「1億ぅっ、2億っ、百億ーのKISSを浴ーびーせーてーやるーっ、Baby!」  
 
 歌くらい、誰だって歌う。上手だろうが下手だろうが、会話することが出来るのに歌うことが出来ない、などという人間は、イウヴァルドくらいしかいないだろう。  
 
 「MachineGunKissでJustっ、Fall in loveーーーー」  
 
 ラッセル執政官だって歌う。勿論マイクなどないが、羞恥ではなく酔いで顔を赤くしながら、熱唱を終えた。  
 
 「うおーーーっ」  
 頭上でパンパンと手を叩いているのは、こちらも赤い顔のフェイト。ラッセルは大きく息を吐き出すと、その場にしゃがみ込み、傍らにあった酒瓶を持ち上げた。  
 「で、どうだ?」  
 「いやー、よかったですよぉ。あと一歩で、コンサート会場もこちら目がけてまっしぐら、でした」  
 「そうだなぁ。やはり、結界は発動して欲しいなぁ」  
 事務処理が何とか終わった、その打ち上げのようなものだった。秘蔵の酒を持ち出したラッセルを発見したフェイトが、秘密にする代わりに、分け前を要求してきた。  
 流石にこの時間、食堂に来るような人間もいないだろうということで、二人して静かに飲んでいたのだが、だんだんと二人とも、全てがどうでもよくなってきて、今に至る。  
 
 「ほれ、フェイト。次はお前だ」  
 「んじゃ、『今、この瞬間がすべて』を」  
 「おいっ、ずるいぞ!」  
 「それじゃ、『憂国の凱歌』?『花鈴』?『I can fry』?」  
 「何その引き出しの多さ。いやいや、そうじゃなくてだ。桐生ちゃんじゃない私が、桐生ちゃんを歌ったんだ。お前も、違うのを」  
 「……『おいらに惚れちゃ怪我するぜ』?」  
 「そういうことだ」  
 「ふっ……執政官、舐めないで頂きたい。この程度で僕が怯むとでも?」  
 「……いやっ、ちょっと待て! やっぱ止めろ!」  
 「えー?」  
 「よくよく歌詞思い出せば、笑えないことに気付いた」  
 「じゃあ、どうしろってんですかい?」  
 
 「ちょっと! 何してらっしゃるんですか、お二人とも」  
 
 咎める声色が降ってきた。  
 二人とも首を回し、声の主を確認する。見回り中の、女隠密……タイネーブだった。  
 「うーん? 食堂で酒盛りをするべからず、なんて法はない筈だがなぁ」  
 からかうような口調のラッセルに、彼女は口を尖らせる。  
 「確かに、そんな法律ありませんけど……でも、どうかと思いますよ? 執政官ともあろう人が、こんな所で酒盛りなんて」  
 「おいおい、フェイトはいいのか?」  
 「そういうことじゃなくて……」  
 まだ何か言い足りないような彼女の目の前で、ラッセルはすっと立ち上がると、恭しくお辞儀した。  
 
 「お嬢様。お手を拝借」  
 「……はい!?」  
 「いーからいーからー」  
 彼はタイネーブの手首を掴むと、ぐいっと引っ張った。  
 「えっ、ちょっと!?」  
 「ラッセルを信じてー」  
 そして、  
 「とりゃ」  
 「うりゃ」  
 ラッセルが肩を押し、フェイトが膝裏を押す。  
 「えっ」  
 しかし、それで彼女が尻餅をつくことはなかった。彼女の、やや小さめな臀部がすっぽりと収まったのは、胡座をかいたフェイトの足の間。つまり、足首と股間の間に、尻が落ち込んだ。  
 「……ひえっ!?」  
 どういう状態なのか、ようやく理解した彼女は、顔を紅潮させて立ち上がろうとする。しかし、フェイトは左腕を彼女の腰に回し、右手で軽く頭を撫でた。  
 「あっあのっ!?」  
 「フェイトのここ、あいてますよー?」  
 耳朶に唇を寄せ、囁くように告げる。その、熱を持った吐息に、彼女の身体が強張った。  
 「救国の英雄を椅子代わりか。おぬし、なかなか肝のあるヤツよのぅ」  
 杯をくわえたラッセルが、ニヤニヤしながらその光景を眺める。タイネーブは、二人が本気で酔っぱらっていることを悟った。  
 「あ、あの、私その、見回りが」  
 「どうせここでゴールだろ。気にするな、無礼講だ」  
 予備の杯を、ラッセルはタイネーブの胸元に放り投げる。  
 「逃ーがさーないーーっ」  
 左腕を更に巻き付け、彼女の肩に顎を乗せるフェイト。その密着度に、タイネーブは身体を強張らせる。両手を揃えて持った小さな杯に、フェイトは酒を注いだ。  
 「かんぱーいっ」  
 「え、あ、は、はい」  
 二つの杯が軽く接触した。フェイトはすっと飲み、タイネーブは恐る恐る、唇をつける。  
 
