キリトとのデートから五日が経った。  
あたしは相変わらず鍛冶仕事に追われていたが、  
忙しいほうが何も考えなくていいのでありがたかった。  
あの夜のことは、とりあえず胸の奥にしまっておくことにした。  
そうしないと、キリトの顔をまともに見られないような気がしたから。  
 
「えっと、頼まれてたものはこれで全部ですね」  
「あぁ」  
 
あたしは注文を受けていた武器と防具をまとめて目の前のお客さん、商人のエギルさんに渡す。  
エギルさんは一つ一つしっかりと確認して、満足げにうなずくとストレージに収納していく。  
 
「おう、確かに」  
 
エギルさんはキリトから紹介してもらったお客さんだ。  
キリトとは第一層の頃からの付き合いだという。  
190センチ近くあるゴツイ体格で、最初はちょっとだけ怖かったんだけど、話してみると全然いい人。  
今日は彼から依頼された、低〜中レベル向けの安価な武器や防具を大量に作って引き渡したのだが、  
その理由というのが――  
 
「かなりの本数ですけど、何人ぐらい支援してるんですか?」  
「ん、そうだな、今は30人くらいってところか」  
「うわ、どんどん増えてるんですね」  
 
そう、エギルさんは自身も高レベルプレイヤーとしてフィールドに出て、  
さらにやり手の商人としても名をはせているのだが、  
なんと、ひそかに中層プレイヤーの育成の支援に尽くしているというのだ。  
あたしに依頼してきた武器や防具というのも、  
攻撃力を上げることよりも、装備することで使用者の命の危険をなるべく減らせるよう、  
耐久値が高かったりステータス異常に対する耐性が補正されたりするようなものを、  
とにかく安く大量にというものだった。  
 
「おい、重ねて言っとくが……」  
「はいはい、わかってますよ。  
 キリトたちにはエギルさんが中層プレイヤーの支援をしてることは内緒なんですよね」  
「おう、頼むぞ」  
 
しかも、これだけの支援活動を全て匿名でやっているという。  
エギルさんのこの姿勢に心打たれたあたしも、  
商売抜きでエギルさんのオーダーには答えるようにしている。  
さて、全てのアイテムを収納し、依頼も完遂となったところで、  
エギルさんは壁にかけてあったあたしの自信作の両手斧を手に取った。  
攻撃力は圧倒的ではあるがかなりの高STRが必要、というものではあったが、  
さすがといったところだろうか、エギルさんは軽々と持ち上げてみせた。  
そのまま軽くその場で素振りをしながら、ふと思い出したようにニヤリと笑い、口を開いた。  
 
「そういや、キリトのやつ、今日はアスナとパーティー組んで攻略に出かけていったみたいだぞ」  
「……知ってます」  
 
ギクリとした内心を悟られまいとし、あたしは答える。  
そんなあたしの様子に何を思ったのか、エギルさんはたたみ掛けるように続けた。  
 
「ほう、ずいぶん余裕があるみたいだな」  
「別に、その……キリトからも聞いてたし、アスナも最近ギルドに居辛いなんて言ってたし……」  
「ふっ、まあ取られないように気をつけるんだな」  
 
そう言ってエギルさんは斧を元の場所に戻し、店を出て行った。  
あたし、別にキリトのことを好きだって誰かに自分から話した覚えなんてないのに、  
なぜだか周りの人みんなに広まっていってる気がする。  
 
「はぁ……」  
 
あたしは最近クセになってきたんじゃないかっていうため息をついて、手に持ったハンマーを下ろした。  
まあ概ね、いつもどおりだった。このときまでは。  
 
 
 
 
 
バタンッ  
 
いつものように、夕方からの来客のピークに合わせて準備をしていたあたしの店の扉が、  
無遠慮に勢いよく開かれた。  
 
「なに?ってあんたたちか。珍しいわねこんな時間――」  
 
あたしは途中で言葉を失ってしまった。  
飛び込んできたあたしの親友、アスナが支えるようにしていたあたしの想い人、キリトが、  
明らかに普通じゃないほど消耗していたからだ。  
 
「どうしたの!?なにが……」  
「わ、悪い……リズ。少し休ませてもらえるか?」  
「ほら、つかまって。楽にして」  
 
あたしは駆け寄ってキリトに肩を貸してやる。  
そのまま店の奥、工房スペースに連れて行って、椅子に座らせる。  
背もたれを倒して楽な姿勢にしてやると、辛そうだったキリトの顔がわずかに緩み、  
そのまま寝入ってしまった。  
 
「ごめんね、リズ。仕事中だったのに」  
「いや、別にお客さんもいなかったし全然大丈夫だけど、一体なにがあったわけ?」  
「実は……」  
 
あたしはアスナと並んで椅子に座り、今日何があったのかを聞いた。  
その話の内容というのは想像を絶するもので――  
 
「アスナたちを助けようとして、キリトがユニークスキルでフロアボスをほぼ一人で撃破、って……」  
 
開いた口がふさがらない。  
いくらキリトが攻略組屈指の実力の持ち主でも、フロアボスを一人でなんて普通倒せっこない。  
この消耗ぶりも当然だろう。  
 
「じゃあ、キリト。ひょっとして、その、二刀流を?」  
「あ、やっぱりリズは知ってたんだ、キリトくんがこんな隠し技を持ってたの」  
「うん。前にキリトの武器を作ったときに、  
 なんで同じくらいの強さの武器が二本もいるのかって聞いて、  
 それで教えてもらってたんだ。みんなには秘密なんだって……」  
「ふーん、そっか」  
 
呟き、アスナは立ち上がった。  
視線をキリトに一瞬向け、再びこちらに向き直る。  
 
「最初はキリトくんの家に連れて行こうかなって思ったんだけど、  
 キリトくんがリズのところに連れて行ってくれなんて言ってたんだよ」  
「え?キリトが?」  
「うん、じゃあ、悪いんだけどわたし、今からギルド本部に報告に行ってくるから、  
 キリトくんのこと見ててあげてね。  
 HP自体はもう回復してるから、ただ疲れているだけだと思うの。しばらく休ませてあげてよ」  
「それは別にかまわないけど……」  
「じゃ、頼んだよ」  
 
そのままアスナは店を出て行ってしまう。  
キリトと二人、工房に残されたあたしは、一度大きく息を吐いて立ち上がり、  
眠っているキリトの顔を覗き込んだ。  
キリトの寝顔は、こんな状況で言うのもなんだけれど、かわいらしいと思った。  
しかし、この童顔な少年が、毎日どれほど過酷な戦いをしているのか、あたしには想像もつかない。  
最近、今日ほどでないにしろ攻略からフラフラになって帰ってくることが多くなっている気がする。  
あたしが武器をメンテナンスしている間に寝てしまっていたことも一度や二度ではない。  
HPがどれだけ減ろうと0にならなければ飛び跳ねられるこの世界でこれだけ消耗するのは、  
こちらの世界のデータでできた肉体的なものではなく、  
現実世界の肉体が精神的な負担から疲労しているということらしい。  
キリトほどのプレイヤーでも最近は常にギリギリということなのだろう。  
 
