このデスゲームが始まって二年が経った。  
季節は移り変わり、この世界で三度目となる秋の到来。  
最初の秋は、辛い思い出しかなかった。  
二度目の秋は、ガムシャラに働いていてほとんど記憶に残っていない。  
そして、三度目の秋は、果たしてどうなるのだろうか――。  
 
現在の最前線は74層。  
あたし、鍛冶師リズベットは午前中に受けたオーダーメイドの仕事をあらかた片付け、  
今はインゴットの在庫確認をしていた。  
店の倉庫のストレージを開き、収納されたアイテムの一覧を見る。  
高レベルのインゴットの数が残り少ない。  
 
(そろそろまたキリトに頼んで取ってきてもらわないと……)  
 
インゴットはクエストアイテムも多く、街でもあまり出回らない。  
以前は自分でアイテムを取りに行ったりもしたのだが、  
最近はオーダーされる武器のステータスもかなり高くなっていて、  
要求されるアイテムはとてもあたしには取りにいけないフロアのものばかりになってきた。  
低レベルのものであればシリカと一緒に取りに行ったりもするのだが、  
高レベルのものはもっぱらキリトに頼りきっている。  
 
カランカラン  
 
太陽の日差しが眩しい午後、その人はあたしの店、『リズベット武具店』へやってきた。  
あたしはウインドウを消去して訪問者のほうに向き直る。  
小柄な身体をローブで包み、スルリと扉から店内に入ると、  
そのキラリと光る瞳があたしを捉えた。  
 
「よ、オジャマするヨ」  
「こんにちは、アルゴさん。どうぞ座ってください。今コーヒーを入れますね」  
「サンキュー」  
 
やってきたのは情報屋のアルゴさん。  
彼女はアインクラッド随一の情報屋にして、  
ウィークリーアルゴという新聞やフィールド情報をまとめた攻略本を発行している編集者でもある。  
まるで一昔前のマンガに出てくる動物のヒゲのようなペイントを顔にしていることから、  
『鼠のアルゴ』なんて呼ばれていたりする。  
実はあたしは駆け出しの頃から彼女の新聞に格安で広告を載せてもらっていて、  
さらにこの店を買う時も色々協力してもらっており、彼女はいわば大恩人なのだ。  
もっとも、この人の情報に対する嗅覚というのは恐ろしいものがあって――  
アルゴさんは椅子に飛び乗るように座ると、ニヤリと笑いながら切り出した。  
 
「悪いネ、仕事中だってのに時間もらっちゃって。  
 じゃあ早速だけど……リっちゃーん、キー坊とはどこまでいったんダヨ」  
 
アルゴさんは開口一番こう言い、  
あたしは手に持った二人分のコーヒーカップを思わず落としそうになった。  
行儀悪く椅子の上であぐらをかき、こちらをニヤニヤした目で見てくるアルゴさんに、  
あたしは内心の動揺を必死に抑えつつ答える。  
 
「どこまでって別に……っていうかなんなんですかいきなり。  
 今日は新聞に載せるインタビューだって言ってたじゃないですか」  
 
そう、アルゴさんはあたしがキリトのことを好きになったことをすぐに嗅ぎつけてしまった。  
キリトのことはゲーム開始初期のころから知っていたらしく、  
最近は会うたびにからかわれている。  
 
「んなもんオレっちがテキトーに書いとくから心配いらねーヨ。  
 それよりホレ、オネーサンに教えろヨ」  
「いやいやいや、なんですかそれ。ちゃんと仕事してくださいよ」  
 
今日はアルゴさんの出している新聞の片隅の名物記事、  
『街で見かけたあの娘』のコーナーの撮影とインタビューだと聞いていた。  
ガラでもないのだが、あたしが紹介されるというのだ。  
今までは再三の要請も恥ずかしくって理由をつけて断っていたのだが、  
先日のシリカの5度目(シリカを出すととにかくよく売れるそうだ)となる紹介の際に、  
最近できた友人としてあたしの名前を紙面に載せてくれたお陰でついに断りきれなくなり、  
渋々承諾した、というわけだ。  
 
「いいからいいから、べっつに記事にしよーってわけじゃねーんだからサ。  
 で、ホントのところどうよ、少しは進んだのかヨ?」  
「別に……その……前に話したのから、特に変わってません」  
 
