「ひゃ、もうこんな時間、そろそろいくねっ」  
 鐘の音にリズの店を大慌てで飛び出す。  
 アスナにとって今日は特別な日だ。現在片思い中の相手となんとか会う約束を取り付けることができたのだ。  
 それにしても――ギルドの皆もリズもそろいも揃って「アスナ(副団長)が休み!?」と目を丸くして驚くだなんて、そこまでびっくりされちゃう事なのかな?   
 アスナはそんな事を考えながら足早に転移用のゲートへと向う。  
 ゲートに身を侵入させると視界が一瞬ぼやけ、すぐに景色が変り第47層フラワーガーデンへと到着する。  
 待ち合わせ場所は広場の中央の噴水の側、12時丁度の約束だ。  
 現在の時刻は11時半。つまり30分も前に着いたことになる。アスナはメインメニューで時刻を確認し、  
「うん、予定通り」と頷くと軽くスキップを踏みつつ噴水へと足を向わせる。  
 待ち合わせの相手がまだ来ていない事を確認すると、噴水を前にう〜んと大きく伸びをした。  
 水飛沫がキラキラと太陽の光に反射しながら降り注ぎ、アスナの薄茶色の髪を少しばかり湿らせる。  
 ほんと、この広場は綺麗でいいとこよね〜、と周りを見渡す。  
 中央に位置する噴水からは四方に、広場の外周へと続く通路が伸びており、その両側には区画ごとに色が統一された美しい花々が所狭しと植えられている。  
 辺り一面の鮮やかな色彩を一通り眺め終わると、涼しげに水を噴き上げるオブジェへと向き直った。  
 ふと、新調したばかりの青紫の耳飾りに右手を伸ばす。  
 ――キリト君、気づいてくれるかなぁ?  
 緩く曲線を描く宝石の表面を指の間で転がしながらぽつりと呟いた。  
 本当は服装もいつものではなく、可愛い私服でおめかししたかったのだけれど……。  
 噴水の水面にゆらゆらと映る自分の姿、白の生地に赤の縁取りと装飾が施された、所属ギルドの制服を暫しみつめていたが、あっ時間、とウインドウを広げ再度時刻をチェックする。10分前だ。  
 そそくさと髪型、服装を整える。転移ゲートの方に目を向けると、丁度出現したのは腕を組んで歩く幸せそうな表情のカップル。  
「うわ〜いいなぁ〜」人差し指をあてた唇の隙間からとんでもない台詞が滑り出し、あわわと身体をくねらせ狼狽してしまう。  
 ――わたし挙動不審すぎ……。  
 気を取り直してふぅ、と噴水のへりに腰をかけ両足をぷらぷらさせながら、時折ちらっちらっとゲートのほうを確認する。  
 だが、一向にお目当ての人物は現われない。  
遅い。時刻はすでに約束の時間から15分を過ぎていた。  
 アスナはすでにウインドウをずっと開けたままで、じろっと睨みつける様に秒を刻む単位を凝視していた。  
それがぴたり20分を表示した時、はっとして、フレンド欄のキリトの項目をタップした。簡易的な所在地を示す文字が浮かび上がり――そして。  
 ガクっ、全身から力が抜けていくのがはっきりと分かった。ああ、宿屋でまだ寝てるんだわ……。  
 怒りよりも落胆が勝り、はぁっと溜め息をつくと、のろのろと手を動かしてメッセージを送信する。  
 
→ちょっとなんでまだ寝てるのよ!  
   
 5分経過。  
 
→おーい、こら〜、起きろ〜!  
 
 5分経過。  
 
→ねぇ〜、起きてってば〜!  
 
 5分経過。送信履歴から最初のメッセージを選び、再編集・送信と、操作する。2度、3度、繰り返し何度も。  
 
 勢いに任せて30回ほど連続で繰り返した後、アスナはふと我に返り思った。  
 ――これってばひょっとして迷惑行為でGM呼ばれちゃったりするレベル? 何やってんだろわたし。  
 自己嫌悪に陥りそうになった時、メール着信を示すアラーム音が鳴った。  
 タ・タ、ターン! 攻略組の鍛え上げられた敏捷度を見よ! とばかりの速度でアスナの指先が軽やかに踊りメッセージを表示させた。  
 
