ウエイトレスはさわやかな笑顔を振り撒き、その場から離れて行った。  
 
「納得行かない…という、顔立ちですね?」  
憮然としないネルに、クレアが問い掛ける。  
納得行かない理由は理解出来る。  
クレアは自分の膝の上にある木箱を見詰めた。  
他の荷物の配送は任せたのだが、この品は邪魔になる程でも無いので、  
自分で持ち帰る事にしたのだ。  
「あの商人に、あんなに巧く乗せられるとは思わなかったよ……」帽子を脱ぎ、  
赤い短髪の髪をくしゃくしゃと掻きながら、溜息混じりでネルが呟く。  
言葉の端々には、クレアに対しての失望……とまでは行かないが、  
その様な類の感情が含まれているのは確かだった。  
ネルにはどうにも、あの店主にやり込められた気がしてならないのだ…。  
 
クレアが少し伏せ目がちになる…。  
その姿を見て、自分が少し言い過ぎた事をネルは後悔した。  
「…ごめん」その一言だけを口にして、ネルは言葉を詰まらせた。  
どうも、こういう雰囲気は苦手だ…。  
 
二人に会話が無くなったせいか、がやがやと周りの雑音が耳障りに感じる。  
 
「確かに、少し割高だと思いましたけど…でも、損はしてませんよ…」  
切れた会話の糸を再び結んだのは、クレアだった。  
「それに……」  
 
「それに?」詰まったクレアの言葉の先が気になり、ネルが反芻する。  
「いえ……何でも有りません」  
伏せた顔を上げ、そう応えたクレアには、いつもの優しい笑顔が戻っていた。  
……元の彼女に戻ったのなら、これ以上は追求すまい。  
自分をそう納得させ、ネルはクレアに向かい、笑顔を返した…。  
 
カリカリ…  
 
ペンの音で、ネルの思考が現在へと引き戻される。  
(どれだけの時間……)過去の記憶への旅客となっていのだろうか。  
 
若奥様ことクレアは、物思いに耽けていたネルを他所に、今も事務処理を進めていた。  
 
ふと動きが止まる。と、クレアは机の上にあるネルと同じデザインの例のティーカップに  
手を掛け、可憐な花の蕾を思わせる唇を近づけて、一口紅茶を啜った。  
そして、再びペンを走らせた。  
 
『二人を幸せにするという、ティーカップ』  
 
ネルは自分の手にして居るそれを見詰め、どういうつもりで親友が使っているのか  
思考を巡らせた。  
(もしかしたら、何も考えていないのかも知れない…)親友の単なる気まぐれなのか。  
(それとも……もしかしたら…)あの時の詰まらせた言葉の先が気になる……。  
ネルは複雑な心境でクレアを見詰めた。  
 
町が一望出来る窓。その窓から差し込む陽光を浴び、銀色の長く美しい髪が、  
キラキラと光を纏わりつかせていた。  
整った目鼻立ちは知性を湛え、ネルよりひと回り小さいその身体は、戦いに明け暮れて、  
少々筋肉質な体型の彼女とは違い  
女性らしい丸みを帯びたフォルムを維持している。  
そしてネルの思考は、その流れが当然であるかの様に、クレアの服の下で息づいている、  
裸体へと巡らされる。  
公私に渡り時間を共有する事が多いうえに、同性という事も有り、  
着替えや、湯浴み等で実際のクレアの裸を見る機会に廻り合う事がしばし有った。  
そして、その度にネルは不思議な感覚に陥いっていた。  
クレアのその身体に触れた感じがする……それもただ触れただけでは無い。  
艶かしく。そして、淫靡な感じを想わせた。  
 
夢でも良く見る事が有った。裸で求め愛し合う。いつもそんな内容だった。  
そして、それは何故かいつも妙に肉感的で、現実的な匂いを漂わせていた。  
柔らかい胸の感触と温もり……。  
甘い吐息に、欲情を煽る程に艶のある喘ぎ声。  
押し広げられた秘部のシワのひとつ一つさえ、克明に浮かび上がった。  
実際には、そこまで見た事は無いというのに……だ。  
ネルはその感覚を、自分の欲求不満が引き起こしているものと解釈していた。  
 
