―――凄く、厭な夢を見ていた気がする。  
例えば、航海中に突発的な嵐に遭ったりとか、そのせいで溺れかけたりとか、どうにか助かったはいい  
けれど、砂浜で日干しになりかけているとか―――  
「―――ッ?!」  
意識が急速に明瞭になる。目蓋をこじ開けるのと砂まみれの上半身を起き上がらせるのと目眩で再び  
思考能力が明後日の方向へ飛びそうになるのを必死で抑えるのとを同時にこなし、アティは周囲を見渡した。  
青い海。白い砂浜。茜に燃える夕空。緑にけぶる森。  
美しきかな大自然。山間の寒村で生まれ育ったアティにとっては憧れすら覚える風景である。  
全く、うっかり遭難中という状況でなければ今の二十倍は楽しめただろうに。  
遭難。  
浮かんだ単語が頭痛を引き起こし、アティはこめかみを指で押さえた。  
(ええと……何がどうしてこうなったんだっけ……)  
 
順序立てて回想してみる。  
一、護送任務に就いているところだった。  
二、どこから情報が洩れたのか知らないが、海賊が襲ってきた。  
三、戦闘の最中にいきなり嵐が起こった。  
四、その際うっかり海に落ちてしまった。  
五、  
「現在に至る、ですかね」  
とりあえず立ち上がりシャツの砂を払う。白衣は海中でもがく内に脱げてしまったのか見当たらなかった。  
命があるだけでもまし、なのだろうか。ここが何処かも分からぬし、同僚どころか人っ子ひとり見当たらない  
場所ではいまいち有難みがないが。  
頭痛はまだ続いている。どころか段々酷くなっていく気がする。  
今自分は随分と酷い顔をしているだろう、と思いつつ立ち上がり辺りを見渡した。もうすぐ日が暮れる。  
何処か安全に休める場所を見つけねばなるまい。  
 
「……あ」  
鬱蒼とした木々の間に、道が見えた。  
近寄って調べてみれば、舗装はされていないものの、獣道ではない明らかに人が踏み固めた道。そう古い  
ものでもなさそうだ。  
これで、少なくとも無人島でサバイバルという事態は避けられる。此処の人間が遭難者に友好的かどうかは  
さておいて。  
少しばかりの逡巡の後。  
アティは森の中へと歩き出した。  
 
 
晴れ渡る空に星が瞬き始める。びっしりと天空に貼りつき輝く光は、圧迫感さえもたらす。  
それとも今の状況がそう思わせるのだろうか。  
アズリアはしかめっ面で髪先を引っ張り、隣で分度器を覗く男へと問いかけた。  
「どうだミスタ・スティル、位置は分かりそうか」  
「……駄目ですね、星の並びが滅茶苦茶だ。せいぜい分かるのは、此処は自分が来たことどころか  
 星図すら見たことのない場所だってえ程度です」  
「……そうか。ご苦労」  
苛立ちを悟られぬよう、労いの言葉を口にする。  
常に冷静であれ。泰然たれ。  
態度で部下に不安を与えるのは避けるべきだ。特に、こんな不安定な状況下では。  
 
過ぎたこととはいえ、今思い出しても腹が立ち―――ぞっとする。  
情報洩れがあったとしか考えられない、正確な海賊の襲撃。  
そして、理不尽な、嵐。  
天地がひっくりかえるような衝撃を、骨の髄まで凍らせる波飛沫を、忘れられようはずもない。  
 
アズリアは副官のギャレオに助けられ無事だったし、他の兵士もほぼ全員奇跡的に生きていたが、  
(イスラ……アティ……)  
目蓋に生じた熱さを堪えようと奥歯を食いしばる。  
何処ともしれぬ島に護衛船ごと流れ着いた時、弟と親友、ふたりの姿はなかった。  
大丈夫かもしれない。クイーン・アミスは襲撃に耐え切り沈没せずに済んだのかもしれないし、よしんば  
海に投げ出されたとしても後で救出されたのかもしれないし……  
握る拳に力がこもる。  
そんな都合のいい話。あるわけが、ない。  
「隊長?」  
呼びかけに慌てて意識を戻す。  
「あ、ああ、すまん、もう一度頼む」  
「いえ……やはり奇妙です。嵐は多く見積もってもせいぜい四時間。その間に全く位置の掴めない  
 場所まで流される等、普通なら在り得ません」  
そう、在り得ない。普通なら。  
だが原因は何かと聞かれれば、首を横に振るしかない。  
要するになにひとつ判らないのだ。  
溜息を寸前で殺し、思い出したように訊ねる。  
「そういえば、ビジュ達はまだ戻っていないのか?」  
「偵察に向かったのは三十分前ですよ。戻るにはまだ早いでしょう」  
「……まだそれだけしか経っていないのか」  
不安が時間感覚を狂わせているのだろうか。  
見上げれば満天の星空。  
押し潰さんばかりの煌めきに、アズリアは我知らず身を震わせた。  
 
