天気予報が大はずれし、予測されなかった大粒の雪が街に降る。  
 雪に足を取られる前にと、駅へ急ぐ人々をよそに、俺と明日奈は二人でベンチに座って  
いた。  
 
 二年前のクリスマスに背教者ニコラスがもたらした宝は、結局なんの力も奇跡も持たな  
かった。  
 
 光り輝くクリスマスツリーのイルミネーションの向こうで、すこし気の早い「赤鼻のト  
ナカイ」が流れていた。  
 
 助けられなかった彼女の歌声が、メロディにのって蘇る。  
 うちひしがれて、のたうちまわり、掴んだ雪の冷たさを思い出して、じっと手を見る。  
 俺の、桐ヶ谷和人の指先は冷気に凍えて真っ白だった。  
 手のひらに雪の結晶が乗る。手にのった雪はすぐには溶けない。  
 指は冷え切り、もう感覚さえ残っていなかった。  
 
 するとその手を、ずっと俺の隣にいた明日奈がそっと掴んだ。  
 明日奈の手は冷たかった。  
 当然だ。このベンチに二人で腰掛けてからもう一時間も経っている。  
 突然の雪だったので傘もない。明日奈の白いコートと髪にうっすらと雪が乗っていた。  
 
「でもね……でもね、キリトくん……」  
 
 明日奈は冷え切った俺の手を躊躇なく自分の頬に押しつけた。  
 VR空間では情報量が少なすぎてまだ完全に感じることができない、本物の体温が手の  
ひらをくすぐる。  
 
 明日奈はもう一度、俺の手を頬に押しつける。  
 強くふれたら崩れてしまいそうなほど、アスナの頬はやわらかい。  
 瞳から落ちる涙が俺の指に滴る。涙は温かくて熱かった。  
 熱い吐息が手首のあたりを流れていく。  
 
 そして明日奈は目を細めて、微笑みながらこう言った。  
 
「でもね、キリトくんが私を迎えに来てくれた日も、雪がふってたんだよ――」  
 
と――。  
 
――――  
 
『ニコラスさんのおくりもの(死だぁー)』(前編)  
 
 
 
 浮遊城アインクラッド第二十層から上のアップデートが、クリスマスイヴに行われると  
の告知に、どこかALO運営体のいやらしさを感じたのは俺だけではないらしい。  
 
 その場にいたクラインは頭を抱えて『よ、よりにもよって、クリスマスイヴかよ! 他  
のイベント参加できないじゃねえか!』と嘆き、すぐさまリズに『あんた、どっちにしろ  
予定なんかないでしょ……』と突っ込まれ、周囲にいた俺たちの爆笑を誘った。  
 
 さて、そのクリスマスイヴがとうとうやってきた。  
 
 俺、アスナ、リズ、シリカ、リーファ、クライン、エギルのパーティは、第二十一層主  
街区への転移門がアクティベートされた瞬間に駆け出して、主街区をつっきり迷宮区を全  
力で踏破したあと、流れるように迷宮区のフロアボスに挑んで、負けた。  
 
 まあ、ここまでは予定通りだった。  
 ボスに挑んだのは攻撃パターンや戦術構築のためであり、そもそも勝ちを狙いに行った  
わけじゃない。  
 できればもう少し、ボスのHP減少時の攻撃パターンを検証したかったが、文句は言っ  
ていられなかった。  
 セーブポイントに戻った俺たちはすぐさま二度目の挑戦を行うべく準備を進め、すぐに  
迷宮区へと舞い戻った。  
 
 ボス攻略はあくまで手段で、俺とアスナにはもっと別の目的があった。  
 第二十二層に存在するプレイヤーホーム。  
 もう一年と一月以上も帰っていない、二週間の新婚生活を過ごしたあそこを再度「ホー  
ム」にするために全速力で二十一層を駆け巡る。  
 
 再び、迷宮区を突破しながらアスナがボス攻略戦術を構築し、ボス部屋の前についたと  
きにはすでに二十名近くの攻略パーティがそろっていた。  
 そのパーティのリーダーひとりひとりに声をかけ、時には頭さえ下げて、最終的に五十  
名近い即席のレイドパーティを作り上げたアスナはいま――。  
 
「はぁ……アスナ、気合い入りまくりじゃない……キリトはどう? 何か感じるものがあ  
るんじゃない?」  
 
 隣に立つリズがピンクの髪を揺らしながら言った。  
 ボス部屋と呼ばれる扉の前に出来た安全地帯。すでに戦術とボスの攻撃パターンを頭に  
焼き付けている俺はドーム状の安全地帯の壁に背をあずけている。  
 リズとクライン、エギルも同じように、アスナが帰ってくるのを待っていた。  
 