 「ああーーっ」  
 
 そして危うく、吹き出しそうになった。  
 顔を上げれば、ファリンが食堂の入り口から、こちらを覗き込んでいる。厄介な人間に見つかった、と顔をしかめるうちに、ファリンは廊下の向こうへ首を向ける。  
 「たいへんですよーぅ! タイネーブとフェイトさんがっ、食堂でぇ! 四十八手の一つ、『絞り芙蓉』にてお楽しみ中ですぅぅぅ!」  
 「ちょっ……」  
 思わず手を伸ばすタイネーブ。ファリンは食堂に入り、軽やかに跳躍しながら三人の元まで来ると、手の甲で軽く、タイネーブの額を叩いた。  
 「あ痛っ!?」  
 「ノックしてもぉしもぉーし、挿入ってますかぁ?」  
 「は……挿入ってるわけないでしょ!」  
 思わず、ファリンのペースに巻き込まれてしまう。  
 
 「挿入ってはいないんだね?」  
 「だからそう言っ」  
 
 振り向いた時には、遅かった。目の前にいるファリンが、自分の背後にまでいる筈がないのに。  
 彼女はその時、遺書を用意しておかなかったことを後悔した。  
 
 「まったく、ファリンったら。危うく、シランド城が朱に染まるところだったじゃないか」  
 
 何時の間に?とか、一体どうやって?とか……そんな質問は、無意味なのだろう。  
 今すぐ、立ち上がるべきなのだ。しかしそれが出来ないのは、恐怖で力が入らないから。立ち上がらなければ、状況は悪化する一方だというのに。  
 
 ネルの冷たい眼差しが、タイネーブに突き刺さっていた。  
 
 「あれぇ? ネルさん……」  
 ぼんやりした視線を、フェイトは後ろに向ける。  
 「すごいですねぇ、全然気付きませんでしたよ」  
 「まぁ、一応隠密の長だからね。ところでフェイト。タイネーブにちょっと用があるんだけど……」  
 「タイネーブさんにぃ?」  
 「ああ」  
 「だめぇー」  
 フェイトは両腕でタイネーブを抱きしめると、彼女の髪に顔を埋めた。二人とも、別々の意味で硬直する。  
 
 スーハースーハー  
 
 「ちょ、フェイトさん!? やっ、に、匂いをかがないで!」  
 「ん? タイネーブさん、シャンプー変えた?」  
 「え? か、変えました……けど」  
 「ちょっと!? 何でフェイトが、アンタのシャンプーなんか知ってるんだい!?」  
 「い、いや、この前偶然、そんな話をしてて……」  
 
 ああ、何故、自分はさっさと酔っぱらってしまわなかったのだろう。タイネーブの視線の先には、この状況をニヤニヤと楽しむ風なラッセルと、既に酔いが回っているフェイト。  
 はっきり言って、あれだ。まともなだけ損をするのだ、この状況では。  
 「ねぇねぇ、私もご一緒していいですかぁ?」  
 ファリンが、更に、この場所をかき回すような発言をする。  
 フェイトとラッセルは少し目線を会わせると、ファリンとネルの二人に向かって、同時に、  
 
 「「駄ぁ目ぇぇ」」  
 
 と、ジェスチャーも付けて突っぱねた。  
 
 「えぇ、何でですかぁ?」  
 「これは男と男の飲み会なのである」  
 「そうなのである。凸ならば可、凹ならば不可。よって、早々に立ち去れい」  
 「でもぉ、タイネーブはいいんですかぁ?」  
 「タイネーブさんは、お客さんですよーだ」  
 フェイトは満面の笑みを浮かべると、タイネーブを更にしっかりと抱きしめる。  
 「どうしても仲間に入りたいのなら、そうだなぁ……」  
 ラッセルは顎を撫でた。左右の眉の高さは違っており、間違いなく、ロクなことを考えてはいない。  
 「よし、そうだ。何か、フェイトの心を動かすような芸をしろ」  
 「あ、それいいですね。誰か、俺の心に風を通してくれ、みたいな」  
 「いえーい、ジュリエッタ乙〜〜」  
 ぶつかるフェイトとラッセルの杯を見て、ネルは唖然とする。何か抗議し掛けたが、ファリンがさっさと先手を取ってしまった。  
 
 「ゼーニゼニー」  
 
 「……え?」  
 ネルは思わず、ファリンに目を向ける。腹心の部下の意味不明な言葉に、ついに壊れてしまったのかと、そんな予想もしたが、フェイトは違った。ピクリと肩を震わせ、ファリンを見つめている。  
 