 
森の中は星明りがあるせいか、意外なほど明るい。  
乾いた土を踏む自分の足音がアティの耳に届く。それからまばらな虫の音と、小動物の駆けるがさりという  
物音。濃密な木の匂いが、ふと故郷を思い出させた。  
帝都では滅多にお目にかかれない、生き物のさわめく闇。  
頭痛は大分治まっていた。耳奥のあたりに淡く淀むものがあるが、警戒を乱す程度でもない。強いて言えば  
違和感、とでも表せばいいのか、ボタンをひとつ掛け忘れてしまったかのような落ち着かなさがある。  
懐のサモナイト石を何度も確かめる。直接的攻撃には自信のないアティにとっては、召喚術だけが頼りになる  
武器だ。  
  違和感。  
しかし此処は何処なのだろう。体力の消耗具合からそう長くは海に浸かっていたわけでもなさそうだから、  
帝国領海なのは確かだろうが、こんな島があるとは知らなかった。  
「海図、見落としちゃったんですかね……」  
それとも未だ発見されていなかった島なのか。  
  違和感。  
不安がある。焦燥が胸を灼く。同僚らは無事なのか。他の乗客らはどうなったのか。  
海賊は。輸送していた術具は。  
自分はこれからどうすれば。  
  違和感―――  
そこまで来て、やっと気づく。  
虫の声が何時の間にやら止んでいた。  
足を止め周囲に警戒の視線を巡らせる。一度知覚してしまえば、何故それまで気づかなかったのか  
信じられない。  
こんなにも、強張り重く冷える空気だというのに。  
頭痛が少し増した。  
脳髄に響く剣戟のせいだろうか。  
……剣戟。  
 
戦いの音。  
「……っ!」  
迷いが動作を留める。情報を得るべく危険を犯してでも近づくか否か。それとも君子危うきに近寄らずを  
実践するか否か。  
迷っていたはずだった。  
なのに足は勝手に音源へと走り出していた。  
心臓が喧しい。不快な淀み。  
 
早く、と自分では無い誰かが囁いた。  
 
 
偵察を命じられてから半時間ばかりが経つ。ビジュに率いられた偵察隊総勢六名は、  
ちょっぴり危機的状況だった。  
「ちっ……なんだよここは……」  
構えた腕が一閃し投具が放たれる。刃はあやまたず、兵士のひとりに襲いかかろうとしていた影へと  
吸い込まれた。  
「はぐれだらけじゃねェかよっ!」  
罵声と共に、もう一撃。  
ひこひこ動く五歳児くらいの大きさのお化けキノコ、という、見ようによっては愛らしくなくもない……いや、  
限界まで裂けた口のせいで矢張り可愛くないはぐれ召喚獣が、胞子を撒き散らし悶えた。  
召喚獣の種族によっては胞子に毒を含むものもあるのだが、これはどうやら大丈夫のようだ。  
舌打ちが洩れる。注意はしていたが慣れない場所のこと、知らぬ間に召喚獣のテリトリーに入り込んで  
しまったらしく、あとからあとから襲ってくる。  
縄張りを荒らしたこちらが悪いといえば悪いのかもしれないが、  
「―――はぐれの分際で人間サマに楯突いてんじゃねェ!」  
攻撃を受けたなら、徹底的にやり返す。当然の話だ。  
「うわわわわわわっ!!」  
 
背後から情けない悲鳴が響く。  
振り返れば、  
『……』  
「見てないで助けて下さいよおっ!」  
小さめのお化けキノコが兵士の腕に噛み付いている。軽いパニックに陥ったのかひたすら腕を振り回している  
姿は、はっきり言って間抜けだ。嵌めた手甲で召喚獣の歯が止まり怪我することもないのが、じゃれあいに  
見せているのだろう。  
「……和みますかね?」  
「和むかっ!」  
怒鳴って懐から抜いたナイフをぶち当てた。  
「ビジュさん当たりますって危ないですって!」  
「知るかボケ」  
落ちて痙攣を起こす赤っぽい傘つきの塊からナイフを引き抜き、止めに蹴りを、  
 