「……まあ、アスナの気持ちはわかるしな。ホームのことは俺も楽しみだし」  
 
 即席のレイドパーティだけあって、みごとに種族も武器もバラバラな攻略メンバーが、  
畳一条ほどの大型スクリーンとその横に立つ今回のボス攻略の責任担当者、アスナを交互  
に見る。  
 白の短衣とスカートを装備したアスナは、四十名近い人垣に囲まれながらも物怖じせず、  
凛とした声をホールに響かせていた。  
 アスナは今、先遣隊が(この場合は俺たちが担当した)持ち帰った情報を元にボスの攻  
略法をメンバーに解説している。  
 
 内容は盾役との交代のタイミング、ボスの攻撃パターンなど多岐に渡り、集まった一人  
一人に「自分がやるべきこと」を浸透させていく。  
 熱と迫力に満ちたアスナの講義を、集まった即席の攻略パーティは輪を作って聞き入っ  
ている。  
 
「まあSAOの攻略担当責任者様だったからな。あれくらいは朝飯前じゃないか」  
「それ、まさか本気で思っているわけじゃないでしょうね?」  
 
 リズが言った。アスナを見つめる瞳には、わずかに不安の色が浮かんでいる。  
 俺はリズの肩にそっと手をおいた。  
 
「……攻略会議や指揮はアスナにとっていい思いでばかりじゃないよ。ソロやってた俺に  
はからない苦労があったはずさ」  
 
――その苦労のなかには、攻略組きっての不良ソロプレイヤーへの物理的説得とかもあっ  
たはずだが、もちろん口には出さない。  
 
 クラインを含めた何人かの命の重さから逃げ出した俺と違い、アスナはKoBの副団長  
として、重責をずっと担い続けていた。第七十五層まであの細くて小さな肩にずっと。  
 あの細い肩にパーティメンバー全員の命をのせて、自身もまた危険なボス攻略に挑んで  
いたのだ。  
 リズが半歩ほど俺の方に移動した。  
 
「わかってるならしっかりフォローしなさいよね」  
 
 アスナに対してやや過保護気味のリズに苦笑しつつ、俺は大腕をふるってボスの戦闘パ  
ターンを解説するアスナに再び目をやった。  
 無理している様子はない。少なくとも今は。  
 水妖精族の特徴である青い髪を揺らし、瞳に強い意志の輝きを宿らせるアスナの姿は、  
恋人であるとか、知り合いであるとか、そういう関係性を無視しても、びっくりするほど  
魅力的だった。  
 
 アスナのまわりだけ温度と華やかさが違う。  
 おそらくパーティを組んでいる何人かも、きっとそんな感情をもってアスナの講義を聞  
いているだろう。にやけ面のやつまでいる。それがなんだか、無性に気に食わない。  
 
「……そんな顔してるくらいなら、大丈夫そうね。あたしたちをホームから追っ払った後、  
ちゃーんと、いちゃいちゃするように」  
 
 リズが言った。気がつくとリズが笑いながら俺の目を見ていた。  
 
「……い、言われなくてもわかってる。ちゃんとフォローするよ」  
 
 俺は顔が赤くなるのを感じて、あわててリズから目をそらした。  
 なんだか胸の内を見透かされているようで、こそばゆかった。  
 
――――  
 
「じゃあ、十分後に突入します。よろしくおねがいします」  
 
 とアスナが会議終了を宣言し、各装備の確認に入ったメンバーを眺めたあと、アスナは  
他のメンバーのじゃまにならないよう、壁際にたってくれていた親友に声をかけた。  
 
「おわったよー、リズ!」  
 
 親友――リズベットはアスナに向けてにいっ、と笑う。  
 
「おかえり、アスナ。それにあんたたち。初めての攻略会議の感想は、どう?」  
「え?」  
 
 アスナは後ろを振り返った。  
 攻略会議に参加してくれたリーファとシリカの目がきらきらと輝いていた。  
 
「ど、どうしたの、二人とも」  
 
 あまりにも熱っぽい視線に押され、アスナは体を引いてしまった。  
 
「もう、なんというか」  
「感動しました」  
「え……あ、うん。ありがと。リーファちゃん、シリカちゃん」  
 
 二人に手放しの賞賛に胸がむずがゆくなる。  
 称賛自体はありがたかったが、アスナはそもそもボス攻略自体にはさほど興味がない。  
ボスを倒した栄誉も、報酬にも興味がない。  
 ボス攻略は目的を果たすためだけの、手段でしかないからだ。  
 
――ごめんね、みんな。  
 
 集まったメンバー全員に心の中で謝った。  
 各階層のボス攻略といえば、ALOに存在するクエストの中でも花形中の花形だ。  
 旧アインクラッドに存在していた剣士の慰霊碑に変わり出現した《剣士の碑》に名を刻  
む栄誉も膨大な報酬もながしろにしているアスナは、いちMMORPGプレイヤーとして  
どうしても後ろめたい感情がある。  
 
