面白いものが見れた。そうウィゼルは満足げに目を眇める。
シャルトスの所有者に力を貸した際、口で言う程興味があったわけではない。
せいぜい余興になれば好しと思っていたのだが、結果は予想以上だった。
絶望的な劣勢を彼女ひとりで―――実際には一人の力ではないが
形勢逆転の立役者はまず間違いなく彼女だ―――ひっくり返した。
オルドレイクがイスラとの一件で傷を負い万全の状態とは言い難かったとはいえ、
見事退けてのけたのだ。
「脆弱さ故の強さ。確かに見せてもらった」
撤退の屈辱に身を震わすオルドレイク達とは裏腹に、ウィゼルの口元は僅かに綻んでいた。
今回の仕事では魔剣の構造を知ることが出来た上、新しい可能性まで掴めた。
これでまた、より強い剣が打てる。
剣匠とも稀代の鍛冶師とも呼ばれる男は、狂気にも似た愉悦にひとり身を委ねる。
構えを解き剣を下ろす。緊張が和らぐと同時にウィスタリアスの重みが消え、アティの姿も元に戻った。
「―――センセ、わざと見逃したでしょ」
「あ、分かっちゃいました? やっぱり私は守る為の戦いしかしたくないから」
「らしいよね。うん、いいと思うよそれで」
会話を聞くともなしに聞きつつビジュは投具の血脂を上着で拭う。
『……』
視線が、痛い。
気がかりそうにちらちら見るだけのものから、かなりあからさまな疑惑を含んだものまで様々だが、
共通するのは「何故、奴がここに?」という一点。
特にアズリアとギャレオは半端でなく殆ど睨みつけている。
同じラトリクスに居ながらも、今まで顔を合わせることはなかった。
二人にとってビジュはかつての部下で隊の裏切者。しかしイスラに切り捨てられた。
どう接すればいいのか判断がつきかねて極力避けていたのが突然目の前に現れたのだ。
動揺するな、という方が無理だ。
空気が限界まで張り詰め、
「あれ」
次いでとさっと軽い音。
ビジュが音源へと振り返る前に、アズリアが横を駆け抜ける。
慌てる仲間に囲まれて、地べたに座り込むアティへと。
「アティ大丈夫か?! 傷はどこだ!」
「いえそうじゃなくて…………貧血」
しばしの沈黙。
「要するにだ。ろくに食事も睡眠も摂ってなかったのに大立ち回りやらかした疲れがいきなり出てきたと」
「あはは」
「笑い事じゃないだろう! 全く貴様という奴は……」
ぶつくさ言いながらもアティに肩を貸し立ち上がらせる。
「貴様は学生の頃からそうだ。自分をないがしろにしすぎる」
「はあ」
「大人なんだから手の抜きどころ位覚えろ」
「アズリアに言われるとものすごーく不本意に感じますねえ」
「……どういう意味だ、それは」
半眼になるアズリアと、笑って誤魔化そうとするアティ。
戦闘の余韻も彼方に吹き飛ばされて、彼女らの遣り取りを愉快そうに見る面々。
ただ一人を取り残し。
結局アティはラトリクスへと強制送還された。
本人がいくら平気だと言っても、他全員から「すぐ無理するから信用できない」と言い切られては
逆らう術はない。まあ大きな負傷もないし、今夜は大事をとるだけで、
明日から普通に動いても良いとは看護人形<フラーゼン>たるクノンの弁。
「―――とにかく今日は休みなさい、か」
無表情のはずのその顔に有無を言わせぬ迫力が見てとれたのは、
アティに多少ながら自覚とやましさがあったからかもしれない。
シャワー浴びてさっぱりした頭をタオルで拭いながら苦笑する。
布地から落ちる赤い髪は洗料の残り香をほのかに漂わせている。
いつものマントとワンピースは洗濯し、新品、とまではいかなくとも着け心地は良好。
糊が効いて、
血の臭いは一切しない。
「……やだなあ」
首を振り余計な思考を追い払う。
せっかく立ち直れたのにまた鬱になってはアリーゼ達に申し訳ない。
気分転換に夜風にでも当たろうとテラスへ向かい。手前の廊下で足が止まる。
テラスには先客がいた。
廊下からの常時灯に浮かぶ白い影に挨拶すべきか否かで迷う。
結局、ゆっくり三数える間の逡巡の後、
「こんばんは」
アティはビジュへと声をかけた。
日が暮れてから急に雲が出てきて、今はすっかり覆い尽くされてしまっていた。
本来眠りを必要としない機界住人達も他の集落に合わせて夜は休むため、
昼の喧騒が信じられないほどに暗く静か。
ビジュから人ひとり分の距離を空けて掴んだ手すりは、夜気に晒され冷えきっている。
「よお」
短いながらも返答があった。
そのまま話すこともなく夜に沈む風景を見る。
静寂が疼痛に変わる直前、
「―――こいつは返しとくぜ」
「え……っとと」
無造作に放り投げられたそれを慌てて受け止める。
掌に収まるのは青いサモナイト石。
(返す……って私じゃなくてメイメイさんにでは?)
