いつもの街角 〜Stand by "you″〜 <前編>
潮風が脂気の少ない髪を持ち上げ散らばらせる。
目に掛かる分だけを指先で除け、アズリアは水平線を眩しげに見据えた。
「この匂いともお別れ、か」
自分で言っておいて感傷に過ぎると苦笑する。
「隊長。出港準備、全て完了しました」
「ご苦労」
生真面目な敬礼をするギャレオを労い、ふと笑みを浮かべる。
「何か言いたそうだな?」
「は、いえ」
いきなりの台詞に少々うろたえた様子だったが、
「……自分はやはり上層部の決定には不満があります」
アズリアからの答えはない。
「仮にも正式部隊を率いていた隊長が、何故聖王国との国境警備隊などと……。
あそこは退役直前の兵士がまわされる、いわば閑職ではないですか」
「そう言うな。軍属を剥奪されなかっただけましだと思わねばな。
それに何処であれ、国を守るという仕事に変わりはない」
「……せめて、彼女の証言があれば」
「ギャレオ」
制止に会話が途切れる。
戦いの後、帝国に戻ったアズリアは軍へと報告書を提出した。
『秘密裏に運んでいた品を海賊の襲撃の際海へ沈めてしまった上、
嵐で部隊全壊させた無能な軍人』としての報告書を。
それは『忘れられた島』のことは一切書かない、ある意味捏造もので、
ばれたらそれこそ軍部に強大な影響力を誇るレヴィノス家でも傾ぎかねない。
しかし、そう判っていても、あるいは軍人としての倫理に反してでも。
「あの島はそっとしておくべきなんだ」
島の住人のために。彼らを護りたいと願う親友のために。
「なあ……私は、間違っていると思うか」
―――自分のやったことが絶対に正しいとは思えない。
死者より生者のことを考えて、などというおためごかしは口が裂けてもできるものか。
「……自分は、アズリア隊長にどこまでもついていきます」
「うまく逃げたな?」
「い、いえ、そのようなっ」
慌てる様子がおかしくて、ついふき出してしまう。
死んでいった兵たちに、彼らの遺族にどのような償いが出来るのか分からない。
(イスラ……お前にも、結局何もできなかった)
分かり合うことのなかった弟への悔恨が胸を噛む。
だが、これは自らが選んだ道。ならば進むしかないのだろう。
「さあ行くか」
「はっ」
本日は晴天。まさに旅立ちに相応しい日和である。
学術都市の名で呼ばれるベルゲンの街には、学校や美術館、古書店などが軒を連ねている。
中心街にほど近い図書館に、ビジュの姿があった。
島から戻ったビジュは謹慎を言い渡された。処分が決まるまでの猶予期間というわけだ。
逃げる気は起きなかった。
監視があったから、だけではない。
甘んじて処罰を受ける気になった、というのも正しくない。
どちらかというと「好きにしやがれ」という半ば捨て鉢な気分からだった。
どうせ次にへまをすれば軍法会議かけられる身だったのだ。
第六部隊への配属もアズリアへの嫌がらせに使われたに過ぎない。
イスラの誘いに乗った時から―――いや、それよりも前から、
いつかこうなるんじゃないかという予感はあった。軍はそれほど甘い場所ではない。
終わりを沈黙のまま待ち、
そしてついに呼び出しがあった。
「こっちだ」
案内された場所にビジュは戸惑う。
てっきり裁判所かもしくは処刑場へ一直線、というのも考えていたのだが
何故か連れてこられたのは士官用の執務室。
先導役の兵士がドアを開け、行けと合図する。本人は外で見張りをするらしい。
部屋へと入り、困惑は更に深くなる。
中にいたのは二人。うち一人、脇に立つ女はよく見知った顔だった。
アズリア・レヴィノス。かつての上官。
そしてもう一人、執務机の前に腰掛けた男は。
「元第六海兵隊所属、ビジュだな。私はレヴィノス将軍―――アズリア、イスラの父親でもある」
一瞬呆ける。次いで疑問符が頭の中を掻き回す。
レヴィノス家といえば、数々の有能な軍人を輩出してきた名家。
そこで現在将軍職に就いているのは……目の前の男。
「何の、用ですか」
「君の処分についてだ」
男の声は冷淡な程に落ち着いている。
続ける内容は簡単なものだった。
情報漏洩の件を不問にする代わりに、軍を辞め帝都から離れる事、及び島での事件について沈黙を守る事。
つまりは生かしといてやるからイスラの、レヴィノス家の人間が起こした
不祥事については口を拭え―――そういうことだ。
「判っているとは思うが、君は選べる立場ではない」
沈黙を続けるアズリアを盗み見る。
アズリアは俯き、拳を微かに震わせていた。
不正を嫌う彼女が、どんな心持ちでこの場に立っているのか、それだけで見て取れる。
男が冷ややかな眼差しを向け返事を促す。
ああそうだ。選択の余地なんてありゃしない。
「……承知しました」
吐き出すように言うと、男はこれで終わりだとでも言うように顎をしゃくる。
出て行け、ということらしい。
敬礼をする気にはなれなかった。そのままきびすを返し、
「―――私は」
それまで一言も発しなかったアズリアが、突然口を開く。