前回、あたしはついにキリトをなぜ好きになったのかの経緯を全て白状してしまった。  
彼女の巧みな話術にしてやられたわけだが、今思い出しても恥ずかしくて赤面してしまう。  
とはいえ、進展がないのは紛れもない事実である。  
 
「ひゃっひゃっひゃ、大丈夫かヨ?  
 アーちゃんやらシーちゃんやらも虎視眈々と狙ってるみてーだからナ。  
 あんまりうかうかしてっと、誰かにアッサリ取られちまうゼ」  
「うぅ、わかってますよ」  
 
あたしとキリトの関係というのは出会ってからもう4ヶ月近くになるがほとんど進展がない。  
初めて会った次の日に告白をして、しかしその返事は聞くことなくうやむやになってしまっている。  
決してうかうかしているつもりはないのだが、ライバルたちはあたしより幾分積極的のようで、  
聞くところによると、アスナは前線ではヒマを見つけてはキリトに声をかけたりしているらしい。  
また、シリカも会えなかった4ヶ月の分を取り返すようにベッタリくっついているという。  
毎日工房に来てくれているからといって安心はしていられないだろう。  
ただ――  
 
「あたしとしては、今の関係をムリに壊してしまうのも怖いというか……」  
「じゃあこのままでもいいっていうのかヨ?」  
「いや、できればあと一歩進みたいって気持ちもあって……」  
 
思わず両手の指をくっつけてモジモジ。  
正直、告白は勢いでやってしまった感があるが、  
今更どうこうするにはきっかけもないというのもある。  
 
「キー坊だってリっちゃんのことは気にしてると思うゼ。  
 知ってっカ?アイツ、一時期なんか暗かったんだケド、最近すんげー明るくなってきてんだゼ。  
 アレ、ぜってーリっちゃんの影響だヨ」  
「そうなのかなー。でも、あたしだけじゃなくアスナやシリカとも楽しそうに笑ってるし、  
 そもそも、あたしはアスナやシリカに比べたら全然可愛くないし、ガサツで女の子っぽくないし……」  
 
アスナやシリカはそれぞれ攻略組や中層クラスのアイドル的存在で、ファンクラブもあるらしい。  
特にアスナは一時期に比べて角も取れていて、キリトと並んでいるとあたしから見ても実にお似合いに見える。  
最近はキリトは以前のような深夜まで前線に篭るなんて生活もやめ、ギルドにこそ所属はしていないものの、  
朝から夕方まで攻略に勤しむといった規則正しい生活に変わってきていたのだが、  
どうも時々だが、最前線でアスナと組んだりもしているらしいのだ。  
この前なんて、アスナにストーカーまがいのことをしていたギルドの団員がいたというのだが、  
キリトがデュエルでやっつけたりもしたという。  
そのときの様子を嬉々として語るアスナの姿を思い出し、  
つい、はぁとため息をついてしまったあたしに呆れ顔でアルゴさんは言う。  
 
「かー、リっちゃんもここぞってところでチキンだネ。ま、これもセイシュンってヤツなのカナ」  
「仕方ないじゃないですか、こんなの、その、誰かを好きになるのなんて……初めてなんですから」  
「ふむふむ、リっちゃんはこれが初恋、っと」  
「なにメモってるんですか!」  
 
あたしは飛び掛るようにしてアルゴさんのメモ帳を奪おうとするが、  
当然身のこなしでかなうはずもなく、ヒラリとかわされてしまう。  
あたしはうらめしそうな目を向けると、何がおかしいのか、お腹を抱えて笑い出した。  
 
「にゃはははは!ジョーダンだよ、ジョーダン。  
 ひひひ、ホント、リっちゃんはからかいがいがあるよネ」  
「もう、笑わないでくださいよ。こっちは真剣なんです」  
「まあキー坊に期待しててもいつまで経っても進展しなさそうだからナー、  
 リっちゃんがなんとかするっちゃないゼ」  
「そうなんですけど……なんというか、きっかけがないというか……」  
「ナルホドな。ま、そんな迷える子猫チャンにオネーサンが助け舟だしてやるヨ。  
 ホレ、これやるから使いなヨ」  
 
