埼玉県所沢市の高度医療専門病院。  
 その最上階の個室で明日奈はそっと、つま先を床へおろした。  
 おろした足先が踏んだ床はまるで氷が張っているかのように冷たい。そのわずかな刺激  
にも心臓は大きく波立ってしまう。SAOにとらわれてから二年の間、まともに使われな  
かった神経は、刺激に対して過剰に反応してしまう。  
 
「……はあ」  
 
 明日奈は痩せてしまった胸に手を当てた。  
 二年間の寝たきり生活ですっかり弱くなってしまった、自分の体にあきれつつ明日奈は  
両足のかかとを床につけた。確かめるように足の指で床をくすぐり、ベッドの端にそろえ  
てあった院内用スリッパに足を通す。  
 
「よっ、と……」  
 
 意を決して、ベッドから降りた。  
 立ってみると、二本の足は意外にもしっかり、地面をとらえて明日奈をささえた。  
 じゃあ、次は――明日奈は一歩踏み出してみる。  
 足裏は確かに床をとらえたが、膝の屈伸がうまくいかずに結局バランスを崩してしまっ  
た。  
 
「あ……!」  
 
 すがるように壁に片手を添えて転倒を防ぐ。  
 深呼吸で乱れた呼吸を落ち着かせたあと、もう少し慎重に足を踏み出す。  
 今度は膝の動きを意識し、曲げて、のばすことに集中した。  
 ひた――。スリッパの下部に貼られたラバーと床がきちんと密着した。逆足を追いつけ、  
再び直立に戻る。  
 これでやっと一歩分。  
 ふう、と安堵のため息を吐いた。  
 
「ちょっとなら、大丈夫……だよね」  
 
 自分に言い聞かせるようにしたあと、寝ている間に乱れた院内衣の上下をなおし、壁に  
立てかけてあった松葉杖をとった。このナノカーボン製の松葉杖が明日奈の頼りだ。  
 滑り止めと消音の効果を持つ、杖の先端を包むラバーが床をしっかりととらえる。  
 明日奈はよろめきながら個室の外へ出た。  
 ほかのSAO帰還者よりいくらか、健康状態は良好とはいえ、二年間ベッドの上から動  
くことのなかった体の節々は固まっていた。  
 筋力も低下している。仮想世界から解放されて一月近く経つが、まだ歩行は止められて  
いる。激しい運動などもってのほか。  
 だが、理性の訴えを退けるだけの強い意志が、明日奈を駆り立てていた。  
 明日奈は熱を持ちはじめる足をひきずりつつ、数十メートル離れたエレベーターに向か  
う。  
 廊下の左右には、明日奈の個室と同じく、カードスリット付きの緑の扉がある。  
 個室のテレビを大音量で流しても、決して音漏れしない防音壁が個室を囲っているので、  
直接確認されない限りは、廊下を歩く明日奈に気がつく者はいないだろう。  
 だが巡回中の看護師に見つかれば、すぐに病室へ戻されてしまう。  
 焦りつつも、足と杖をつかってなんとか誰にも発見されずにエレベーターホールに辿り  
着いた。  
 背中から声をかけられませんように、ボタンをプッシュする。十三、十四、十五……上  
昇してくるエレベーターの表示をにらみつけり。やがて表示板が十八を差し、ちん、エレ  
ベーターの扉が開いた。  
 するするとなめらかに開くエレバーターの扉に倒れ込むように入り、急いで扉を閉めた。  
 そこでやっと明日奈は体から力をぬいた。体をエレベーターの壁によりかける。たかだ  
か何十メートルを歩いただけなのに、脚や腕に熱を感じる。冷たい壁は体温を逃がすのに  
ちょうど良い。気持ちよかった。  
 エレベーターの下降を感じながら、もう一度体をチェックする。足首がうまく動かなく  
なってきていた。  
 