(……クレア) どうやら、思考を深く潜り込ませてしまった様だ……。  
慌てて別の事を考え、切り替えたが既に手遅れだった。  
いつもの様に心音が高鳴り、息苦しくなる。  
身体の芯に火が灯り、熱を帯びてくる。  
その熱がネルの身体をじわじわと浸食し、足の爪先。そして、手の五指の先までも  
くまなく火照らせた。  
 
(………)鈍いネルでも、この感覚の意味する事は理解出来る…。  
だが、その対象が女性であり、親友であると云う現実が、その結論に辿り着く事を否定した。  
 
ネルの全身を包み込んだ熱は、最後の領域とも云うべき、『心』に対しても  
触手を伸ばして来る。  
 
始めに戸惑いを打ち消すように、切なさがこみ上げて来る……。  
その切なさは性欲と結び付き、求める心へと昇華する……。  
すると、冷静さを保っている心の一角が、理性と倫理という消火剤を振り撒き、  
鎮火させようと、格闘を始める……。  
この繰り返しだった。  
 
心はある程度まで抑えられる。だが、身体の方を制御する事は困難に近かった。  
丁度、風邪をひいた時と同じ状態だ。熱が高い事を理解していても、  
その熱を下げる事は強靭な意志を持ってしても不可能だ。  
 
そして、身体がネルの思考の承諾も得ずに、準備を始める。  
その指示を受け、愛しい人を胎内へ受け入れる為の女としての機能が働きだす。  
じくじくと、ネルの花芯が潤い始め、下着の中が汗をかいたような錯覚に陥る。  
いや、実際、汗では無い何かが下着の中で滴り落ちているのは確かだった。  
 
『感じ易い体質』ネルは自分の事を、そう自覚していた。  
僅かな性的衝動でも、胸の頂きにある桜色の乳首が痛い程に起立する。  
そして、今の様に局部は濡れ、トロリとした本気の蜜を溢れさせる。  
他者と比較をして確認した訳では無いのだが、これが正常な反応では無い事は  
ネル自身にも何となく理解出来た。  
 
クレアを想い下着を濡らす。そして、そんな淫らな自分を部下である、  
タイネーブやファリンに知られた時の事を想像し、再び下着を湿らせた。  
節操の無い身体だと、自身も思う。実際、そんな自分を認める事が出来なかった。  
これが『クリムゾンブレイド』の、ネル・ゼルファーなのだと、開き直れれば  
どんなに楽な事かと、常日頃から思っていた。  
 
そっと、深呼吸をする。  
そして、身体を僅かに揺すり、蒸れた感触の下着へと新鮮な空気を送り込んだ。  
今日の様に、クレアの前で肉体を火照らせた事は、幾度となく有った。  
これがその時の対処法だった。  
焼け石に水…かも知れないが、こうすれば、多少は身体が落ち着くのが早くなる  
気がした。  
 
「……?」  
身体を不自然に揺するネルに気付き、クレアが顔をゆっくりと上げる。  
そして、もじもじとしている親友を見詰め、小首を傾げた。  
 
作業に集中していたネルは、自分に視線が向けられた事に一瞬遅れて気付き、  
そのうえ、「んぁっ…」と、艶かしくも、奇妙な声さえあげてしまう程、慌ててしまった。  
(しまった…!)  
大きな失態によって身体の火照りがまるで、潮が引いた時のようにすっと消えて行く。  
火照りどころか、血の気さえ引いてしまいそうだった。  
 
「あの……その…」消え入りそうな声で、あからさまに怪しい様子を振りまき  
視線を泳がせる。  
が、そう簡単に周りに救いの綱が垂れ下がっている訳も無かった。  
 
「あっ、ごめんなさいね…」胸の前で手を合わせ、クレアが謝る。  
「えっ?…」ネルは何の事か判らずに、目をパチパチと、しばたたかせた。  
「お腹…空いたのでしょ?」そう言うと、すっと立ち上がり、部屋の隅にある  
お茶のセットやらが置いてあるテーブルの前で、何やらカチャカチャと  
準備を始めた。  
 