振り返ると絨毯を睨みつけたまま肩を震わせていた。
「私は本部へ報告する前に、まず父へと事のあらましを説明した」
男の表情は変わらない。アズリアは、
「……それだけだ。引き止めてすまなかった」
懺悔なら別の人間にした方が良いだろう―――それとも、もう二度と会うこともないだろうからか。
制服及び階級章の返還。それに三十分ばかりの事務処理で全て完了。
何だかんだで十年以上付き合ってきた場所に別れを告げるのに、何も感じなかったと言ったら嘘になる。
その感情を振りきるように住処を引き払い、ベルゲンへとやってきた。
この街を選んだのに特に理由はない。単に大きな街の方が職が見つけやすいからだ。
図書館の警備員というのも、退役軍人によくある再就職コース。
贅沢さえ望まなければ充分暮らしてゆける。
たった半年だ。島での時間を入れても一年に満たない。その間に随分と変わったものだ。
「兄さん、交代だよ」
声を掛けられ我に返る。西の空が赤く染まっていた。丁度夜警への引継ぎ時間だ。
「ああ、じゃあな爺さん」
「お疲れ」
同じく軍人だったという老人は、左足を軽く引きずりつつ門へと立つ。
帰り支度をしようと廊下を歩く。
図書室にはまだ来館者が残っていた。時間ぎりぎりまで居座るつもりなのだろう。
ガラス越しに見えるのは学生らしき姿。熱心なことだ。
ふと、鮮やかな色彩が目を捕らえる。
夕日色の髪が、よく似た女を思い出させた。
馬鹿々々しくなって頭を掻いた。
赤毛の女なんか、いくらでもいる。それに彼女がここに居るはずがない。
女はカウンターで司書から本を受け取り、鞄に詰めようとしている。
よしんば『彼女』だったとして、それでどうする。挨拶? そんな間柄ではあるまいに。
視線を引き剥がし、奥へと向かいかける。
女が外へ出ようと身をこちらへまわし、
見てしまった。
もう少し早く行動していれば、或いは女が歩きながら鞄の口を閉めるなんていう無作法な真似をしなければ。
時間にして一秒足らず。互いに動けなくなる。
女の手がおろそかになり、鞄が滑り落ち、
「え……わわっ!」
女―――アティが中身を派手に床にぶちまけるのを見て、何故だかビジュは逃げたくなった。
十数分後。アティとビジュは夕暮れのなか連れ立っていた。
結局あの後ビジュは散乱する本拾うのを手伝う羽目になった。
やりたくはなかったが、情けなくも司書の無言の圧力に根負けしたのだ。
それから帰り支度を済ませたら外にアティがいて、こうして駅までの道を歩いている。
会話はない。
元々こういうのが合う関係ではないのだ。
身体は重ねたが、それだけの。
だがさすがに耐え切れなくなったのか、
「でも、貴方がここにいるなんて思いませんでした」
「それはこっちの台詞だ。テメエ島に残るんじゃなかったのか?」
特に聞いたわけではないが、そういう雰囲気が出来ていた気がする。
「それも考えたんですけど……『似非』じゃなくて、本物の医者になろうと思って」
アティがふいにくすくすと笑う。
「貴方に言われたの、あれ結構応えたんですよ」
「そりゃどうも」
かけらも謝罪のない相槌だが特に気にした様子もない。
「あの子たちを見ていたら、もう一度学んでみたくなって。
考えてみると、学生の頃は面倒みてくれた人や奨学金のことがいつもどこかにあったから。
今度は誰かのためじゃなくて、自分のためだけに勉強したいな、って」
赤い髪が夕日を受けて一層映える。
「で、生徒ほうりだして出てきたわけだ」
「……少しは歯に衣着せてくれませんか。大体ほうりだしたって何ですか。
しっかり基礎は教えて、ヤードさんへの引継ぎもしてからこっち来たんですけど」
むくれても大して迫力出ないのは童顔だからか、本気では怒っていないからか。
視線がどこか遠くへと向かう。
「……それから、少し皆から離れることにしたんです。
あのままだと私『守る』っていうことを押し付けてしまいそうだから」
「剣は」
アティは黙って自らの腕を握る。
「多分、一生付き合わなきゃいけないでしょうね」
「……そうか」
過去を完全に消すのは不可能に近い。逃げようが立ち向かおうが、どちらにしろついてくるもの。
胸に溜まる想いも。それを吐露した夜も例外ではなく。
「路線どっちですか」
「上り……っつうことは反対か。やっとお別れだな」
「どういう意味ですか」
ざわめく人ごみ。黄昏に染まる景色に滲む人影。
「……あの図書館で、警備員してるんですよね。今日まで知りませんでした」
「ああ。テメエはよく来るのか」
「予備校が近いから」
その先の言葉は。
例えば、友人か恋人のように再会を約束するのには、互いの感情は曖昧過ぎる。
だから。
「また会えるかもしれませんね」
そう。それ位不確かなほうが相応しい。
「じゃあな、アティ」
「ええ、さよなら」
それは、過去を持つ者同士の馴れ合いでしかないかもしれない。
だからといってそれが幸せでないなんて、誰に言い切れるのか。