→あぁ、わるいっ、すぐにそっち向かうから  
 
 時刻はすでに40分を回っていた。  
 鬼気を全身に纏わせながらガシっと両腕を組み、顎を少し上げて仁王立ちの格好。斜めに突き出した右足の爪先がレンガ作りの地面をバシバシと叩く。  
 そんな鬼気迫るアスナの様子はすでに広場の注目の的となっており、  
『ねぇ、あれ、ひょっとして閃光の?』  
『なんか噂に聞いてたのと違うような……』  
『ぷぷ、ふられたんじゃないの?』  
 小声で聞こえてくる様々な陰口を、きっ、と目を剥き威圧だけで退ける。  
 やがて時刻が50分を回ろうとした時、転移ゲートがゆらぎ、黒いズボンに黒いコート、下から上まで黒で統一された小柄な男が出現した。  
 アスナはその姿を視界に捕らえると、それでも思わずにまっと口元が緩みそうになるのをバシバシっと両手で頬を叩いて防ぐと、眉を一層険しく寄せて、こちらに向かってくる黒の男を迎え撃つ姿勢をとる。  
 男は小走りにアスナの目の前までやって来て、やや引き攣った声で遠慮がちに口を開いた。  
「や……やぁ、アスナ、ま、待った……よね?」  
「き、き、キリト君、君ねぇ! もう約束の時間から50分もたってるんだよ! っていうか! 寝てるってどういうことなのよっ! い、言っとくけど、こっちは30分もまぇ、コホ、コホン! ぴったりに到着してまってたんだからね!」  
「申し訳ない、一度は時間に起きたんだけど、うっかり二度寝しちゃって」  
 腰が引けまくった姿勢で両手を合わせ、すまんっと平謝りのキリトの姿を見ていると、何故だか早くも怒りが収まってくるのを感じて自分でも驚く。  
 ああ、わたし本当にこの人の事好きなんだなぁ、と再認識すると苛立ちは殆んど消えていた。  
「晩御飯!」  
 唐突に右腕を伸ばして人差し指をぴっとキリトの前で立てると、声高に言う。  
「お洒落なお店にエスコートしてもらいます! 勿論キリト君の奢りで!」  
 一瞬面倒そうにえ〜っという表情を見せたキリトだったが、覚悟を決めたのかすぅっと息を吸い込むと、芝居がかった態度で腕を前に一礼しながら「ではご馳走させて頂きます、副団長殿」と、言い放った。  
「はい、期待していますからね、黒の剣士さん」  
 両手を後ろで組み、キリトの顔を覗き込む様に首を傾け、アスナはくすくす笑いながらそう言い返した。  
 
 
---------------------------------------  
   
「ところで、なんで待ち合わせ場所がココなんだ?」  
 外周の通路に設置されたベンチに腰を下ろしたキリトが、同じく一人分の間隔を空けて隣に座ったアスナに問  
いかけた。  
「え? 不味かったかしら?」  
「だってさ、アスナはダンジョンの攻略情報を交換しあいたい、そう言って俺に声かけたよな?」  
 キリトはピンクな雰囲気を漂わす男女のペアばかりの庭園に視線を投げかけ、ばつが悪そうに続けた。  
「こんな場所で攻略の情報交換もないだろう……」  
 ――まぁ、正論よね。  
 アスナは胸の奥で頷き、でもこうでもしないと君はこんな場所には来てくれないでしょ……と心の中で抗議  
した。  
 そしてキリトの疑問の追及をはぐらかすかのように、パンっと手の平を叩き合わせ、  
「もぅ、細かい事気にしないの。そんなことより誰かさんのせいでお昼が過ぎちゃったけど、お弁当にしましょ  
うか」  
 言いながらウインドウを操作し、用意してきた布でくるんだ重箱を取り出した。  
 キリトはまだ何か言いたげではあったが、弁当と聞いて追求を飲み込んだようだ。  
 アスナの料理の腕前はキリトも十分知っているのだ。訝しげな表情はすでに期待のそれへと変化していた。  
 アイテム欄から四角く折りたたんだ布を取り出すと、ベンチの前にそれを大きく広げ、重ねられた箱を1段づつ  
横に並べていく。  
 重箱はなんと五段もあり、布の上はたちまち色とりどりな料理が並ぶ豪華な食卓へと姿を変えていった。  
「す、凄いなこれは……」  
 目を剥き、食い入るように立ったまま呆然と料理の山を見つめるキリトを見て、アスナは満足気によしっと  
右拳を握りガッツポーズを取る。  
 前回、圏内で起きた騒動のときは急だったので簡単な物しか作れなかったが、今回は早朝からたっぷり時間を  
かけて作り上げた、アスナ渾身の作品の数々である。さらには店には売っていない、アスナ自ら調達した貴重な  
食材も惜しげなくふんだんに使っており、見た目も然る事ながら、食材の質自体も大層な豪華さなのである。  
「ほら、突っ立ってないでそっち座って。早く食べましょう」  
 
