はぁ、と深く息を吐いてから、深呼吸を一つ。  
 
慣れない環境、慣れない人間関係、慣れない生活。  
まだ見慣れない新校舎の一角。  
どことなく緊張感の抜けない新しい学校の中で、しかし新生活へのそれとはまた別の緊張感を持って、  
現実世界での扉に手を掛ける。  
 
「失礼しまーす。桐ケ谷和人君を探しているんですけれど、こちらに来ていますでしょうかー?」  
 
誰だよ、それ。  
と思わずそう思ってしまう程に馴染みのない名前を呼びながら、鍛冶屋リズベット──としてではなく、  
女生徒、篠崎里香として職員室の扉を引き開けた。  
 
 
 
『とある先輩後輩の初日』  
 
 
 
「おお、篠崎か。すまんな、ちょっと話が長引いたようだ」  
 
掛けられた声に気づいて、顔見知りの教師が手招きしてくる。  
失礼します、ともう一度声をあげて、近づいた先には、探していた相手──あの世界、アインクラッドで見た時と  
変わらない面影を持つ男子生徒、桐ケ谷和人の姿があった。  
 
「すみません先生。それと……その、篠崎、センパイも」  
 
「いえ。教室に行ったら、ここだと伺いましたので。キリガヤ君、も、結城さんたちが呼んでるわよ」  
 
お互いぎこちなくというか、やや不自然な発音になりながら、互いの『リアルでの』名前を呼び合う。  
うわ、慣れねー、と思い合う双方の心中を察しているのか、教諭もやや苦笑するような表情で、職員室を送り出してくれる。  
失礼しましたー、と定型文の挨拶を返つつ、いつ来ても落ち着かないその場所を後にすると、新スキルを鍛え始めた時のような妙な疲労感が残った。  
 
 
「……慣れない口調って、案外疲れるなー。けど、リズ。用事があるなら、メールでもよかったんじゃないか?」  
 
「キリガヤ君は職員室を出た途端にそれかい。  
 あんたはわざわざ探しに来てくれた先輩に対する敬意ってものを、ちょっとは持ちなさいよね」  
 
あの世界。SAOのクリアから早数ヶ月。  
現実世界での感動の再会を経て、生還者を集めたこの学校に通う仲になったとはいえ、開校したのはつい先日のこと。  
お互いまだまだ不慣れさを感じつつも、人目がなくなった瞬間に、アインクラッド時代の口調に戻ってしまう現後輩を呆れた眼で眺める。  
 
「う……申し訳ありません、篠崎先輩。僕の不注意でした」  
 
一応はマナー違反となっているキャラネーム呼びを上級生に注意された形になって、かつての≪黒の剣士≫キリトこと、  
和人の表情がバツの悪そうなそれへと変わる。  
 
「はいはい。そこまでやんなくてもいいから。ホント、変わんないわね、キミは」  
 
「なんかそれアスナにも言われた気がする。アスナ達は自然な感じなのになぁ……」  
 
「まあ、アスナは礼儀とかそういうのは厳しそうな感じだからねぇ。あたしも伊達に客商売をやってたわけじゃないし。  
 それに綾野さんとかなら、敬語には慣れてるだろうしね」  
 
出された名前に和人は一瞬訝しげな表情を浮かべるも、すぐに誰のことか思い至ったらしい。  
 
「綾野──ああ、シリカか。あ、ひょっとして今日は一緒なのか?」  
 
「そういうこと。『キリトさんは放っておくとすぐにアスナさんのとこに行っちゃうか、メールを見るのを忘れちゃうから、  
 いっそ探しに行った方が早いです』ってね。本人は先に授業が終わるから、学食で席を確保しといてくれるって」  
 
「そ、そうなのか…」  
 
信用度ゼロなのか、それとも行動を見透かされているのか。  
自身の所業に思う所があるらしい和人が難しい顔で唸るのを横目で見ながら、ぎこちないながらも、  
きちんと彼の名前が呼べている自分自身に安堵する。  
 
(キリトが変わらないっていうか、意外とみんな内心ドキドキではあるんだろうけどね…)  
 
校内でのキャラネーム呼びは、一応、マナー上好ましくないとされている。  
とはいえ、SAOを生き残った者たちからすれば、キャラネームこそが、リアルとかけ離れたあの世界での唯一の名前だったのだ。  
忘れろと言われて忘れることなどできないし、向こうと変わらない姿の相手を目の前にして、即座に本名で呼び合う仲になることも難しい。  
結果的に、風紀上はどうあれ、親しい友人同士などの間では公然とSAO内でのそれに近い関係がまかり通ってしまっているし、  
所謂、先輩後輩といった上下関係も、他の学校に比べると結構ゆるゆるな感じになってしまっている。  
もっとも、SAOとは異なる、リアルでの学校生活を送る上でのルールとして、可能な時には本名で呼び合うこと、  
という認識も微妙に生徒間で共有されてもいるのだが。  
 
そんなこんなで、篠崎里香として現実世界に帰還して以来、再会時に聞いた『桐ケ谷和人』という、キリトのリアルでの本名を  
自然に呼べるようになるべく、実は内緒でこっそり練習していたりもする。  
勿論、本人と親友には絶対に秘密なのだけれど。  
 