アルゴさんはあたしになにやら細い紙切れのようなものを二枚差し出してくる。  
受け取ると、日時と場所が印刷されたそれは――  
 
 
 
 
「えんへひのヒヘット?」  
「口の中に詰め込みすぎよ」  
 
あたしは呆れ顔でコーヒーを手渡した。  
食事のときだけはいつもより幾分幼く見える黒ずくめの少年、  
キリトは口いっぱいに入った朝食のハンバーガーをコーヒーで流し込み、言い直す。  
 
「演劇のチケットだって?」  
「うん、ほらこれ」  
 
あたしからチケットを受け取ったキリトは目を丸くしている。  
次の日、あたしは早速アルゴさんからもらったものをキリトに渡した。  
 
「えーっと、とある人からチケットを二枚もらったから、  
 キリトさえよければ一緒にどうかなーって。  
 急なんだけどキリトは今夜、何か特別な用事でもあったりする?」  
 
アルゴさんからもらったのは最近話題の、劇団アインクラッドという劇団による演劇のチケットだ。  
もちろんNPCによるものではなく、れっきとしたプレイヤーたちによるショーである。  
どうも、ここの団長さんは元々どこかの劇団員だったらしく、  
ヒマを持て余してか仲間たちで劇団を作ったのだという。  
しかし素人と侮るなかれ、敏捷値を上げることで現実世界では不可能な動きも可能とあって、  
歌と踊りのダイナミックな演技で非常に人気なのだ。  
アルゴさんは新聞で取り上げた際にチケットをもらったらしいが、用事ができたからとくれたのだ。  
確かに二人の仲を進めるイベントとしてはピッタリの代物かもしれない。  
先日73層のフロアボスを倒したばかりなのでボス戦が当分ない以上、  
基本的にソロであるキリトにどうしても外せない用事というのはあまりないはずというのも計算済み。  
が、相手はあのキリトなわけで――  
 
「別にヒマだけど、俺となんかでいいのか?」  
 
と、まあなんとも女心がわかっていない一言が飛び出してくる。  
わかってる、キリトに悪気がないってことは。  
でもさ、この流れで普通そんなこと言う?  
あたしは心の中で大きくため息をついた。  
もっとも、これは予想されていたことであり、どう対応するかはアルゴさんとは相談しているため問題ない。  
 
「ほら、この人たちは敏捷極振りの上に軽やかな身のこなしらしいからさ、  
 ひょっとするとキリトも何か参考になるかもしれないよ」  
「うーん、そうかなー」  
 
なにやら納得しきれていない様子。  
あたしはアルゴさんとの会話を思い起こす。  
アルゴさんはたしか、納得してないようならとにかく強引に押すべし、と言っていたような。  
 
「いいじゃないの、ヒマなんでしょ。ほら、何かのきっかけになればラッキー、くらいで」  
「そうだな、たまにはいっか。ありがとな、リズ」  
 
うわ、ホントに女の押しには弱いんだ、とあたしは頭を抱えたくなったが、ひとまずは予定通り。  
あたしは待ち合わせの時間と場所を指定すると、後はいつものようにキリトを見送る。  
今朝作った弁当を手渡し、出発のあいさつにこぶしを打ちつけあうと、  
そのまま振り返ることなくキリトは最前線に出発していった。  
キリトの姿が見えなくなるのを待って、あたしは大きく一呼吸つく。  
 
「さ、誘ってしまった……これって、デート、だよね……」  
 
もちろんのことだが、もう後戻りはできない。  
キリトと二人っきりでどこかに行くというのは初めて出会った日以来だ。  
当然、デートなんてこっちの世界はおろか現実世界でも経験などなく、生まれて初めてのことである。  
黙っているとおかしくなってしまいそうだったので、あたしは両頬をパチンと叩き気合を入れた。  
とにかく、後はなるようになれ、だ。  
今日は一日臨時休業、まずは準備にとりかかろう。  
 
 
 
 
 
あたしが約束の時間の十分前に待ち合わせ場所の広場に着くと、見慣れた黒コートの存在にすぐ気がついた。  
意外にもすでにキリトはこちらに背を向けて待っていた。  
なにやら落ち着かない様子だったが、流石はトッププレイヤーといったところなのか、  
近づくとすぐにあたしに気づいたようでこちらに顔を向けてくる。  
 