「まったく、あんたはいっつも、無茶苦茶だよね……」  
 
呟きながらキリトの髪をなでると、かすかにキリトが笑ったような気がした。  
 
 
 
 
「よ、おはよう、リズ」  
「おはよう、キリト。もう体調は大丈夫なの?」  
「あぁ、迷惑かけたな」  
 
次の日の朝、すっかり元気になったキリトがやってきた。  
昨日は結局一時間ほどで起きてくると、そのまま自分の家に帰っていった。  
顔色もマシになったとはいえまだまだ本調子ではなさそうだったので、  
弁当を持たせてやって、とにかく寝るようにと厳命していたのだが、  
体調が回復したというのであればもう何も言うことはあるまい。  
 
「昨日の活躍、今朝の新聞の一面ドアップよ。街中あんたの話題で持ちきりだし」  
 
あたしは目覚めのコーヒーと一緒に今朝の新聞を渡してやる。  
新聞のトップにはキリトのアップと共に、  
『黒の剣士!軍の大部隊を全滅させた悪魔を二刀流で単独撃破!』という文言が踊っていた。  
とうとうキリトが二刀流使いであることが知られてしまったというわけだ。  
 
「ったく、もうこんな記事になってるのか。  
 ねぐらにまで押しかけてきやがって、まったく」  
 
どうやら50層にあるキリトのホームには早速情報屋やら剣士やらが押しかけてきたらしい。  
その人たちをまいてくるためにわざわざ貴重な転移結晶を使ったとか、  
まったく、ご愁傷さまとしか言いようがない。  
 
「この50連撃とか単独で倒したとかっていうのはホントなの?」  
「尾ヒレがつきまくってるだけだよ。さすがにそこまではムリだって。  
 だけどしばらくは騒がれるだろうな」  
「有名人は大変ね。  
 ま、今のうちにサインの練習でもしといたほうがいいんじゃない?」  
 
あたしは茶化すように言ってキリトの背中をバシっと叩いた。  
とはいえ、新たなスキルの発見ということであれば、  
他のプレイヤー達にとっては喉から手が出るほど欲しいものだろう。  
この騒ぎがいつまで続くかはまったくわからない。  
 
「引っ越してやる……どっかすげえ田舎フロアの絶対見つからないような村に……」  
 
キリトは新聞を持つ手をかすかに震わせながら、しばらくぶつぶつと呟いていた。  
あたしはそんなキリトの様子についクスリと笑ってしまった。  
 
「とりあえずこの店にキリトがいることはバレてないみたいだし、しばらくゆっくり――」  
 
その時だった。  
店の扉がバタンという音と共に開かれ、慌てた様子でアスナが飛び込んできた。  
あたしとキリトの姿を捉えると、その大きくて可愛らしい目をさらに見開き、  
泣き出しそうな声を出した。  
 
「キリトくん、リズ、いきなりゴメン!その……大変なことになっちゃって……」  
 
一体どうしたことかとあたしとキリトが聞くより早く、  
アスナの後ろから一人の男性プレイヤーが入ってきた。  
 
「突然すまないね。邪魔するよ」  
 
20代半ばぐらいだろうか、一見するとまったく威圧感のない男だった。  
白衣を着てどこかの大学の講師をしていると言われたらすんなり納得ができるような風貌、  
しかし、高級そうな真紅のローブに身を包み、その瞳からは圧倒的な磁力を感じさせるこの人は――  
 
「あんたは……血盟騎士団団長、ヒースクリフ!」  
 
キリトが驚きの声をあげる。  
そう、この人こそ、アインクラッド最強ギルドである血盟騎士団、  
その頂点に君臨する、聖騎士ヒースクリフその人だった。  
そして、つい昨日まで、この世界で唯一のユニークスキルを持つプレイヤーと言われてきた人なのだ。  
今、あたしの店には、たった二人だけのユニークスキル持ちが顔を合わせているということになる。  
あたしは実際に会うのは初めてだったが、キリトは顔なじみなのだろう、  
立ち上がると警戒するようにわずかに身をかがめた。  
 
「久しいな、キリト君。いつ以来かな?」  
「67層のボス攻略戦です」  
 
ヒースクリフさんは軽く頷くと、一歩前に出た。  
 
「あれは辛い戦いだったな。我々も危うく死者を出すところだった。  
 トップギルドなどと言われても戦力は常にギリギリだよ」  
「お忙しい団長さんがこんなところまで世間話をしにわざわざ来たのではないんでしょう?」  
「ふむ、そうだな。君、すまないが、この椅子を借りてもいいかね」  
「あ、はい!どうぞ!」  
「ありがとう」  
 
突然声をかけられ、あたしは思わず大きく頷く。  
キリトの正面に腰掛け、ヒースクリフさんはなおも警戒しているらしいキリトに落ち着いた口調で言う。  
 
「君も座りたまえ。心配しないでいい。何も事を荒立てに来たわけではない」  
 
キリトは数秒ほどそのままだったが、無言で座りなおした。  
あたしもそさくさとキリトの背後に移動する。  
ヒースクリフさんはキリトを真正面から見据え、机の上で骨ばった両手を組み合わせた。  
 
「昨日はアスナ君を助けてくれたそうだね。騎士団を代表して礼を言おう」  
「大切な副団長なのであれば護衛の人選にはもっと気を使ったほうがいいですよ」  
 
キリトの言葉に、今も入り口近くに立っているアスナがはっと息を呑んだのがわかった。  
つい先日の、アスナにストーカーをしていたという団員のことだろう。  
アスナが騎士団の活動を休みがちになっている原因だと聞いている。  
ぶっきらぼうなキリトの物言いだが、ヒースクリフさんは気にも留めないようだ。  
 
「クラディールは自宅で謹慎させている。迷惑をかけてしまったことは謝罪しよう。  
 君はアスナ君のことを色々気を使ってくれているそうだが、  
 そうだな、キリト君。例えば君がアスナ君の護衛になるというのはどうだろう?」  
 
そこまで言って、あたしは彼が何のためにここに来たのかを悟った。  
彼はつまり――  
 
「俺をスカウトしに来たってワケですか?」  
「我々も団員は常に募集しているのでね、君のような強力なプレイヤーは大歓迎なのだよ」  
「それは光栄です。が、あいにくと俺はソロなんでね、他をあたってください」  
「ふむ……」  
 