 だからリーファとシリカが伝えてくるまっすぐな感情を、どうにもうまく消化できない。  
 なぜならさっき攻略会議に参加してくれた名も知らないメンバーには、リーファとアス  
ナのように賞賛の視線を向けてくるものもいたからだ。  
 いや、それならばまだ良い。  
 一番辛かったのは、SAOサバイバーで元攻略組の、アスナも顔と名前を知っている  
何名かの囁きだった。  
 
 さすが血盟騎士団の副団長だ、と。  
 
 そのささやき声を意識したとたん、くっと息苦しくなった。  
 少し前から胸に抱いている感情が、ぐずぐずと頭をもたげてきて――。  
 
「またマジメなこと、考えてるでしょ」  
「え? ひゃっ!」  
 
 となりにいたリズベットにわき腹をつつかれ、飛び上がる。  
 準備にとりかかっていたメンバーが何事かとこちらに視線をよこした。  
 なんでもありません、と手振りで伝え、アスナはリズベットに向き返った。  
 
「もおー。いきなりなにするの?」  
「真面目なことを考えてる顔してたから。当たりでしょ?」  
「……うん。大当たり」  
 
 またわき腹をつつかれないように警戒しながらアスナはリズベットにうなずいた。  
 はあ、と大きくため息をついた後、リズベットは口を開く。  
 
「アスナが今日のためにどれだけがんばってきたのか、あたしたちはよく知ってる」  
 
 絶妙な呼吸で腹部に回された手をアスナは弾けなかった。  
 普段こういう、積極的なスキンシップをしてくるリズベットでないだけにアスナは体を  
固くして、リズベットの言葉を待った。  
 
「だからさ。最後くらいわがままになってもいいんじゃないの? そもそもボス攻略に最  
速で参加したって、そのままクリアできるわけじゃないもの」  
「そうですよ」  
 
 リーファがこくこくうなずいた。  
 
「アスナさんが指揮をとるから攻略の可能性もあがるんです。 アスナさんも知ってると  
思いますけど、フロアボスってかなり手強くて十分に準備をしないと撃破は難しいです。  
だから指揮するアスナさんがちょっと我が儘するくらい、どうってことないですよ」  
「うん、いまリーファが良いこと言った」  
 
 リズが手をリーファに差し出す。そのまま格好良くぱしんっ。リーファと手のひらを打  
ち付ける。  
 
「まったくこういうフォローをしてほしかったのに、あの朴念仁」  
 
 と、リズベットは最後に小さくつぶやいた。  
 誰に向かってのつぶやきなのかは簡単に想像がついた。  
 アスナはちらっと、件の人物――キリトを目線で探した。  
 いた。  
 キリトはアスナ達のいる壁際からわずかに離れた場所で、ダメージディーラーの剣士と  
なにやら話し合っている。  
 会話の内容までは聞き取れないが、真剣な表情だった。  
 
「あ。あいつ、あんなところにいた……。まあ、あいつもあいつで思うところはあるんじ  
ゃない? なんたって懐かしの我が家なんでしょ?」  
「んー、どうかなー。正直どんな風に喜ぶのか、わかんないんだよねー。キリトくんの場  
合」  
 
 頭のなかで何度かシミュレートしたものの、どうもうまくいかなかった。  
 手をとってくれて一緒に喜んでくれるかもしれないが、もう少し違うものになる予感が  
ある。  
 キリトが「そのとき、どんな行動をとるか」を予想するのはかなり難しい。  
 ほんの二週間前《ガンゲイル・オンライン》の《BoB》にキリトが参戦した際、十分  
に彼のプレイスタイルを熟知しているはずのアスナ達でさえ、彼がどのように勝ち残るか  
で意見が割れてしまった。  
 
「ねえ、リズ……」  
 
 腹部をまわるリズベットの腕に、手を這わせながらアスナは呟く。  
 
「リズ……リンダースが解放されたらまたあそこでお店やってね。今度はわたしたちが手  
伝うから。リズが嫌だって言っても、絶対に手伝うから……!」  
「――そうね。そのときはおねがい。さて、準備準備っと」  
 
 話題が変わるやいなや、リズベットはアスナからぱっと離れた。  
 そのまま背をむけてごそごそと準備をしはじめる。  
 アスナは緊張がほぐれていくのを感じ、思わず頬を緩めてしまった。  
 リズベットの獲物の戦槌は彼女の腰のスリングに引っかかっているし、腰のポーチには  
ポーションが満載だ。  
 照れ隠しにしては隠れる穴が少々、大きすぎる。  
 
――ありがと、リズ。  
 
 照れ屋の親友に心の中で感謝していると、別方向から声がかかった。  
 
「よっ。気合いはっているな。アスナっち」  
 
 粗野な笑みを浮かべたクラインが隣にたつ。  
 こちらも準備万端といった形で、獲物の太刀を鞘ぐるみに持っている。  
 
「あの……クライン。本当にいいの? 参加してくれるのはありがたいけど……」  
「ああ。ウチのギルドの連中も、景気よく送り出してくれたからな。大船に乗ったつもり  
でどーん、とよ!」  
 