 「おおっと、何ということだぁ!?」  
 「え、ちょ……ラッセル様!?」  
 「てっきりプリシス、もしくは手近にウェルチで攻めてくるかと思われたファリン選手! 何と、ハルカのゼニガメで攻めてきたぁ! カメールに進化すれば声優が変わってしまうため、このボイスはある意味レアと言えるだろう!   
最初は普通のゼニガメより小さくて臆病、しかし旅を通して強くなっていくという、まさに少年漫画の王道とも言えるキャラ。これにはフェイトも、興味津々だぁぁぁ!」  
 「あ……解説役ですか、そうですか」  
 
 酒はここまで、人を変えてしまうのか。  
 しかし……ネルとて、ただ指をくわえて見ているだけの女ではない。彼女にも、引き出しくらいはある。  
 ネルは咳払いすると、それと共に羞恥心を払い落とした。一方、ファリンはここぞとばかりにたたみかける。  
 「うっしっしっし、それはそうよねぇ。あなたみたいな半人前に、彼女がいるわけなかったわ。ごめんなさいねぇ」  
 「うおおっ、メグ教官!」  
 「え、メグ!? あなた、ひよっこのくせに、一体誰の許可を得て私のことそんな風に呼んでるの!? 許しませんよ!」  
 「ドSだし子持ちだし、後に忠実な奴隷だし! あなた何で、そんな完璧な逸材なのですか!? ああっ、ごめんなさい! ショートカットが見たいからって、除隊してすみませんでした!!」  
 
 「半径85センチがこの手の届く距離〜〜」  
 「!!?」  
 
 「なな、何と!? ネル選手、ダブルラリアットを歌い始めたぁぁ! これはどうやら、マーガレット・サウスウッド教官よりも評価が高いようだ!   
しかしうまい! まるで本物だ! いやまぁ、ある意味本物なわけだが! フェイトの目も、釘付けだぁぁ!」  
 
 「一緒にどうだい? フェイ……いや、KAITO兄さん」  
 「え!? 僕が!?」  
 
 「何とぉぉ! ここでネル選手、フェイトをカイトにすることで、大人びた妹というマニアックさで攻撃してきた! これでネル選手がロングヘアならば、一瞬で勝負は決まっていたかも知れん!」  
 
 ラッセルの解説も、白熱してくる。  
 
 「さあ、ファリン選手! 探す! 自らの歴史を紐解き、対抗できるものを探すが……だめだ! 勝機が見えない! 出来ればエトナは、最後の切り札に取っておきたいようだ!」  
 
 ラッセル、更に白熱。しかし、数少ない同性の知り合いを取られ、若干嫉妬した模様。  
 
 「さあ、これまで本部以蔵の如く解説に徹してきた私、ラッセルも、参加してみようかと思います。では……“飛鳥の鴉よ”!」  
 
 それまでダブルラリアットをデュエットしていたフェイトが、突然、ピタリと止まった。  
 だらだらと冷や汗を流し、ゆっくりと、ラッセルを振り向く。  
 
 「では、先ず手始めに。“ゴウが裏切ったという報告を聞いて、絶望しかけるが、疑心暗鬼になりつつも、何とかデタラメだと笑い飛ばそうとする一条信輝”やりまーす」  
 「やめてぇぇぇ!!」  
 
 フェイトはラッセルの元に飛び込むと、その腰に抱きついた。  
 
 「やめて、やめてください! 良心がっ、僕の良心が!」  
 「「!?」」  
 
 あっさり男の元に行ってしまった彼に、ネルとファリンは唖然とする。  
 
 「“そなただけが、頼りなのだ”」  
 「ああああ、ごめんなさい! 死体持ち帰ってごめんなさい! 珍しい椅子持ち帰ってごめんなさい! 貞女に浮気してごめんなさい!   
赤目についちゃってごめんなさい! 面倒臭くなって爆殺しちゃってごめんなさい! 真EDで、あなたの不憫さに思わず吹き出しちゃってごーめーんーなーさーいぃぃぃ……!」  
 「“よいのだ、鴉よ。私はお前を、次の君主に……”」  
 「ああああああ!! 信ちゃんっ、ひたすら平和を願っていた信ちゃん!」  
 「“かないそうにない、いい夢だ”」  
 「ラザード統括官!! ああ、ごめんなさい! アンジールの兄弟だっけ?とか、しょっちゅう間違えちゃってごめんなさい!」  
 
 涙を浮かべるフェイトに抱きつかれながら、ラッセルは女性陣にニヤリと笑う。  
 
 「ふはは、どうだ、私の少数精鋭的な経験値は! さて、どうする!? このままでは、めくるめく稚児遊びが待っておるぞ!」  
 
 思わぬ伏兵だった。  
 ツンデレランキングで、下手なツンデレよりも烈海王が上位に来るような……性別を越えたもの。  
 フェイトの思い出に訴えかけるそれは、クリーンヒットのストレートのようなものだった。  
 