 小さく嘆息する。「アスナ」の体が懐かしくなるのはきまって、現実世界の弱り切った  
体を実感する時だ。  
 仮想世界に残してきたものはとても大きい。思い出すのは恋慕に似た切なさが胸を占め  
る。  
 ソードアート・オンラインの仮想空間で明日奈は優先的に伸ばした敏捷値のおかげで、  
数々のアクロバットを実現させていた。風を切り、あるいは飛ぶように走る爽快感はまだ  
まだ忘れられそうにない。  
 だからこそ胸をきゅっ、と絞るような郷愁が訪れる。あれほど頼りになった脚はいま、  
鉛のように重苦しく、細剣の乱舞を実現させていた腕は細くて頼り無い。  
 二年間一緒に浮遊城アインクラッドを駆けめぐった「アスナ」はSAOサーバーととも  
に初期化、消去されているため、二度と明日奈が「アスナ」として仮想世界を走り回るこ  
とはできない。  
 その上VRMMOというジャンルは風前の灯火だ。ソードアート・オンラインとアルヴ  
ヘイム・オンラインで行われた非人道的な事件はすでに世間へ公表されている。これから  
世論の論調によっては、VR空間そのものへの規制もありえる。  
 やがて下降が終わり、エレベーターはちん、と律儀な音を鳴らして目的階への到着を告  
げた。  
 もたつきながらエレベーターから出る。  
 再び始まった歩行に足が悲鳴をあげている。胸を占める郷愁は去らないが、しかしだか  
らこそいま現実でできることを明日奈は確かめたい。  
 現実でしかできないことを果たすことで、現実空間の価値を自分自身に証明したい。  
 ホテルのラウンジを想起させる広々とした待合いロビーも、お昼時のいまは閑散として  
いる。受付脇にある時間を確認すると、どうやらまだ外来の受付を行っていないらしい。  
 ともあれ、人が少ないのは明日奈にとって幸いだった。牛歩のようにゆるゆると、ラウ  
ンジを横切った先にある売店に進む。  
 それなりに巨大な――というよりも提携しているコンビニそのものの売店にとことこ足  
を踏み入れていく。目的の「お菓子売場」はすぐに見つかった。いくつかあるパッケージ  
を眺めて十数分ほど迷い、結局デザインが一番シンプルなパッケージを手に取った。  
 黒い長方形の、板状のお菓子。薄いそれを指先ではさんで再び杖を操り進む。  
 レジにむかう途中でぐら、と視界が斜めに傾いだ。不安定に松葉杖をもあってしまった  
せいではない。膝とくるぶしあたりに激痛がはしった。  
 おもわず杖によりかかってしまうと、今度は肘から目もくらむような痛みが走った。  
 
「っ――!」  
 
 足と腕の激痛を押さえ、悲鳴をなんとか飲み込む。涙で視界がゆがんだ。  
 気力を振り絞ってレジ前まで進んだ。  
 ふるえる指先で握りしめるようにつかんでいたお菓子のパッケージを店員に差し出し、  
院内用マネーカードをポケットから取り出した。  
 入院患者には摂取制限があるため、店員が病人然とした格好の――実際に病人であるの  
だが――明日奈に食料を売ってくれるのかどうか、正直それだけが心配だった。しかし店  
員はやる気がないのか、とくになにも言わずにアスナへ商品を売ってくれた。  
 差し出されたそれを受け取り、院内衣のポケットにつっこむ。そして再び痛みや虚脱感  
と戦いつつ、確かに得た達成感を燃料にして、復路を辿りはじめる。  
 明日奈が院内のざわめきに気がついたのはその時だった。  
 売店で迷ってしまったせいかロビーには受付待ちの外来患者やその付き添いで混みはじ  
めていた。  
 明日奈にとってランダムに挙動する人垣は障害物でしかない。  
 明日奈は額に汗が浮かぶのを感じつつ、くっ、と唇を引きひきしめて、足を進めようと  
したその時に何かが杖にぶつかった。  
 まだ数メートルほどの距離にあるロビーに気をとられていた明日奈は、売店に向かおう  
とする子供に気がつけず、松葉杖の右側に十歳前後の少年の体が引っかけてしまった。  
 ちょうど体重を移動させようとしていた明日奈は大きくバランスを崩す。  
 とっさにもう片方の手を松葉杖から離して床に突き出す――。  
 
「――っ!!」  
 
 がつ、と生々しい音がした。  
 
 今度こそ悲鳴すら上がらない。一瞬とはいえ、明日奈の体重のほとんどを右手は引きう  
けてしまった。  
 
「ああ……ぐ……ぅう……」  
 
 明日奈は手首を押さえてうめいた。あまりの痛みに目の前が白くなる。  
 
「お、お姉さん……?」  
 
 気遣わしげな声で明日奈を呼ぶ少年を見上げる。泣きそうな顔の少年を安心させるべく  
たちあがってみせようとするが、足先は床をすべるだけで、膝から上がまったく持ち上が  
らない。手首の痛みも明日奈の神経を混乱させる。  
 