ヒースクリフさんは呟き、キリトに値踏みするような視線を送った。  
瞬間、彼の瞳の磁場が強まったような気がして、キリトの後ろに立つあたしまで動けなくなる。  
 
「それだけの力を持ちながら、なおもソロにこだわるというのかね、『二刀流使い』よ」  
 
ギリッと、キリトが拳を握りしてる音が聞こえた気がした。  
お互い無言のまま、時間が過ぎる。  
数秒の静寂の後、キリトがゆっくりと口を開いた。  
 
「……一つ聞かせてください」  
「なにかな?」  
「前に俺、あんたに言いましたね、このゲームはフェアネスを貫いている、  
 ただ一点、たった一人にだけ与えられるという、ユニークスキルを除いてと」  
「それがどうかしたかね?」  
「なぁ、俺たちのこの、ユニークスキルは決して天からの贈り物なんかじゃない。  
 このゲームの開発者、茅場晶彦が、何かの理由で俺たちに与えたものなはずだ。  
 茅場晶彦は、一体何のために特定のプレイヤーに、こんな特権のような能力を与えたんだと思う?」  
「ほう……」  
 
その時、今まで感情らしきものをほとんど見せなかったヒースクリフさんが、ニヤリと口元を歪ませた。  
笑っている、にも関わらず、なぜかあたしは背筋が凍るような気分を味わった。  
 
「面白い質問だ。キリトくん、そうだな、もし、私がこのゲームの開発者だとしたら、  
 何人かのそういったプレイヤーを、ゲームクリアのためのキーパーソンとするだろうね。  
 このゲームを攻略するための、いわば勇者のようなものというわけだ」  
「……あんたこそ、各地で魔王に挑む仲間を集める勇者だってことか?」  
「ふっ……」  
 
キリトの問いには答えず、一拍の間をあけ、ヒースクリフさんはなおも言葉を続ける。  
 
「君もわかっているのだろう?もはや、望もうと望むまいと、君はその強力な力を使わざるを得ない。  
 君が、真にこのゲームをクリアしたいと思っているのであれば、ね。  
 ならば、我々と共に存分にその剣を振るいたまえ。君の戦場は、我々と共にある」  
 
言い放ち、再び静寂が店内を支配する。  
ヒースクリフさんの刺すような視線を正面から受け止め、  
キリトは小さく一呼吸つき、宣言した。  
 
「いいぜ。あんたの誘いに乗ってやるよ。ただし、一つだけ条件がある」  
「ふむ、なんだね?」  
「ヒースクリフ、あんたには俺とデュエルをしてもらう。もちろん、本気でだ」  
 
 
 
 
 
ヒースクリフさんは用事があるといい、デュエルの日時を明日の朝10時からと決めると、  
心配そうな顔のアスナと共に去っていった。  
あたしは二人を見送り、キリトの正面に座った。  
キリトはウインドウを開いて武器や装備のチェックをしているようだ。  
 
「リズ、デュエルに備えて武器をピカピカにしといてくれよ。  
 あいつは俺の全てを出し切らなくちゃ勝てない相手だろうから」  
「それはいいんだけどさ。そもそも、なんのためにデュエルなんてふっかけたのよ?」  
「ん?そうだな……」  
 
キリトにとって意外な質問だったのだろうか。  
キリトはオブジェクト化した二振りの剣を机に置くと、言いにくそうにわずかに眉をひそめた。  
 
「あいつが……俺に似ているからだ、な。  
 脱出不可能のデスゲームに囚われてなおゲーマーとしてのエゴを捨てきれない、  
 その上、自分の技に絶対の自信を持っている。  
 俺は、こんな状況でなお、俺の剣とあいつの剣のどちらが強いのか、気になって仕方がないんだ。  
 ホント、救いがたい人間だろう?」  
「そんなことない!」  
 
あたしは立ち上がって叫ぶように言う。  
 
「キリトとあの人は全然違う!キリトは、優しい人じゃない。  
 自分のことを、そんなふうに悪く言わないで……」  
 
言いながら、あたしはキリトの顔に息が届きそうなほどに身を乗り出していることに気が付き、  
慌てて座りなおした。  
 
「ご、ごめん……」  
「いや、ありがとう。リズにそういってもらえて、嬉しいよ」  
 
おかしい、今日のキリトはなにかおかしい。  
自分からデュエルをふっかけるなんてのも変だし、なにより――  
 
「ねえ、あんた。ホントに血盟騎士団に入るつもり?」  
「あぁ、元々考えてたんだよ。  
 最近、モンスターのアルゴリズムにイレギュラー性が増してきてる気がするんだ。  
 ソロだと限界が近づいてると思う。最強ギルドである血盟騎士団であれば願ったりだ」  
「でも、あんた、その……もう大丈夫なの?ギルドとかに入るのは避けてたんでしょ?」  
 
以前にキリトは語ってくれた。所属していたギルドを全滅させて以来、誰かと組むのを避けているのだと。  
果たして、そんな彼がギルドの一員として戦っていけるのだろうか。  
あたしの問いに、キリトは一瞬、かつての悲劇を思い出したのか顔をゆがませ、  
しかしそれを打ち消すように笑ってみせた。  
 
「そうだな。ホント言うと、まだ全然平気ってわけじゃないさ。  
 またあんなことになったらって思ったら、足が震えるよ。  
 でも、一刻も早くこのゲームをクリアするためには、これが最善なんだよ」  
 
確かに、最近のキリトの消耗ぶりを考えれば、血盟騎士団の一員として戦うほうがずっと安全なはずだ。  
キリトは、己のトラウマをも乗り越えて先に進もうとしている。  
そう、この世界に囚われた人々を救うために。  
それはよくわかっているのだが、あたしは胸のうちに湧き上がる何かを拭うことができなかった。  
その正体がわからず、キリトに何も言うことができず、  
たまらず、あたしは机に置かれたキリトの剣を、そっと撫でた。  
 
 
 
 
 
次の日、あたしはキリトと共に、デュエル会場に案内するというアスナに連れられて、  
開かれたばかりの75層主街区『コリニア』にやってきた。  
古代ローマ風の、石造りの美しい街だった。  
しかし、転移門をくぐり、会場となる巨大なコロシアムを正面に見据えたところで、  
キリトは驚愕の声をあげ、あたしの隣に立っているアスナに問いただした。  
 
「……ど、どういうことだこれは……」  
「さ、さあ……」  
 
アスナも目を丸くしている。  
あたしたちの目前には、何十人、何百人というプレイヤーの列。  
商魂たくましい商人プレイヤーによる露天まで出ている。  
 
「おい、あそこで入場チケット売ってるの血盟騎士団の人間じゃないか!?  
 何でこんなイベントになってるんだ!?」  
「さ、さあ……」  
「ま、まさかヒースクリフのやつの嫌がらせかなにかか?」  
「いやー、多分経理のダイゼンさんの仕業だねー。あの人計算高いから」  
「ま、あんたにとっては単なる腕試しのつもりだったかもしれないけど、  
 ユニークスキル持ちのトッププレイヤー同士のデュエルなんて、この世界では最高の娯楽ってことね」  
 