 しかし、ここでついに、放置状態だったタイネーブが参加する。  
 
 「ガドイン直伝っ、必殺っ、竜陣剣!」  
 「ジャスティィィィン!!」  
 
 さながら、ごぼう抜き。ラッセルは、迂闊にも援護してしまったことになる。少年時代の思い出が蘇っていたところで、ボーイミーツガールの代名詞とも呼べるそれは、あまりにも効果的だった。  
 
 「タイネーブさんっ、お願いが! ボラボラボラボラボラ……」  
 「ボラーレ・ヴィーア(飛んでいきな)!」  
 「うおおおっ、目覚ましにしてぇぇぇ!」  
 
 そこから先は、混戦だった。  
 早々にギブアップしたファリンとラッセル、一騎打ち状態のネルとタイネーブ。そして、二人の間で揺れ動くフェイト。  
 いつの間にか全員に酒が行き渡り、いつの間にか小規模な宴会が発生し……フェイトがラッセルに斬りかかる、などというハプニングもあった。(父親のカタキ的な意味で)  
 
 そして、どれくらい時間が経ったのだろう。  
 
 ふと我に返ったタイネーブが見たのは、ふらふら頭を左右に振っているラッセルと、食堂の床に寝転がる三人だった。どうやら生き残ったのは、一番酒に弱いが故に自重していた彼女一人らしい。  
 
 (……どうしよう)  
 
 「んー」  
 
 途方に暮れていた時、寝惚けたフェイトが、タイネーブの膝の上に頭を乗せる。それに驚いた彼女は、思わず、杯に残っていた酒をこぼしてしまった。  
 下げていた左手と、左手を乗せていた太腿が、濡れる。  
 拭くものを探すため、目線を上げたタイネーブは、肌を這う湿った感触に、思わず声を上げそうになった。  
 フェイトが柔らかい目のまま、彼女の指を濡らした酒を舐め取っている。  
 
 「っ……!?」  
 
 フェイトさん、と呼びかけようとして、しかしタイネーブは、じっとその光景を見下ろしていた。  
 口の中に僅かに残っていた唾液を飲み込むと、口腔内はからからに乾燥した。  
 そっと手を伸ばし、近くにあった、ファリンの杯を取る。まだ少し、中身は残っていた。そしてそれを、今度は故意に左肩に当てる。ピンと伸びた腕の表面を、透明な液体が滑り落ちていった。  
 まだ、何とか言い訳は出来るだろう。  
 フェイトは床に手を当て、身体を起こした。指先から指の股まで、丁寧に舐め上げ、その舌は、新たに流れてきた甘露の源を辿り、少しずつ、上昇していく。  
 肘を越え、施文を撫で、舌がタイネーブの肩に達する時には、フェイトは両手で彼女を抱きしめるような姿勢になっていた。  
 
 どうする?  
 まだ、言い訳は出来そうか?  
 
 「……フェイトさん」  
 
 彼女はからからになった舌で、名を呼ぶ。フェイトは舌を這わせたまま、上目遣いに見上げてきた。  
 「……飲みたいですか?」  
 「ん」  
 肯定するような微笑みを浮かべる。彼の吐息が、まるで麻薬のように、タイネーブの理性を浸食していった。  
 「少し、待ってて頂けますか?」  
 名残惜しくもあった。ここで離れれば、そのままフェイトは寝入ってしまうのではないかとも思った。  
 しかしタイネーブはそっと彼の拘束から抜け出すと、ラッセルの元まで歩み寄り、その肩を叩く。  
 
 「ラッセル様。ラッセル執政官様」  
 「うーん……細工はりゅーりゅー……」  
 「ネル様とファリンを、部屋まで連れてってください」  
 そう言いながら、左右の手で二人の女性の片足を引っ張る。ネルもファリンも呻きはしたが、ちょっとやそっとでは目を覚ましそうになかった。  
 ラッセルの両手に足首を握らせると、彼はふらふらと立ち上がり、鉄下駄を履いたような足取りで歩いていく。ネルとファリンを、ズルズルと引きずったまま。  
 勿論、泥酔者に正常な行動が出来るとは思えない。ただ、二人を連れて離れてくれれば良かった。  
 三人の邪魔者が消えた後、タイネーブは中身の残っている酒瓶を集め、一本にまとめると、それを持ち上げる。  
 
 ここまでは、言い訳が可能。  
 しかし……ここからは……。  
 
 振り向くと、フェイトがとろんとした視線を向けてきた。  
 「……二人で、飲み直しましょうか。フェイトさん」  
 「んー、おさけー……」  
 「ありますよ……たっぷりと」  
 
 
 