 
「で、んぐんぐ……そっちはなにか……くっちゃくっちゃ……攻略中の層でなにか耳寄りな……もぐもぐ、情報  
でもあるのか?」  
「もぅ、お行儀悪いわねぇ、食べながら喋らないでよ。ってほっぺにご飯粒ついてるわよっ」  
「んぐ、ああ」   
 キリトが尚も口を忙しそうに動かしながら親指で米粒を取り、口の中へと放り込む。  
 ――はっ、ちょっと待って! このシチュエーションって! 本来ならご飯粒を指で取ってあげて自分でパクっとか、  
あまつさえ舌で直接ペロっとしちゃったり? そんなベタな美味しい場面よね! そしてそのまま二人はいい雰囲気  
になり……ふ……ふふ、じゅるり  
「おーい、アスナー? どうした、涎が垂れてるぞ」  
 はっと我に返ると、キリトがアスナの顔を覗きこみ、手の平を目の前で上下に振っていた。  
「ひぃ! な、なんでもないわよ、ちょっと白昼夢を見てただけだから!」  
 錯乱気味な台詞を吐き出しながら、右手の甲で口元を拭い、取り繕う様に先ほどのキリトの問いに大慌てで答える。  
「え、え〜と? そ、そう、情報だったわね! うん、そんなの別にこれといってないわよ!」  
「えぇっ?」  
 口を半開きで目を丸くして呆気に取られているキリトの顔を見て、アスナは「しまった!」と心の中で舌打ちする。  
「ほらっ、こっちのこの玉子焼き! 会心の出来なの!」  
 重箱の隅に綺麗に一列に並んでいる玉子焼きを箸でつまむと、ポカンと空いたままのキリトの口の中へえぃっ  
と押し込んだ。  
 ふぅ、なんとか誤魔化せたわね、と額の汗を布巾で拭いながら、お茶の入ったカップに口をつける。  
「いやいや、なにも誤魔化せてねーし」  
 心を読んだかのようなキリトの台詞に、「げげっ、キリト君って読心術スキル高いんだ!」と、おどけた調子のアスナ。  
「ははっ、アスナ、お前ってさ、変な奴だよな。もっとお堅い奴だと思ってたんだけど。何が目的なのかさっぱり  
分からんけど、美味いお昼も食べれたし、まぁこういうのもたまにはアリ……かな?」  
「そ、そう! それは良かったわ」  
 変な奴呼ばわりされて良かったもないものだが、それでもアスナはなんだか少しだけいつもよりキリトを身近に  
感じることが出来た気がしてにっこりとした表情を浮べた。  
 
「あ〜、うまかった〜。ほんと、すごくうまかったよ。ご馳走様でした」  
「ふふ、お粗末様でした」  
 大満足といった感じで足を投げ出しお茶を啜るキリトを見て、アスナも嬉しそうに答えた。  
 すっかり空になった重箱を布で包みなおしてアイテム欄へと収納しつつ、ふぁぁっと大きなあくびをする。  
「ゲームの中でお腹が一杯なって眠くなるって妙な気分だよねぇ」  
「そうだなぁ、ふわ〜〜〜あ。ああ、俺もなんか眠くなってきた」  
 アスナにつられてキリトも長〜いあくびをして両手を後ろにつき、だるそうに体を斜めにする。  
「眠いならさ、少しお昼寝しなよ」  
「ん?」  
「ほら、前はわたしが守ってもらっちゃったから、今回はその逆ってこと。キリト君の事しっかりガードするから」  
「ははっ、そういえばそんな事もあったな。あの時はびびったよ、目覚めるや剣に手をかけて凄い形相で睨まれ  
たからな」  
「むっ……そこは忘れていいから」  
 アスナは頬を少し朱に染めてはにかんだ。  
「じゃ、ちょっと横にならせてもらうよ」  
 ベンチに座り、そのままごろんと横になろうとするキリトを「ちょっと待って」と、制止する。  
 アスナは素早く隣に座ると、ほら、ここ、と膝の上をちょんと指差した。  
「おい、まさか。そこに頭を置け……と?」  
「なによ、男の子はこういうの嬉しいんじゃないの? それともわたしなんかの膝枕じゃご不満なのかしら?」  
 口を尖らせてじろっとキリトを睨みつける。  
「いやいや、滅相もない……けど、恥かしすぎるっていうか。誰かに見られでもしたらあらぬ噂が、なぁ?   
そっちも困るだろ?」  
「別にわたしは一向に困りませんけどっ。ほらっ早く」  
 【paralyze−麻痺】の状態異常にでもなったかのように、みじろぎ出来ずにいるキリトの両耳をぎゅっと  
引っ張り強引に自分の膝上に乗せる。  
「あ、わたしの方に寝返りを打ったら殺すから」  
 笑顔で物騒な台詞を吐くアスナに、キリトはひい、と小さく悲鳴をあげると観念したかのようにそのまま目を閉じた。  
「一時間くらいで起してくれ」  
 そう呟いたかと思うと、数秒もおかずにすーすーと寝息を立て始める。  
「寝つきはやっ!」  
 どんだけ眠かったのよ……と呆れた表情でキリトの顔を覗きこむ。  
 