問おうとして、刻印に気づく。サプレスの天使、ピコリットとの誓約を表す印だ。
メイメイはこんなのも渡していただろうか―――そう考えて、
「……っ」
思い当たる。
ビジュは視線を逸らしている。
予想は正しいらしい。
「これで貸し借りなしだ」
「……ええ、そうですね」
あの夜のことは話題にしようとはしなかった。
言い合わせたわけではないが、どちらにとっても良い思い出とはなり得ないので避けてきたのだ。
今も蒸し返す気はないらしく、別の話を振る。
「で、後はイスラの野郎から剣ぶんどるだけか」
「それから遺跡封印して、それで全部終わりです。間違いなく一番きつい戦いになるでしょうね」
まあやるしかないですね、と続けてアティは微笑んだ。
そしてそのままの笑みで、
「貴方は無理に戦わなくてもいいですから」
ビジュのどこかが違和感を訴えた。話の内容はいつものアティらしいというのに。
「俺は自分のためにしか戦う気はねェよ」
「そうでしたね。じゃあ自分の身は自分で守ってください」
言われなくてもそうするつもりだった。
逆にアティが『当たり前』を口にしたのに落ち着かなくなる。
「剣は確かに修復できました。けれど私独りでは多分何もできなかった。
誰かの力を借りないと大切なものひとつ守れないくらい弱いと、私自身が知っているんです」
これ以上言わせるなと警鐘が鳴る。深みにはまりたくなければ止めろと。
「こんな弱い人間頼るとろくなこと―――?!」
行動に思考がついていかない。
気づけば洗いざらしの赤毛がすぐ目の前にあった。
洗髪料が柑橘系というのは判ったが種類までは―――ってそれはどうでもいい。
問題なのは何故アティがこんな近くに、しかも自分の腕の中にいるかということだ。
解答。ビジュが抱き寄せたから。
「…………」
だらだら冷や汗が流れる。悲鳴を上げるか突き飛ばされるか、もっと痛い目見るか。
いや、このまま沈黙を続けるよりは幾らかましか。
アティが不意に手を肩から後ろへ遣る。
触れたのは、ビジュの腕。布地に覆われたそこにはシャルトスに貫かれた痕。
「……怪我やっぱり残してしまいましたね……ごめんなさい」
「……貸し借りなしだっつってんだろ」
しばしの迷いの末アティはぽつりと唇を開く。
「守られる、っていうのは大事に思われてるってことだし、大切な人達を守りたいって心から思う。けど」
囁きは小さく途切れ途切れだったがやけに響いた。
「時々、そういうのが重くてたまらなくなるんです。
……こんなこと思っちゃいけないのに。本当に、皆が好きなのに……」
泣くだろうか、と考えたがアティは泣かなかった。少なくとも涙を流そうとはしなかった。
何故アティが剣砕かれた程度で殻に閉じこもってしまったのか、唐突に理解する。
壊れてしまった方が楽だからだ。
例えば、かつての自分のように。
他者の存在に振り回されるのも、与えられる感情に怯えるのも、そんな自分を厭い絶望するのも、
壊れてしまえば。
―――全く。知らなければ、彼女は自分とは違うのだと思い込んでいれば
手を届かそうなどとしなかったのに。
もう手遅れだが。
「俺はテメエを守るのもテメエに守られるのも御免だ。だから―――もういい」
冷淡ともとれる言葉が、裏腹の強い抱擁がアティを、崩す。
ぎくしゃくと伸ばした腕は白い軍服を拘束し、
ひとつになれとばかりに寄り添った。
これは恋慕ではない。
憐憫―――しかも相手に己が影を見る、歪んだ自己投影の末の感情。
けれど。単なる傷の舐めあいでしかなくとも。
どうしようもなく寂しいのは事実だし、目の前にどうやら似たような気持ちを抱えた奴がいて、
互いに求め合っているのならそれだけで充分。
戒めを解く。
どちらも何も言わない。視線すら合わせようとしない。
この均衡を必死で保とうとでもいうように。
部屋の明かりを消す。カーテン引いたままの窓からも光は差し込まないが、
要所に据え付けた発光パネルのおかげで物の輪郭程度なら判別できる。
衣服は全部脱いでベッドに潜り込む。
ごく自然にビジュがアティの上になる。くだらないことだがちょっとばかり矜持が満たされた。
片手を支えに緊張気味の身体へと圧し掛かる。
アティの喉から殺しきれなかった悲鳴が洩れる。
秘所は人差し指一本すら拒んでいた。
挿入前に慣らしとく位は、と考えていたのだがそれすらはじかれた。
「だ…大丈夫、ですから」
どうせ嘘つくならもっと巧くつけ、と言いたくなる声調に呆れるが、とりあえず。
「テメエが平気でもこっちはそうじゃねェんだ」
「……はい?」
「今から何ヤルと思ってんだ」