あはは、と笑うあたしとアスナ。  
キリトは人事だと思って、と唸った。  
 
「あ、キリトさーん!」  
 
と、そこに、キリトの名を呼ぶ声。  
あたしたちが振り返ると、ドラゴンを肩に乗せた少女、シリカがこちらに走ってくるのが見えた。  
その後ろにはエギルさんとクラインの姿も見える。  
どうやら、デュエルの観戦に来たようだ。  
 
「キリトさん!応援にきましたよ!がんばってくださいね!勝ったらデートしてください!」  
「うわっ、シリカ。その……応援してくれるのは嬉しいんだが……」  
「あ、こら、シリカってば。キリトくんにまた抱きついてっ」  
 
シリカは速度を緩めることなくそのままキリトに飛びつく。  
さすがというか、キリトは倒れたりすることなく受け止めるが、  
当然、こんな衆目の元で抱きついたりするものだから――  
 
「おい、あれ、竜使いのシリカちゃんじゃん」  
「黒の剣士のやつ、アスナ様だけじゃなくシリカちゃんにまで……」  
 
ほら、目立ちまくっている。  
シリカもアスナに負けず劣らずの有名人なのだ。  
それぞれファンクラブがあるとさえ言われている。  
そんな二人に抱きつかれ、引っ張られ、デレデレして、まったく。  
周囲の男たちの刺すような視線を感じ、キリトはうろたえているようだ。  
視線をこちらに向け、訴えてくる。  
 
「リズ、助け――」  
「両手に花でよかったね!モ・テ・モ・テ・じゃないの!」  
 
女の子に甘いのだから自業自得だ、ふん。  
あたしが呆れ顔でいると、クラインが近寄ってきた。  
クラインはギルド『風林火山』のリーダーにしてエギルさんと同じくキリトの昔からの友人だ。  
あたしの店にもちょくちょくギルドのメンバーたちと来てくれる。  
右手で小さくあいさつの仕草をし、そのまま背中を丸めてあたしに顔を近づけながら口を開く。  
 
「あー、そのぉ、リズ。えっと……」  
 
少々お調子者の三枚目だけれど、誰に対しても気さくなお兄さんといった人なのだが、  
珍しくなにやら言葉を選んでいるようだった。  
しばらく考え、思い立ったように真剣な顔になり、続ける。  
 
「あいつの、キリトのこと、これからもよろしく頼む。  
 口下手で、無愛想で、戦闘マニアのバカタレですが」  
「な、何を言っとるんだお前は!」  
 
シリカに抱きつかれたまま数メートルダッシュし、キリトはクラインに飛び掛った。  
あたしは何を言われたのか一瞬理解できずにいた。  
クラインはキリトを横目で見ながら、無精ひげをじょりじょりと擦る。  
 
「だってよ、おめぇがまたギルドに入るだなんてよう。  
 いくらリズにゲームをクリアしてみせるなんて約束したからってよう……」  
「な、なんでそのことをっ!」  
 
叫びながら、あたしは羞恥で頬が熱くなるのを感じた。  
ぎりっとキリトを睨むと、あたしから目をそらしながらあごをポリポリとかいていた。  
 
 
 
 
 
そして、デュエルも終わり――  
 
「お、俺にこれを着ろって言うのか?」  
 
アスナから渡された真新しいコートを手に、キリトはプルプルと震えている。  
純白の生地に、両襟に小さく二つと背中にひとつ、巨大な真紅の十字模様が染め抜かれている、  
つまりは血盟騎士団のユニフォームだった。  
 
「うわぁ、似合わなさそう……」  
 
あたしは椅子に座りながら、鏡の前で頭を抱えているキリトを眺める。  
このコートは、工房に戻ってきたあたしたちの元に遅れてやってきたアスナが持ってきたものだ。  
正式に団員たちと顔合わせをするときはこのユニフォームを着てくるようにと副団長として命じ、  
忙しそうに仕事に戻っていった(顔が笑っていたが)。  
コートだけではない。  
シャツ、靴、手袋などなど、白を基調とした衣服の支給品の数々。  
しかも流石は最強騎士団、どれも高品質である。  
 
「あはは、それじゃ、もう黒の剣士じゃないわね。  
 その服じゃ誰もあんただって気づかないんじゃない?」  
「うぅ、俺が勝ったらこのユニフォームのデザインを変えさせるつもりだったんだけどな」  
「それは、その……残念だったわね」  
 
そう、壮絶な戦いの末、デュエルはヒースクリフさんの勝利で終わった。  
あたしは最前列でアスナたちと観戦していたのだが、キリトの双剣が暴風のように暴れまわっていて、  
しかしそれを捌くヒースクリフさんの動きも超人的すぎて、はっきり言って目がついていけなかった。  
お互いにライフはギリギリで、本当に紙一重の戦いだった。  
時間にして十分にも満たない戦いだったが、勝利の女神がキリトの元に来ることはなかった。  
あたしが言葉に窮していると、キリトは手にコートを持ったままあたしのそばにやってくる。  
 
「なあ、リズ。お前さっきのデュエルで何かおかしいとは思わなかった?」  
「おかしい?どういうこと?」  
「最後、俺がソードスキルで攻撃をしただろ。あの時、何か気づかなかったか?」  
 
あたしは先ほどの戦いのラストを思い起こす。  
キリトの超高速の連撃がヒースクリフさんの体勢を崩していき、最後の一撃、  
右手に握られたダークリパルサーがヒースクリフさんの身体を捕らえたかと思ったのだが、  
それすらも受けきられ、キリトはスキル後の硬直になすすべもなく倒されてしまった。  
 
「ごめん、早すぎてよくわかんなくて……。でも特におかしなことなんてなかったよ」  
「そうか……」  
 
呟いて、なにやら考え込んでしまうキリト。  
やっぱり悔しかったのだろう。  
あたしは元気付けようと勢いよく立ち上がり、笑顔で言った。  
 
「ねえねえ、そんなことよりさ、あたしお腹すいちゃった。  
 どっかさ、ゴハン食べに行こうよ。キリトのソロ卒業祝いってことで、あたしが奢るからさ」  
「お、おい、押すなよ」  
 
あたしはキリトの背中を押して工房を後にした。  
 
 
 
 
 
こうしてキリトはソロでの戦いをやめ、  
血盟騎士団の一員としてゲームクリアを目指すことになった。  
なんだかんだ言っても、ギルドのメンバーと共に戦うほうが圧倒的にリスクも少ない。  
麻痺などの状態異常になったとしてもすぐに回復させてもらうことができるし、  
不意の一撃を食らったとしても他のプレイヤーに退路を作ってもらって引くこともできる。  
しかも、アスナによると騎士団では個々のプレイヤーの意識も非常に高く、  
攻略第一の集団であるにもかかわらずここ半年で死者が出ていないという。  
キリトの背中を預ける部隊としてはとても頼もしいギルドと言えるだろう。  
つまり、これはあたしにとっても非常に喜ばしいことのはずである。  
あたしは胸の奥の一抹の不安を、理屈で包み隠してしまい、決して考えないようにした。  
誰よりも不安なのはキリトのはずだ。  
誰かと組むなど怖い、足がすくむと言っていたのだから。  
だから、いつもの、元気で明るいリズベットでいよう。  
少しでもキリトの心を軽くしてあげられるように、笑いかけてあげよう。  
きっと、なにも心配することなどないはずなのだから。  
しかし――  
 
