風呂からあがり、おのおの寝間着に着替えるために自室へと向かった。直葉がパステルグリーンに身を包んでいる頃、和人は薄いブルーのパジャマに袖を通していた。新年だから、新しいものを色違いの揃いで買ったのだ。
暖房を弱めにつけ、和人はベッドに腰掛けた。それからひとつ、肺に残った空気を出し切るように息を吐いた。ふつうの呼吸以上の、言い表せないものが混じっていた。
「うーむ。新年にいきなりってのもなんだけどなぁ」
脳裏にこびりついたものが離れないのか、和人の三本目の剣が存在を主張し始めていた。黒の剣士だ、サバイバーだ、勇者だの言われていても、所詮はただの健康優良児なのだ。それゆえに、抗いがたいものも存在する。
枕元のティッシュ箱を引き寄せ、『黒の剣士』キリトのソロプレイが始まろうとしたその時だ。
コンコンとドアを叩き、パーティプレイに誘おうとするものがやってきた。
「お兄ちゃん、入っていい?」
「ン。遠慮するなよ。どうぞどうぞ」
下げかけたパジャマのゴムを引き上げ、ティッシュ箱を元の位置に戻しながら、やや作った声色で応じた。
「そう? じゃあ、おじゃまします」
まだ髪の乾ききっていない直葉は、ふだんと印象を変えていた。おずおずと脚を進めると、和人の横に腰を落ち着ける。
リンスの香りに鼻腔ををくすぐられ、和人はやや前屈みになった。
暖房の音が空間を支配していた。しばらく沈黙が続いた。息苦しいような雰囲気はかけらもなく、空調機が吐き出す風のようにぬくもりさえあった。
時間が経ち、和人も前屈みを維持しないで済むようになった。そこに、コツンという感触が当たる。直葉の額だ。
「眠くなったか?」
「……うん、ちょっと。……んー……このまま寝てもいい?」
「ああ。……ちょいと狭いな。もうちょっとそっち寄ってくれ」
「ん」
掛け布団を持ち上げて中に入った直葉がベッドの壁側に寄り、枕の端に頭を乗せた。
「んー……。お兄ちゃんのにおいがする」
「そこは我慢しろ。えーと、タイマー、タイマー……っと」
暖房にタイマーをセットして、和人もベッドの中に入った。シングルベッドでは成長期の少年少女がふたり、満足するほどのスペースは得られない。
自然、寄り添うようにして和人と直葉は眠りについた。
時計の長針が数字ふたつほど進んだ頃、環境が違うせいか直葉が目を開いた。もともと眠りが浅いわけではないようで、まだ寝たりないのだろう。目を擦り、自分がいまどこにいるのかもわからない様子である。
あたりを見渡し、頭が回転を始めてようやく事態を飲み込んだ。一気に顔に血がのぼり、闇で隠れてはいるが赤く染まっている。
そのおかげか、脳は覚醒して直葉は思考と理性を取り戻すことができた。同時に羞恥心も紛れてはいたが。
暖房はすでに止まっていた。部屋にはしかし成果の残滓があり、肌寒いと言うほど冷え切ってはいない。
ちろりと直葉がからだを起こすと、静かに眠っている和人を見下ろせるようになった。
すこし、心臓が跳ねるような思いをして、直葉は鼻と口の付近に手を持っていった。おだやかな呼吸が当たる。
胸なで下ろすような気分になり、直葉はそのまま和人の寝顔を眺めていた。
ソードアート・オンライン。その世界に囚われた勇者キリトは、現実世界ではやせ細った少年だった。
いつ呼吸が止まってしまってもおかしくはない。その恐怖をすこしばかり思い出した直葉なのであった。
「似てるかな」
かつては二人で並んでいると、姉妹だなどとからかわれたことを思い出し、くすくすと笑った。
それを発端に、直葉はいろいろなことを思い出していった。楽しいこともあれば、悲しいこともある。
あふれるほどの思い出はなかった。しかし、直葉にとって大切にしまい込むぐらいの記憶ではあった。
「……やっぱり好きだよ、和人くん」
眠る和人の前髪を上げて、唇同士をくっつけた。それがまだ本格的な芽になっていなかった少女のこころに、水となって降り注いだ。
かくして芽が出て膨らみ、恋心が咲いた。それはもう、立派な花になっていた。
少女がもう一度布団にもぐり目を閉じた。しばらくして寝息が始まると、交代するように少年が目を覚ます。
「まったく、スグの奴。これで寝られるかよ……」
せっかく落ち着いたはずの第三の剣をもてあましながら、和人は長い夜を過ごした。