 そう嘯くクラインの顔を見てアスナは危うく吹き出すところだった。  
 キリト曰わく『《風林火山》の連中は全員リアルで予定があるんだと。だからクライン  
誘うのに遠慮はいらないぜ』だそうだ。  
 
 ただ、アスナも一辺倒の理由でクラインが参加していると考えているわけではない。  
 時折、自分のものにならないなら他人にも渡せないとの考えを持つプレイヤーが攻略を  
妨害してくることがある。  
 
 他人の得が許せない、と考えてしまうのはもはやMMOプレイヤーの性なのかもしれな  
いが、過剰なものになるとボス攻略の前にPVPすら発生する。  
 
 《風林火山》の面々は、アスナもよく見知っているが、ギルドマスターであるクライン  
も参戦にはかなり気をつかっただろう。  
 
 足かけの準備からつきあってくれているクラインには感謝してもしきれない。おなじく  
リアルで仕事を持ちクリスマスという日にち柄忙しいはずなのだが、それを押して参加し  
てくれるエギルにも、アスナは感謝していた。  
 
「……クリスマスか」  
 
 クラインは一度天井を仰ぎ見た後、アスナの耳に口をよせた。  
 
「あのさ、アスナっち。少しでいいから、気をつけてやってくれないか。あいつ、実はこ  
の時期にあんまりよくない思い出を持っててよぉ……」  
「――大丈夫。知ってるよ」  
 
 クラインが目を見開いた。驚いた彼の顔がどこかおもしろくて、アスナは今度こそ笑っ  
てしまった。  
 
「キリトが自分から言ったのか?」  
「うん。この前、一緒に買い物に行ったときに」  
「……そうか。そりゃそう、そうだよな」  
 
 クラインが視線を前に向けた。アスナもつられて視線を向ける。  
 すると先ほどまでの真剣な雰囲気はどこへやら。  
 たぶん前衛と話をしているうち楽しくなってきたのだろう。  
 頭に愛娘のユイを乗せたキリトは、まるで新しいおもちゃの発売をデパートの開店前に  
待っているような、そんなやんちゃな雰囲気でボス部屋を眺めていた。  
 
 そんなキリトの背中を見ていたクラインはずずっ、と鼻をならした。  
 人情家の火妖精族は、一度だけぐうっと目頭をぬぐった。  
 
「くそっ……あいつばっかり……ずるくねえか……今日って……クリスマスだぜ?」  
「えっと、それは……その……」  
 
 それに関しては、アスナは何も言えなかった。  
 
――――  
 
 アスナが自分の装備の確認を終え、頭の中でボス攻略のシミュレートをしていると目の  
前のシリカが尻尾をピクつかせた。  
 
「アスナさん。そろそろ時間ですよー」  
「――うん」  
 
 シリカの言うとおり、そろそろ会議終了から十分が経過する。  
 アスナはボス部屋に続く扉の前に足をすすめた。  
 扉のデザインは旧アインクラッドのものと同じだが、中で待ち受けるボスはALOのシ  
ステム変更に合わせて再設定された難敵だ。  
 アスナは「よしっ」と自分に喝をいれてから、扉の前に集まるメンバーに向けて叫ぶ。  
 
「みなさん、準備は大丈夫ですか! 盾役の方は中に入ったら陣を組んでください! あ  
との皆さんは打ち合わせ通りにお願いします!」  
 
 何かしらの応答を返しつつ、五十名近い即席攻略メンバーが扉の前に並んだ。  
 土妖精族の盾役が二人先頭に立ち、扉を開け放つ。まだ明かり一つない真っ暗闇のボス  
部屋にぞろぞろと、まずは盾役のアバターが足を踏み入れていく。続くのはダメージリ  
ソースとなる面子だ。この中にアスナも含まれる。  
 盾役のアバターが全員中に入ったのを確認し、アスナも暗闇に踏み出そうとした。  
 が、まさしく一歩目を踏み出そうとした瞬間的だった、背後から声が飛んできた。  
 
「どうせだから楽しもうぜ、アスナ。俺も全力で楽しむから」  
 
 一番聞きたかった声に振り向くと、キリトがいつものシニカルな笑みを浮かべていた。  
 頭の上に陣取ったユイも、ガッツポーズと笑顔をアスナに送ってくる。  
 胸に新しい力が宿るのを感じつつ、アスナは二人に言った。  
 
「ありがと、キリトくん、ユイちゃん。あ、でもキリトくんはちゃーんと、与ダメよろし  
く」  
「な、そっ――もうちょっと、なにか言うことあるだろー!」  
 
 もっと別の言葉を期待していたらしいキリトを心底頼もしく思いながらアスナは、まだ  
薄暗いフロアボスの待つ部屋に踏み込んだ。  
 
――――  
 
「パパ……いまママ、笑って……」  
「ああ。しっかり見たよ」  
 
 俺とユイは確かに見た。笑いながらボスの待つ薄暗い部屋に踏み出す、アスナの姿を。  
 頭の上に座るユイが小さい体をさらに小さくふるわせている。  
 
「ママ……すごいです。パパはどう思います?」  
「うん。かっこいいと思う」  
「……パパ。それは女性のほめ言葉としてはちょっと微妙かも、ですね」  
「……」  
 