『―――待テ!』  
くぐもった制止。背筋に落ちる悪寒に圧され、思いっきり地面を蹴る。  
直後、空間を薙ぐ皓い刃。  
飛び退き五歩ほど下がったところでやっとビジュは相手を見た。  
白く霞む空気を纏い、白い大剣を構える、白い鎧の『何か』。  
ニンゲンではない。見れば判る、こんな異質な気を放つものが自分たちと同質であるはずがない。  
「化け物の親玉、ってわけかよ」  
『……』  
「だんまりか……気に入らねェな」  
低く呟き鎧に向かって構える。呆然としていた兵士らも慌ててそれぞれの武器を向けた。  
鎧が、表記し難い咆哮を上げ。  
再び剣が振り下ろされた。  
 
 
何が起こっているのか。何が起ころうとしているのか。  
アティは、走る。息を切らし汗を滴らせ肺を酷使し、尚駆ける。  
不安なのだろうか。それこそ非友好的な態度を取られかねないとしても人を求めてしまうほど、心細かった  
のだろうか。  
―――違う。  
この軋みはそれだけではない。  
疑問を抱えたまま唯走り、  
視線の先に、  
見慣れた姿を見つけ  
 
「……っ?!」  
 
頭痛が消える。替わりにかちりと何かが嵌まる音がして、視界がひどくクリアになる。  
思考より先に編み上げる術。誓約とサモナイト石を用い異界より力持つ存在を喚び、己が魔力を代償に  
使役する。  
其れ即ち、召喚術。  
 
 
二度目の新手は、人間だった。しかも見知った顔があった。  
「―――帝国の!」  
「海賊?! はぐれとつるむたァ、テメエらに随分お似合いだな」  
嘲りは多少引きつっていたかもしれない。  
半日前に剣を交えたばかりの海賊らと、見慣れぬ顔がふたつ。赤毛の青年と、理知的な眼鏡美人。  
どうせ彼らも一味だろうと見当はつくが、何故ここにいるかは、  
(……こいつらも嵐にやられたか?)  
まあどうでもいい。重要なのは敵が増えたということだ。  
 
「ファルゼン、貴方は下がって」  
『……』  
眼鏡の忠告に従い、鎧が戦線から離れる。これで六対六だが、連戦で消耗しているこっちと来たばかりの  
彼らではかなりのハンデがある。どこまで戦えるか。いざとなれば逃げる算段もとらねばなるまい。  
抜き身の剣を油断なく構え、赤毛の青年が前に出る。  
その視線は―――地面に転がる召喚獣の遺骸に注がれていた。  
「んだよ。人間の癖に化け物に味方するってえのか?」  
「……っ」  
青年は視線を上げる。紺青の瞳がビジュを見据えた。  
「そうじゃない! ただ、」  
責める眼だった。  
「こんなの悲しすぎるから……っ!」  
悲しい? はぐれが死んだことが? はぐれを殺したことが?  
むかついた。  
赤い髪と青い目の姿に苛立った。  
ひとの都合も知らずに奇麗事を―――!  
「偽善者が」  
吐き捨てる。敵意に相手が一瞬怯むが、直ぐに強い眼差しを返してくる。  
 
緊張が高まる。誰かが踏み出せば一気に弾ける脆い均衡。破るのは。  
 
「「―――っ?!」」  
横合いより魔力が放たれる。同時に夜の森に響く詠唱。  
「―――異界より来たれ、シャインセイバー!」  
白い輝きが中空に出現する。異界の武器を模るエネルギーの塊がゆらりと揺れて。  
落ちる。突き刺さる。形が崩れ弾け衝撃を生み爆風が薙ぐ。  
 
丁度、両陣営の中間、誰もいない場所に。  
 
火花残るその場に滑り込む人影が、ひとつ。  
どちらの陣営も、互いに相手への加勢だと思った。  
それが誰か分かったのは、  
「軍医!」「アティ?!」  
ビジュと、赤毛の青年だった。  
 