 別に、違法なことを行うわけではない。  
 これはもっと、それとは違う問題なのだ。  
 
 
 フェイトの手を引っ張ろうとするが、タイネーブはふと、力を抜く。立ち上がり掛けた彼の身体は支えを失い、ちょうど、四つん這いの格好になった。  
 「わ」  
 言いかけて、彼女は躊躇う。しかし、フェイトに顔を近づけると、改めて、  
 「わんわん」  
 と、お手本のように言った。  
 「……わんわん」  
 訳が分かっているのか分かっていないのか……恐らくは、後者。わんわん、わんわんと繰り返すフェイトの首に、タイネーブはそっと、自分のマフラーを巻き付け、その端を持って立ち上がる。  
 「……お犬さんごっこ……ですから……」  
 未だに言い訳を用意しようとする、己の度胸のなさに呆れてしまった。  
 フェイトは抗議するでも拒否するでもなく、ごく自然に、流れに身を任せていた。  
 タイネーブが歩き出すと、フェイトも四つん這いのまま、前進する。そんなに距離はないのに、誰かに見られた時のことを考えると、彼女の背筋に甘い恐怖が走った。  
 フェイトは相変わらずわんわんと呟き、時折、タイネーブの足に身体を擦りつける。彼はちゃんと、“お犬さんごっこ”をしていた。  
 タイネーブが向かったのは、自室ではない。客人用の、小さな浴室だった。その扉を開き、フェイトを中に誘い入れると、内側から鍵を掛ける。今週のここの管理当番は、彼女だ。後で何とでもなる。  
 
 いよいよ、言い訳がきかなくなってしまった。  
 
 この浴室は今は使われておらず、タイネーブは風呂掃除という貧乏くじを引いてしまったのだ。明日も清掃をするのは彼女だ。  
 しかし、それについて問題はなくとも、もう一つ、大きな問題がある。  
 フェイトの記憶が、都合良く抜け落ちるなどというのは期待できない。これほどに酔ってはいるが。明日、酔いのさめたフェイトと顔を合わせた時……どうなるのか……。  
 それに考えが回らないほど、タイネーブは愚かではない。彼女もまた、酔っているのだ。この状況に。  
 浴室のタイルに足を置き、湯を入れ始める。フェイトはまだごっこ遊びを忠実に守っており、相変わらず四つん這いで浴室に侵入した。  
 タイネーブは酒瓶の栓を抜き、右手で傾けると、左腕に中身を垂らした。いくつかの筋に別れながら、酒は白い肌を更に光らせ、指先から滴る。その指先を、フェイトの唇にそっと触れさせた。  
 
 「ん……」  
 フェイトは舌を伸ばし、先ほどと同じように、甘露の源流を探り始める。彼の両手は前足であることをやめ、こぼれ落ちる酒をせき止めようとするかのように、タイネーブの左腕を包んだ。  
 さながら仙桃のような扱いを受ける自分の左腕に、それが自分のものであることを忘れた彼女は、嫉妬を抱いた。  
 タイネーブは酒瓶を持ち上げ、一口、口に含む。故意なのか、そうでないのか、唇の端から一筋、酒が零れた。  
 それを見つけたフェイトは首を伸ばし、彼女の顎に口付ける。狙っていなかったと言えば嘘になるが、あまりに急激な接近に、タイネーブは危うく、含んだ酒を飲み込みそうになる。  
 酒を辿り、フェイトの唇はついに、彼女のそれに接触した。  
 口移しをしようとした彼女にとって、フェイトが舌で無理矢理に唇をこじ開けてきたのは、予想外だった。含んでいた酒は、あっという間にフェイトの喉の奥へと流れ込んでいく。  
 それだけでは済まず、彼の舌は、一滴残さず貪るように、タイネーブの口腔内を蹂躙した。歯や歯茎、舌まで。強奪のように乱暴な行為に、彼女は思わずフェイトの肩に手を置くと、力を込めて握る。  
 フェイトがそれ以上の追求をやめた時には、タイネーブはうっすらを汗をかいていた。呼吸を整えることが出来ない。にも関わらず彼は、はだけた彼女の衣服から覗く太腿に吸い付いた。  
 そこにも、酒が零れていたのだろう。タイネーブは掌で口を覆い、身体を強張らせる。  
 もどかしくなったのか、フェイトが布地を更にかき分けた。露わになった下半身には、まだ下着が残されていたが、それは最早、本来の用途を成してはいない。  
 
 (ああ……)  
 