 一歳になったばかりの愛娘は、どうやらすでに女心というものを理解しているらしい。  
 見習いたい。ものすごく。  
 時々、その「女心」が分からなくて女性陣に叱られる身の上としては、是非に。  
 
「ママはすごくて、強くて……ですけど、最近すこし……」  
「……ユイ。それアスナに言うのはちょっと待ってくれ。少なくとも、アスナの方から俺  
たち相談があるまでさ」  
「はい……」  
 
 頭の上で頷く気配がした。俺は片手を頭の上にあげて小指を立てる。  
 ユイの小さな手のひらが両手で小指をにぎりしめるのを感じた。  
 
 学校帰りの別れ際やログアウトの直前に、アスナの顔に影がさすようになったのは、ユ  
イが言うとおり最近のことだ。  
 気が付いているのは、俺とユイ、それにリズくらいなもので、その時には本当に心配し  
た。リズと二人でうんうんうなり、結局アスナから話をしてくるのを待つことにした。  
 
 アスナは、強い。俺なんかよりも、もっと、ずっと。その気持ちはSAOの頃から変わ  
らない。  
 
 つい最近もアスナの強さに甘えて、弱さを吐き出してしまった。  
 
 町中で降ってきた雪と聞こえてきた赤鼻のトナカイにおもわず足を止めてしまった俺を  
明日奈は心配そうにのぞきこんできた。  
 そのあと、茫然自失としている俺を近くのベンチに座らせ、俺の腕を抱き腕の震えが収  
まるまでずっと一緒にいてくれた。  
 そのとき雪と歌に感じていたすべてを白状してしまったのは、きっと俺の弱さだ。  
 
 数値的なステータスでははかりきれない、魂の強靱さをアスナは持っているし、俺はそ  
れを信じて疑わない。  
 だが、ずっと強い人間なんていないはずだ。  
 
 アスナが抱えている影は、現実に根ざす問題で、その根底にSAOで過ごした年月が関  
係していることを俺たちはなんとなく察している。  
 もちろん、力になりたいとは常々おもっているが、無理やり彼女の悩みを聞き、力にな  
ることが、本当の意味でアスナがためになるかがわからない。  
 リズが過保護なまでにアスナを心配しているのは、俺と同じでどこまで踏み込んでいい  
のかわからないからだ。  
 
「信じてるぜ……アスナ……」  
 
 だからボス部屋に踏み込む時に見せたアスナの表情に、俺はほんのすこし安心した。  
 だからもう一押し。  
 なにかきっかけがあれば、アスナはあの影から解放される気がする。  
 残念ながらそのきっかけは昔のSAO時代のアスナを知る、俺たちでは与えることがで  
きない。≪閃光≫アスナの強さを知っている人間じゃ、おそらく駄目なのだ。  
 いまのアスナを知って、受け止めてくれる誰かが――  
 
 
「――お兄さん。はやくしないと扉がしまっちゃいますよー」  
 
 
「え、あ、すみません」  
 
 前方からかかった声に物思いを中断する。  
 
「あれ?」  
 
 反射的に返事をしてしまったが、聞き覚えのない声だった。  
 ぞろぞろと扉の中に消えていくアバターのなかに、声の主がいるのは間違いないが結局  
探し出せなかった。  
 不思議な響きの声だった。胸にすとんと落ちるような透明な声。妖精の声なんてものが  
あるなら、きっと今のような声で……  
 
「パパ! 本当に急がないと扉がしまっちゃいます!」  
「おっと」  
 
 俺は肩に手を伸ばして愛剣の存在を確認しながら扉に駆けだした。  
   
「ユイもしも、アスナが――ママがさ。やりたいことを見つけたら全力で協力しようぜ。  
だからそのときはユイも力を貸してくれよ」  
「も、もちろんです! ママのためなら何だってしちゃいます! だからまず――ここの  
ボスをさくっとやっつけちゃいましょう!」  
「お、おう!」  
 
 ……そのちょっと好戦的なところは、似て欲しくなかったなー。  
 なんて思いつつ、ユイの言うことは正しい。まずは「ホーム」のためにボスを倒そう。  
 俺は半分閉じかかっていた扉に滑りこんだ。  
 
――――  
 
 敵情視察の名目で、ほぼ初期装備のままボス攻略に挑戦してきたその声の持ち主とは、  
年明け早々に激突することになった。  
 そしてその後、彼女と彼女の仲間、そしてアスナのために俺とクラインは三十人近い人  
員と剣を交えることになるのだが、もちろん、このとき俺は予想すらしていなかった。  
 