 ――なんか勢いまかせに膝枕なんてしちゃったけど……。不味いわね、なんか急に恥かしくなってきたわ……。  
ああ、なんか顔も熱くなってきたし。胸もどきどきしてきたあぁぁ。それにしても寝顔可愛いわね、って  
うああああ、顔近いっ、近すぎだから! ……はぁはぁ。ちょっと落ち着いて、落ち着けわたし! たかが膝枕、  
たいした事ないって! 膝枕っていったらあれよ。ほっぺのご飯粒ぱくっよりも、当然上位に位置する行為よね。  
え? でもまだ手もまともに繋いでないのに? あれれ? 先行しすぎ? これって最初の街からいきなり  
50層くらいに挑戦するレベルじゃない? ひいぃぃぃ、先走りすぎたぁぁぁ! あぅあぅ恥かしい、恥かしすぎて死んじゃうぅ!  
 
 上半身のみを器用に右へ左へくねらせ、こめかみに手を添えるとこれまた頭を上下に不規則に動かす。  
笑みを浮べたと思ったら苦悩の表情へと変り、またにへらと顔を崩す。  
 そんな奇奇怪怪な行動を百面相を伴って繰り返す。  
 はたから見れば、異常者と思われても仕方が無い素振りだったが、アスナがそれに気付く事はなかった。  
「ふぅ……」  
 奇抜な運動で汗ばみ始めた頃、アスナはようやく落ち着きを取り戻していた。  
 ウインドウで時刻をチェックする。現在午後3時。大分日が傾いた空を暫く見上げ、そしてまたほんのりと  
熱を感じる膝元に目を落す。キリトの気持ち良さそうな寝顔を見つめながら、頭の中で問いかけた。  
 ――ねぇ君、君はどうしてわたしと距離を置くの? 何のことかって? そんなの、君が常にある一線から  
踏み込まないようにしている事だよ。友人と恋人の間の壁、ううん、知人と友人の間の壁すら感じるんだよ。  
淋しくないの? ずっとソロだなんて、恐くないの? 君の隣の席はわたしじゃ埋められないの?   
ねぇ、答えてよ  
 
 答えの返ってくるはずのない問いを繰り返し反芻している内に、瞼が少しづつ重みを増し視界を閉ざしていく。  
 うつらうつらと舟をこぎ、あわや熟睡しかけた所ではっと目を覚ます。  
 危なく寝ちゃうとこだった、とまだ少しぼおっとする頭を覚醒させるべく、肩の上で首をゆっくりと回す。  
 すると耳のあたりでちゃりちゃり音がした。  
 そういえば――耳飾り、全く気付かれなかったわね。  
「でも、まだ夕食タイムが残っているしね!」  
 一瞬肩を落としたが、すぐに気持ちを切り替え「さてっもう少しだけ寝かせてあげてから起こしますか」と、  
背筋を伸ばして気合をいれるのだった。  
 