「お待たせ、キリト!」  
「お、おう、別に俺も今さっき……」  
 
振り返ったキリトはあたしの姿を見るなりキリトは固まってしまった。  
狙い通りの反応ではあるのだが、じっと見られると少し恥ずかしい。  
 
「リズ、お前それ……」  
「あの、似合う、かな?」  
 
あたしが今日着てきた服は、下ろし立ての赤いノースリーブのワンピース。  
胸元にはシルバーのネックレスも付けている。  
そしてなにより――  
 
「これ、あたしの元々の色の瞳と髪の毛なんだ。いつもはアスナに薦められてカスタマイズしてるんだけど」  
「そ、そうなのか……」  
 
そう、あたしは今日、瞳も髪もデフォルトの状態にリセットしてきた。  
あたし本来の日に焼けたような赤茶色の髪の毛は生来の童顔と合わさってとても子どもっぽく、  
昔は凄くコンプレックスだった。  
いつもの色のほうが可愛いみたいだし、実際お客さんにもウケがいいのだが、  
今日だけは、本当のあたしの姿を見せたいと思ったのだ。  
いつもと雰囲気が違うあたしに戸惑っている様子のキリトを見て、この姿で来た目的のうちの半分、  
キリトを驚かせたいという目的が達せられたということを確信し心の中で小さくガッツポーズ。  
あたしは言葉が出てこないといったキリトに一歩近づき、彼の顔を上目遣いで覗き込んでみる。  
 
「どう、かな?」  
「その……あー、えっと……」  
「何?」  
 
しばらく視線を彷徨わせていたが、キリトはあたしから顔を背けると歩き出してしまった。  
 
「じ……じゃあ、とりあえず行くか、もう開演までそう時間もないんだろ」  
「ちょ、ちょっと待ってよ」  
 
あたしは慌てて追いかける。  
やっぱり、いつもの姿のあたしのほうがよかったのだろうか。  
似合って、ないかな……。  
先ほどまでの気持ちもどこへやら、どんよりとした気分でキリトの後ろをついていく、が――  
 
「きゃっ」  
「あ、スマン」  
 
突然立ち止まり、振り返ったキリトの胸に飛び込むような形でぶつかってしまった。  
キリトがふらつくあたしの右手を左手で掴んで支えてくれたので倒れたりはしなかったものの、  
気がつくと手を取り合って見詰め合うような形になっていた。  
キリトと視線が交錯し、心臓が止まりそうになる。  
 
「ご、ごめん!」  
 
思わず声が上擦る。  
ほんのすぐそばにキリトの顔があって、しかし身体を動かすことができない。  
キリトはあたしの手を握ったまま一瞬固まるが、意を決したように口を開いた。  
 
「そ、その服、凄く似合ってる。それに、今日の瞳も髪の毛も、凄く可愛い、と、思う」  
 
あたしは何を言われたのかしばらく理解ができなかった。  
褒められたのだと理解するのには数秒の時間がかかった。  
すでに高鳴っていた鼓動が一気にマックスになり、顔が燃えるように熱くなる。  
 
「あ、あああありがと」  
 
震える唇でなんとかそれだけ口にすることができたが、キリトから目が離せない。  
キリトも同じなのか、顔を真っ赤に染めたまま、動かない。  
至近距離で手を取り見つめあい、そして――  
 
(あらあら、熱いわね)  
(ここがどこかも忘れちゃってるみたいだな)  
 
周りの人の声で、あたしたちは広場のど真ん中にいるということを思い出し、  
あたしたちは同時に後ろに後ずさり、繋がれた手を離した。  
道行く人々は皆こちらをニヤニヤと眺めていくし、中には足を止めている人もいた。  
 
「わ、悪い……」  
「だ、だいじょうぶ……その、行こ……」  
「あぁ……」  
 
何が大丈夫なのか自分でもわからないが、とりあえず恥ずかしいのでここにはもういられない。  
とはいえ、この姿で来たもう半分の理由、キリトに可愛いと言ってもらいたいという目的も、  
想像以上の収穫付きで達成した。  
あたしは心を満たす歓喜に身体を震わせつつ、会場に向けて足を動かした。  
 
 
 
 
 