しかし、そんな周囲の思いを知ってか知らずか。  
旧知の相手の前ではすぐに素のキリトと化してしまう和人は、この学校に集められた数いる生還者の中でも  
特に強くアインクラッド色を見せる一人として、良くも悪くも有名だったりする。  
 
「けど、やっぱり違和感はあるな。向こうと殆ど変んない連中ばっかりなのに、当たり前だけど全然違う。  
 制服姿とか、未だにコスプレかなんかに見えてギョッとすることとかあるし」  
 
「あー、それはあるわね。それとか、向こうじゃあれだけ懐かしかったのに、いざ毎日和食になったら  
 あっという間に飽きたりとか、久々にファーストフード食べに行ったら、味が濃すぎて悶絶したりとか」  
 
「ありすぎるな。最近じゃ学食のメニューも目移りしなくなってきた」  
 
あるある、と一緒に笑い合いながらも、どこか現実に馴染み始めている自分達を実感する。  
結局は慣れの問題なのだろう、と思う。  
みんな大なり小なり、むこうとこちらとの間に違和感を抱えていて。  
けれど、SAOでの記憶が消えることがないように、こちらでの生活が続けば、それが日常になる日もやってくる。  
 
「だけど、さ。怒られるかもしれないけど、俺にとって、やっぱりリズは『篠崎先輩』じゃなくて、『リズ』なんだよな」  
 
「それはそうでしょ。あたしにとってもキリトは『キリト』だもの。アスナだってシリカだって、きっとそうじゃない?」  
 
「うん……だよな。それに正直、『篠崎先輩』って言い難いし」  
 
「言ってくれるわね。それを言うならあたしだって『桐ケ谷君』とか、慣れなさすぎるわよ」  
 
アインクラッドにいた時には、リアルの話題はタブーだったというのに、いざリアルで名前を呼び合う段になると、  
そのことに不便を感じてしまうのだから、全く勝手なものだ、と思う。  
 
「だけどね、桐ケ谷和人君。あんまり先輩風を吹かせたりするつもりはないけど、『キリト』も『和人』もどっちも  
 キミの大切な名前なんだし、あたしも『リズベット』だけど『里香』なんだから。  
 分かってるとは思うけど、呼ぶべき時はきちっと呼んでよね?」  
 
老婆心ぽいかな、と思いつつも、一応伝えるべきことは少々芝居がかった口調で隠して、伝えておく。  
アスナとキリトの間の邪魔をする気は、とりあえず暫くはないとはいえ、それはそれ、同盟はあくまで同盟だ。  
 
『リズベット』として、キリトとアスナを見守っていくのもいい。  
 
『里香』として、和人と第二ラウンドのゴングを鳴らすのもいい。  
 
だけど、その前に。  
せっかく現実世界で再開できたのだから、やっぱり和人の口からキチンと『里香』と呼んで欲しい。  
変わらず『リズ』と呼んでくれることはとても嬉しいけど、キリトのこともリアルで『和人』と呼びたいし、  
好きな人とは、本名でちゃんと呼び合える関係でありたい、と思う。  
この学校での篠崎理香と桐ケ谷和人の関係性は、そこから始められるような、そんな気がするのだ。  
 
「ああ、了解っと。……と、そういえば、俺はリズのこと、何て呼べばいいんだ?  
 やっぱり、『先輩』はつけた方がいいよな?」  
 
「別に、そんなの普通でいいわよ。今更畏まるような仲じゃないでしょ」  
 
「え〜と、じゃあ『篠崎さん』『里香さん』…『リズ先輩』…?」  
 
次々挙げられる呼び方に、ジト目の視線を向けると、和人が困ったような口調で頭を掻く。  
 
「な、なんかデジャヴュってるような……流石に呼び捨てはマズい…よな?」  
 
普通でいいと言いつつも、どこか照れが残っているのはある意味お互い様なのかもしれない。  
一応、年上として見てくれてるのかな、と実は年下だった少年を見つつ思いつ。しかし、ここで引き下がったら、  
そのままの距離感で固定されてしまう気がして、内心のドキドキをぐっと抑えて、伝える。  
 
「いいわよ、里香で。  
 『リズ』が『里香』に代わるだけなんだから。そっちも『キリト』から『和人』になってるでしょ。  
 だから……その、和人…?」  
 
「う──わ、分かった。それじゃあ、え〜っと……里香」  
 
微かに頬を赤くして、はにかむように笑った和人が、すっ、と右手を差し出してくる。  
 
「改めて。その、よろしくな、里香」  
 
「ん……こちらこそ。和人」  
 
差し出された手を、ぎゅっと握り返す。  
二度目に呼び合った名前は、不思議と自然と声に出せたような、そんな気がした。  
 
「じゃあ、そろそろ行くか。食堂の席、取っててもらってるんだろ」  
 
「そうね。あんまり待たせたら、シリカにもアスナにも悪いし──」  
 
一足先にカフェテリアに行っているであろう、二人の姿を思い浮かべて、ふと、思い至る。  
繋いだままの手と手。  
考えてみれば、リアルで和人と手を繋ぐのはこれが初めてだったはず。  
そう思うと、感じている温もりを手放すのが、なんだか惜しくなってくる。  
 
(ちょっとだけ、いいわよね?)  
 