 
「さて、約束通りディナーにエスコートしてもらいましょうか!」  
 勢いよく立ち上がったアスナは片手を腰に当てながら、もう片方でびっとキリトを指差して元気一杯に言う。  
 あたりはすっかり薄暗くなっており。広場の様々な色を夕暮れが赤一色に染め始めていた。  
 恋人達も夜の街へと舞台を移すべく立ち去り、すでにガーデン内は閑散としている。  
 仕方ない、とばかりに続いて立ち上がったキリトがウインドウを操作し、1つのアイテムを取り出した。  
「な〜にそれ?」  
 キリトの手に現れたそれを覗き込む。  
 どうやら一通の封書のようだ。Dの文字が刻まれた赤い封蝋が施されている。  
「半年くらい前かな、隠し部屋の宝箱から入手したんだ。アイテムの説明によると、特定の場所でこの封書を  
使用すると隠されたレストランが出現するらしいんだ。」  
「らしい?」  
「ああ、実際いってみたんだが、エラーメッセージがでてな。男女のペアじゃないとイベントが発生しないらし  
いんだ。どうだ? いってみるか?」  
「うわ、面白そう! いくいく!」  
 きらきらと眼を輝かせながら、うんうんと頭を縦に振る。  
「ただし」と、キリトが真剣な面様になりアスナの目の前に封書を掲げて言った。  
「この特定の場所というのは、フィールドエリアにあるんだ」  
「え……それってつまり」  
 アスナの表情からも笑みが僅かに消える。  
「ああ、戦闘イベントが始まる可能性もあるってことだな。とはいえ、17層の場所だ。俺達のレベルなら  
どんだけ油断したとしてもHPを減らすことすらないはずだ」  
「そうよね、それに危なくなったらキリト君の背中に隠れちゃうから」  
 茶目っ気たっぷりに、まばたきをしてみせる。  
 キリトは肩をすくめて「りょ〜かい」と呟くと転移ゲートのほうに頭を振り、歩き出した。  
 
 
「うわ〜、また随分辺鄙な場所だねぇ」  
 特定の場所、それはマップの一番隅っこで、侵入付加の壁と盛り上がった丘に挟まれて小さな窪みに  
なっているエリアだった。短い草が生えているのみで、面積にして普通の家が2軒立つかどうかという広さ。  
「よし、アイテム使うぞ、一応戦闘の準備はしておけよ」  
「うん、いいよ」  
 ごくり。期待と緊張の面持ちで唾を飲み込む。  
 キリトが封書をその狭い空間にぴっと指先で飛ばす。刹那、眩い光とイベント発生を知らせる音と共に、  
目の前に1階建ての西洋作りの建物が姿を現した。壁は白一色で統一されており、唯一屋根だけが  
燃えるような赤色をしていた。上部が曲線を描いたお洒落な窓にはカーテンがかかっていて中の様子は  
伺えない。  
 入口扉には看板がかかっており、【レストラン リムーブクロス】と書かれいた。  
 剣に手を添えつつ、キリトが入口のドアノブに手を伸ばした。  
「じゃ、開けるぞ」顔だけこちらに一瞬向けるとノブを回す。ドアが中へと開け放たれると、二人は左右から  
半身を乗り出し中を覗き込んだ。  
 