 
「リズ、あのね、大変なの!キリトくんが……」  
 
その日、お昼を少し過ぎたころ、アスナは涙ながらであたしの工房に飛び込んできて、  
この見通しが甘いものだということを、あたしはすぐに思い知った。  
 
 
 
 
 
アスナに言われるままに連れてこられた55層にある血盟騎士団本部、  
その冷たい石造りの塔の一室にキリトはいた。  
簡素なベッドに横になり、苦しそうな表情で眠っている。  
キリトは、戦闘訓練中にキリトに恨みを持っていた団員に狙われ、殺されかけたのだという。  
間一髪アスナに助けられたそうだが、本部に戻ってくるなり倒れてしまったらしい。  
 
「……うぅ……リズ……」  
「なに?あたしならここにいるよ、キリト」  
 
キリトが搾り出すような寝言であたしを呼んだ。  
あたしはベッドに近寄ってそれに答え、キリトの手を握りしめる。  
ほんのわずかに、キリトの表情が緩んだ気がした。  
 
「HPとかは全快してるはずなのに目覚めないのよ……。  
 時々、今みたいに、リズのことを呼んでるの……」  
 
アスナが申し訳なさそうに言う。  
あたしは、胸の奥からやりようのない怒りがこみ上げてきたのを感じ、  
思わず振り返り、アスナに詰め寄る。  
 
「な、なんで、なんでキリトがこんなっ!あんたが付いていながら、なんでっ、こんな――」  
 
後半は言葉にならなかった。  
アスナはその誰もが振り返るような美貌を歪める。  
キリトとは完全に別行動だった彼女に当たるのはお門違いだ。  
むしろキリトの命を救ってくれたわけで、感謝すべきなのもわかっている。  
それでもあたしは、ただこの怒りを誰かにぶつけずにはいられなかった。  
アスナの胸を叩きながら、ただただ彼女を罵ってしまう。  
 
「……ごめん」  
 
ひとしきり罵声を浴びせた後、あたしは小さく呟いてアスナから離れる。  
アスナは無言であたしの言葉を全て受け止めてくれた。  
やり場のない怒りと八つ当たりをしてしまった自己嫌悪があたしの心の中をかき混ぜる。  
 
「……ううん、リズが怒るのも、当然だよ。わたしは、ここの副団長なんだから。  
 クラディールからしたらキリトくんが騎士団に入ってくるなんて面白いはずがなかったんだし」  
 
クラディール、という名前には聞き覚えがあった。  
アスナのストーカーでキリトが撃退したという男だ。  
前に団長のヒースクリフがあたしの工房で、自宅謹慎にしていると言っていたが、  
彼がキリトに復讐するために襲ったのか。  
アスナは話しながら、キリトの様子を伺った。  
もう先ほどまでのように寝言を言ったりもせず、落ち着いているようだ。  
 
「たぶん、疲労とストレスでキリトくんのリアルの身体がダウンしちゃってるんだと思う。  
 リズがそばにいるとキリトくんも安心するみたい。  
 ごめんね、リズ。キリトくんが目覚めるまでそばにいてあげてよ」  
「でも……」  
「お願い。あたしじゃ、だめみたいなの。リズじゃなきゃ……だめみたいなのよ」  
 
アスナはそういって、あたしの返事を待つことなく振り返って部屋を出て行ってしまった。  
あたしは何も言うことができなかった。  
アスナの目尻に、かすかに涙が光っていたことに気づいてしまったから。  
 
 
 
 
 
あたしはそのままずっと、キリトのそばにいることにした。  
外はすでに明るさを失い、夜の闇に包まれている。  
これだけ深い昏睡状態に陥っているということであれば、単なる精神的疲労ではなく、  
キリトのリアルの身体は体調不良、すなわち風邪になっているのかもしれない。  
実際、この世界にプレイヤーたちが囚われたばかりの頃は、  
ストレスから体調不良を訴える人や寝込んでしまった人も多かった。  
あたしは廊下にいた騎士団の人に頼んで桶に水を入れてもらい、  
濡らしたハンカチをキリトの頭にかけてやることにした。  
 
「よっと……」  
 
何度目だろうか。  
桶にハンカチをつっこみ、濡らした布をキリトのオデコにのせる。  
のせた瞬間、キリトの寝顔が笑みを浮かべた気がする。  
この世界でも布を濡らして涼を取るということは可能だ。  
しかし、布についた水分というのは布についたその瞬間から単なる水ではなくなる。  
すなわち、調理した食料が時間が経つと消えてしまうのと同じように、  
耐久値が設定され、それが切れるとエフェクトと共に水気は消え去り、元の乾いた布に戻ってしまうのだ。  
だからあたしは、きっちり五分に一度、さきほどからこの作業を続けている。  
とはいえ、はっきり言ってこれは気休めでしかない。  
もしあたしの推測どおり、キリトが体調を崩しているとしても、  
この目の前に横たわっているアバターであるキリトの身体を冷やしたところで何の意味もない。  
ひょっとしたら、気持ちがいいかもしれないといったレベルでしかない。  
それでも、あたしはこの地味な作業を続けていた。  
 
「キリト……」  
 
無意識に、その名を呟く。  
数ヶ月前、あたしにとって人生で初めてとなる恋をした瞬間から、  
彼の名前を呟くだけで、心が熱くなり、力が、勇気が湧いてくるような気がしていた。  
だけど今、その熱情でさえ、あたしの冷えた心を暖めきることができずにいる。  
あたしは、今、悔いているのだ、キリトがギルドに参加すると言ったときに、彼を止めなかったことを。  
いや、そのずっと前から、戦いに向かうキリトを、本当は止めたかった。なのに止めなかった。  
あたしが彼を止めなかったのは、己の心を、直視したくなかったのだ。  
 
「キリト……」  
 
そう、あたし自身の心、醜く、エゴイスティックな心を。  
 
 
 
 
 
キリトが目を覚ましたのは深夜3時を過ぎたころだった。  
小さく唸り、ゆっくりとキリトはまぶたを開いた。  
 
「う……うぅ……」  
「き、キリト!よかった、大丈夫?」  
「……リ……ズ……?ここは……?」  
 
なぜこんなところで寝ているのかわからなかったのか、焦点の合っていない目で周りを見渡し、  
しかしここに運び込まれたときの情報を思い出したようだ。  
キリトはハッとなって起き上がろうとする。  
 