「う……っ……」  
「お姉さん、その……ごめん、なさ――」  
 
 ――大丈夫。ぜんぜん大したことないよ。こっちこそよそ見していてごめんね。  
 
 その一言が喉元でひっかかってしまう。痛みで言葉にならない。  
 男の子の瞳はついに潤みはじめ、いつ涙をこぼしてもおかしくない。ユイと同じ位の年  
格好の少年を泣かしたくない。  
 とうとう男の子が顔をくしゃくしゃにして、口を大きくあけ――。  
 
「アスナ……なにしてるんだ」  
 
 突然投げかけられた声に驚き、明日奈は少年と一緒に声の主を見上げた。  
 明日奈が一番すがりたいと思った人物が、両手いっぱいの花束を抱えて立っていた。  
 服の上からも線の細さを感じさせる少年が目を見開いている。  
 
「キリトくん……」  
 
 桐ヶ谷和人の黒い瞳は明日奈と泣き出しそうな少年を、交互にとらえていた。  
 涙が明日奈の視界を覆っていく。  
 和人は床に膝をついた。  
 
 
――――――  
 
 
「……怒られちゃった」  
「――俺も、怒ってる」  
 
 言って和人は口を堅く結んだ。来客用の椅子をぎぃ、と揺らした。  
 ちょうど明日奈の見舞いに訪れようとしていた和人は、明日奈と激突した少年を落ち着  
かせ、どこからか車いすを借り受けてきた。さらに無言で明日奈をそこに乗せ、明日奈を  
十八階まで連れ戻した。  
 個室に続く廊下で、明日奈の担当看護師とは鉢合わせしてしまったのは運がよかったの  
か、悪かったのか。  
 看護師は明日奈をベッドに寝かせいくつかの処置をおこなったあと、勝手に病室をぬけ  
だすという無茶をした明日奈を、それはもう、烈火のごとき勢いで叱りとばした。  
 記憶にないくらい叱られた明日奈は、情けなさやら申し訳なさで、涙をながしてしまっ  
た。もうしません、二度と抜け出したりしない――と誓っても、看護師は明日奈を許して  
くれなかった。  
 明日奈がこの個室に入院して依頼、ずっとおせわになっている40歳手前に見える女性  
看護師の、職業意識以上のお説教はしばらく続き、看護師は最後にあらためて、二度と無  
茶をしないこと、担当医の言うことをちゃんと聞くこととを明日奈に約束させ、病室を去  
った。  
 さすがに気まずく、しばらく明日奈は和人に話しかけることができなかった。腕を組み、  
唇を引き締めたままの和人が怖かった。  
 
「……俺もリハビリ経験者だからわかるけどさ」  
 
 眉をひそめたまま、和人が言う。  
 
「無茶したって別に早くよくなるわけじゃないぞ? 薬をちゃんともらって、適度なリハ  
ビリをするんだ。じゃないと一緒に高校通えなくなっちゃうぞ」  
「でもキリトくんも、無茶してくれたよね……私のために。看護師さんに怒られながら」  
「そ、それをどこから――!?」  
 
 憮然とした表情から一変、目を見開いて驚く和人の顔があまりにもおもしろくて明日奈  
は声を上げて笑おうとし、体のあちこちに走った痛みに眉をしかめた。四肢が重苦しく、  
関節が悲鳴をあげている。頬がひきつりそうになるのをこらえて、和人に言った。  
 
「この間、直葉ちゃんがお見舞いに来てくれたでしょ? そのときにキリトくんがどんな  
無茶したのか聞いちゃった。ベッドでじっとしているの、キリトくんらしくないもん……  
担当の看護師さんに怒られてシュンとしていたって……」  
「スグ……あいつは、もう……今度個人情報については改めてレクチャーしとかいないと  
……。いろいろ、小さいころの時のこととか……」  
 
 ぶつぶつ言った後、大きく息をはいて椅子の背もたれに寄りかかる。さっきまでの厳め  
しい雰囲気はない。  
 
「ああ、もう! とにかくもう無茶するなよ! 退院遅れたってしらないからな!」  
「はい……ごめんなさい……」  
「う……そ、そもそもどうしてあんなところにいたんだよ。まだ本格的な歩行訓練は先の  
はずだろ? 売店にいきたいなら俺や看護師さんに頼めばいいじゃないか。あの看護師さ  
んだってほしいモノがあれば言いなさい、って言っていたろ?」  
「あ」  
 
 そこで思い出した。看護師に叱られたり、和人におぶわれたり、子供とぶつかったりし  
たので、そもそも病室を抜け出すまでした目的を忘れていた。  
 無茶をした報酬はポケットの中に眠っている。  
 明日奈はポケットから例のお菓子のパッケージを手に取ろうとして挫折した。転倒する  
際に体をささえた右腕は手首だけでなく、肘や肩にまで衝撃を伝播させているらしい。肘  
を曲げようとすると痛みが走った。  
 腕が曲がらない。ポケットに手が入らない。  
 