(はぁっ………)どうやらクレアの勘違いで、救われたようだ。  
ネルは額に浮んだ汗を掌で拭うと、力の抜けた身体をソファーに預けた。  
 
「はい、どうぞ」カチャリと音をたて、ネルの目の前に差し出されたのは、  
銀杏の葉の形を模して作られた小皿に、綺麗に盛られた、『アップルパイ』だった。  
 
実は、ネルが来ると判っている日は必ずこれが出て来た。  
用意した者がネルの好みを熟知しているからだ。  
 
クレアはネルと対面に備え付けられたソファーに腰掛け、にこにことネルの方を見詰めた。  
……どうやら、ネルが食べるのを待っている様だった。  
 
正直、見詰められると食べ辛い気もするが、クレアの期待で輝いた瞳を見ると、  
躊躇している事が悪く感じられた。  
 
ケーキ用のフォークが皿の上の添えられていたが、こういうものは豪快に  
手で行くものだ!  
見た目綺麗に焼き上がっているそれを、手で掴んでネルはかぶりついた……。  
 
シャクッ…。  
パイ生地の歯ごたえと共に、口内に林檎の香りが広がり、鼻腔へと抜ける。  
そして、果物特有の甘味がじわじわと舌の上で広がり、えもいわれぬ旋律を奏でた。  
その絶妙で、優しささえ感じる味わいにネルはしばし、酔いしれた。  
 
「うん……今日も最高の出来だよ……」  
未だ『アップルパイ』の味の虜となっているネルが、飾らない  
賞賛の言葉を口にする。  
 
自分に対する賛辞の言葉を聞き、ネルを満足させた料理人ことクレアは、目を細め  
にっこりと微笑んだ。  
 
「ねぇ……ネル?」見事な食べっぷりの親友を、頬杖つきながら見詰めていた  
クレアが声を掛ける。  
「んっ?」ネルは、口内のパイをコクリと飲み込み、紅茶を一口啜った。  
「人の原動力って、何だと思います?」少々真面目な顔立ちで、ネルに問い掛ける。  
「んっ―〜……」クレアが出したいきなりの難題に、ネルは頬に手を宛てて考え込んだ。  
「そうだなぁ……」  
「向上心とか、物欲とか、思想とか、そういうのじゃないかな?」もうひとつ浮んだ、  
性欲は敢えて外す事にする。  
そちらの方向に話題が行ったら、また先程の二の舞だ。  
 
クレアはネルの回答を聞き、ゆっくりと目を閉じた。  
「そうですね…確かにそれもあります…」  
「でもね、人を突き動かす根本的な物は……」一呼吸置き、閉じた時と同じように、  
ゆっくりと目を開き……。  
「狂気ですよ…」  
「狂気?」彼女にしては意外な回答だと思い、ネルが聞き返す。  
「ええ…」頷くクレア。  
「…人は例外無く、狂気という剣を帯びています…だから、平気で人を傷付けるし、  
殺す事が出来る……」  
「愛情や、出世、強い衝動の影には、多かれ少なかれ、狂気が必ず付き纏います……」  
自分の肩に掛かった。髪の毛を弄びながら、話を続ける。  
「普段は理性という鞘に、狂気を収めて常識人を装って生きている。  
つまり、鞘の出来如何で、聖人にもなれるし、狂人にもなれる……それだけです」  
親友の言葉を聞き、ネルは、コクリと唾を飲み込んだ…殺伐とした内容の話しなのに、  
何故かクレアが嬉しそうに話しているようにも聞こえたからだ。  
 
「……クレアは、どうなんだい?」思わず聞かずには居られなかった。  
こんな話が彼女の口から出るとは、思いもよらなかったからだ。  
「私ですか?……私も、一人の人間ですよ……」ネルの問いを、間接的に肯定し、  
にっこりと微笑むクレア。  
いつもの笑顔……だが、言い知れぬ不安と戸惑いをネルは、その笑顔から湧き上がらせた。  
 