「そうだ、俺は!」  
「だめよ、無理しちゃ!大丈夫、もう誰も襲ってきたりしないわよ」  
「リズ、どうしてここに?」  
「アスナに呼ばれたのよ。あんた、襲われて倒れたまま半日以上目覚めなかったんだから。  
 
キリトは起き上がった拍子にずり落ちたハンカチの存在に気づいたようだ。  
ハンカチと椅子に座ったあたしを交互に見て全てを悟ったのか、あたしにハンカチを渡し、  
うつむいて声を絞り出すようにして言った。  
 
「そうか……悪かったな、リズ。迷惑かけちまって……」  
「迷惑だとか、そんなことないけど……。それよりまだ寝てなさいよ」  
 
しかしキリトは身体を起こしたまま寝ようとはせず、ポツリポツリと何があったのかを語ってくれた。  
あたしはアスナからおおよそ何があったのかは聞いていたが、何も言わず黙って聞いていた。  
たぶん、キリトも誰かに話を聞いてもらいたいのだろうと思ったのだ。  
キリトが事の顛末を話し終わり、しばらく無言の時間が流れる。  
沈黙を破ったのはあたしの問いだった。  
 
「ねえ……もう、こんなことがあったんだし……しばらく戦うのを休んだらどう?」  
 
これはほとんどあたしの願望だったと思う。  
とはいえ、これだけのことがあったのだから、キリトだって肯定するはずだ。  
しかし真っ直ぐにあたしの瞳を見つめ、キリトが口にした答えは、あたしの期待とは真逆のものだった。  
 
「いや、大丈夫だ。これからはこんなことがないように気をつけるって」  
「え?」  
「明日は、っていうかもう今日か、訓練じゃなくって75層の迷宮区攻略に行かなくちゃいけないからな。  
 俺だけゆっくり休んでる暇なんてないよ」  
 
その迷いのない言葉に、あたしは手にしたハンカチをつい落としてしまった。  
キリトは、こんな目にあってもまだ、戦い続けるつもりなのだ。  
フィールドのモンスターたちだけでなく、仲間であったはずのプレイヤーからも命を狙われたというのに、  
それでもまだ、戦いをやめるつもりがないのだ。  
あたしはそれ以上キリトの目を見ることができず、うつむいた。  
 
「どうして……」  
「ん?」  
「どうして……こんなことがあったのに、どうしてまだ戦うの?」  
「どうしてって、このゲームを――」  
「そんなの、誰か他の人に任せたらいいでしょ!  
 なんでキリトが、こんな、死にそうな目にあったのにっ!」  
 
顔を上げ、感情的に叫ぶ。  
それでもキリトはあたしを真っ直ぐに見つめ、微笑んでくれる。  
 
「言っただろ、必ずこのゲームをクリアしてみせるって。  
 何があっても、君を現実世界に帰してみせるさ」  
 
深夜のため、小さな明かりしかない室内は薄暗いが、その笑顔はあたしには眩しすぎた。  
キリトの強い意志を感じる。  
今、キリトはこの世界の誰よりも強くこのゲームのクリアを目指していることだろう。  
だからこそ、毎日フラフラになりながらも戦い続け、  
味方だと思っていたプレイヤーに裏切られても、走るのをやめようとしないのだろう。  
あたしと、約束をしたときとまったく変わらない、強い強い意志。  
それが嬉しくもあり、だが、どうしようもなく、どうしようもなく、  
いたたまれない気持ちにさせる。  
 
「……キリトは、優しいよね。……あたしとの約束、ずっと気にしてくれて」  
「リズ?」  
「でもっ!あたしには……、あたしには、そんなこと言ってもらう資格なんてないんだよ」  
 
一度言葉にすると、堰を切ったように想いが、感情が流れ出てくる。  
あたしがずっと心の中にしまいこんでいた全てが、とめどなくあふれてくる。  
 
「あたしね、前は現実世界に早く帰りたくて帰りたくて、毎日夜ベッドで震えてた。  
 でも、最近ね、元の世界のこと、夢にも見なくなっちゃった」  
「それは、俺だってそうだ。みんな、少しずつ――」  
「違うの!」  
 
キリトの言葉をさえぎる。  
この言葉を口にしたら、もう後戻りはできないことはわかっている。  
言葉があたしの心をズタズタに引き裂いてしまうだろうことも。  
それでも、もうキリトにウソをつき続けることなんてできない。  
 
「違うのよ。あたしは、馴染んでるとかじゃないの……。  
 あたしの中で、元の世界に帰りたくない、このままこの世界にいたいって気持ちが、  
 少しずつ、大きくなってきてるの……。  
 あたし、本当はもう、クリアしてほしくない、  
 いつまでもこの世界にいたいって、思ってるんだよ……」  
 
そう、これこそがあたしのウソ。  
あたしの、自己中心的な欲望。  
自覚したのはつい最近。  
しかし、きっとキリトを好きになったときから、  
少しずつこの気持ちは大きくなっていってたのだろう。  
なのにあたしは、この気持ちを見て見ぬ振りをして、ずっと隠してきていたのだ。  
キリトが息を呑んだのがわかった。  
きっと、優しいキリトには思いもよらなかったことだろう。  
あたしが、こんな想いを秘めていたなどとは。  
 
「リズ……」  
「あたし、最低だよね。キリトは毎日必死にゲームをクリアするためにがんばってくれてるのに、  
 あんたを笑顔で戦場に送り出してるあたしが、こんな、気持ちだなんて……酷いよね……。でも――」  
 
ポタリ、ポタリと何かが膝の上に置いた手の甲に落ちた。  
それが己の瞳から流れ落ちた涙だと気がつくのに一瞬の時間がかかった。  
手が、唇が震える。  
だが、それでも、言葉は止まらない。  
 
「す、好きなの……。あたし、い……今もキリトのことが好きなの……」  
 
あの日以来二度目となる、告白。  
しかしあの時のように喜びと希望に突き動かされてというものではなく、  
正反対の、絶望と贖罪の想いがあたしの心と身体を支配する。  
 
「でも、この気持ちが……本当にあたしの気持ちなのかわかんなくなっちゃった……。  
 もし、もしもこの気持ちが、このゲームが作り出したデータにすぎなかったら、  
 このゲームがクリアされて、あたしの気持ちもリセットされちゃって、  
 あたしたちの関係もそこで……お、終わっちゃったら……あたしは……もう……」  
 
それ以上は言葉にすることができなかった。  
心が凍り付いていくような気がした。  
涙でキリトの表情もよくわからない。  
しかし一つだけわかっていることがある。  
もう、今までのようにはいられないのだということだけは。  
 