――――  
 
 ボス攻略開始。そこから先は面白いように、アスナの戦略通りにことが進んだ。  
 SAO時代に比べて「これでもかー」と強化されているはずのボス――人間の「屍」を  
模したスケルトン系のボス――は何度かの怒り状態と鎮静を繰り返したあげく、俺たちの  
予想よりもかなりあっけなく討伐された。  
 
 即席パーティがうまく連携できたのと、かつて《閃光》と呼ばれるまでに至ったアスナ  
の奮戦がメンバーの志気を盛り立てたのだ。  
 
 集まったメンバーはよくアスナの指示に従っていて、しかもやたら、やる気にあふれて  
いた。  
 元KoB副団長の激は世界を跨いでも有効だった――本人が望んでいるかは別として。  
 
 最前線で細剣をふるっていたアスナが、前線に上がっていたエギルの肩を蹴って飛び上  
がり、気合一閃。  
 アスナが細剣の上位スキルを放って、ボスのクリティカルポイントを貫いた。  
 ある意味もの悲しい断末魔をあげながら、真四角いポリゴンの固まりになっていく第二  
十一層のフロアボス。  
 うおおおお! という勝どきがボス部屋に響きわたり、ポリゴンの最後のひとかけらが  
砕けた瞬間、ラストアタックを決めたアスナがボス部屋の出口に向かってかけだした。  
 目の前をなびいていく水色の髪に見とれそうになった俺の意識を、  
 
「キリト!」  
 
と叫ぶリズの声が引き戻した。  
 俺は隣にいたリズに答えるよりも早く駆け出した。  
 ボス攻略に参加してくれたメンバー全員に感謝しつつ、「エギル! 後のことよろし  
く!」と振り向かずに言い、そのままアスナを追った。  
 「うおおおおお! バーサークヒーラー万歳!」「KoBの副団長のときよりすげ  
え!」などなど、アスナ本人が聞いたらさぞかし肩を落とすだろう歓喜の声を尻眼に第二  
十二層主街区へ続く階段を一段飛ばしで駆け上がる。  
 段を登り切り、階段があるだけの東屋から飛び出す。  
 
「うわっ!」  
 
 とたんに視界がホワイトアウトし、冷気に晒された皮膚が悲鳴をあげた。  
 
「さ、さむぃっ!」  
 
 地球温暖化の影響でそもそも雪が降ることがすくなくなった関東圏では、お目にかかれ  
ないほど大粒の雪が舞っていた。  
 ボス戦闘には必要かなかったので冷気を遮断する耐寒呪文は切れていた。凍てつく寒さ  
が衣服に染みる。  
 ひとつ下の第二十一層にも堆く雪が積もっていたのである程度は予想していたが、それ  
にしても寒い。  
 外からさしかかる青白い月光が雪の一粒一粒を照らしているせいで、時刻は夜でもそれ  
ほど暗くは感じない。  
 そんな白と青の視界のなかに、青い布のようなものが翻る。アスナの髪だ。  
 追いかけようと一歩踏み出した瞬間、背後の雪をじゃり、と誰かが踏んだ。  
 
「キリト! アスナは――」  
 
 俺はアスナを見失わないように、片目だけで左隣を見る。リズだ。  
 鍛冶妖精族のピンクの髪が揺らし、俺の真横につく。  
 ちらっと、後ろの東屋を見てみるがどうやら他の連中は、アスナの突飛な行動について  
こられなかったらしい。誰かが階段を駆け上がってくる気配もない。  
 
「……」  
 
 俺は最後にぐっ、と脚に力を入れて雪をにらみつけた。  
 
 いまはもういない――助けることができなかった、彼女に感謝する。  
 このクリスマスに冷たい雪の中を走れるとすれば、きっと彼女と彼女の歌のおかげだ。  
 彼女の歌がなければ、俺はとっくにSAOの迷宮区で力つきている。  
 アスナと絆を結ぶことなく、シリカやリズにもう一度、人の暖かさを教わることなく自  
分を恨みながら一人で死んでいったはずだ。  
 
 アスナに出会い、そして雪の日に「結城明日奈」と再会することが出来た。  
 それからずっと、解放された明日奈と同じ時間を刻み続けている。  
 だから――走れる。先に行くアスナを、俺は雪を恐れず追いかけることができる。  
 
 アスナの背中を指さして、となりで息を切らせるリズに言った。  
 
「あそこだ。俺はこれから追いかけるけど、リズはどうする」  
「今日二回目。本気で言ってるの? それ」  
 
 あきれた声が雪の狭間からしっかりと聞こえてくる。  
 いつか俺もアスナもリズに頭が上がらなくなるときが来るんじゃないだろうか。  
 
「じゃあ、飛ばすからしっかりついてこいよ!」  
 
 俺はリズの手をむんずとつかむ。  
 うわっ、驚く声が聞こえたがかまわずにそのまま走り出した。  
 雪が生む、足裏の摩擦低下のせいで、何時だったかリーファを引っ張り回したときのよ  
うにはうまく行かない。  
 リズを巻き込んでの転倒はさけたかったので、全力より少しペースを落としてアスナを  
追う。  
 リズは引きずられながらも、自分の脚もつかってついてきてくれた。  
 そこでふと思い出した。  
 