「キリトくん……わたしの、ポケットの中にはいっているもの、出してくれる?」  
「ポケット?」  
 
 いきなりの話題転換に目を数度しばたかせたキリトは、それでも頷いて明日奈にうなず  
き椅子から立ち上がる。  
 
「その……右のポケットに」  
「わかった」  
 
 和人は明日奈の胸元までかかっていたシーツをはぎはじめ、膝のあたりまでおろした。  
するとこんどは、膝下まで伸びている上着の裾を持ち上げて、めくりあげた。  
 う――、と明日奈と和人はほとんど同時にうめき声をあげた。少々手早く裾をめくりあ  
げたせいで、上着と一緒にキャミソールの裾もめくれあがってしまった。  
 和人の視線が腹部に向かうのを、明日奈は見逃さなかった。恥じらいつつも、やっぱり  
キリトくんも男の子なんだなーと、場違いな感想が浮かぶ。  
 和人は明日奈の腹部から目をそらしつつ、そっとズボンのポケットを探り、明日奈が売  
店で購入してきた長方形のお菓子を手にした。  
 和人は、明日奈の上着をなおし下腹部をかくしたあと、魅入られたようにお菓子のパッ  
ケージを見つめていた。  
 
「アスナがほしかったのは……これなのか?」  
 
 和人のつぶやきに、明日奈は小さく頷いた。  
 なんてことはない。どちらかといえばシンプルな包装のお菓子だ。黒地に金のインクで  
商品名が掻いてあるだけの、板状チョコレート。板チョコ。  
 
「これこそ……俺や、看護師さんに頼めばいいじゃないか」  
「……バレンタインチョコだもん。キリトくんに頼んだら、意味ないよ。本当は手作りで  
あげたかったもん……それに、キリトくんが取り戻してくれた脚で歩いて、自分で選びた  
かったの」  
「それだけのために無茶したのかよ……」  
「……だって、初めてだよ。キリトくんとこうして恋人っぽいことできるの。そのチョコ  
だってずいぶん迷ったんだよ」  
 
 言葉に嘘はない。  
 現実世界に帰ってきたからはじめての「甘い想像」は、明日奈を無茶に駆り立ててしま  
うほど、魅力的だった。  
 売店で悩んだ数分間は、痛みをわすれるほど楽しかった。  
 しばらくパッケージを見つめていた和人は、「ありがと……」と消え入りそうな声でつ  
ぶやき再び椅子に座り直す。  
 がりがり頭の後ろを掻くとパッケージの内袋をばりばり破いてシンプルな形の板チョコ  
を露出させ一気に口に入れた。途中でぱきん。チョコを前歯で折る。そのままもぐもぐと  
口を動かし、和人がチョコの断片を飲み込んだのを見計らい、明日奈は聞いてみた。  
 
「おいしい?」  
「ああ、おいしい。あまくて……なんだか、温かい」  
「……」  
 
 温かいのはポケットに入れていたせいだよ、と言おうとして明日奈は口をつぐんだ。  
 和人の目に涙がたまっている。瞳の表面で揺らぐ涙が、窓から差し込む光をゆらゆら映  
している。  
 和人はそれきり無言でチョコレートをほうばった。やはりというか、なんというか。板  
チョコは転倒の衝撃で折れまがっている。和人は分裂したチョコ一枚一枚を丁寧に指です  
くい、口に運んだ。たまにばりばりと音を立てつつ、ついに最後の一片を飲み込む。  
 足下にむけたまま、和人がつぶやいた。  
 
「――俺、たぶんこの味は一生忘れないと思う」  
 
 やや大げさな和人の言葉に、明日奈は苦笑した。  
 
「もう。大げさだよー。来年はちゃんと手作りするね。ビターなほうがいい?」  
「明日奈がつくってくれるなら、なんでもいい」  
 
 どうやら怒る気力すら、なくしてしまったらしい和人の顔を眺めたあと、明日奈はずっ  
と胸の内にしていた言葉をゆっくりと紡いだ。  
 
「キリトくん。これからふつうの……高校生らしいこともいっぱいしようね? 和人君と  
いっしょに学校へ通って、リズたちともおしゃべりして……一緒にいたい。もうあそこに  
は帰れないけど、だから現実でキリトくんと、もう一度……」  
 
