ふたりは近所の神社へ初詣へいき、そこそこ多くの人々と世間と冷たい風に揉まれ、ようやく帰ってきた。  
 家は玄関をのこし照明が消えていた。翠はすでに、あたたかなベッドで眠っているのだろう。  
 玄関扉を開ける前に「ただいま」や「おかえり」を言い交わすと、ふたりは静かに中へ入った。  
「寒かったぁ。スグ、なんかあったかいもの頼む。風呂、追い炊きしてくるから」  
「うん。コーヒーでいい?」  
「オッケイ。ミルクと砂糖一つずつな」  
「めずらしいね。どっちも入れるなんて」  
「寒いからな」  
 そういって、からだをさすりながら浴室へ入り、和人は追い炊きのスウィッチを入れ、ダイニングまで戻ってきた。  
 リビングに入ると、直葉は照明を調整した。ややくらめに、暖色の光が部屋を満たす。  
 そのまま通り過ぎて、ダイニングで電気ケトルを沸かし始めた。戸棚からインスタントコーヒーをとりだし、二つのカップにセットする。  
 一分もしない内にお湯が沸き、少量のお湯でカップ中の粉を溶いてから、ふたたびお湯を注いだ。  
 ひとつにはミルクと砂糖を一つずつ、もうひとつにはふたつずつ入れ、リビングへと運んだ。  
 ソファに座った和人が、ようやく待ち合わせ場所に来た恋人のように、コーヒーを持った直葉を迎え入れた。  
「あちち……ふー、ふー」  
「急ぎすぎだよ……」  
 さっそく啜ろうとして痛い思いをした和人を見て苦笑しながら、直葉も自分のコーヒーに息を吹きかけて冷ます。  
 カップが空く頃になって、風呂場から、追い炊きが終わったことを知らせるシステム音声が流れてきた。  
 お互いが、顔と瞳を見た。ほんとうに? という思考が、言葉を交わさずに伝わる。  
 一秒か、五秒か。それとも一〇秒であったかもしれない。それこそ、時が固体化したような張り詰めた空気がリビングを満たす。  
 それを強引に打ち砕くかのごとく、和人がソファから立ち上がった。無言のままコーヒーカップを流しへ置き、水につける。  
「俺が先に、入ってくるよ」  
「……うん。いってらっしゃい」  
「お、おう。悪いな」  
 そういって、やや足早に浴室へと向かった。すぐに浴室からドアが開き、閉じた音が聞こえる。  
 かちかちと壁掛け時計の針音が、直葉の耳をうるさいぐらいに突いた。  
 同じように飲み干したコーヒーカップを水につけると、直葉もそろそろと浴室へ向かい、しずかに服を脱いだ。  
 ドアを開け、バスタオル一枚の姿で兄の居る浴室に足を踏み入れた。肌にはりつくほどの湯気が、薄くもやをかけている。  
「入るね、お兄ちゃん」  
「へ? うぁ、ス、スグ!?」  
 
 和人の目の前に立った少女の肢体は、記憶の中よりもだいぶ女性らしくなっていた。  
 それはある種、錯覚だった。あるいはより真実らしいと言えた。和人の心臓が加速しはじめ、急激に頭へ押し寄せた血が顔を赤く染めさせる。  
「……どう、かな? あたしのからだ」  
 すこしうつむいて、その中で恥ずかしそうに、うかがうように和人を見る直葉の顔は、りんごのように赤い。  
「待ってくれ。いや、そんな。ええと、ああ、もう」  
「へん?」  
「そ、そんなことはない。とっても立派に育ってる!」  
 直葉の顔色が、完熟した。  
「ばか」  
 そのまま、ざぷんと湯船につかった。湯の中でひらひらとタオルが揺れ動く。  
 そのあとは、ひたすら湯の音とスポンジでからだを擦る音が浴室を埋め尽くした。リビングでの無言とは違い、もうすこし、ホンのわずか刺激があったなら、あふれ出しそうな飽和状態の無言である。  
 ぎこちなく和人が体を洗い終え、シャワーで泡を流すと、  
「し、失礼します」  
「ど、どうぞ」  
 並ぶようにして湯船につかった。  
 顔を合わせられない。恥ずかしいとか、気まずいとか、どうしてこんなことを言ってしまったんだろう、してしまったんだろう。あらゆるものが、密着しすぎて伝わってしまっている。  
「あたし、か、からだ洗うね!」  
「あ、ああ。か、壁向いてるから!」  
「……うん」  
 湯船からあがる音。湯を吸ったバスタオルがべちゃりと落ちて、それで直葉が一糸まとわぬ姿になったこと。見えなくとも、音が耳から脳を犯す。  
 ガリガリと貫通ダメージ判定のナニカが、和人のこころを削っていく。  
 削れたこころと神経が尖り、聞こえないはずの音さえもしっかりと拾っていく。  
 タオルが擦れ、散らばった水を踏み、コックをひねってシャワーから出た湯は、からだを伝う。  
 そのすべてが和人のあたまの中で、リアリティのある仮想体として再生されていた。  
 削れて荒れたこころから生まれた悪魔がささやいた。すなわち、振り向けと。  
 荒野に天使は存在しなかった。  
 近しい年の少女の、隠す物がなにもない状態を、どうして我慢していたのか。なぜ我慢できようか。  
 まだ青々と、しかし確実に大きな実りとなるであろう少女が、無防備な姿を晒していた。  
 顔にシャワーを浴び、目を閉じた直葉のからだを刻みつけるように眺めながら、背徳感が和人の背筋を駆けのぼる。  
 髪をかき上げてシャワーを止め、振り向いた直葉は言葉にならない声を、喉からこぼす。  
「お兄、ちゃん……?」  
 タオルで隠すことも忘れた直葉は、惚けたように和人を眺めた。熱いほどの視線を浴びせながら、和人も言葉を漏らす。  
「……ええ乳しとりまんなぁ」  
「とりあえず殴るね」  
 バチーンと、よい音が浴室に響いたそうな。  
 

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