 アスナが「うわぁ」と感嘆の声を漏らす。部屋の内装はこれまた西洋風で、家具は全て素人目にも高級品  
なのだろうと思わせる優美なデザインの物ばかりであり、中央にはシックな丸テーブルが1つだけ置かれ、  
天井からぶら下げられた、宝石を鏤めたペンダントライトが淡い影をテーブルクロスに落としていた。  
 やや警戒を解いて中に入ると、上品な鈴の音が鳴り奥から一人の男が現れた。タキシードを着込み、  
くるりと跳ね上げられた口髭が印象的な、ウエイターというよりは執事といった風貌の男だ。  
「ようこそ、リムーブクロスへ。ささっどうぞお席の方に」  
 頭を深く垂れ、格式張った礼をしつつテーブルの方へと右腕を広げる。  
 二人はそれでも慎重にゆっくりと歩を進めた。テーブルの前まで来ると、すっと男が椅子を引く。  
 アスナとキリトは顔を見合わせると、こくりと頷き座り心地の良さそうな椅子に腰をおろした。  
「わたくし、ダッツィーノと申します。キリト様、アスナ様、ようこそお越し下さいました。今宵は存分に  
当レストランの料理をお楽しみ下さい」  
 え? どうして名前を? とアスナが怪訝な表情を浮べるが、キリトがそれを察したのか口を開いた。  
「これはゲーム内イベントだ。この男もNPCだし、システムが俺達の名前を把握し呼ぶのは不思議じゃないさ」  
 アスナはなるほど、と頷く。  
「それにしても、結構期待できそうじゃない? 雰囲気も凄くいいし」  
「だといいがな」  
「では、お料理を運んで参ります故。暫しお待ちを」  
 きびきびした無駄のない動きで奥――厨房があるのだろう――へと戻ろうとした男をアスナが呼び止めた。  
「え? ウエイターさん、メニューはないんですか?」  
「当店ではメニューはございません。全てシェフのその日のお勧めをお出しする事になっております。  
ですが必ずご満足頂けると思いますよ。あと、わたくしの事はダッツィーノとお呼び下さい、アスナ様」  
 男は一礼し、今度こそ奥へと姿を消した。  
「ふむ、メニューがないなんて変わった店だな」  
「それだけ、料理に自信があるってことだよきっと!」  
「選べるほど、このイベントに料理を用意しなかったともとれるがな」  
「もぅ、捻くれた考え方ねぇ……。でもわたしは確信したわ、このイベントは当りよ! キリト君がゲットした  
あの招待状、激レアなんだわ、きっとすっごい美味しい料理が出てくるに違いないわよ!」  
「だといいがな」  
 暫くして、男が料理を乗せたワゴンを押して戻ってきた。テーブルの上に次々と料理が盛られた皿が並べ  
られていく。湯気のたつ白スープ、鮮やかな赤のソースがかけられた網目模様の焼き後のついた肉、  
色豊かな野菜の盛合わせ、魚のバター焼き、そしてふっくらと焼き上げられたパン。飲み物は年齢制限  
でもあるのだろうか、ワイングラスに注がれたそれはどう見てもオレンジジュースだ。  
 冷めた意見ばかりだったキリトも美味そうじゃないか、と手をすり合わせて言った。  
 だから言ったじゃない、とアスナも爛々と目を光らせる。  
「ささ、温かい内にお召し上がり下さい」  
『いただきま〜す』  
「ん……」  
「あら……」  
 それらは至極普通の味だった。  
 アスナ自身の料理に遠く及ばないのは言うまでもなく、むしろ行き付けのNPCの店の料理にすら  
劣るんじゃないのかと思わせられる程だ。  
 心の底からがっかりし、口をへの字に曲げてフォークでつんつんと肉をつつく。  
 一方キリトは、食えりゃいいや、とばかりにがつがつと口に料理を運んでいる。  
 そして――先に異変に気付いたのは、キリトのほうだった。  
 詰め込みすぎて喉を詰まらせたキリトが、ワイングラスに手を伸ばそうと視線を移した瞬間、  
「ぶふぅー!」勢いよく口腔内の料理が空中に飛散する。  
「ちょ、汚いわね! 何よいきなり!」  
「お、おま、お前その格好……なにやってんだよ!?」  
「はぁ? 何をいって……」  
 自分の姿を見て途中で言葉を失い、固まった。  
 なんとアスナは何時の間にか白のギルド服ではなく、下着姿――ピンクの生地に黒で刺繍が  
施された可愛いデザインのブラ――になっていたのだ。  
「いやーーーーーーー!」  
【Petrifaction−石化】したように硬直していたアスナの悲鳴が部屋に響き渡った。  
 素早く両腕で胸を隠そうと前で交差する――が、腕がすっと消え、依然として下着は露になったままだ。  
――え? 何? 何これ? どうなってるの?  
 そこにあるはずの腕を胸の上から遠ざけると、腕が現れる。  
 
「ちょっと失礼」  
 アスナの一挙一動をじっと見つめていたキリトが、何かを得心したかのようにポンっと手を叩いて  
アスナの脇腹に手を伸ばし、タッチした。  
「ひぃぃ! 何すんのよこの変態!」  
 平手打ちがキリトの頬に炸裂する。  
「ま、まて落ち着け! 分かったんだよ、からくりが! 今お前を触ったが感触はごわっとした皮の  
それだった。つまり、服自体はそのままで『透明化』しているだけなんだ。そして俺の腕もそうだっ  
たが、体を隠そうとする物質もまた透明化されるんだ。な、そうだろ? ダッツィーノさんとやら」  
「その通りでございます」  
「なにそれ、意味わかんない! 一体全体何がどうなってるよぉ!」  
 隠せないと理解していても体が勝手に動き、腕で胸を隠すような仕草をする。  
 顔を真っ赤にしたアスナに淡々とした口調で説明が加えられる。  
「当レストランでは、料理の対価は<コル>ではございません。<羞恥心>なのです。アスナ様が  
羞恥を露にすればする程、それによるリアクションが大きければ大きいほど、味もまたそれに呼応し  
美味になるのです。今アスナ様は大変素晴らしい<羞恥心>をお見せになりました。きっとお料理の  
ほうも極めて美味になっていることと思われます」  
「な、ななな、なによ! そのド変態仕様は!」  
 信じられない――と、眉を吊り上げ、怒りと呆れが混ざりあった叫びを上げる。  
「まて! アスナ!」  
 真剣な口調のキリト。  
 