 ずっと、だ。これを実行に移す前から、朧気に計画し始めた時から。それからずっと、この浴室に来るまでの道程でも、はっきりと分かっていた。  
 濡れた草むらはうっすらと、布地越しに露わになっている。羞恥心から足を閉じてしまいたかったが、フェイトが間にしゃがみ込んでいた。  
 タイネーブの耳に、はっきりと、自分の心音が入ってくる。驚いたことに、その高鳴りは、視覚的にも確認できた。心音に併せて、衣服の胸の部分が上下に踊っている。  
 彼女は酒瓶を傾け、それをそっと、下腹部に垂らした。一旦臍にたまり、そしてすぐに下着を濡らしていく。香りに誘われるようにして、フェイトの頭が、足の付け根へど移動した。  
 フェイトの舌先が、下着越しに敏感な部分に接触し、彼女は思わず、声を漏らした。手が震え、直角になりかけた酒瓶から、ばしゃっと酒が零れる。タイネーブは慌てて、酒瓶を傍らに立てた。  
 その源泉が、布の向こうにあるとでも思ったのだろうか。フェイトは彼女の太腿に添えていた掌を這わせ、その指は、左右の下着の紐を摘み上げる。爪を立てると、プツリと微かな音と共に、見事に断ち切られた。  
 タイネーブは忙しない鼓動越しに、フェイトの行動を見下ろしている。  
 脱がすよりは、剥がすという行為だった。そっと取り払われた下着は、微かに糸を引く。  
 ついに、露わになってしまった。彼は顔を近づけ、ぷっくりと膨れた唇のようなそれに、接触する。すぅっと香りを吸い込まれ、タイネーブは身体を震わせた。  
 
 「んっ……ぁあっっ……!」  
 
 舌が、挿入ってくる。先ほど口腔内を蹂躙した時は、あんなにも柔らかかったのに、今は樹木の根のように硬くなっていた。その舌が、ゆっくりと……狭い肉の穴を押し広げ、侵入する。  
 
 「ぁっ……んやっ……」  
 
 たまらず、タイネーブは両手両足を使い、フェイトの頭に抱きついた。彼は抵抗せず、愛撫を続ける。舌を引き抜き、入り口の周囲に優しく這わせ、そしてまた、剛直に侵入を繰り返す。  
 
 「やっ、んん……あああっ……や……だ……め……!」  
 
 急激に、快感が高まってきた。言葉とは裏腹に、フェイトの頭を更に強く抱きしめる。  
 何かが、自分の中で暴れだそうとしていたことは知っていた。それは何故か、堪えなければならない事のような気がした。しかし、あっさりと堰は破られ、あとはただ、本能に身を任せる。  
 我慢していた排泄物を、何時間かぶりにようやく排出出来た……たとえは問題かも知れないが、ちょうど、そんな気分だった。溜まっていたものを、自分ではなく、他人の手によって出せた瞬間。  
 タイネーブが微かに聞き取ったのは、弾ける水音と、自らの嬌声だけだった。  
 既に、彼女の酔いは醒めつつある。朦朧とした意識を何とか奮い立たせ、顔を起こしてみると、前髪の先を濡らしたフェイトが、相変わらず優しく愛撫を続けている姿だった。  
 先ほど耐えきれず、自らの下半身から噴出された愛液が、この世で最も愛しい男の顔を汚している。未だ酔いの醒めない彼女は、その事実を目の当たりにしたとき、ただ萎縮するしかなかった。  
 フェイトは相変わらず潤んだ目つきのまま、突然顔を濡らした液体をぬぐい取り、その手を舐めていた。  
 
 「っはぁっ……はっ……はぁ……」  
 
 タイネーブは床のタイルに背を預け、天井を見上げている。と、その時、髪が濡れるのを感じた。  
 
 「……あ……」  
 
 既に湯は溢れ、浴槽からこぼれ落ちている。手を伸ばして蛇口をひねり、それ以上の浸水を防ぐ。  
 再び水たまりの中に倒れ込んだ彼女の視界に、フェイトの顔が入り込んできた。  
 彼はそっと顔を近づけると、タイネーブの頬に舌を這わせ、にじみ出た涙を拭う。タイネーブは両手を伸ばし、彼の身体を精一杯抱きしめた。  
 