「うぅ……ホント……最低だよね、あたし……ごめん……ごめんね……」  
 
あたしは嗚咽まじりに、絞り出すようにして謝罪の言葉を繰り返した。  
静まり返った室内を、あたしのむせび泣く声が響く。  
 
「ううぅ……」  
 
あたしは、キリトが次に口を開いたとき、どのような罵声を浴びせられても黙って受けようと思った。  
それだけが、あたしのできる唯一のことだと思った。  
だが、キリトの口から出てきた言葉は、あたしが思いもよらないものだった。  
 
「……なあ、リズ。ちょっと外に出ようか」  
「……え?」  
 
最初、何を言われたのかわからなかった。  
問い返すあたしを無視してベッドから降り立つと、窓を開け、固まったままのあたしを両腕で抱きかかえる。  
 
「ほら、つかまれ。行くぞ」  
「ちょっと、え?待って、ここ、四階……」  
「よっと」  
「きゃあああああ!」  
 
軒先から庭に降りるかのような気楽さで、彼は窓から飛び降りる。  
あたしは叫びながら、必死にキリトの首に手をまわし、しがみついた。  
 
 
 
 
 
塔の外壁の出っ張りを器用に足場にし、キリトは軽やかに着地を決める。  
騎士団本部中庭といったところなのだろうが、木々がまったく存在せず、吹き付ける風もあいまって、  
まるで知らないダンジョンに二人で迷い込んでしまったかのようだった。  
あたしは降り立つと同時にキリトに詰め寄る。  
 
「な、なにすんのよ!いきなり何を考えて――」  
「ハハ、悪いな。ほら、これ着ろよ」  
 
あたしの言葉を遮り、キリトは素早くオブジェクト化させたコートをあたしの肩にかけた。  
初めて出会った日に貸してくれたものと同じものだった。  
懐かしさを感じると同時に、涙が止まっていることに気がついた。  
 
「ふん、ありがと。で、わざわざ外に連れ出して、なんなのよ」  
「あー、そのな。ほら、見ろよ。星が綺麗だろ」  
 
キリトは夜空を指差す。  
雲ひとつない空には、美しい月と数え切れないほどの星々が瞬いていた。  
一体何が言いたいのかはわからなかったが、キリトの顔が思いのほか真剣だったため何も言えないでいた。  
しばらく二人で空を眺めていると、キリトがゆっくりと話し始める。  
 
「この世界、よくできてるよな。現実世界だと都市の明かりでこんな星空なんてまず見れないけど」  
「うん」  
「ちゃんと季節によって見える星も変わってるんだぜ。  
 ほら、あれがオリオン座。  
 あの一番目立つ星がベテルギウスって言って、そのうち爆発するって言われてる」  
「キリト、星が好きなの?」  
「いや、別にそこまで詳しいわけじゃないんだけどな」  
 
ハハ、と笑い、空を見上げたまま、キリトはポツリと呟いた。  
 
「俺さ、生まれてすぐに両親が死んでるんだ」  
「え?」  
 
思わず聞き返す。キリトはあたしのほうに顔を向けた。  
キリトはかすかに笑みを浮かべていた。  
それが様々な想いを含んだ笑顔であるということがすぐわかった。  
 
「今の両親は本当は親戚で、妹だと思ってた子は従兄妹で、最初はショックだったよ」  
「そんな……」  
「たまたまだったんだ。たまたま、俺が十歳のときに、住基ネットの抹消記録に気づいちゃって、  
 聞いたら、教えてくれたんだ。  
 でも、それからも変わらずに接してくれて、ホントにいい人たちだった」  
 
懐かしそうに語るキリトの言葉には優しさが感じられる。  
本当にいい家族なのだろう。  
二年間もの間会えていない家族。あたしの脳裏にも両親の笑顔がよぎった。  
キリトは少し言葉に迷いながら、ゆっくりと続ける。  
 
「だけど……俺は、どこか勝手に壁を作ってたんだと思う。  
 だんだん、家族だけじゃなく友達とかとも話をするのが辛くなってきて、顔を見て話せなくなってきて、  
 気がつけば、中学に入った頃から、ネットゲームばっかりやるようになってた」  
 
あたしは思わず息を呑んだ。  
このSAOに限らず、ネットゲームにはいわゆる廃人と呼ばれる人たちが少なからずいる。  
リアルの時間を極限まで削り、ゲームに没頭する人たち。  
彼らの多くは、辛い現実から目をそらすための逃げ場所としてゲームの世界にのめりこんでいくという。  
キリトは、自分もそんな人々の一人だと言っているのだ。  
 
「リズは俺を、ゲームクリアのために命がけで戦う凄いやつみたいに言ってくれるけど、  
 俺、ホントは全然そんな大層なやつじゃないんだよ。  
 みんなが最初、元の世界に帰りたいって泣いてるときに、  
 俺は一人でさっさと次の街に向かってた。なんでだと思う?」  
 
あたしが何も答えれずにいると、キリトは自嘲気味に顔をしかめ、  
しかしそれを悟られまいとしてか、顔をうつむけ、続ける。  
 
「どうせ元の世界に戻ったって俺の居場所なんてないって、ホントは心のどこかで感じてたんだ。  
 それより、俺は、自分だけは生き残って、他のやつらよりも強くなって、常に羨望の目で見られたいって、  
 だから、さっさと次の街に行って誰よりも早くレベルを上げ始めたんだ。  
 この世界で、最初に『一緒に戦おう』って誘ってくれたやつも、足手まといになるからって見捨てたんだぜ」  
 
キリトの声は震えていた。  
あたしは、口を開きかけ、しかし自らを卑下するキリトに何も言えなかった。  
 
「ずっと……ずっと一人ぼっちで戦ってきた。  
 このゲームがデスゲームだろうとなかろうと、一緒だったと思う。  
 寂しくて、誰かと一緒にいたくて、でもたまたま入ったギルドも全滅させて、  
 もう、こっちの世界でもあっちの世界でも居場所なんてないって、  
 俺、このゲームをたとえクリアしたとしても、ずっと一人ぼっちのまま、  
 いつかどこかでひっそりと一人で死ぬんだろうなって、ホントに思ってたんだ。  
 そう――リズに出会うまでは」  
 
そう言って、キリトは顔を上げた。  
月明かりに照らされたキリトの顔は、泣いているのか、笑っているのか、どちらとも言えない顔だった。  
しかし、キリトの瞳には、強い力が宿っているように感じた。  
 
「……あたし?」  
「ああ、リズに出会って、リズが手を差し出してくれて、  
 リズの温もりを感じて、リズに好きだと言ってもらって、  
 その時、俺、初めて、生きたいって感じたんだ。  
 生きて、リズともっと一緒にいたいって思ったんだよ。  
 それからの毎日は、今まで感じたことがない気持ちでいっぱいだった。  
 こんな俺でも、まだ生きていけるんだって、胸が躍るようだった」  
 
キリトに名前を呼ばれた瞬間、冷えた心と身体が僅かに熱くなった気がした。  
あたしだって、ずっと一緒にいたい。でも……。  
言葉にならず、あたしの唇はかすかに震えるだけだった。  
どうにか身体を動かそうとして、しかし、キリトの次の言葉にあたしは固まる。  
 
「でも、ある夜、ダンジョンから帰るときにふと思ったんだ。この気持ちは本当に俺自身のものなのかって」  
「……え?」  
「あぁ、リズとおんなじだよ。この世界では喜怒哀楽が大げさに表現されるようになってるって言われてる。  
 想いが、感情が、本当に俺自身の胸の内から湧き上がってきたものなのか、俺にはわからなかった。  
 ベータテストの時には、こんなに心を揺さぶられることなんてなかったから」  
 
あたしと同じように、キリトも不安だった?  
あたしだけじゃ、なかった?  
 