「あれ? リズはホームの場所知ってたよな?」  
「あ、あんたたち、最後まであたしを新居に呼ばなかったでしょうが!」  
「そうだっけ?」  
「ちょ、ちょっと! こっちは、どんだけやきもきしたと思ってんの! なんで呼んでく  
れないのとか思ってたのに! わ、忘れてただけなの――!?」  
 
 隣を走りながら、うきーと声をあげるリズ。  
 そういえば結婚の挨拶はしたものの、新居に招いたことはなかったような。  
 正直、そこまで恨まれているとは知らなかった。  
――そうだ思い出した。新婚生活が落ち着いてから知り合いを案内しようと決めていて、  
結局生活が、落ち着く前にSAOをクリアしてしまった。  
 それにまさか帰ってくるまで一年もかかってしまうなんて、あの時は俺もアスナも、夢  
にも思っていなかった。  
 
「ま、まあ道は俺が知ってるし、ゆっくりついてきたっていいぜ! あとで迎えにくるか  
らさ――」  
「じゃあなんで、あんたは走ってんの?」  
「それは、その――」  
 
 リズへの答えは、すぐには言葉にならなかった。すぐさま伝えるには語彙が足りない。  
 それきり俺たちは無言で道を走った。雪を踏みしだく音が響く。  
 顔に当たる空気は氷の刃のようだ。  
 そんな寒さなど気にもしていないだろう。月明かりに輝く大粒の雪が舞い降る中、青い  
髪と白の衣装をはためかせて先をいく――アスナの姿はどこまでも透明だ。  
 雪の紗幕の向こうで青い髪が踊っていた。  
 アスナが針葉樹の並びで作られた十字路を曲がった。  
 あっ、と声を出すリズに目配せしながらアスナが曲がった道に続く。曲がった先はほぼ  
一本道だ。見失いようがない。  
 
 
 そして――唐突に、雪の中からログキャビンが現れた。  
 
 
 雪のカーテンに視界を封じられ、キャビン自体が記憶に残っている姿から様変わりし、  
風景に溶け込んでいたので気づくのが遅れた。  
 
 俺が脚を止め、慣性で前のめりになるリズを片手で支えながら、一年と一ヶ月ぶりにな  
る「ホーム」を見つめた。  
   
「あった……」  
 
 俺とアスナがSAOを去ってからすでに一年と一月が経過していた。  
 にもかかわらず俺の記憶にある「ホーム」と、目の前の「ホーム」は、外見を雪で白く  
染めつつも、鮮やかに合致した。  
 
 同時にアスナと過ごした二週間あまりの生活が、頭の中に再生されていく。  
 甘い彼女の髪のかおりや湖を波立たせる風の冷たさが五感によみがえる。  
 
 そしてこの「ホーム」がここにこうして、存在している奇跡にうちのめされる。  
 俺が経験したいくつかの出来事の、ただ一つでも欠ければここに「ホーム」は存在して  
いない。  
 <<ソードアート・オンライン>>最後の時、水晶の浮島でアスナとともに崩壊を目の当た  
りにしたアインクラッド。<<アルヴヘイム・オンライン>>に再び存在することとなったア  
インクラッド。  
 二つの世界をつなぐ要素が一つでも掛けていたら、目の前の「ホーム」は存在しない。  
綱渡り――なんて言葉が陳腐になってしまうくらいの確率で、俺たちはここに戻ってくる  
ことができたのだ。  
 崩壊と再生を繰り返したアインクラッドにあって、俺とアスナがとうとう見ることがで  
きなかった雪化粧をしながら、「ホーム」は確かに存在していた。存在してくれていた。  
 
 踏みしめているはずの地面がゆがむのを感じた。  
 薄くて細くて頼りない糸の上の奇跡を、頭のどこかが感じ取った。  
 ここに立つまでに経験した日々は、思い出すだけでも心臓を直接刃で切り裂かれるよう  
な辛い出来事と、魂そのものが安らぐような幸せな出来事でない交ぜになっている。  
 
 でも、それらがここにたどり着くために必要な要素だったなら。アスナと二人でここに  
至るためにあった出来事だったなら。  
 
 俺はいま十分すぎるほどの幸せを得ているのではないか。  
 
 はっとして、いままで追いかけてきた背中を見る。  
 アスナは雪の上にうずくまっていた。あれだけの振り乱された長い水色の髪は、雪の上  
に落ちてたゆたっていて、むき出しの白い肩はいつもより華奢に思えた。  
 その細くて、吹けば飛んでしまいそうな小さな肩を抱きしめたい。  
 でも、情けないことに俺は足を震えていた。押し寄せる感情の波が制御できない。  
 