 「んぁっ……!?」  
 
 敏感な場所に、硬いものが押しつけられた。その硬物の正体は、見なくても察しが付く。無意識の内なのだろうが、彼もまた、欲情していた。  
 「……んー?」  
 フェイトは不思議そうに首を傾げた。タイネーブの両手が、彼の衣服を外し始めたのだ。彼はしばらくされるがままだったが、脱ぐべきだと、そう判断したのか、やがて自分からベルトを外す。  
 ズボンと共に下着がおろされ、反り返った怒張が現れた。  
 「……!」  
 露わになったそれに、タイネーブは真っ赤になって顔を背ける。しかし、脱ぐという行為を終えたフェイトは、再び、タイネーブの上に覆い被さってきた。  
 彼の目は、じっと、こちらを窺っている。酔魔の内側の、理性あるフェイトに見られているような気がして、罪悪感と背徳の歓喜が背筋を走り抜ける。  
 そして、タイネーブはやっと、この目の前の男が、忠実に自分に従っているのだと気付いた。手を伸ばせば酒瓶があるのに、それをせず、ただタイネーブが与えてくれるのを待っている。  
 ごっこ遊びはまだ彼の中では続いているようで。酒は、タイネーブに従った後でもらえるご褒美だ、と、そのようなルールが出来つつあるのかも知れない。  
 彼女はそっと指先を踊らせ、自分の着物の胸をはだけた。そして、彼の目を恐る恐る見つめ返す。この忠犬は、主人の意を敏感にくみ取った。  
 フェイトの……男の手が、タイネーブの胸元に滑り込む。少しだけ身を固くする彼女だったが、彼はそっと、優しく、衣服を左右に広げた。  
 既に下半身は露出しているというのに、今更ながら羞恥心が蘇り、タイネーブは両腕で胸元を隠す。一旦手を止め掛けた忠犬は、またしても、鋭すぎるほどに主人の意を読み取った。  
 両腕をどかせ、最後の一枚、下着を取り去る。タイネーブの両手が、天井を掴もうとするかのように、フェイトの頭の左右へのばされた。彼は彼女の背中に手を回し、上体を抱き上げる。  
 
 タイネーブも同じく、両腕をフェイトの首に回し、そして強く抱きついた。彼の体温が、体中に伝わってくる。胸も、下腹部も、その下の陰唇も、全てを彼に押しつけ、肩に顎を預ける。  
 
 「……っはぁぁ…………」  
 
 それだけで、ゆっくりと昇天していってしまいそうなほどに、タイネーブは幸福だった。  
 酒瓶を手に取り、一口飲み込む。そしてもう一口を含むと、フェイトの口の中に、それを流し込んだ。フェイトが全て飲み込んでも、二人の唇は離れない。  
 タイネーブは吸い付くような口づけを続けたまま、そっと右手を伸ばし、先ほどから自分の尻を押し上げようとしていた怒張に触れる。彼自身も彼も、ビクンッと反応した。  
 白絹のような肌の手は、包み込まず、怒張の表面にそっと指先を這わせる。つるつるした感触はやがて、粘り気を帯びたものへと変わった。  
 フェイトが、動く。タイネーブを抱いたまま、彼女の背をそっと、脱いだ衣服の上に横たえる。密着していた二人の身体が離れ、続いて唇が離れ、タイネーブは名残惜しそうに、彼の頬を撫でた。  
 もっと触れていたい。もっと感じていたい。  
 
 「ぁっ……」  
 
 怒張の先端に、下の唇が接触した。押し広げられ、埋め尽くされるような衝撃を予感し、タイネーブは手を伸ばす。それに応え、フェイトは頭を下げると、彼女と再び口づけを交わした。  
 貪るようではなく、啄むような短いキス。それを何度も落とされながら、タイネーブは敷かれた衣服の布を握った。  
 徐々に……徐々に、自分の身体が、彼の怒張を受け入れ、飲み込んでいく。  
 快感は、ゆっくりとではあったが、深く、広く、重くなっていく。そして、どこまでも巨大に。  
 
 「ぁぁっ……あっ……ああっ……」  
 
 やがて、尻に袋のようなものが触れた。ついに彼女の身体は、根本まで、フェイトに貫かれていた。  
 
 無理だと、そう思った。  
 これほどの……巨大な快楽に対して、どうやって沈黙を守れと言うのか。  
 
 「ああっ、はぁっ!」  
 
 ずるりと、亀頭が膣壁を擦りつつ、抜け出る直前まで引かれる。そしてまた、貫く。  
 
 「ぁぁあっ、はっ、はっ、やっっ、んあああっ!」  
 
 浴室に、一個の雌と化した嬌声が響いた。いくら何でも、廊下にまで聞こえてしまうのではないか。そんな恐れは、その解決策もないままに彼方へと弾き飛ばされる。  
 忠犬は、主人の声色を敏感に聞き分け、精一杯の奉仕をするべく、様々に動きを変える。真っ直ぐに出し入れしたり、巧みに緩急をつけたり、突き刺す向きを変え、突き刺してから様々に動き回ったり。  
 両の掌を乳房に置けば、タイネーブの嬌声は一層の艶を出した。  
 彼女は恐怖を抱く。快感が過ぎて、死んでしまわないだろうかと。バカバカしいとも思えるその恐れは、今の彼女にとって切実なものだった。  
 フェイトはタイネーブの身体を、まるで楽器の調整のように、様々に弄り回す。そしてそれは、彼女にとって限りなく最高に近い快感をもたらす。ほとんど絶え間もなく。  
 的確すぎるのだ。巧過ぎるのだ。  
 下半身の激しさとは裏腹に、フェイトのキスは、優しかった。慈しみ、愛でるような口づけ。それが、タイネーブの心を和らげる。  
 