「怖かった。この世界に来て、初めて本当の恐怖を感じたような気がした。  
 もし、このゲームがクリアされたら、  
 また空っぽの俺に戻ってしまうんじゃないかって、足が震えて動けなかった。  
 でもね、リズ。その時、空を見上げて気づいたんだ」  
 
言いながらキリトは夜空を見上げた。  
空には変わらず無数の星が輝いている。  
 
「この夜空、よくできてるよな。だけど、所詮作り物なんだ。  
 俺、昔に一度だけ、今の両親に連れられて田舎の山奥で、同じような満天の星空を見たことがある。  
 美しさも輝きもこれとほとんど同じだった。だけど、昔見た星空のほうがずっと凄かったよ」  
 
思わずはっとなって、息を呑む。  
キリトは再びあたしに向き直り、小さく頷いた。  
 
「同じだよ。この想いは、胸の高鳴りは、ゲームが作り出したものなんかじゃない。  
 作り物の気持ちで、こんなに胸が高鳴るはずがない。この俺の――」  
 
その瞬間、あたしはキリトに抱き締められた。  
とたんに流れ込んでくる甘美な温もりが、あたしの心を溶かしていく。  
キリトはあたしを優しく包み込んで、耳元で言葉の続きを紡いだ。  
 
「俺のリズを好きだという気持ちは、俺自身の本物の気持ちなんだ」  
 
キリトの声が、言葉が、想いが、あたしの体の頭の上からつま先までを貫いた。  
告白されたのだと気がつくと同時に、あたしは全身を何かが駆け巡るのを感じた。  
心臓が爆発しそうなほどに早鐘を打ち、それに合わせてキリトの言葉が何度も何度も胸の中をこだまし、  
そのたびに、身体が燃えるように熱くなっていく。  
これは歓喜だ、とあたしは思った。  
言いようのない喜びに、身体が震えているんだ。  
 
「キリト……」  
 
小さくキリトの名を呟く。  
たったそれだけで、あたしの全てが満たされていく。  
あたしは、何を恐れていたのだろうか。  
この胸の高鳴り、熱い想いが、作り物のはずなんかない。  
たかがゲームをクリアしたぐらいで、消え去るはずがない。  
こんな簡単なことに、気がつかなかったなんて。  
 
「リズ、俺はリズとの関係を終わらせるためにこのゲームをクリアするんじゃないよ。  
 俺たちの関係を、スタートさせるために、このゲームをクリアしてみせる。  
 この世界はよくできてるけど、俺、現実世界で、リズと話がしたい。こうやって、抱き締め合いたい。  
 だから、もう一度約束するよ、俺は必ずこのゲームをクリアしてみせるって」  
 
あたしとキリトは互いを抱き締める力をわずかに緩め、見つめ合った。  
それ以上は言葉はいらなかった。  
あたしたちはゆっくりと顔を近づけて、瞳を閉じて、  
そして長い長いキスをした。  
心臓は壊れてしまいそうなのに、上気する頬は燃えそうなのに、  
あたしたちはいつまでも唇を離さなかった。  
この作り物の世界も、あたしたちを祝福をしてくれている気がした。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今日は朝から厳しく冷え込んだ。  
いつものように朝から溜まっていた仕事を片付け、気がついたら昼をだいぶ過ぎていた。  
キリトたちは今日は75層のボス戦だと言っていたので、順調ならもうすぐ帰ってくることだろう。  
 
「ふぅ」  
 
あたしは立ち上がり、大きく伸びをして一息つき、壁にかけた写真に目を向けた。  
中央にあたしとキリト、その両側にアスナとシリカが、肩を寄せ合って笑顔で写っている。  
三日前、あたしはアスナとシリカと話をした。あたしと、キリトのことを。  
二人とも驚きもせず、笑顔でおめでとうと言ってくれた。  
この写真はその後二人から撮ろうと言ってくれたものだ。  
二人が、本当は涙をこらえていたことは気づいていた。  
それでもあたしは、二人の親友の祝福が心から嬉しかった。  
 
「キリト……」  
 
呟いて、目を瞑った。  
すぐそばにキリトの温もりを感じる。  
遠く離れたダンジョンで、今、キリトはあたしの魂の欠片の剣、ダークリパルサーを振るっているのだろう。  
不思議な剣だ。いまやあの剣は、ただ振るうだけで光輝くようになった。  
強化には一度も失敗しないし、威力もだんだんと増しているように感じるという。  
 
「愛の力、かな」  
 
左手薬指の真新しい指輪を触りながら、思わず口から出た言葉に自分でも驚いた。  
頬が熱くなり、思わず左右を見渡す。  
と、その時だった。  
いまだかつて聞いたことのない効果音が、大音量で響き渡った。  
リンゴーン、リンゴーンという、鐘のようなアラームのような……。  
驚いて外に駆け出すと、空に、巨大な、赤い文字がびっしりと並んでいた。  
それは忘れもしない、この世界に初めて来たあの日、始まりの街で見たものと同じものだった。  
周囲には、あたしと同じようにたくさんのプレイヤーが呆然と立ち尽くしている。  
でも、不思議とあたしは不安を感じなかった。  
まだ最前線は75層だが、今、あの日以来この世界を覆っていた見えない闇が払われ、消え去っていると感じたからだ。  
あたしは確信していた。  
こんなことができるのは一人だけだ。  
 
「アインクラッド標準時 十一月 七日 十四時 五十五分 ゲームは クリアされました」  
 
システム音声がそう告げ、周囲のプレイヤーが歓声を上げる。  
人々の絶望が希望に変わっていく。  
その時、あたしは耳もとで、確かに微かな囁き声を聞いた。  
 
(――やったぜ、リズ)  
 
「うん……うん……。とうとう、やったね……」  
 
あたしの両目から熱い涙が迸った。  
これは終わりじゃない。今日からが、新たなスタートだ。  
あたしはあふれる涙を拭いもせず、小さく呟く。  
 
「キリト、愛してるよ……」  
 
その瞬間、あたしは光に包まれた。  
 
END  
 

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