紅の髪の女は、帝国軍側に背を向け海賊たちに対峙する。ぜいぜいと肩を上下させるその顔はほの白い。  
女―――アティはきっと前方を見据え、  
「一体何がどうなっているんですか」  
青年に問うた。  
「せ、先生あいつと知り合いなの?!」  
でっかいテンガロンハットを背負った少女の疑問に頷いて、青年はアティに答えた。  
「正直、俺にもわからない事だらけだけど……その人達を止めなきゃいけない」  
「分からねェなら首突っ込むなガキが!」  
「話がこんがらがるので黙っててください! むしろ混乱気味なので下手に動くと何するか不明ですよ?!」  
アティのよくわからん台詞にビジュの機嫌が三割り増しで悪くなった。  
と。好機と見たか兵士の一人が動き。  
「ひとの話は聞きなさあいっ!」  
一喝。アティの掌から紅い光が溢れ、  
「へ? うわわわっ?!」  
兵士の前にぽん、っと召喚獣が現れる。タヌキと茶釜をかけ合わせた姿のそれがおんぼろ唐傘を振るうと  
煤が飛び散り兵士の視覚を奪う。  
「って何味方に攻撃かましてんだテメエは?!」  
「混乱してるって最初に言ったじゃないですか!」  
とりあえず直接的なダメージを与える術ではなかったのが、理性の名残とでも言って。いいものか。  
 
「はーい。質問」  
急に、細身の男がひらひらと手を挙げる。  
「どうぞ」  
「ふたつあるんだけど、まずひとつ。この前の怪我、もう治ったの?」  
「ええまあ。その節はどうもお世話になりました」  
皮肉っぽく答えるアティ。男は全く気にせず、  
「じゃあ次ね。貴女がその位置にいるのって、そこの軍人さんの攻撃を身をもって防ごうってつもりなのかしら」  
皆の視線が集中する。アティは特に言葉を発せずに、すいっと微笑んでのけた。  
 
「で、どうします? 出来ればそろそろお開きにしたいのですが」  
冗談めかした台詞に一同脱力する。  
気が抜けた、というか、興を削がれた、というか、忌々しいが現在流れを牛耳るのは彼女だ。  
眼鏡美人が今だ警戒を解かぬまま言った。  
「……もし、貴方がたに話し合う気があるのなら―――明日の正午、また此処に来なさい」  
譲歩、なのだろう。  
「上の者に伝えます」  
アティが勝手に返事をしたが、咎める者はいない。約一名軽く毒吐く男がいたが、まあ無視していいだろう。  
とりあえずこの場はどうにか収まりそうだった。  
 
 
「―――アティ! 良かった…本当に生きていたんだな」  
「幸いにして。軍医アティ、これより隊務に復帰します」  
船長室にてアティを迎えたのは、憔悴の色を僅かに浮かべつつも破顔するアズリアだった。  
「うん、良かったな……しかしビジュの機嫌が悪かったようだが?」  
「不可抗力です」  
「……戻って早々、何をしているんだお前らは」  
それでもくすくすと笑うアズリアに、  
「アズリア」  
 
「何だ」  
「非常事態に何ですけど、五分間だけ休みを頂けませんか」  
意図が掴めずに眉をしかめ、何故と問い返す。  
「疲れたのならもう休んでも」  
首が横に振られ。静かに。  
「―――今から五分でいいんです。貴女に部下としてではなく、友人として接したい」  
アズリアが一瞬呆けて、何事か言い返そうとし、  
「あ」  
小さく呻き。  
崩れる。  
「あ…う、ああっ……」  
汗と潮のにおいが染みついたシャツを掴み、その下の自分よりほんの少し華奢な身体に縋る。  
潮風で痛んだ髪を撫ぜられて―――限界を超えた。  
泣きじゃくる。恥も外聞もなく、それでも声を外へと洩らす事だけは避けて。  
「ちが…お前も、他の皆も、助か、ったんだから……。それだけで奇跡、みたいなことなんだから…。  
 でも」  
肩に顔を埋めているから、相手の表情は判らない。  
「あの子が……イスラが助からなかった…! 私が、ちゃんと守ってあげなくちゃいけなかったのに……っ!」  
それでも黙って触れる手は、優しい。  
また、この部屋を出れば。先程のことについて報告を受ければ、『隊長』に戻り泣き言は許されなくなる。  
だから今くらいは―――甘えても構わないだろう。  
 

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