「のうヤード、お主は『七夕』を知っておるか?」
手習いの手を止め、ミスミが不意に問いかけてきた。悪戯めいたその表情は、一児の母とは思えぬ
若々しさだ。
隣で生真面目に正座していた長身の男が、開いていた本からミスミへと視線を移す。
「ええ、ゲンジさんに聞きました。確か、竹に願い事を書いた短冊を吊るす行事……でしたよね」
「なんじゃ知っておるのか」
つまらん、と口をとがらせるミスミに小さく笑いかけ、
「スバル君も随分と楽しみにしているようですね」
「そうじゃのう。裏山に笹を取りに行くのだと言って、昨日は朝からキュウマを引っ張り回しておった。
おかげで風呂の始末が大変でな」
ころころ笑うさまには我が子への慈しみが溢れている。稽古事より山野を駆け回る方が好きだったと
いうミスミのことだから、案外幼少時の自分を重ねているのかもしれない。
ヤードは穏やかな笑みを浮かべたまま、
「では、今夜はさぞかし賑やかでしょうね……ところでミスミさま」
「なんじゃ」
ヤードは表情を崩さぬまま、文机の半紙に指をかざす。そこにはリインバウムで使用されている文字が
墨でもって記されていた。
「ここ、間違っていますよ」
「ん?」
「もう一度」
慌てて見直すミスミを尻目に涼しい顔で告げる。
「……あ、いや、しかしな、たかが一文字抜けただけじゃし……」
「ミスミさま?」
「……相分かった」
鬼め、と鬼人族のミスミがリインバウムの人間であるヤードに呟くとは奇妙な話だ。
「昼食の時間になったら今日の分は終わりましょう。それまで、きちんと進んで頂きますよ」
うう、とも、ああ、ともつかぬ珍妙な呻き声を洩らしながら、ミスミは再び文机へと向かった。
ヤードがミスミにリインバウムの文字を教え始めたのは、ヤードが教師になる前のことだった。その頃
学校で(といっても今の規模ではなく、たった四人の生徒を相手にした小さな青空学級だったが)教えて
いたのは島の皆に『先生』と慕われていたかつての仲間で、ヤードはその仲間から学校を引き継いだのだ。
―――息子の宿題も手伝ってやれぬのでは母親として情けない。こちらの文字を教えて欲しい。
召喚術の影響で会話には不自由しないといっても、読み書きまではままならない。しかしただでさえ
忙しい『先生』に頼むには気が引ける。
そんな理由から、ミスミが自らの教師役として白羽の矢を立てたのがヤードだった。
頼んで初日、死ヌほど後悔した。
いや、教え方は悪くない。むしろ上手い部類だろうと思う。ミスミの実力は確実についたし、学校での評判
も上々だ。唯、穏やかな風貌からは予測もつかないくらい厳しいだけで。
「お…終わったぞ……」
どうにかこうにか仕上げた課題をヤードに渡す。この瞬間が一番胃が痛い。
「全問正解です。お疲れ様でした」
安堵のあまり文机につっぷすと、艶やかな黒髪が畳に零れた。横目で見ればヤードは澄ました面で宿題と
おぼしき綴り紙を取り出してくる。泣きたい。
「失礼します」
涼をとる為開け放した障子越しにおとないがかかる。銀髪のシノビが廊下に膝をつき苦笑いしていた。
「昼餉の用意が整いましたので、呼びに参りました。ヤード殿もご一緒下さい」
「では、お言葉に甘えさせて貰います」
退出するヤードに悟られぬようミスミがすすっとシノビであるキュウマに近づき、
「もっと早ように声を掛けてくれれば良かったのに」
「邪魔をしてはいけませんので」
「わらわが良いと言ってもか?」
「私の主人はミスミ様とスバル様ですが、手習いはきちんとした方が宜しいですから」
「ええいもう頼まんわっ」
ぷんすかと効果音をつけたくなる勢いで廊下を進むその姿は、当年とってン歳の淑女には全く見えない。
昼食の席に、屋敷の住人であるミスミ、スバル、キュウマの他ヤードも加わるのが七日に一度の恒例
行事となっていた。
「母上の手習いちゃんと進んでる?」
「ええ。ミスミさまはとても真面目な生徒です。スバル君も見習うといいですよ」
ミスミはくすぐったさに首をすくめた。我が子に尊敬されるのは無上の喜びだが、それほど出来のいい
生徒でないのはミスミ自身が知っている。まさかとは思うがすれを見越して実際もそうなりなさいとの
謀略か。狡賢い教師め。
被害妄想から立ち直ると、何時の間にか話題がミスミの手習いから七夕へと移っているのに気がつく。
もうキュウマに手伝わせて短冊もこしらえたのだ、とスバルが自慢げに話すのを見て、思いついた。
「―――のう、ヤードもひとつ短冊を書いてゆかぬか?」
「よろしいの、ですか?」
「勿論じゃ。わらわの手習いの師なれば身内も同然じゃからのう」
笑みがふと曇る。
「しかしのう……ひとつ問題があってな」
「と言うと」
「実はな。
七夕の短冊はシルターンの言葉で書かねばならぬのじゃ」
スバルが眉を寄せ、キュウマに耳打ちした。
「(……そうなの?)」
「(いえ、私も初耳です)」
おそらく普段の憂さ晴らしに、今度は自分が鬼教師になる腹積もりなのだろうとキュウマには見当が
ついたが、武士の情けスバルには黙っておく。
「まあ心配は要らぬ。わらわが心行くまで指導しようぞ!」
「……楽しそうですね」
ヤードも意図が読めたのか苦笑している。
「ささ、昼餉も済んだことじゃし、キュウマ、短冊と墨を用意してくれるか」
「はっ、只今」
「おいらも! キュウマも一緒に書くんだぞ」
スバルが元気良く手を挙げて、大人たちの間に慈しむような空気が流れた。
「では筆と硯を四人分。キュウマ、頼んだぞ」
「分かりました」
「さて、何を書こうかのう」
ついでにミスミの場合「ヤードに何を書かせるか」という要素もあるので楽しみ二倍といったところか。
「ふっふっふ、楽しみじゃのう」
「……無駄かもしれませんが、お手柔らかに」
ついでに。
「その……ミスミ様、申し上げにくいのですが……」
「なんじゃキュウマ。わらわは今ヤードへの仕返…もとい手ほどきで忙しゅうてな」
「……そこの字は点がひとつ余計です」
「なぬ?!」
幼少のみぎりより手習いが嫌いだったミスミの為、キュウマがにわか教師となったとかならなかったとか。