「それにしても、ホンットにすごかったね!」  
 
あっという間の二時間だった。  
楽器スキルを極めた演奏家たちによるオーケストラ。  
何人ものコーラスと、それに負けない主役たちの声量、動き、演技。  
ストーリーも感動的なラブストーリーでありながら随所にユーモラスなコメディが入っていて、  
見る者を飽きさせない見事なものだった。  
 
「そうだな、スキルをあんなふうに組み合わせてエンターテイメントにしてしまうなんて、  
 今まで誰も思いも寄らなかったことだよ。」  
 
キリトも楽しめたみたいでよかった。  
あたしたちは演劇の後、近くのプレイヤーメイドのレストランにやってきた。  
レアな食材を使った料理を扱ういわゆる高級レストランのここは、  
食事が数少ない娯楽であるこの世界ではトップクラスの人気店である。  
普段は何日も前から予約をしないといけないほどなのだが、  
驚いたことにキリトがここのオーナーに頼んで急遽予約をしたというのだ。  
確かここのオーナーは若い女性だったはずだが、  
なぜそんなムリが言えたのかはまたいつか問い詰めようと思う。  
 
「あたしじゃどれがスキルでどれがスキルじゃないのかさえ全然わかんなかったんだけど、  
 キリトくんならあの人たちみたいな動きもできるんじゃない?」  
「どうだろうな。動き自体は真似できるかもしれないけど、  
 他のメンバーと息を合わせて飛び回ったりなんてのはよっぽど練習しないとムリだろうな」  
 
あたしはラストの敵味方入り乱れての殺陣シーンを思い起こす。  
観客に魅せることを意識した動きというのは一日二日でできるものではあるまい。  
まさに、アインクラッドで初めての専業のエンターテイナーだからこそ、というものなのだろう。  
 
「あの人たち、団長さん以外はほとんど演劇の経験なんてない人たちばっかりだったんだって。  
 今みたいに演劇に専念する前は職人だったり中層プレイヤーだったりでバラバラだったみたい」  
「そういえば一人、元攻略組のやつがいた。ずっと前に一度だけ前線で一緒に戦ったことがある」  
「え?ホント?」  
「あぁ、ずっと見かけなかったんだけど、別の道を見つけたんだな」  
「別の、道?」  
 
あたしが聞き返すと、キリトはうんと頷き、わずかに目を細めた。  
キリトが真剣な話をするときの癖だ。  
あたしは思わず背筋を伸ばした。  
 
「結構いるんだぜ、攻略組をやめちまうやつ。  
 別に落ちこぼれるとかじゃなくて、命がけで戦うことよりやりたいことが見つかったっていうことさ。  
 特に最近、以前ほどクリアだ脱出だって血眼になっているやつが少なくなってる」  
「それって、みんな、この世界に馴染んできてるってこと?」  
「そういうことなんだろうな。攻略のペースも落ちてきてるし、  
 今日の劇団の人たちみたいに、今までと違った視点からこの世界を楽しもうって人たちも出てきてる」  
 
そう言って、キリトは小さく息を吐いた。  
あたしは前線に出ているわけではないが、キリトの言っていることはよくわかる。  
最近、新聞を読んでいても最近は趣味のコーナーなどが増えている。  
釣り好きのための雑誌なんかもできたらしいし、  
乗馬スキルを極めたプレイヤーによる競馬のようなレースも行われている。  
人気の騎手なんかはスポンサーもついて結構稼いでいるそうだ。  
他にも以前はほとんどの人が見向きもしなかったようなことにだんだん人気が集まってきてるし、  
あたしの店に来るお客さんだって、以前ほど悲壮感を漂わせた人はいなくなってきているように感じる。  
それがいいことなのか悪いことなのかはわからない。  
あたしが何も答えられずにうつむいていると、キリトは優しい口調で語りかけてきた。  
 
「心配いらないよ、リズ。俺、これってある意味正常なことなんだと思うんだ。  
 みんな元の世界に戻りたくないわけじゃない。  
 でも、こっちの世界にも大切なものができてきてるんだと思う。  
 仲間だとか、その……恋人だとか。  
 ゲームクリアを目指す過程を前より大切にするやつが増えただけさ」  
「キリトは……キリトも、そうなの?」  
「俺か……。そうだな、俺だって同じだな。  
 元の世界に戻りたいっていう気持ちは最初の頃から変わってないさ。  
 けど、みんなや……その……り、リズに出会って、大切なものは増えた、かな」  
 