 もぐもぐ。  
 
 ごっくん。  
 
「う、う、うめぇぇぇ! おい、この料理、滅茶苦茶美味くなってるぞ! 食ってみろって!」  
 美味そうに次々に料理を頬張るキリトをきっと睨みつけるが、料理を嗜む者としてはそんなに美味しいの?  
と気にならない事もない。  
 それでもやはり恥ずかしいので、テーブルで胸を隠すようにし――テーブルもとっくに透明なので意味  
ないのだが――前屈みの犬のような姿勢で料理に口をつけてみる。  
「!」  
 アスナは眼をかっと見開いた。体が稲妻に打たれたかのような衝撃を受けた。  
「なに……この味」  
 それらは此れまでにゲーム内で食べた如何なる食事よりもはるかに美味だった。  
 今まで食べてきた物には全て旨みの上限が決められていたんじゃないのか、とさえ思わせるほどに。  
 アスナは自分が下着姿のあられもない格好なのを忘れ、一体どの食材を使えばこの味が出せるのかしら……  
 なんとか味を盗みたい、と1品づつ口に含み考えを張り巡らせながら料理を楽しんでいた。  
 一心不乱に口を動かし、料理が半分を切った頃、ダッツィーノがぼそっと呟いた。  
「さて、そろそろ全部消えますよ」  
『え?』  
 二人が同時に顔を上げた。  
 瞬間、キリトが鼻を押さえて顔をそらした。指の間から赤い液体がぽたりと垂れる。  
 数秒遅れで、アスナの今日一番の大きな悲鳴が空間をびりびりと震撼させた。  
 完全に素っ裸になったアスナは椅子の上で身体を丸めてくすんと涙ぐむ。勿論、透明化され肝心な  
部分は丸見えなのだが。  
「……うう……もぅいやぁ……」  
 鼻血を垂らしながらキリトが立ち上がり「店を出るぞ、アスナ」と声をかける。  
「不可能でございます」  
 行動の意図を理解したのかダッツィーノが抑揚のない声でキリトの行動を阻む。  
「完食しない限り、中からは決して出られません。扉、壁も全て破壊不可能となっております。  
勿論転移結晶も使えません」  
 それよりも――と台詞を続ける。  
「今のアスナ様の<羞恥>でさらに、さらに料理が美味しくなっております、どうぞお楽しみ下さい」  
 食べるしかない。アスナは覚悟を決め、消え入りそうな口調で言葉を絞り出した。  
「キリト君……絶対前見ないでよ……横向いて食べて」  
「ああ、分かった」  
 
「うぉぉ……まじでさらに美味くなってる」  
 鼻に布巾を突っ込み、顔だけ横にして料理を口へと運ぶという、妙ちきりんなキリトから感嘆の声が上がる。  
 一方アスナはトマトの如く耳の先まで真っ赤にして、しかし目尻に涙を浮べながら「美味しいよぅ、うう、  
恥ずかしいよぅ、なんでわたしがこんな目に……。でも美味しすぎるよぅ」と半ばやけっぱち、でも恥じらい  
は消せず、でも舌鼓を打って、混沌とした様子で料理を堪能していた。  
 やがて、テーブルの料理が全て平らげられるとダッツィーノは口を開いた。  
「さて、デザートはどうなさいますか?」  
「勿論食べ……うぐ」  
 キリトの言葉を途中でアスナが投げつけた皿が遮る。  
「いえ、お暇します! だから早く服を戻してよぉ!」  
「そうですか、それは残念です。きっとデザートはとてもとても美味しくなっている事でしょうに。ではこの  
脱衣料理イベントを終わらせる方法をお伝えします。キリト様がアスナ様の2つのボタンを同時に押せば終了です」  
『ボタン?』  
 本日3度目の二人のハモった声。  
「はい、アスナ様の胸のポッチ。いわゆる´ちく〜び´の事で御座います」  
「は、はい?」  
 アスナは意味を理解できずにいた。脳が理解することを拒んでいるのだろうか。  
 ――胸のぽっち、ちく〜び? そんなのわたしの胸にあったっけ? え? 乳首? はは、まさかね。  
まずはちく〜び、これが意味する言葉の意味を考えるべきね、ちく〜び、ちく〜びねぇ……。何処かの方言かしら?  
ちくわの類語という線も捨てがたいわね。  
 時間にして僅か数秒、アスナは現実逃避とばかりに珍妙な思考を繰り広げたが、やがて脳が正常に処理を開始し  
答えを導きだし、そして言語化させた。  
「そ、そ、そんな事できるかあぁーーーーーーーー!」  
 ふとキリトの方を見やると、両手の人差し指を前に突き出し、何もない空間に向かってぐっぐっと、押し込むような  
動作を真剣な面持ちで繰り返していた。  
「な、何をしてるのよあなたわぁーーーーーーーー!」  
「え、いやちょっと練習を……」  
 キリトはアスナへと向き直ると、照れたような表情で小さく呟いた。  
「だから、こっち見るなっていってるでしょーーー!」  
「いやはや、アスナ様の<羞恥心>リアクションは大したものですな。デザート本当に入りませんか? ちなみに  
アイスクリームなのですが、今しがた名前が『神々の息吹』などという、痛々しくも神々しい名前に変化しておりますが?」  
「……いや、いいって」  
 叫び疲れたアスナはもぅ勘弁してよ、とぼやいた。  
 