「なに、って……」
暗がりで見えないが上がる熱からアティが頬を紅潮させたのが分かる。
「言っておくが、きついと痛てえんだよ」
「え、あ、そうなんですか」
本当に無理矢理跨ってきた女と同一人物かとツッコミたくなる。
「……シャルトスのせいか?」
「……唆されたのは事実ですけど……あんなことしたの、やっぱり私ですから」
どうにか強張りをほぐそうと深呼吸していたアティが小さく答える。
責任転嫁のできないところや、他人だしにしなければ苦痛の緩和すらしないところが
らしいと言えばらしい。妙にむかつくが。
感情をぶつけるように豊かな乳房を掴む。いきなりな行為に一瞬仰け反った。
片手なのが残念だがそれでも柔らかい肌と中心のしこりは充分楽しめる。
アティの呼吸が浅く継がれる。がちがちだった身体がようやっと動ける程度にほぐれる。
ふと、受けるだけだった身体が寄せられ、
押し当てられたぬくもりに今度はビジュが固まる。
火傷痕を這う艶めかしい感触。
「……舐めても消えねェぞ」
無造作に言い放ったはずの言葉は情けなく掠れていた。
蹂躙が、止まる。触れたのは丁度頚動脈の辺り。背筋を駆け上がる悪寒とも快楽ともつかぬ冷気。
人間の歯ごときで喰い千切れるわけでもないと分かっているのに、
血流を柔らかく押さえられる、それだけで脈拍は不必要なまでに速まる。
受け入れる側の女に命を握られる―――奇妙な昂揚。
こくり、唇がたまった唾液を呑み込み動く。
首筋に蠢く他者の体温。洩れた微かな吐息。
「知ってます」
濡れた肌を撫でる応えは情欲を多分に含む熱との乖離も甚だしく、苦しさすら滲ませるというのに。
しなやかな指先が頬に触れ、刺青を、その下に隠した傷をなぞる。
「これはこれで治りきってるから、私じゃどうしようもないですよね」
アティだけではない。他の誰にも、ビジュ本人にすら刻み込まれた痕を消すことなど不可能。
せいぜい見ないふりして忘れてしまうのが精一杯。
そう分かってはいるのだが、獣めいた治癒のまねごとが理性を削り落とす。
「……ひうっ」
そこは先程よりは開いていた。
指を足してかき回す。粘性の水音と湿った感触。
先端をあてがう。
緊張に強張る細腕が背をきつく抱いた。
認めるのも癪だが、アティの甘さや信念に嫉妬に近しい感情を抱いていたのは事実。
それは自分には決して持ち得ないものだから。
ゆっくりと進める。
限界を引き延ばすかのように。
終わりをできうるだけ遠くへと追いやるかのように。
華奢な腰が痛みに耐えかねゆらめく。いっそひと思いに終わらせてと懇願する。
どちらを望んでいたのだろう。
胸が悪くなる程お人好しで愚かな彼女を、ずたずたに踏みにじって己れと同じ処まで堕とすことか。
それともとうに失った想いを彼女ごと手に入れたかったのか―――『アティ』が欲しかったのか。
答えは見えない。
以前一度は受け入れたはずのそこが軋む幻聴を聞く。
快楽は未だ遠く、浅く継ぐ息には甘さもなく。それでも行為を止めるなど考え及ばず。
―――この交わりで何かが生まれるとは到底思えないのだけれど。
月のない夜に。己れすら見失う闇のなか。
表層を失い初めてほどかれる想いに絡めとられてしまい。
腕の中の相手を愛していると錯覚してしまいそうだ。
後始末終えても、どちらもベッドから降りようとはしなかった。
だからといって再び抱き合うわけでもなく、
夜が明けるまでに自分の部屋に戻らないと心配されるだろうな、とか
この状況見られたら言い訳効かないだろうな、などと色々考えながら
近すぎる他人の体温に居心地の悪さを覚えつつうつらうつらしていた。
そうして幾度めかのまどろみから覚めたアティにふいに、
「テメエ、この戦いが終わったらどうする」
んー、と悩む仕草につれて赤い髪がうねり汗と香料の混じった匂いが微かに香る。
「とりあえずシャルトス……じゃなかった、ウィスタリアスで結界解けば島の外には出られます。
そしたらまずアリーゼの御家族に連絡取らなきゃ。心配してるでしょうから」
ビジュは、とは聞かなかった。
情報漏洩は重大な規程違反だ。特にこの場合は被害が大き過ぎる。
そこらのちんぴらに手入れ情報流した、なんてのとは比較にならない。
軍法裁判にかかれば、良くて軍属剥奪の上服役、悪ければ処刑。
そして九分九厘、悪い方に傾くだろうと自覚する。
―――結局、死ぬのを遅くしただけなのだろうか。
苦い思いは霞がかる思考の内鈍化する。
まあ構わない。明日が始まるにはまだ時間がある。
答えのでない気だるさに今は溺れていたかった。