――アスナ  
 
 歩け。歩いてアスナの肩を抱きしめよう。と心は叫んでいるが、足は一歩も動いてくれ  
ない。  
 さっきユイに格好つけたばかりなのに、現実はこれだ。  
 俺は無意識に自分のコートを脱いで、となりで目頭を押さえているリズに差し出した。  
 
「ごめん、リズ……頼む。リズにしか頼めない。俺――」  
 
 いま足が、と続けようとしたのと同時にリズと目があった。  
 その瞬間、リズはなにかに驚いて目を見開いた。  
 
「キリト、あんた」  
 
 そしてほんの一瞬だけ、顔をくしゃくしゃにしたリズは俺のコートを抱きしめて頷いて  
くれた。  
 
「……了解。貸しだからね。役得っていうにはちょっと切ないけどさ」  
 
 リズは万事心得たとばかりに頷いて、アスナに向かって歩きだす。最初はおずおずと、  
途中からはじかれたように駆けだした。  
 リズはそのまま、しゃがみこんで嗚咽を漏らすアスナの肩にコートをかけ、コートごと  
アスナを抱きしめた。  
 本格的な耐寒性能はないものの、少しは寒さ防げるはずだ。  
 雪が落ちる音にまじって、アスナの嗚咽が響いていく。  
 
 うしろから澄んだ翅音が響いた。  
 
「ママ? ママ――!」  
 
 俺のすぐ脇を、澄んだ翅音をユイがアスナに向けて飛んでいった。俺が進めなかった距  
離を一直線に。  
 彼女の前にまわりこみ、自分の顔もくしゃくしゃにしながら、アスナの胸に飛び込むユ  
イの姿にすこし胸がさざめいた。  
 
「おいおい。いきなり走り出すから、連中驚いてたぞ」  
 
 俺は肩をすくめた。おそらくユイに案内されてきたのだろう。  
 ざくざくと雪を蹴り、俺のとなりに誰かが立った。俺はなんとか、首をとなりにむけた。  
 ボス戦で少々装備がくたびれた印象のクラインがそこにいた。  
 
「すぐに追いかけてきたんだどな。まったくラストアタックの栄誉なんて、そうそ――」  
 
 クラインが凍りついた。失礼なことに俺を見て。口をぽかんと半開きにしながら、まぶ  
たを二、三度閉じては開ける。  
 
「キリト、おまえ、それ」  
 
「な、なんだよ……」  
「そうだよな……! そうだよ……! だってクリスマスなんだぜ……? お前だって…  
…」  
 
 最初はからかわれているのかと思ったが、それにしてはクラインの様子がおかしい。  
 まるで未知のモンスターでも発見したかのような驚愕を露わにするクラインに、俺は困  
惑した。  
 クラインの震える指先が俺の顔を指さす。  
 
――顔?  
 
 クラインだけならばともかく、後ろにひっついてきたシリカとリーファの顔も表情を凍  
てつかせる。視線の先はやっぱり俺の顔だ。  
 混乱する俺の前で、ピナを肩に乗せたシリカがケットシーの猫耳と声をふるわせながら  
言った。  
 
「……この世界の感情表現って、とても不便だと思ってました」  
 
 シリカが泣き出した。透明な雫が頬を流れ落ちる。肩に乗ったピナがいつもより高く鳴  
いた。  
 
「誰にでも隠したい感情って、あります。泣きたくないのに、涙を見せたくない人の前で、  
勝手に涙が落ちるなんて、不便で、不便で仕方がないって思ってました。笑って、さよう  
ならを言いたいのに、それもできないなんて、残酷で――」  
「うん……すごい不便……だよね」  
 
 シリカの言葉を引き取るようにリーファが言う。青白い月光を吸った涙を目の端にたた  
えている。  
 
「だって感情をぶつけあうだけじゃ、いろいろ壊れちゃうもん。どんなに親しい人にも、  
隠したい感情ってあるから……それが直接伝わっちゃうって、すごい……残酷で……」  
 
 リーファが言うと、シリカが再びしゃくりあげた。リーファはシリカの、ピナの乗って  
いないほうの肩にそっと指を置く。  
 俺はまだ分からない。  
 シリカとリーファが一体何を見て、一体何を感じて泣いているのかがわからない。  
 けど奇妙に晴れやかな二人の様子に動けなくなる。  
 
「――でも今日だけは、なんだか素敵だなって思えました」  
 
 シリカが俺に向かって指を伸ばしてきた。小さな指が俺の頬に触れる。何かを掬うよう  
に頬をなぞった指は、極寒にあってとても温かい。  
 シリカとリーファが透き通るような笑みを浮かべた。  
 
「キリトさんは、気がついてないかもしれませんけど」  
 
 シリカは俺の頬から指をはなして掲げる。  
 そしてシリカが、雪の落ちる音にとけてしまうくらい小さな声でこう言った。  
 
 
「泣いて、ますよ……」  
 
 
 シリカの指は誰かの涙で濡れている。  
 

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