彼女は彼にとって、本当に理想的な妻だった。
当時まだつとめがあった彼女は、彼の願い通りに仕事をやめ、専業主婦として彼をさ
さえたのだ。彼女は彼の理想の妻だった。慎ましく、愛らしく、また趣味も共有できた。
古今東西のMMORPGには「M」「F」が設定され、それ故に『結婚』というシステム
もありとあらゆるタイトルで実施されている。彼と彼女は現実的にも良き夫で、良き妻で
あり、夫が戦闘職のビルドを行ったときには、妻は補助――鍛冶、支援、援護――ビルド
を行い、彼をたてるように突き従った。
身体の相性も良かった。少々、いやかなり、七十四層のリザードマンロードくらいに特
殊な性癖の彼を、彼女はうまく受け止めていた。ろうそく、亀甲縛り、目隠し手錠などま
だまだ序の口。ソードスキルもかくや、というプレイすら彼女は悦んで受け入れた。
なぜなら、彼はドSであり、彼女がドMだったからだ。夫婦生活は順風満帆であり、彼
の稼ぎも良かった。二人の趣味はMMORPGという方向にむき、本当に夫婦と順風満帆
だったのだ。
「あなた……もう、もうやめて! 目隠しを外して!……縄で胸が、胸が痛いの……ろうそく
も熱くて……ああっ、背中弱いのっ! 外にでれなくなっちゃうわ……あなたに料理を作
れなくなっちゃう……だから……んっ、くぅ……そんなに無理やりしないで……揺らしち
ゃだめ……縄が食い、食い込んで……手錠も、もう手首が疲れて……んぐっ……んっ、ん
っ、んっ、んぐっ!……口ならちゃんとしますから……無理やり、しないでっ!――んぐ
っ、んっ、んっ!」
女の嬌声は寝室の暗がりにとけていく。
「でも……あなた……愛して、います……」
――――
――なにごともなければ、そのまま子供をもうけ、幸せに暮らしただろうその二人を変
化させたのは<<ソードアート・オンライン>>というVRMMORPGだった。彼女はさな
がら羽化した蝶のように才能を輝かせ――。
「もう、もうやめてくれ……胸にエストックを刺さないでくれ……頼む……いや、片手剣
でもだめだ。斧はもっとだめだ。部位欠損は本当にだめだ……。くっ……もう許してくれ、
もう十六回も……まだ足りない? わたしにどうしろというのだ……もう立ち枯れだ。お
願いだからもう解放してくれ……ぐっ……そろそろ貫通ダメージが……あと五パーセント
を切っているんだ! たのむ! エストックを抜いてくれ! ……また勃ってきただって
……そんな馬鹿な。私はSであるがMでは……ぐあああああああ! くっ、君は本当に変
わってしまったのだな……なに? シュミット君の方が大きいだと……? カインツ君の
がちょうどいいだと……君は、君は本当に……」
男の悲痛な叫び声が夜霧にとけていく。
「本当に、変わってしまったんだね……グリセルダ……」
――――
彼が目を覚ますと、彼の親戚の人間がとても残念そうに口を開いた。
その男性の手には白い陶磁器でできた、ひと抱えもある壺を彼に差し出した。彼は受け
取る。人間の体温などみじんも残さぬ、陶磁器の壷を抱く。
ふ、と。彼が光に目を潜めた。
親戚のだれかが置いたのであろう、窓辺におかれた彼女の形見が窓からさしてくる光を
反射していた。
夫婦となったその日に交わしたリングを見やり、彼はそこで――胸に抱いた骨壺に崩れ
落ちた。
肉の殺げ落ちた彼の左手の薬指から、サイズの合わなくなった結婚指輪が外れ、ジェル
ベッドを転がり、床に落ちて、りん、と涼やかな音を鳴らした。