 
 ――結局、キリト君の目を硬く瞑らせて「絶対みないでよね、絶対だからね!」と何度も念を押して、乳首と  
言う名のわたしのボタンを押してもらうことになった。  
「い、いいよキリト君……や、やさしくして……よね」  
 か細く震えたアスナの声。  
 閃光の異名を持つ普段のアスナとのギャップがより一層女の子らしさを強調する。  
「あ、ああ、じゃぁ押すよ」  
 ごくり。キリトの喉が鳴った。  
「あ、そこじゃないよぉ、もっと上……」  
「ちがうってぇ、今度は行き過ぎ……」  
「痛っ、もっとやさしく……」  
「ひゃっ、うん、平気だよ、今のとこより少し上……」  
「きゃ、あん! そこぉ!」  
 妙に艶っぽい声を出すアスナであったが、ようやくキリトがボタンを押すことに成功したようだ。  
 途端に、ブゥゥゥンという音が周囲を包み、テーブルが、空になった皿の数々が、部屋の内装が、次々と  
希薄になっていく。その時、姿が消えかかっているダッツィーノが最後の言葉を口にした。  
「アスナ様、キリト様、本日は当レストランをご利用頂き真に有難うございました。楽しい一時を過ごされたようで  
わたくしも満足でございます。その封書はこの世界に1つしか存在しませんが、何度でも仕様可能ですので、  
お気軽にご利用下さいますよう、お願い申し上げます。ひとつ付け加えますと、毎週水曜日のみ、脱衣されるのが  
女性ではなく男性の方となっておりますのでご注意願います。では、御機嫌よう」  
 
 
「はぁ、とんでもないイベントだったが、料理は美味かったよなぁ」  
「胸触られた……胸触られた……何か変な声でちゃった……しかもなんか気持ちよかっ……」  
 首の後ろで手を組み、真っ暗闇の空を見上げて息を吐くキリト。  
 その傍らで小さくうずくまり、地面の草をぶちぶちとむしり、ぼそぼそと聞き取れない程細い声で呟き続けて  
いるアスナ。  
 黒と白の二人は暫くそれぞれの思いに耽っていたが、やがてなんとか復活したアスナが言葉を発した。  
「確かに、料理の味『だけ』は最高だったわね、その他は最悪だったけど!」  
「また来るか?」  
「そうねぇ、水曜日にならいいわよ? 他の日はダメ!」  
「でもさ〜、俺は別に服が透けてもたぶん、アスナみたく恥ずかしがったり大仰なリアクションとらないぜ?  
だから料理の味も大したことないんじゃないかなぁ、つまり」  
 キリトがにやっと笑いアスナを見た。  
「また副団長殿に料理を『美味しく』して頂くより他ありませんな!」  
「もう、キリト君キライ!」  
 頬を膨らませ、ぷぃっと後ろを向き街のほうへとすたすたと歩き出す。  
「あ、そうだアスナ。その耳飾、新しい装備か? 結構似合ってるぜ」  
 背中越しのキリトの台詞に思わず口元がほころぶ。もぅ、気付くの遅すぎ! と心の中で悪態を付くがにやけた顔はなかなか元に戻らなかった。  
 
 
 
おわり  
 

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