 和人は組み合わせていた指を、ぴくりと震わせた。そろそろと頭を上げる。窓からさし  
こむ光にさらされた和人の顔は「キリト」とはほんの少し面差しが異なっている。彼もま  
た現実の二年間をうしない、頬の肉がそぎおちていた。  
 が――片頬に浮かぶシニカルな笑みだけは変わっていない。その不敵な笑みは何度も、  
何度も明日奈を励ました。  
 和人はそのまま続ける。  
 
「……ああ。やっと帰ってきたんだから、あっちでできなかったことを一杯しよう。俺も  
……明日奈と一緒にしたいことはいっぱいある。連れて行きたいところも、一緒にいって  
もらいたいところも……。だからもう無茶はしないでくれ。俺、心配でベッドの脇に張り  
付いちゃうぞ」  
「え……」  
 
 明日奈はつい、その魅力的な提案に頬を緩めてしまった。  
 が、和人は明日奈の表情を取り違えたようだった。顔を赤くそめ言い繕う。  
 
「……じょ、冗談だよ! とにかく、もう無茶はしないこと」  
「う、うん……。キリトくんやみんなに心配かけちゃうもんね……」  
「そうそう。リズ……いや、里香もそのうち来てくれるっていうからさ。すこしでも元気  
になったところ見せてやりたいだろ」  
「里香……?」  
「リズのリアルネーム。シノザキリカだってさ。今日の午前中に会ってきた。明日か、明  
後日くらいにはつれてくるよ。髪型は必見だな……。ああ、これはまだ内緒だっけな」  
「……もう。気になるよー。リズの髪がどうしたの?」  
「まあまあ。オタノシみに……少し休むか? 薬を飲んだ後、眠くなるかもって看護師さ  
んも言ってたし、と」  
 
 和人がシーツをつかんで明日奈の胸元まで引き上げる。  
 やわらかなシーツとジェルベットが、ふと睡魔を呼んだ。まだ体も拭いていないが、耐  
え難いほど瞼が重い。  
 飲んだ薬が効き始めている。体中をむしばんでいた焚きつけるような痛みが遠のいてい  
る。右腕はまだ熱いが、耐えられないほどではない。  
 しばらくすると、さらに眠気がとろとろと意識を包んでくる。  
 
「キリトくん……手を……握って」  
「……うん」  
 
 和人は椅子を引きずり、明日奈のベッドに寄りシーツの内側にある明日奈の指先をとら  
える。そのあと包み込むように明日奈の手を握った。  
 
 ――あれ?  
 
 かのプレイヤーホームの寝室で、なんどかこうして手を握りながら眠りについてことが  
ある。その時と若干、感触がちがう気がした。  
 違和感の正体をさぐろうとして、もう一度強く握ってみる。  
 
「そっか手が……」  
「え?」  
「キリトくんの手、少し大きくなってるよ」  
 
 もう一度にぎりしめる。  
 SAOで使用していたアバターは、「はじまりの街」で容姿を再現したものに置き換え  
られている。そして成長は再現しなかった――。  
 
「そりゃ……二年の間も成長してたから、すこしは大きくなってるさ。つい最近MTBも  
新調した。脚が合わなくなっててさ……」  
「ん……また引き継ぎしたの?」  
「ああ。一台目も、二台目も、三台目の魂もちゃんと……魂はいいすぎか?」  
「ううん」  
 
 明日奈は首を横にふりつつ、動かない右手の代わりに、左手で左腰に触れた。敵を切り  
裂く武器として、時には身を守る防具として、アスナと共にあった細剣は、いまはもうど  
こにもない。それをさびしく思う気持ちはもちろんある。  
 
「今度、明日奈に見せるよ……四台目もさ。見せたい物がいっぱいある」  
 
 指を握り返す。ついさっきまで痛みを伝えていた右手首は、現金なことにもう痛まなか  
った。ただ熱くて大きな手のひらに包み込まれる安心感だけを明日奈に伝えてくる。和人  
の指紋や手のひらの皺の感触までも明日奈に安らぎをもたらしている。  
 目に見えないなにかが胸に染みこむ。  
 不思議と痛みは遠ざかり、ただゆるゆるとしたまどろみだけが残っていた。そのまま目  
を閉じる。  
 視界は闇に閉ざされたが、つないだ手は絶え間なく和人の体温を伝えてくる。目をつむ  
っていても、瞼の裏には微笑む和人の表情が像を結ぶ。  
 見守ってくれている安心感にやさしく包まれ、次いで意識が眠りの底へと落ちていく。  
 
「おやすみ……」  
「おやすみ」  
 
 手を包まれる感覚は意識が落ちる最後まで、手のひらに残っていた。  
 
 

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