 「んふぅっ……はっ、あんっ、やぁっぁっ、はんっ……!」  
 
 胎内高まっていく、うねりのようなものを、タイネーブは漠然と感じていた。  
 いやだ、まだ絶頂を迎えたくはない。もっともっと、滅茶苦茶に、ぐちゃぐちゃにかき乱して欲しい。この幸福を、快楽を、もっとずっと、続かせたい。  
 
 「ああっ、あっ、あっっ、あぁぁぁぁぁあぁあ、ンぁっ!!」  
 「んんんっ……!!」  
 
 しかし、終焉の時はやってきた。  
 最後に一層大きく、とどめを刺すように貫かれ、彼女は身体を反らせて絶頂を迎える。同時に、フェイトも射精し、胎内にはマグマのような熱をもったものが流れ込んだ。  
 火傷しそうなほどだった。しかし、その熱が冷めていくと共に、タイネーブも靄の世界から戻ってくる。  
 ぼんやりとした頭で、ひどい有様だと感じた。涙と唾液で顔はぐちゃぐちゃで、さぞかしだらしない表情だろう。そしてもっとひどいのは、小水まで漏らしてしまったことだ。  
 フェイトの手が、優しく、タイネーブの頭と顔を撫で、彼の舌は彼女の顔を汚す液体を拭う。彼女が震えながら両手を伸ばすと、まだ力の入らない主人を、忠犬は身体を密着させて力強く抱きしめた。  
 身も心も満たされたタイネーブは、ただ、彼の鼓動を聞いていた。  
 
 
 
 
 
 「しかし、あれだな。流石に昨夜は、私もはっちゃけ過ぎた。正直、すまん」  
 「っつーかアタシ達三人、何で白露の庭なんかで寝てたんですかねぇ? 起きるのおが遅れてたら、いい笑い者でしたよ」  
 「もぅ、ラッセル様ぁ。ちゃんと反省してくださいよぉぅ?」  
 「黙れ、給料下げるぞ」  
 
 ネル、ファリン、そしてラッセルの三人が食堂に入ると、既にフェイトとタイネーブが朝食を取っていた。  
 
 「あれ、フェイト。タイネーブ。随分早いじゃないかい」  
 「お前達、大丈夫だったのか? 私は前半部分の記憶しかないんだが」  
 
 三人とも、記憶がすっぽり抜け落ちていた。  
 
 「いや、それがですね。僕もあまり覚えてないんですけど、ちゃんと入浴して着替えて自室で寝てました」  
 「そりゃすごいな。耳が痛いぞ」  
 
 両耳を塞ぐ仕草をしたラッセルは、ふと、沈黙したままのタイネーブに目をやった。  
 
 「お前はどうだったんだ、タイネーブ」  
 「え……その……私は、最後まで残ってて、その……」  
 「まさか、一人で片づけしたのか?」  
 「ご迷惑おかけしました、タイネーブさん」  
 「いっ、いいえ!」  
 
 彼女は必死に首を振ると、再び、俯いて朝食の皿を眺める。  
 (……私……あれよね。送り狼しちゃったわけよね)  
 酔った人間を介抱すると見せかけて、結局美味しく頂いてしまった。  
 あの後フェイトを誘導し、風呂で身体を洗おうとしたのだが、再び欲情した自分は彼にバックで抱かせた。一度やったんだから、一度も二度も変わらないだろうという気持ちもあった。  
 そして今朝、目を覚ましてみれば、罪悪感が重くのしかかる。フェイトに記憶はなくても、自分はしっかりと覚えていて、その場面を思い返すたびに、バケツでも被って走り出したくなる。  
 
 「あ。塩ですね」  
 「ええ……え?」  
 「「「え?」」」  
 
 応えた後、タイネーブだけでなく、ネル達も声を出した。フェイトが傍の塩瓶を取り、タイネーブの前に置く。  
 
 「あの……フェイトさん?」  
 「ん?」  
 「何で分かったんですか? 私が塩を欲しがったの……」  
 「え? いや、何となく」  
 
 別に、手を伸ばしていたわけでもない。ただ、そろそろ塩を用意すべきかと、そう考えた段階でのことだ。  
 
 「……あうんの呼吸か? まるで夫婦だな」  
 
 ラッセルが、空気を読まずに発言する。  
 
 だらだらと、タイネーブの体中から冷や汗が吹き出した。  
 
 ネルの視線が冷たい。  
 
 (今度は……もっと、お酒をたくさん用意しておこう)  
 
 冷や汗をかきながらも、そんな事を考えると、タイネーブは己の下腹部が、熱を持つのを感じていた。  
 
 
【完】  
 

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