「あっ…お茶、煎れ直しましょうね…」ネルのティーカップの中を覗き、紅茶が冷めた事に  
気付いたクレアが立ち上がる。  
 
(ばかだな……)ネルは自分をたしなめた。  
クレアに対して、負の感情を募らせるなんて、どうかしてる…と。  
「クレア……」その気持ちを吹っ切るように、お茶の準備をしている彼女を呼ぶ。  
呼ばれたクレアは、ネルの方をゆっくりと向いた。  
「はい?」  
「あの……アップルパイの、お代りもいいかな?」照れながら、空になったケーキ皿を  
クレアに向かって見せる。  
はいはい。と、世話の掛かる子供を持った母親のような返事をし、  
ネルから空になったケーキ皿を受け取ると、アップルパイを切り分け始める。  
 
所帯じみた親友の後ろ姿を見て、ネルは安堵の吐息を漏らした。  
「それにしてもさ、クレアと一緒になれる奴って、幸せ者だね…こんなに美味しいもの  
が食べれてさ」  
安心した事も有り、ネルはそんな台詞をポロリと漏らし、  
はっと、我に返った。  
ネルが言った事は、取りも直さずクレアが『男』と結ばれる事に繋がる……。  
それが、自然の流れではあると思うのだが、自分のこの気持ちはどうなるのか?…  
 
「私は…ネルみたいに、私が作ったものを、美味しそうに食べてくれる人と  
一緒になれるのだったら、幸せですけど…」  
「はは…」クレアの言葉に、ネルは感情の無い笑いしか、返せなかった。  
親友は冗談で言っているのだろうが、自分にとっては真剣そのものだ。  
そのすれ違う気持ちが、ネルの心をチクチクと傷つけた。  
 
カチャッ……目の前に再び、切り分けられたアップルパイが置かれる。そして…  
「本気だったら……どうします?」耳元でクレアが囁いた。  
「えっ?」驚き、ネルはクレアを見詰めた。  
キラキラと、ダグラスの森の湧き水の如く澄んだ瞳。その瞳に驚いた表情の自分が  
まるで、鏡に映した様に浮び上がっていた。  
 
ドキドキと心音が高まる。  
磁力に引かれるように、自然と互いの顔が近付く…。  
 
ドン!ドン!ドン!…。  
ノックという表現では当て嵌まらない…けたたましい程の扉の叩かれる音。  
その音で二人は、まるで催眠から解けたかの様に引き離れた。  
 
「はい……」落ち着いたようにも、不機嫌なようにも、聞こえる声で、  
クレアは扉の向こうに居る訪問者に返答した。  
 
ガチャ!  
叩かれた時と同じ要領で、扉が勢い良く開く。  
訪問者は、ネルの部下のタイネーブだった。  
「失礼します!」  
タイネーブは二人の上官の姿を確認し、シーハ―ツ流の礼をすると、  
矢継ぎ早に報告を始めた。  
 
「アリアスの村から、早馬の報告が入りました!現在アーリグリフと  
交戦中との事ですっ!」  
タイネーブの報告を聞き、二人が顔を見合わせる。  
 
「…この時期の進軍は、無いものと思っていたのですが……」  
腕組みをし、クレアは考え込んだ。  
アーリグリフの首都周辺は、これから本格的な厳しい冬を迎える。  
そうなれば、補給もままならない状況に陥る。  
そんな状況で軍を進める事は、到底無理な事だ。  
相手の裏をかくのは、戦術の常道手段だが、これは余りにも無謀な事だ。  
確かに、クレアの中には、今日の様なパターンも考えに有った。  
だが、作戦とはいえない、一種の賭けの様なものだと思った。  
 
「クレア…」考え込むクレアにネルが声を掛ける。  
「……そうね」ここで考えて居ても仕方の無い事…。  
 
「行きましょう、アリアスに…」  
 
 
二人が身支度を整え、アリアスへと向かう馬上の人となったのは、日も傾き掛けた  
夕刻の事だった。 

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