「あ、おいっ。リズ!?」  
 
繋いだ手をそのままに。  
里香に手を引かれる形になった和人が、慌てたように声を上げる。  
 
「こら、言ったでしょ。今のあたしは──」  
 
「あ、あー、里香…さん?」  
 
いいのかな? といった表情で、それでも後輩の男の子は無理に手を振りほどこうとはしなかった。  
半分は押し切る形。  
だけど、わざわざこうして和人を探しに来たのだ。  
こんな機会もあまりないことだし、せっかくだからこれも役得と思って、思う存分、活用させてもらおう。  
 
「里香でいいんだってば。ほら、そんなことより。いこ、和人?」  
 
「だ、だから、里香。引っ張るなって」  
 
「あはは、聞こえなーい。ほらほら、二人が待ってるんだから、歩いた歩いた」  
 
そんな様子は、傍から見たら、完全にバカップルか何かだった気がするけど。  
けれど、それを気にするような思考は、和人の手を引いてカフェテリアに向かううちに、きれいさっぱり消えていた。  
それくらいにこの時間は楽しくて。  
きっと、アインクラッドで初めてキリトと冒険に行った時も、同じくらいドキドキしていて。  
これから始まる学校生活に、大いに期待をもって、最初の一歩を踏み出したような、そんな気分だった。  
 
「お待たせー、和人連れて来たよー!」  
 
 
この後、手を繋いで食堂に入ってきた二人を見て、明日奈が驚き半分、微笑ましさ半分の笑顔で迎えてくれたり、  
珪子が一緒になって手を繋ぎに来たりで、結果的により一層和人が悪目立ちすることになるのだが、  
それはまた、別の話。  
 
 
 
  おまけ 
 
 
『リアルネームとキャラネーム』  
 
アスナ「キリト君は和人君なのに、わたしはアスナのまんまだなんて、やっぱり何か釈然としないなぁ」  
キリト「それはしかたないだろ。アスナは明日奈なんだし、今更新キャラで通すわけでもなかろ?」  
アスナ「う〜ん。じゃあさ、こういうのはどうかな。フルネーム呼び。  
    ね、桐ケ谷和人君。わたし、結城明日奈です。はい、呼んでみて?」  
キリト「うぇ!? あ、あ〜、こんにちは、結城明日奈さん。桐ケ谷和人…です?」  
アスナ「あはは、そうそう。うん、ちょっと変な感じだけど、新鮮新鮮。これでおあいこだよ。和人君?」  
 
 
キリト「例えば、リズの家に電話を掛けたとすると、里香さんいらっしゃいますか、とかそんな感じになるのか?」  
リズ「まあ、そういうことになるでしょうけど。あたしとあんたの場合は、殆どメールだろうから、そんなこともなさそうよね」  
キリト「それもそうだよな。ウチも親がいない時多いし、俺かスグが相手なら、普通に話すことになるだろうし」  
リズ「機会がないといえばないからね。  
   あ、そんなこと言って、年賀状とかまで『キリト参上、宜しくリズ』なんてのは勘弁だからね?」  
キリト「う。そ、そんなことはない…と思いたいが。練習しとかないと咄嗟に間違えそうだ……」  
 
 
キリト「シリカのキャラネームは本名のもじりになるのかな」  
シリカ「そうですね。珪子だからシリカで、MMOに合わせてそれっぽい方がいいかなぁって」  
キリト「みんな大抵はリアルの名前はつけないからなぁ。例外は超初心者だったアスナくらいか」  
シリカ「そ、そうですね。リアルネームはあんまりないかも…ですね」  
シリカ(ピナの名前はうちの猫から取ったんだけど──うぅ。い、言いづらい)  
 
 
リーファ「お兄ちゃんはキリト君だけど、お兄ちゃんなんだよねぇ。あたしは直葉だけどリーファだけど」  
キリト「俺だってキリトの時はキリトなんだけどな。ま、スグが呼びたい方でいいよ」  
リーファ「あ、ダメだよお兄ちゃん。リーファの時はちゃんとリーファって呼んでよね」  
キリト「わかったよ、リーファ。…でも、俺はお兄ちゃんなんだな」  
リーファ「それはそうだよー。ここでは直葉のリーファがお兄ちゃんの妹なんだからね、お兄ちゃん♪」  
 
 
キリト「シノンは本名もほとんどキャラネームと変わらないから、渾名とかとあんまり変わらないよな」  
シノン「そうね。もともとそれほど深く考えてつけた名前じゃないし」  
キリト「そういうのって凝る奴はとことん凝るからなぁ。リアルじゃとても呼べそうにないのとかもあるし」  
シノン「そうね──けど、私をリアルでシノンと呼んだのも、あんたが始めてだけどね」  
キリト「え、そ、そうなの?」  
 
 
 

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