帝国の南に位置するひとつの村、その墓地に女は居た。
腰まである長い髪は、今正に稜線を染めゆく夕日と同じ色。
「……じゃあもう行くね」
一時間近くひとところに留まっていたが、そろそろ戻ったほうがいいだろう。
女はそう判断し立ち上がる。そして最後に。
「……」
迷いながら。
「……さよなら、お母さん、お父さん」
掠れた声でそれだけを囁き身を翻す。
振り向くことはもうなかった。
部屋の中を懐かしげに見回す女に、村の長たる老人は声を掛けた。
「懐かしいかい、アティ」
「あ、はい。離れて随分経つのに変わってなくて……何だか嬉しいです」
返事と共に向けられた笑顔は年齢の割には随分幼く、まだ二十歳を過ぎたか
どうかの娘に見える。やわらかい目鼻立ちがそうさせるのかもしれない。
赤毛の女―――アティがこの家で暮らしたのは、彼女が両親を亡くしてから
軍学校に通うため村を出るまでのほんの数年間にすぎない。
けれどアティにとってここは確かに『我が家』だったのだ。
そう、だった。
「それで。やっぱり村にはもう戻らないのかい」
「……ごめんなさい」
頭を下げるアティに老人は慌てて言う。
「謝る事はないだろう。アティは元から頭が良かったし、
こんな小さな村で一生を終えるのは勿体無いというものだよ」
優秀な人材を村に留め置けないのは村長の立場からしても、親代わりからしても
惜しいと思う。けれどそれよりも今は彼女の選択を祝福してやりたかった。
「しかし泊まれるのは今夜だけなのか。残念だな」
「街の方に人を待たせているので、あまりゆっくり出来ないんです」
ふと思いついて訊ねてみた。
「もしかして……旦那さんかい?」
一瞬アティはきょとんとした顔をして、次いで勢いよく手を否定の形に振った。
「そんな違います!」
「そうか、いや、アティも結婚していてもおかしくない歳だからなあ」
「本当に違うんです。
……
……でも」
―――目の前の娘が幼い時分、酷く大人びた笑顔を度々見せていたのを思い出す。
何かを諦めてしまうかのような、最初から望むことを抑えてしまうような、年頃の
少女にはあまりにも似つかわしくない、喪失を体験した者のみに可能な、静かな表情。
けれど今は。
「同じくらい大切なひとです」
穏やかで、確信に満ちた、言葉。
そうか、と老人は相槌を打った。ここで一緒に暮らしてきたはずの彼女がいつの間にか
遠い存在になってしまったことが少しばかり寂しく。同時に一人立ちを果たしたことが誇らしい。
「いつか連れておいで。ここはアティの故郷なんだから」
だから何時でも帰ってきていいのだと。
アティは、たった一言、
「ありがとう、ございます」
小さく震える声で呟いた。
帝国最南端の召喚鉄道駅はそこそこの賑わいを見せている。三日に一度の
帝都方面への列車が出るのが今日なのだ。
ホームに設えた長椅子を占領するようにしてビジュは辺りを眺めていた。
ガキじゃあるまいし一人占めする気は本人にはさらさらないのだが、
目付きの悪さと顔の左半分を覆う刺青に周囲の人間が恐がって近寄らない。
「―――全く、どこのヤクザがいるのかと思っちゃったじゃないですか」
いや、一人いた。
「誰がヤクザだ、誰が」
「貴方……かな?」
ふざけた答え。隣に座るアティを半眼で睨む。
「まあ軍人もヤクザも似たようなものですし」
本職どちらに聞かれても怒られそうな台詞だ。
「遅かったな」
「そうですか? 暇なら一緒に来れば良かったのに」
「ンないど田舎行く気なんざねェんだよ」
それは本心からなのか、久しぶりの里帰りを邪魔したくないがゆえの
下手くそな心遣いなのか。
「まあ確かに田舎ですけどね」
アティはつっこまないことにした。訊いても前者だとしか答えないだろうし。
「……で」
「はい?」
「墓参りだよ。終わったのか」
「……ええ。最後だからじっくりやってきました」
声に寂しげな陰が落ちる。
「言われちゃいましたよ。『アティは相変わらず年齢より下に見えるな』って。
それはそうですよね……年取ってないんだから」
アティの容姿は、数年前あの島でビジュと会ったときから変わっていない
―――いや、変わらな過ぎた。確かに成長期を過ぎた人間の変化は
見分けにくいだろう。だが、それを差し引いても。
アティが無意識のうちに左腕を押さえる。
ウィスタリアス。絶大な力を所有者に与える魔剣は、反面持ち手を選ぶ。
その資質、魂の輝き、全てを兼ね備える適格者たる存在を見つけるのは
砂漠で砂金粒を探すに等しい。
故に魔剣は適格者を『護る』。
ヒトには過ぎたる力を与える。
ヒトの器ではくくりきれぬ再生能力を与える。
ヒトにはあらざる不老不死の終わりなき生を、与える。
手に入れた適格者を失わぬために。
それを選ばれし者の特権ととるか、時の牢獄ととるかは適格者次第。
アティには、まだよく分からない。
「だからもし墓参り行けるとしたら……そうですね、いっそ二十年くらい
間を置いて、『私アティの娘です』とでも誤魔化すしかないですね」
冗談めかした言葉。しばしの沈黙の後。
「……島に戻る気は」
アティが驚いてビジュの顔を見る。
「あの島、時間の流れが違うんだろう? そっちの方がいいんじゃねェか」
少なくとも、ここで流れの異なる時を生きるよりは。
「やめときます」
「何で」
「貴方はここにしか居ないから」
思いっきり吹きだした。
「ちょっとそこは笑う所じゃないでしょう?!」
「うるせえテメエは俺にどんな期待してんだ」
「…………ああそうです私が馬鹿でした」
すねるアティ。その頭から帽子を奪いぐしゃぐしゃに頭撫でまわしてやる。
「何するんですかー!」
「いやこういうのがお望みかと思ってなあ」
「違います!」
帽子を取り返ししっかりとかぶり直す。
頬が朱い。怒り六割、周囲の視線への恥ずかしさ二割、その他二割といったところか。
列車到着の合図が響き渡る。
「さて行くか……つっても帝都にゃ将軍殿の目が光ってるから入りにくいんだよな」
「じゃあ途中下車してパスティスにでも向かいます?
シルターン自治区とか、学生時代の経験生かしてご案内しますよ」
「悪くねェな」
道がどこに続いているのか知らなくとも進むことはできる。
―――きっと幸せに繋がってるのだと信じることも。自分の居場所を、つくることも。