キリトの口からあたしの名前が出てきた瞬間胸が高鳴るのを感じた。  
あたしも同じだ。  
キリトと出会って、この世界が単なるデータの集合体ではないと知って、  
それからの毎日はそれまでの日々の何倍も濃厚で、楽しかった。  
ゲーム開始当初、毎日己を傷つけ続けていたこの最悪のデスゲームに馴染んできている自分を、  
あたしは自然と受け入れているのだ。  
キリトを好きになってから、あたしにとってのこの世界の意味は、ガラリと変わったんだ。  
あたしは目の前で頬をかいているキリトを見つめ、そっと微笑んだ。  
 
 
 
 
 
料理は今までに食べたことがないほど美味しく、とても豪勢なものだった。  
かなりの金額だったはずだが、事前にオーナーさんに料金を全てキリトが払っていたらしく、  
いったいいくらだったのかはわからない。  
キリトはいつものお礼だとお金は頑なに受け取らなかった。  
 
「ごちそうさま、キリト」  
「それじゃあ帰るか。送っていくよ」  
「うん、ありがと」  
 
歩き始めるキリト。  
だけどあたしは、その場から動かない。  
 
「ん?どうした?」  
 
いぶかしげに言うキリトを再び見つめる。  
あたしは、その願いをキリトに伝えるかどうか迷った。  
恥ずかしい……変に思われないだろうか……拒否されたら……。  
だが、あたしの心はもうガマンができそうになかった。  
意を決して、あたしは言葉を紡ぐ。  
 
「ね……手、繋いで……」  
 
短い、それでいて甘美な願い。  
数時間前、キリトに握り締められた手は、いつまで経っても火照ったままだった。  
もう一度握り締められたい、繋がりたい、そんな想いが胸の底から溢れ出してくる。  
キリトは一瞬だけ目を見張り、小さく頷くと手を差し出してきてくれた。  
触れ合う瞬間、電気が走ったかのようにびくっと引っ込めるが、二人して恐る恐る手を伸ばし、指を絡めあう。  
繋がった指先からキリトを感じて、あたしの心が満たされていく気がした。  
 
「温かい、な……」  
「うん……」  
 
四ヶ月前、初めてキリトと手を繋いだとき、あたしはこの世界でも生きていくことができると思った。  
そして今、再びキリトと手を繋ぎ、指を絡め、キリトを感じる。  
この温もりが、あたしの全てなのではないかとさえ思った。  
いつの日か、キリトは必ずこのゲームをクリアしてくれるだろう。  
半年後か、一年後か、その日その時まで、  
この温もりだけを糧に生きていけるとさえ思えた。  
あたしとキリトはほとんど無言のまま並んで歩いていく。  
 
 
 
幸せな時間があっという間に過ぎるのは、この世界でも現実世界でも同じだ。  
気がつけば、あたしの工房は目の前にあった。  
 
「じゃあ、また明日な」  
「うん、今日はありがとう」  
 
別れの言葉を交わし、繋がれた手を離す。  
 
(名残惜しい。離れたくない。手放したくない。)  
 
どんなに幸せな時間にも必ず終わりがやってくるのはわかっている。  
だけど、あたしはそれでも、永遠の幸せを求めずにはいられなかった。  
しかしそんなことは不可能で、絡まった手が解かれ、指先が離れる。  
その瞬間、あたしの脳裏を、今まで考えもしなかったことがよぎった。  
 
(もしも、このゲームがクリアされなかったら、あたしとキリトはずっと一緒に――)  
 
「……ズ、おいリズ!」  
「っ!」  
 
気がつけば、キリトはあたしの肩をゆすっていた。  
あたしは今、一体何を……。  
 
「大丈夫か?気分でも悪いのか?」  
「だ、大丈夫、ごめん。また明日ね。おやすみ」  
「あ、あぁ、おやすみ。ムリするなよ」  
「うん、じゃあ……」  
 
キリトに別れの言葉を告げ、あたしは室内に入った。  
あたしは明かりをつけることも忘れ、立ち尽くした。  
窓から見える月の光だけがあたしを照らしていた。  
手に残るキリトの温もりの余韻も、今は消え去っていた。  
 
続く  
 

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